たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまの釣舟

2024年11月18日 17時00分46秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その16

わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと
人には告げよ あまの釣舟

出典
古今集(巻十五)

歌番号
11

作者
参議篁

歌意
広々とした海のはるかかなたの多くの島に向かって
今、私はこぎ出したと、
都にいるあのなつかしい人に告げておくれ、
漁夫の釣舟よ、

注釈
「わたの原」=「大海原」の意。
「わた」は、「海」の古語。
「原」は、「広々としている所」の意。
「八十島(やそしま)」=「多くの島」
「八十」は、数が多いという意味で、
「八十」という数のことではない。
「かけて」=「めざして」の意。
「こぎ出でぬと(こぎいでぬと)」の「ぬ」は、完了の助動詞。
「人」=「都にいる親しい人」の意。
「妻」とみてもよい。
「あまの」の「あま」は、「海人」「海士」「蜑」とも書き
「漁師」のこと。
「釣舟(つりふね)」=「漁師が使う舟」の意。

詞書(ことばがき)には、
隠岐島に流された時、舟出の際に、
都にいる人に送った歌だと記述されている。
自分の孤独、絶望感と、
都の人(妻)に対する慕情が
抑え切れず、
それを漁師の釣舟に呼びかけることしか出来ない、
(返歌の望み無しの)
作者の寂しさが表現されている。


参議篁(さんぎたかむら)

参議小野岑守(さんぎおののみねもり)の子、
小野篁(おののたかむら)
博識多才、多感直情、
平安時代初期の、漢詩人、歌人、
同時代の在原業平とは、双璧と言われた人物。
37歳の時、遣唐使の副使となったが、
乗船せず、遣唐を風刺した詩文を作ったため、
隠岐島に流罪となり、2年後には許された。
「参議」とは、「大納言」「中納言」に次ぐ官位、


(蛇足)
参議篁の機転のきいた作品
(「子」と言う文字を十二個詠み込んだもの)

「猫の子の子猫獅子の子の仔獅子」
(子子の子の子子子、子子の子の子子子)


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)


ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき

2024年11月15日 10時59分23秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その15

ながらへば またこのごろや しのばれむ
憂しと見し世ぞ 今は恋しき

出典
新古今集(巻十八)

歌番号
84

作者
藤原清輔朝臣

歌意
もしこの先、生きながらえているならば
つらいことの多いこの頃(現在)のことも、
また懐かしく思い出されることであろうか。
かって、つらいと思った頃のことも、
今では、恋しく思われるのだから。

注釈
「ながらへば」=「これから先も生きながらえていれば」の意。
「ば」は、仮定条件を表す接続助詞。
「たつみ」=辰巳、東南の方角。
「またこのごろや」の「このごろ」は、現在のこと。
「しのばれむ」=「なつかしく思い出す」の意。
「憂し」は、「つらい」「苦しい」の意。


藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん)

左京大夫藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)の子。
太皇太后宮大進・正四位まで昇進。
勅撰集等の解説、歌評等を試み、
歌人というより、歌学者として、才を発揮した。


川柳

ながらへば又この頃はふぐを食ふ
(ふぐの毒に当たらないで生きながらえ、またふぐを食っている)

順ぐりに昔のことを恋しがり
(過ぎ去った昔のことは、誰しも懐かしく思うものさ)


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)


わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり

2024年11月12日 15時51分54秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その14

わが庵は 都のたつみ しかぞ住む
世をうぢ山と 人はいふなり

出典
古今集(巻六)

歌番号

作者
喜撰法師

歌意
私の草庵は、都の東南に有って、
このように心安らかに住んでいる。
それなのに、
世の中を嫌うという意味の宇治山と、
言っているそうだ。

注釈
「庵(いほ)」は、粗末な小屋、草庵の意。
「たつみ」=辰巳、東南の方角。
「しかど住む」の「しか」は、「然り」(そのように)の意だが、
ここでは、「かく」の意で、
安定した心境を表している。
「鹿(しか)」との掛詞という説もある。
「世をうぢ山と」=「世を憂し(嫌だ)と思って住む宇治山であると」の意。
「うぢ」は、「憂し(うし)」と「宇治(うじ)」の掛詞。
宇治山は、現在の宇治市東方に有る喜撰山のこと。

宇治山の草庵を訪れた人に語った形式の歌で、
俗世間を離れて隠れ住む、気楽な安定した心情が、
歌われている。


喜撰法師(きせんほうし)

宇治山に隠棲していた真言宗の僧。
六歌仙の一人。
紀貫之が、古今集の序文の中で、
喜撰法師のことを、
「詠んだ歌が少なく、よく分からない」と
記述しているように、
はっきり、喜撰法師の作と分かっている歌は、
この「わが庵は・・・」だけなのだと、言われている。


「六歌仙」とは、

下記、平安時代初期の優れた歌人6人のこと。
在原業平(ありわらのなりひら) 
僧正遍昭(そうじょうへんじょう)
小野小町(おののこまち)    
文屋康秀(ふんやのやすひで)  
喜撰法師(きせんほうし)    
大伴黒主(おおとものくろぬし) 


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)


人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

2024年11月09日 15時52分08秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その13

人もをし 人も恨めし あぢきなく
世を思ふゆゑに 物思ふ身は

出典
続後撰集(巻十七)

歌番号
99

作者
後鳥羽院

歌意
ある時は人がいとおしく思われ、
またある時は人が恨めしく思われる。
嘆かわしいことだ。
この世をおもしろくないものと思うところから、
さまざまな物思いをするこの私の身には。

注釈
「人もをし」の「をし」は、「愛し(おし)」が原形で、
「いとおしい」「かわいい」の意。
「人も恨めし」の「恨めし」は、「恨みに思う」「にくらしい」の意。
「あぢきなく」=「苦々しい」「面白くない」の意。
「世を思ふゆえに」=「この世をつまらなく思うために」の意。
「物思ふ身は」=「まざまに世間の雑念にとらわれるこの身には」の意。

鎌倉幕府との対立が深刻化している時期、
後鳥羽院33歳の時の作。
鎌倉幕府の横暴に対する嘆き、
苦悩する人間上皇の深い悲愁が
格調高く、歌われている。


後鳥羽院(ごとばいん)

高倉天皇(第八十代)の第四皇子、第八十二代天皇、
安徳天皇の後を受け、4歳で即位し、
19歳で、皇太子為仁親王に譲位、
以後、院政を執った。
鎌倉幕府討幕を計画した「承久の乱」を起こしたが失敗、
隠岐島に流され、在島19年のまま没した。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)


誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに

2024年11月05日 17時49分57秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その12

誰をかも 知る人にせむ 高砂の
松も昔の 友ならなくに

出典
古今集(巻十七)

歌番号
34

作者
藤原興風

歌意
年をとった私は、
いったい誰を友達にしようかなあ、
昔を知っている相手と言えば、
長寿の高砂の松くらいだが、
その高砂の松も昔馴染みの友達ではないことだから。

注釈
「誰をかも(たれをかも)」=「いったい誰を」の意。
「知る人にせむ」の「知る人」は、
自分を理解してくれる人、知己の意。
「高砂の松」=枕詞、
現在の兵庫県高砂市の松のことで、
長寿の松として、歌に詠まれていた。
「友ならなくに」の「ならなくに」は、
「無いことだがなあ」と訳す。
高砂の松を長生きするものの比喩として擬人化し、
老残の孤独、寂しさが、切なく歌われている。


藤原興風(ふじわらのおきかぜ)

日本最古の歌論書「歌経標式」の著者藤原浜成の曾孫。
紀貫之等と共に、「古今集」歌壇、有数の歌人、
管弦の名手、三十六歌仙の一人、


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)


吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ

2024年11月02日 13時16分06秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その11

吹くからに 秋の草木の しをるれば
むべ山風を あらしといふらむ


出典
古今集(巻五)

歌番号
22

作者
文屋康秀

歌意
山風が吹きおろすと直ぐに、
秋の草木はしおれてしまうので
なるほど、
それで、山風のことを「嵐」というのだろう。

注釈
「吹くからに」の「からに」は、
「・・と直ぐに」「・・とともに」
「・・のために」「・・によって」意の接続助詞。
「しをるれば」=「萎れ弱ること」
「むべ」=「なるほど」と訳す副詞。
「山風をあらしといふらむ」の「あらし」は、
「嵐」と「荒らし」の掛詞。
「山」+「風」=「嵐」、シャレになっている。

古今集の中の詞書(ことばがき)によると
この歌は、歌合(うたあわせ・和歌の優劣を争う行事)の時のもので、
「山」+「風」=「嵐」
「嵐」と「荒らし」を掛詞にする等
どちらかというと、頭を使った歌、
言葉の遊戯、字解き、シャレ、に類する歌になっているが、
当時は、高く評価されたようだ。


文屋康秀(ふんやのやすひで)

平安時代初期の歌人、六歌仙の一人、
刑部中判事、山城大掾、縫殿の助、等に、任じられた。


「六歌仙」とは、
平安時代初期の優れた歌人6人のこと。

在原業平(ありわらのなりひら) 
僧正遍昭(そうじょうへんじょう)
小野小町(おののこまち)    
文屋康秀(ふんやのやすひで)  
喜撰法師(きせんほうし)    
大伴黒主(おおとものくろぬし) 


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)


朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木

2024年10月31日 09時35分35秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その10

朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
あらはれわたる 瀬々の網代木



出典
千載集(巻六)

歌番号
64

作者
権中納言定頼

歌意
夜がほのぼのと明けてくるころに、
宇治川一面に立ち込めていた川霧が、
絶え間を見せ始め(晴れてきて)
浅瀬ごとに立っている網代木が
次第に現れてくる、
なんとも趣が有る景色であることよ、

注釈
「朝ぼらけ」=ほのぼのと夜が明ける頃の意。
「宇治の川霧」=宇治川に立ち込める霧の意。
琵琶湖から出た瀬田川は、
現在の京都府宇治辺りで宇治川と呼ばれ、
下流では、淀川となる。
「たえだえに」=「とぎれとぎれに」の意。
「川霧がとぎれとぎれになる」ことと、
「瀬々の網代木は切れ目切れ目に現れわたる」ことと掛けている。
「瀬々の網代木」の「瀬々」は、川のあちこちの浅瀬のこと。
「網代木」は、浅瀬で魚をとるため、
竹や木を編み重ねた張る漁具の支柱(杭)のことで、冬の景物。


権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)

藤原公任(ふじわらきんとう)の子、
藤原定頼(ふじわらさだより)のこと。
権中納言・兵部卿(にょうぶきょう)・正二位になり
四条中納言とも呼ばれた。
和歌、書道の名手だったが
歌合で、小式部内侍をからかった際に
歌で答えられ、返歌に詰まったという逸話が有る。


振り返り記事・小式部内侍
👇️
こちら


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)


わたの原 こぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波

2024年10月27日 13時04分41秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その9

わたの原 こぎ出でて見れば ひさかたの
雲居にまがふ 沖つ白波


出典
詞花集(巻十)

歌番号
76

作者
法性寺入道前関白太政大臣

歌意
大海原にこぎ出して眺めると
白い雲と見間違えるような
沖の白波が立っていることよ

注釈
「わたの原」の「わた」は、「海」の古語で、「原」は、広々としている所、
「大海原」の意。
「こぎ出でて見れば」=「こぎ出して見ていて、その結果は・・」と訳す。
「ひさかたの」=「雲居」に掛かる枕詞、
「雲居(くもい)」=「雲の有る所」の意、
「雲」そのものの他、
「天」「空」、時には「宮中」を指す場合も有る。
「まがふ」=「見分けがつかなくなる、入り混じってはっきりしなくなる」の意、
「沖つ白波」の「つ」は、格助詞で「の」にあたる。
「沖の白波」と訳す。

「詞花集(しかしゅう)」の詞書(ことばがき)には、
「海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる」と有り、
心の中のイメージを描いた題詠である。
題詠ではあるが、白雲が浮かぶ大空と沖の白波とが
見分けのつかないほど一つに融合した壮大な大自然の迫力を、
技巧を用いず、格調高く、堂々と表現している歌になっている。


法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん

摂政関白藤原忠実(ふじわらただざね)の長男、藤原忠通(ふじわらただみちのこと。
別荘が法性寺(ほっしょうじ)の傍らに有ったことから、
「法性寺殿」と呼ばれた。
25歳で関白となり、鳥羽、」崇徳、近衛、後白河、四朝に仕え、
長年、摂政、関白の地位にあったが、
弟藤原頼長との不和が元で、保元の乱の一因を作った。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)

コメント (1)

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

2024年10月25日 10時48分37秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その8

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ



出典
拾遺集(巻八)

歌番号
55

作者
大納言公任

歌意
滝の音が聞こえなくなってから
ずいぶん長い年月が経ってしまっているが、
その滝の名だけは、世間に流れ伝わって、
現在でもやはり聞こえていることだ。

注釈
「滝の音は」の「滝」と「流れ」、「音」と「聞こえ」が
それぞれ、縁語になっている。
この「滝」とは、
現在の京都市右京区嵯峨にある大覚寺の古滝のこと。
「名こそ流れて」の「名」は、評判、名声の意。

大覚寺は、元、第52代天皇嵯峨天皇の離宮が有ったところで、
天皇は、庭園に滝を作らせ、有名であったが、
作者藤原公任の頃には、水が枯れて、滝跡が残っているばかりで、
その変わり様を目にした作者が、懐旧の情を詠んだ歌。
以後、この滝は、「名古曽の滝」と呼ばれ、
現在も、その滝跡が有るのだそうだ。


大納言公任(だいなごんきんとう)・藤原公任(ふじわらきんとう)

三条太政大臣藤原頼忠の子、藤原公任、
平安時代中期の公卿、歌人、
博学多才で、「三船の才(漢詩の才、和歌の才、管弦の才)」を兼備、
有識故実にも通じ、
正二位・大納言となり、「四条大納言」と言われた。
家集「大納言公任集」、私撰集「金玉和歌集」、
歌論書「新撰髄脳」、「和歌九品」や「和漢朗詠集」、
「三十六歌仙」の元となった「三十六人撰」等、数多の編書が有る。


(参考)
「三十六歌仙」とは、
大納言公任・藤原公任が選んだ平安時代の36人の歌人のこと。

柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持、猿丸太夫、僧正遍昭、小野小町、
在原業平、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、藤原兼輔、藤原敏行、
壬生忠岑、坂上是則、藤原興風、源重之、大中臣頼基、源公忠、
平兼盛、小大君、中務、藤原元貞、伊勢、源宇干、
斎宮女御、藤原敦忠、藤原高光、源信明、清原元輔、大中臣能宣、
藤原仲文、源順、藤原清正、壬生忠見、藤原朝忠、素性法師、


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)


ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり

2024年10月22日 18時26分22秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その7

ももしきや 古き軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり



出典
続後撰集(巻十八)

歌番号
100

作者
順徳院

歌意
宮中の荒れ果てた古い御殿の軒に生えている忍ぶ草を見るにつけても
皇室の衰微が情けなく思われて、
偲んでも偲びつくせない程慕わしいものは
延喜・天暦の頃等、昔のよく治まっていた御代であることよ

注釈
「ももしきや」の「ももしき」は、皇居・宮中の意。
「古き軒端」=「古めかしい、古色を帯びた軒の端」の意。
「しのぶにも」の「しのぶ」は、シダ類の一種「忍ぶ草」と
「昔を偲ぶ」の掛詞。
「なほ」=副詞。「やはり」と訳す。
「あまりある」は、、及ばないこと。
ここでは、「偲んでも及ばない」「偲びつくせない」の意。
「昔なりけり」の「昔」は、「皇室の栄えた昔」の意。

父親後鳥羽院に従って、
やむにやまれず鎌倉幕府討幕計画に協力、
皇室の衰微を嘆き、
「承久の乱」を起こそうとする思いが秘められている。


順徳院(じゅんとくいん)
後鳥羽天皇の第三皇子。
14歳で即位、第84代天皇、順徳天皇となったが、
25歳で院となった。
父親後鳥羽院の鎌倉幕府討幕計画に協力し、失敗、
佐渡に流され、21年後、佐渡で没した。


川柳
「兄弟も親子も並ぶ百人一首」

百人一首の作者には、
歌人の血統が重んじられるせいなのだろうか、

兄弟や親子の作品が多く選ばれている。
後鳥羽院、順徳院も、親子の例のひとつである


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)