明けて3月7日、何はさておいても朝の散歩です。いや、探鳥です。と言ってもアテがあるわけではありません。ホテルの窓から見た「みどり」の所に行って見るだけです。緑のところには鳥がいるだろう、と言う単純な発想です。ガイドブックも見ないで東に向けて歩き始めました。
振り返ると私たちが泊まったホテル(左)が見えます。苦もなく「みどり」の中に入ることが出来ました。小さな丘になっていました。
私たちの頭の中は鳥のことばかりだったので気がつかなかったのですが、鳥を探しながら歩いているうちに、そこが墓地であることに気がつきました。
ホテルに帰ってガイドブックを見ると、そこはブキッ・チナ(Bukit China)と言うところで、ガイドブックの説明では「中国人の丘」と言う意味です。15世紀にタイのアルタヤ王朝の侵攻を受けたマラッカ王国は、明と朝貢関係を結び、国家の安泰を図ろうとした。明皇帝もその娘ハン・リー・ポーをマラッカ王に嫁がせたが、そのとき皇女と侍女に与えられた居住地がこのブキッ・チナ。しかし、今は約2万人の墓碑が丘をおおう華人の巨大な墓地になっている、と言うのがガイドブックの説明です。
皇女の居住跡など歴史的な遺跡が残っているのかどうか、鳥ばかり追っていた私たちには分かりませんでした。
鳥は期待したほどいませんでした。目に付いたのはコウライウグイスばかり、と言ってもよいくらいです。「またお前か、あっちに行っておけ」と邪魔者扱いしたいくらいコウライウグイスはいましたが、そのほかには特記するほどの鳥にあうことは出来ませんでした。
振り返ると私たちが泊まったホテル(左)が見えます。苦もなく「みどり」の中に入ることが出来ました。小さな丘になっていました。
私たちの頭の中は鳥のことばかりだったので気がつかなかったのですが、鳥を探しながら歩いているうちに、そこが墓地であることに気がつきました。
ホテルに帰ってガイドブックを見ると、そこはブキッ・チナ(Bukit China)と言うところで、ガイドブックの説明では「中国人の丘」と言う意味です。15世紀にタイのアルタヤ王朝の侵攻を受けたマラッカ王国は、明と朝貢関係を結び、国家の安泰を図ろうとした。明皇帝もその娘ハン・リー・ポーをマラッカ王に嫁がせたが、そのとき皇女と侍女に与えられた居住地がこのブキッ・チナ。しかし、今は約2万人の墓碑が丘をおおう華人の巨大な墓地になっている、と言うのがガイドブックの説明です。
皇女の居住跡など歴史的な遺跡が残っているのかどうか、鳥ばかり追っていた私たちには分かりませんでした。
鳥は期待したほどいませんでした。目に付いたのはコウライウグイスばかり、と言ってもよいくらいです。「またお前か、あっちに行っておけ」と邪魔者扱いしたいくらいコウライウグイスはいましたが、そのほかには特記するほどの鳥にあうことは出来ませんでした。