知らない山を歩いているとき枝先につけられたテープに助けられることがあります。
テープを探し探し山頂を目指すこともあります。
たとえば、広島県北の犬伏山をあるいたとき、笹に埋もれた登山道が見えなくて、所々に見えるテープを探しながら歩きました。
このようなときのテープは有難い存在ですが、、、、、、
そのようなケースは少なくて、誰が何のためにつけたのかわからないようなテープのほうが圧倒的に多いように感じています。
テープが指導票を意味しているのなら良いのでしょうが、ただ意味もなくつけただけのテープは迷惑なばかりで、何の意味もない、風景を害するだけのものになっているのではないかと思うのです。
わが裏山でも不要なテープが目立っています。それらを写真に撮っていないのですが、、、
たとえばこのように、シッカリした道のそばに、ときには10mくらいの間隔で貼られていることもあります。このテープは分岐点のテープなのでそれないりの意味を持っているのですが、、、、
分岐点でもなんでもない登山道のそばのテープは迷惑なだけだと思うのですが、、、、、、
もうひとつ、誰が何のためにするのか分からないのですが、ペンキみたいなもので幹に色をつけている人がいます。
これもまた迷惑なもので、、、、、目をつぶっても歩けるようなところにはたくさん見ることができますが、、、、
この印を頼りに山を下りていって、、里山が荒廃していて、、、、ルートを示す印が欲しいところになると、、、、、
ペンキ印もテープもなくなるということはわが裏山でも良く経験しています。
つまり責任を持ってテープを貼っているのではない、ということです。
そこまで言うと言い過ぎかも分かりませんが、今わが裏山に貼られているテープの類はほとんどが意味をなさないものだと思えるのです。
タカ長は新しいルートを探して下りてゆくとき目印として木の枝先を折っています。
この写真もそうですが、、、、写真で確認できますか?
そのようにしておけば同じ道を帰る時の目印になりますし、後日来たときにも役に立ちます。他の登山者の目を惑わすこともありません。
山口県の山で見かけて目印です。このようなものはいいですね。
登山をする人は良かれと思ってテープを貼るのでしょうが、そのテープが多すぎると別の意味をもつようになると感じます。
椎名誠の本で読んだ記憶があるのですが、人は、、、、何かが多くあると見えないというのです。
満天の星の元に育ったモンゴルの子は星に興味を示さないとか、、、そのような例をいくつか紹介されていました。
スイスアルプスの山を登り始めたのはイギリス人で、スイスの人は登ろうとしないいわれるのも同じような意味かも分かりません。
東京には人が多くて、、、、人が多くて人が見えていないから人前で平気で化粧できるのだとというようなことも書かれていました。
町に氾濫するアナウンスも同じように多すぎて、本当に聞くことはほとんどないのでは、とタカ長は考えています。
今日見かけてジョウビタキですが、、、、、それはそれとして、、、、、
いま日本の山では道迷いによる遭難事故が多くて、そのことが問題になっています。雑誌などにも紹介されたり、本が出版されたり、、、、、。
その遭難原因を検証する記事も多く目にしますが、登山道のテープのことは書かれていません。それは検証のしようがないからでしょうが、、、、、、
いまのようにテープが多すぎるとテープへの関心がうすれて、迷いやすいところなど本当に見なければならないテープを見落としていることもあるのではないか、、、、、、
というようなことを考えるのですが、これってタカ長の考えすぎでしょうか?