M男は、昭和30年代前半、地元の高校を卒業するまで、北陸の山村で幼少期を過ごした。その故郷(ふるさと)も、空き家になっていた実家を10年数年前に解体処分してからは、帰る家も無い、遠い存在になってきている。
当時の記憶もほとんど喪失しているが、何かのきっかけで、ふっと、断片的な思い出が炙り出されることが有る。
空き家になっていた実家解体処分工事を行う前の数年間は、年に数回、大量の家財道具類等雑物整理処分のため、自営業の仕事の間を縫って、車を飛ばし、夫婦で通ったものだが、菓子折り等の空き箱から、着なくなった衣類さえも捨てることをしなかった父母達が残した物が、押入れ、物置、倉庫、納屋にぎっちり詰め込まれていて、その分別、廃棄処分作業は、気の遠くなるようなものだった。あの頃の疲労困憊した思いは、未だに夫婦の語り草になっている。
そんな家財道具類等雑物整理処分のある日、2階の押入れの奥の奥に、M男や弟、妹の子供時代の教科書やノート、絵画作品、通信簿等がぎっしり詰め込まれた大きなリンゴ箱(木箱)を発見した。
中から、完全に記憶から喪失していた物が続々出てきて、まさにタイムカプセルを開けるが如し、ある意味感動し、しばし手が止まってしまったものだったが、懐かしがってばかりいる分けにはいかず、ほとんどを処分、
「おお!これは・・・」という、思い入れが有る、何点かを持ち帰ったのだった。
そんな中のひとつに、中学生時代の演劇の台本が有った。
謄写版(ガリ版)刷り、藁半紙(わらばんし)、10ページ、
黄ばんで、すでに腐食し、ボロボロ、触るとくずれそうな代物だ。
表紙には、
昭和32年度、文化祭上演脚本
「学園物語」 1幕(45分)
全幅の愛情もて、子等に捧ぐ!!
と、記されている。
この演劇の台本からも、喪失していたはずの中学生の頃の記憶の欠片が、じわじわ炙り出されてきたのだった。
各ページ毎の字体が異なっていて、見栄えも悪い。何人かの生徒が、手分けして作り上げたものだ。M男の記憶には全く残っていないが、表紙の字体?、もしかしたら、自分が書いたのかも知れない?等と感じたものだった。
そんな台本を眺めていると、鉄筆(てっぴつ)で、蝋紙(ろうがみ)に書き込む時の感触、謄写版(とうしゃばん)で刷っている時の匂い、手の汚れ等まで、なんとなく、脳裏に蘇ってくるようだった。
謄写版(ガリ版)
(ネットから借用画像)
M男が通っていた中学校は、1学年1クラスの小さな中学校で、小学校と校舎が繋がった併設学校だったが、当時、毎年11月に、小学校、中学校合同で、文化祭が行われており、昭和32年(1957年)は、どうも、11月10日に開催されたようだ。
その翌年には、町の中学校と統合が決まっていて、学校最後の文化祭になるということもあって、 力が入っていたのだと思う。
例年通り、各教室等では、図画工作作品、研究発表等が展示され、PTAによるバザー等が有ったはずだが、それに加え、特別、体育館(講堂と呼んでいたが)で、M男達クラス生徒全員による演劇上演が組まれていたのだった。
その演劇を指導していたのは、国語の教師でもあったH教頭だった。
後年になって知ったことだが、H教頭は、地元の数カ所で草の根演劇指導にも情熱を燃やしていた教師だったのだ。
そのH教頭の陣頭指導で、M男達クラス生徒全員が、文化祭で演劇を上演することに決まったのは文化祭の半年前、田植えが終わった頃だったような気がする。
以後、週に何日か、放課後に練習・・・という日が、文化祭前日まで続いた。
もちろん、脚本の作者は、H教頭で、妥協を許さない気迫、激しい語気に、M男達は、怯え、泣かされ続けた。
「やる気が有るのか・・・」「やる気ないならやめてしまえ・・・」「泣いて済むのか・・」「もっとさらけ出せ・・・」等々
トニー谷を細くしたような容貌、眼鏡の奥の眼光が鋭いH教頭、容赦ない怒号を飛ばし、時々は、メガフォンを床にたたきつけて立ち去ってしまったりしたH教頭。
もともと、恥ずかしがり屋のM男等は演技をする等、大の苦手であり、逃げ出したい気持ちいっぱいだったが、連帯責任を負わされている以上、最後までやりきるしかなかったのだった。
次第に、H教頭の術中にはまり、生徒全員が真剣に取り組むようになり、結束、絆を感じ始めたような気がしたものだ。
H教頭が納得いくまで、帰してもらえず、時として、下校が、19時、20時になることも有ったような気がする。
現在だったら、大問題になるところだろうが、当時はまだ、安全、安心の田舎のこと、親も子供も、危険を感じることも無く、街路灯等ほとんどなかった真っ暗な農道を、近所の従兄弟の同級生と、平気で帰宅したものだった。
記憶定かではないが、文化祭間近のある日だったと思う。
旧ソ連が人類最初の人工衛星、スプートニク1号、2号を打ち上げた頃、下校時に見上げた星空の南天から北天へ、日本海方向に、スーッと移動していく人工衛星を眺めながら、従兄弟と大感激したことも思い出される。
まだまだ貧しかった日本の山村の暮らしと、旧ソ連の人工衛星。子供ながら、とてつもなく、世界との差を感じたような気がする。
「学園物語」上演は、文化祭当日、各種催しを一時中断し、児童、生徒、教師、参観父兄、全員に、体育館(講堂と呼んでいたが)に集合してもらって行われた。
演劇の筋書きは、グレた生徒、規則を守らない生徒がいる問題クラスを、教師、校長や、父兄、駐在所警察官、生徒達が、なんとかまとまったクラスにしていこうと話し合い、努力し、最後には、泣かせる場面も有り、心を通じる仲間になるというものだった。
本番の出来が良かったのか悪かったのかは、M男達には分らないことだったが、終演した瞬間、長く苦しい練習を乗り越えてやっと終わったという安堵と感動で感無量となり、鬼だった?H教頭に皆が駆け寄り、女子生徒等は、感極まって涙を流し合っていた気がする。
後年になって、東京オリンピックで金メダルを獲得したが、女子バレー東洋の魔女達が、鬼の大松に血のにじむような厳しい練習を強いられ、最後には 感涙の胴上げした姿を見た時、どこかダブって 共感を覚えたこともあった。
小学1年生から9年間、兄弟以上に長く一緒に過ごした同級生37人、
すでに、何人かは欠けているが、未だに気持ちの通じ合いを持っているような気がしている。
後年になって、あれが本当の教育というものなのかも知れない等と思ったこともあった。
お粗末な舞台装置
(古いアルバムに貼ってあった白黒写真)
謄写版刷り演劇台本と共に、有ったのは、「学園物語に出演して」という、
生徒全員の感想文集だった。
多分、国語教師でもあったH教頭の指示で、書かされ、それをまた、何人かで手分けして
謄写版で刷ったものだ。
現在であれば、パソコンとプリンターで、あっという間に出来上がるものだろうか、何日も掛かって作成したのだろう。
当時は、いやいやだった気がするが、演劇を通して、人間形成にも繋げたい、感想文や日記を書かせることで作文力を養いたい等という、H教頭の熱い情熱が、伝わってくるような気がする物である。