🌸『源氏物語」の時代は恋愛至上主義(5)
「要旨」
☆後三条天皇が藤原氏を弱体化した切り札「荘園整理令」
*藤原氏にとり、摂関政治において荘園は生命線
*藤原氏は、荘園を数多く集める経済的な影響力を誇っていた
☆後三条天皇は、天皇親政、皇室の力が強くなる政策を実施した
☆後三条天皇の息子白河上皇、「院政」政治を推進した
☆荘園で私腹を肥やし、派手になった上皇の女性関係
*天皇は公地公民を体現する存在
*白河天皇が土地を持つのは問題がある
*自分は天皇の位を譲り、上皇となって荘園を集めた
☆鳥羽天皇と待賢門院に息子(崇徳天皇)が生まれた際の噂
*白河上皇と待賢門院は男女の関係にあり
*白河上皇と待賢門院は男女の関係にあり
*生まれた子どもは上皇の子ではないかとの噂
*崇徳天皇は。上皇の息子である可能性は高い
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「後三条天皇」「荘園整理令」「上皇の権力」「待賢門院埠子」
(ネットより画像引用)
⛳後三条天皇が藤原氏を弱体化した切り札「荘園整理令」
☆天皇の外戚の立場を利用し、権力を誇ってきた藤原氏
*両親とも皇族の天皇が即位し、権力はどんどん削ぎ落とされて行く
☆「荘園整理令」
*荘園とは、当時の貴族たちの私有地
*律令上の法の網をかいくぐり、貴族たちが私有地を獲得していた
☆「荘園整理令」
*荘園とは、当時の貴族たちの私有地
*律令上の法の網をかいくぐり、貴族たちが私有地を獲得していた
*土地から発生する税が、彼らの経済的な基盤となる
☆藤原氏にとり、摂関政治において荘園は生命線
*藤原氏は、荘園を数多く集める経済的な影響力を誇っていた
☆荘園はすべて潰し、天皇の公地へと組み入れることにした
*藤原氏が保有荘園整理で、収入の三分の一が減ってしまった
*藤原氏が保有荘園整理で、収入の三分の一が減ってしまった
☆後三条天皇は、天皇親政、皇室の力が強くなる政策を実施した
*藤原氏によって独占されていた朝廷
*藤原氏によって独占されていた朝廷
*後三条天皇の政治は「延久の善政」と呼ばれた
☆後三条天皇の息子白河上皇、「院政」政治を推進した
*摂関政治という母方の親族が力を持つ政治から、院政へ変化した
☆後三条天皇の息子白河上皇、「院政」政治を推進した
*摂関政治という母方の親族が力を持つ政治から、院政へ変化した
⛳荘園で私腹を肥やし、派手になった上皇の女性関係
☆後三条天皇の息子の白河天皇
☆後三条天皇の息子の白河天皇
*「自分に寄進するなら、荘園保有も問題ない」と言い出す
*再び貴族たちは荘園を集め始める
*天皇は公地公民を体現する存在、白河天皇が土地を持つのは問題がある
*天皇は公地公民を体現する存在、白河天皇が土地を持つのは問題がある
*自分は天皇の位を譲り、上皇となって荘園を集める
☆上皇に荘園が集積するのは体面が悪い
*白河上皇は、荘園の寄進先として法勝寺というお寺を建立
*この寺に自分の荘園を管理させ、荘園を寄付する貴族が続出した
*上皇はどんどん私腹をこやし、権力を強化する
☆白河上皇も金が集まり、数々の女性たちを寵愛する
☆平安時代の天皇の妻は、藤原氏で一番身分の高いお姫様でした
☆平安時代の天皇の妻は、藤原氏で一番身分の高いお姫様でした
*藤原氏の娘であるならば、どんな不美人でも、相性が悪くとも
*天皇には拒否する権利はありませんでした
☆上皇は、上皇自身が権力を持っているので、女性を選びたい放題
☆上皇は、上皇自身が権力を持っているので、女性を選びたい放題
*上皇周辺の恋愛は派手になっていった
⛳鳥羽上皇にトラウマを植え付けた女・待賢門院
☆上皇で、人一倍派手な恋愛関係を持った代表格鳥羽上皇
☆鳥羽天皇が天皇のとき、実権を握っていたのが祖父白河上皇
*白河上皇は、自分がかわいがっていた女性の孫
⛳鳥羽上皇にトラウマを植え付けた女・待賢門院
☆上皇で、人一倍派手な恋愛関係を持った代表格鳥羽上皇
☆鳥羽天皇が天皇のとき、実権を握っていたのが祖父白河上皇
*白河上皇は、自分がかわいがっていた女性の孫
*待賢門院埠子(たまこ)を皇后に推薦した
☆待賢門院埠子(たまこ)
☆待賢門院埠子(たまこ)
*藤原公実という権大納言の家に生まれた
*彼女は、白河上皇に愛された祗園女御という女性の養女になり
*上皇に大変かわいがられていた
*待賢門院は非常に美しい人だったため、鳥羽天皇は婚儀を喜んだ
☆鳥羽天皇と待賢門院に息子(崇徳天皇)が生まれた際の噂
*白河上皇と待賢門院は男女の関係にあり
*上皇に大変かわいがられていた
*待賢門院は非常に美しい人だったため、鳥羽天皇は婚儀を喜んだ
☆鳥羽天皇と待賢門院に息子(崇徳天皇)が生まれた際の噂
*白河上皇と待賢門院は男女の関係にあり
*生まれた子どもは上皇の子ではないかという内容
☆歴史研究家が、崇徳天皇の誕生日等より詳細に調査した
*崇徳天皇は上皇の息子であるという結論に到達している
☆白河上皇の態度がおかしいと感じたのか
☆歴史研究家が、崇徳天皇の誕生日等より詳細に調査した
*崇徳天皇は上皇の息子であるという結論に到達している
☆白河上皇の態度がおかしいと感じたのか
*鳥羽天皇本人も「この子は自分の子ではない」と不信感を抱く
*鳥羽上皇は崇徳天皇のことを「叔父子」と呼び、いじめ抜いた
*鳥羽上皇は崇徳天皇のことを「叔父子」と呼び、いじめ抜いた
☆鳥羽天皇は待賢門院を相当気に入っていた
*彼女との間に六人の子どもを作っている
(敬称略)
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⛳出典、『愛憎の日本史』