たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

謄写版刷り演劇台本「学園物語」とH教頭(再)

2024年03月20日 08時43分12秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

M男は、昭和30年代前半、地元の高校を卒業するまで、北陸の山村で幼少期を過ごした。その故郷(ふるさと)も、空き家になっていた実家を10年数年前に解体処分してからは、帰る家も無い、遠い存在になってきている。
当時の記憶もほとんど喪失しているが、何かのきっかけで、ふっと、断片的な思い出が炙り出されることが有る。
空き家になっていた実家解体処分工事を行う前の数年間は、年に数回、大量の家財道具類等雑物整理処分のため、自営業の仕事の間を縫って、車を飛ばし、夫婦で通ったものだが、菓子折り等の空き箱から、着なくなった衣類さえも捨てることをしなかった父母達が残した物が、押入れ、物置、倉庫、納屋にぎっちり詰め込まれていて、その分別、廃棄処分作業は、気の遠くなるようなものだった。あの頃の疲労困憊した思いは、未だに夫婦の語り草になっている。
そんな家財道具類等雑物整理処分のある日、2階の押入れの奥の奥に、M男や弟、妹の子供時代の教科書やノート、絵画作品、通信簿等がぎっしり詰め込まれた大きなリンゴ箱(木箱)を発見した。
中から、完全に記憶から喪失していた物が続々出てきて、まさにタイムカプセルを開けるが如し、ある意味感動し、しばし手が止まってしまったものだったが、懐かしがってばかりいる分けにはいかず、ほとんどを処分、
「おお!これは・・・」という、思い入れが有る、何点かを持ち帰ったのだった。
そんな中のひとつに、中学生時代の演劇の台本が有った。
謄写版(ガリ版)刷り、藁半紙(わらばんし)、10ページ、
黄ばんで、すでに腐食し、ボロボロ、触るとくずれそうな代物だ。
表紙には、
  昭和32年度、文化祭上演脚本
  「学園物語」 1幕(45分) 
  全幅の愛情もて、子等に捧ぐ!! 
と、記されている。
この演劇の台本からも、喪失していたはずの中学生の頃の記憶の欠片が、じわじわ炙り出されてきたのだった。

 

各ページ毎の字体が異なっていて、見栄えも悪い。何人かの生徒が、手分けして作り上げたものだ。M男の記憶には全く残っていないが、表紙の字体?、もしかしたら、自分が書いたのかも知れない?等と感じたものだった。
そんな台本を眺めていると、鉄筆(てっぴつ)で、蝋紙(ろうがみ)に書き込む時の感触、謄写版(とうしゃばん)で刷っている時の匂い、手の汚れ等まで、なんとなく、脳裏に蘇ってくるようだった。

謄写版(ガリ版)
(ネットから借用画像)

M男が通っていた中学校は、1学年1クラスの小さな中学校で、小学校と校舎が繋がった併設学校だったが、当時、毎年11月に、小学校、中学校合同で、文化祭が行われており、昭和32年(1957年)は、どうも、11月10日に開催されたようだ。
その翌年には、町の中学校と統合が決まっていて、学校最後の文化祭になるということもあって、 力が入っていたのだと思う。
例年通り、各教室等では、図画工作作品、研究発表等が展示され、PTAによるバザー等が有ったはずだが、それに加え、特別、体育館(講堂と呼んでいたが)で、M男達クラス生徒全員による演劇上演が組まれていたのだった。
その演劇を指導していたのは、国語の教師でもあったH教頭だった。
後年になって知ったことだが、H教頭は、地元の数カ所で草の根演劇指導にも情熱を燃やしていた教師だったのだ。 
そのH教頭の陣頭指導で、M男達クラス生徒全員が、文化祭で演劇を上演することに決まったのは文化祭の半年前、田植えが終わった頃だったような気がする。
以後、週に何日か、放課後に練習・・・という日が、文化祭前日まで続いた。
もちろん、脚本の作者は、H教頭で、妥協を許さない気迫、激しい語気に、M男達は、怯え、泣かされ続けた。
「やる気が有るのか・・・」「やる気ないならやめてしまえ・・・」「泣いて済むのか・・」「もっとさらけ出せ・・・」等々
トニー谷を細くしたような容貌、眼鏡の奥の眼光が鋭いH教頭、容赦ない怒号を飛ばし、時々は、メガフォンを床にたたきつけて立ち去ってしまったりしたH教頭。
もともと、恥ずかしがり屋のM男等は演技をする等、大の苦手であり、逃げ出したい気持ちいっぱいだったが、連帯責任を負わされている以上、最後までやりきるしかなかったのだった。
次第に、H教頭の術中にはまり、生徒全員が真剣に取り組むようになり、結束、絆を感じ始めたような気がしたものだ。
H教頭が納得いくまで、帰してもらえず、時として、下校が、19時、20時になることも有ったような気がする。
現在だったら、大問題になるところだろうが、当時はまだ、安全、安心の田舎のこと、親も子供も、危険を感じることも無く、街路灯等ほとんどなかった真っ暗な農道を、近所の従兄弟の同級生と、平気で帰宅したものだった。
記憶定かではないが、文化祭間近のある日だったと思う。
旧ソ連が人類最初の人工衛星、スプートニク1号、2号を打ち上げた頃、下校時に見上げた星空の南天から北天へ、日本海方向に、スーッと移動していく人工衛星を眺めながら、従兄弟と大感激したことも思い出される。
まだまだ貧しかった日本の山村の暮らしと、旧ソ連の人工衛星。子供ながら、とてつもなく、世界との差を感じたような気がする。

「学園物語」上演は、文化祭当日、各種催しを一時中断し、児童、生徒、教師、参観父兄、全員に、体育館(講堂と呼んでいたが)に集合してもらって行われた。
演劇の筋書きは、グレた生徒、規則を守らない生徒がいる問題クラスを、教師、校長や、父兄、駐在所警察官、生徒達が、なんとかまとまったクラスにしていこうと話し合い、努力し、最後には、泣かせる場面も有り、心を通じる仲間になるというものだった。

本番の出来が良かったのか悪かったのかは、M男達には分らないことだったが、終演した瞬間、長く苦しい練習を乗り越えてやっと終わったという安堵と感動で感無量となり、鬼だった?H教頭に皆が駆け寄り、女子生徒等は、感極まって涙を流し合っていた気がする。

後年になって、東京オリンピックで金メダルを獲得したが、女子バレー東洋の魔女達が、鬼の大松に血のにじむような厳しい練習を強いられ、最後には 感涙の胴上げした姿を見た時、どこかダブって 共感を覚えたこともあった。

小学1年生から9年間、兄弟以上に長く一緒に過ごした同級生37人、
すでに、何人かは欠けているが、未だに気持ちの通じ合いを持っているような気がしている。
後年になって、あれが本当の教育というものなのかも知れない等と思ったこともあった。

お粗末な舞台装置
(古いアルバムに貼ってあった白黒写真)

 

謄写版刷り演劇台本と共に、有ったのは、「学園物語に出演して」という、
生徒全員の感想文集だった。
多分、国語教師でもあったH教頭の指示で、書かされ、それをまた、何人かで手分けして
謄写版で刷ったものだ。
現在であれば、パソコンとプリンターで、あっという間に出来上がるものだろうか、何日も掛かって作成したのだろう。

当時は、いやいやだった気がするが、演劇を通して、人間形成にも繋げたい、感想文や日記を書かせることで作文力を養いたい等という、H教頭の熱い情熱が、伝わってくるような気がする物である。

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「中学生日記より」その65

2024年02月19日 12時31分33秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」で、一度書き込んだことの有る「中学生日記より」、順不同、で、ボチボチと、コピペ、リメイクしているが、まだ、少し残っており、再開?。
「中学生日記」とは、北陸の山村で中学生だった頃のM男が、ほんの一時期だが、付けていた日記帳のことで、数年前に実家を解体する際に発見した、変色、腐食し、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等まで、全て押し入れの奥に詰め込んでいたようで、その中から出てきたものだ。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じがして、即廃棄処分出来ずに、持ち帰っている。ページを捲ってみると、日毎に、わずか数行のメモ、日誌のような類ではあるが、自分で書いた文字から、すっかり喪失してしまっていた当時の情景までも、断片的に炙り出されてくるから不思議である。まさか 60数年後に、第三者の目に晒される等とは、当時のM男には想像すら出来なかったはずで、下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その65 「週番」

昭和30年(1955年)7月4日、月曜日、曇、
起床 5時40分、就床 8時50分、

1限目 数学
2限目 職業 本立て(作り)
3限目 職業 々
4限目 社会 中国(地方)、四国地方

1、今日から1週間、週番、

帰家(宅) 13時10分、

2限目、3限目、「職業」の時間、
本立て作りをしたようだ。記憶曖昧だが、自分で作った本立て、秋の「文化祭」に展示されたりしたのだろうが、その後、子供部屋等無しで、座敷の隅に置かれた座り机の上に置き、長年使っていたような気がする。
4限目、「社会」の時間、
「地理」だったのだろうか。「地理」は、最も好きな科目であり、得意科目だった気がする。
「週番」
M男の通っていた中学校は、1学年1クラス、全校生徒も100人程度の小さな学校だったが、当時、1週間毎の輪番制で、「週番」というのが有った。
学年、男女問わず だいたい 登下校を一緒にする集落毎に班分けされた、5~6人単位だったが、その週は、M男達の班の番が回ってきたということだ。

「週番」は、通常より30分程度早く登校し、夏であれば、校舎内の窓を開けて回る作業、冬であれば、各教室に、薪や石炭1日分を配り歩いたり、ストーブに火を入れる作業等、
下校時も、ある時間まで待機し、窓を閉めて回る作業、各教室を見回る作業等、いくつかの作業をこなし、最後に 教員室の前に整列し、担当教師に、「異状無し」の報告をし、「週番日誌」を提出するというものだった。もちろん こずかいさん(用務員)が、最終点検をしていたに違いないが、子供達の自主性や責任感、協調性等を植えつける狙いがあったのかも知れない。
当然、全生徒が下校した後に下校となり、その日、家に帰ったのは、13時過ぎということなのだと思われる。
それにしても、寝る時間の早いこと、
テレビも無い時代、夜勉強することも無し?
そういう時代だったんだなあ・・とつくづく感じる。


(参照)
👇
昭和30年(1955年)の出来事


おお!、懐かしい!
千代の山、鏡里、栃錦
そう言えば、
NHKラジオ第1の
大相撲実況放送、
よく聞いていたっけ・・、、

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「中学生日記より」その64

2024年01月28日 16時13分31秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」で、一度書き込んだことの有る「中学生日記より」、順不同、で、ボチボチと、コピペ、リメイクしているが、まだ、少し残っており、再開?
「中学生日記」とは、北陸の山村で中学生だった頃のM男が、ほんの一時期だが、付けていた日記帳のことで、数年前に実家を解体する際に発見した、変色、腐食し、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等まで、全て押し入れの奥に詰め込んでいたようで、その中から出てきたものだ。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じがして、即廃棄処分出来ずに、持ち帰っている。ページを捲ってみると、日毎に、わずか数行のメモ、日誌のような類ではあるが、自分で書いた文字から、すっかり喪失してしまっていた当時の情景までも、断片的に炙り出されてくるから不思議である。まさか 60数年後に、第三者の目に晒される等とは、当時のM男には想像すら出来なかったはずで、下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その64 「田植えが始まる頃」

昭和30年(1955年)6月1日、水曜日、晴、

第1限目 「音楽」、太平洋、強弱記号、
第2限目 「図画」、モザイク、
第3限目、第4限目 「映画」、
     「月の物語」「運動の法則」「ガラス」「火の歴史」「ニュース」等
1、くりのき(栗の木)にたかる「くりまたばち(蜂)」退治してくれと
  たのまれた(頼まれた)。
2、田うえ(田植え)が始まったので、今日から昼前限り(授業は午前中で終わり)
3、父が休んだ。親戚の田植え手伝いのため。
  学校へ、自転車に乗って行った。
4、テキストの帰りに、どこかの家へ自転車をぶつけた。
5、始じめて(今年初めて)、ふせばりをかけて見た(伏せ針を仕掛けてみた)
6、うちの田うえ(田植え)は 6日ときまった(決まった)
(宅) 13時10分


当時、M男の通っていた、北陸の山村の1学年1クラスの小さな小学校、中学校併設校では、田植えの時期のピーク、稲刈りの時期のピークには、必ず約1週間の「田植え休み」「稲刈り休み」が有った。
井の中の蛙大海を知らず、M男達は、それが当たり前のことと思っていたものだが、ほとんど農家の子供だったこともあって、中学生ともなれば、一人前の労働力?、学業より家の手伝い優先という考えが、まだ、その地には有ったのかも知れない。さらに、「田植え休み」「稲刈り休み」に入る前の1週間位は、授業は午前中で終わり、午後は放課、家の手伝いの無い者は、部活等に充てていたような気がする。
M男は、郷里を離れた後も、長年に渡って、「田植え」や「稲刈り」の手伝いに、わざわざ、帰省することを続けたが、機械化、その他の事情も有って、後年、「田植え時期」=「ゴールデンウイーク」というイメージになってしまった
が、ほとんど人力の当時はまだ、6月初旬だったということになる。

第1限目の「音楽」、太平洋、強弱記号
  「太平洋」って何?、曲名かな?、良く判らない。
第2限目の「図画」、モザイク
  確か、各自家から卵の殻を乾燥させ持ってくるように言われ、それを割って小さな断片にして
  絵の具で12色だか何色だかに色付けし、その1片1片を、あらかじめ下絵を描いた板に
  糊で張り付けていくという授業で「モザイク」と呼んでおり 出来上がった作品は、
  秋の文化祭に展示していた。
  後年になってからのこと、写真や映像の一部等を隠す手法を「モザイクを掛ける」ということを
  知った時、なんとなく違和感を感じたものだった。
第3限目第4限目は「映画」「月の物語」「運動の法則」「ガラス」「火の歴史」「ニュース」等
  各学年1クラスの小さな小学校・中学校併設校のこと、全校生徒児童が、大教室に集合し、
  教育用映画を見る授業が、年間に何回か有った気がする。
  その日もそうだったようだ。白黒で、退屈な内容が多かったような気がするが、通常授業と
  異なり、ワイワイガヤガヤ、喜んでいたように思う。
  廊下の壁に、投影用の穴が開けられており、機械に強いI先生が、廊下で映写機を操作、
  時々、フィルムが切れて修復したりの間が有ったり、なんとものんびりしたものだったが。

1、栗の木に、「くりまた蜂」、
  「くりまた蜂」???、全く記憶が無いが、敷地内に栗の木が有ったことは覚えており、、
  蜂が巣を作って飛び回っていて危険なので退治しろ!と親から命じられたのかも知れない。
3、父が休んだ。学校に自転車に乗って行った、
  当時、M男の家には、まだ自転車が1台しか無く、父親が通勤に使っていたため、
  普段乗ることが出来なかった。その日は、父が親戚の田植えの手伝い(結・ゆい)のため
  休んだため、
自転車が空き、M男は、それを借りて学校に乗って行ったということだと思う。
4、テキストの帰りに、どこかの家へ自転車をぶつけた、
  「テキスト」の帰り?って、何のこと?、分からない。
  多分、放課後、学校で何か有り、その帰り道、慣れない自転車で運転を誤り、
  どこかの家にぶつかった?ということなのだろう。
  全く記憶が無いが・・・。
5、今年初めて、伏せ針を仕掛けてみた、
  当時、近所の子供達はつるんで、徒歩20分~30分の川に、夕方に出掛け、
  1m程の棒の先に、釣り糸をくくりつけ、釣り針にミミズ等の餌を付け、
  川べりに、大きな石で押さえて仕掛けて帰り、
  翌日早朝見に行き、ウグイ、フナ、ナマズ、コイ等が掛かるのを
  楽しみにする遊びが流行っていた。
  「フセバリ」と呼んでいたが、多分、釣り針を伏せて置くことからの言葉で、
  「伏せ針」でいいのではないかと思われる。
  年上の子供等から、大物が掛かった話を聞いて、夢中になった時期が有ったが
  M男自身、大物が釣れた記憶は、全く無い。
6、ウチの田植えは,6日と決まった、
  当時、「田植え」や「稲刈り」は,親戚同士が日を決めて順番にお互い家族全員で手伝いに
  行く習慣が有った。後に、「ゆい(結い)」と呼ばれる習慣であることを知ったが、
  子供心には、何日も他所の手伝いをし、田んぼの少ないM男の家は、簡単に終わって
  しまうのは、割が合わないことではないかと考えたこともあった。
  M男の家の「田植え」は、6月6日と、決まってようだ。
帰宅 13時10分、
  授業が午前中だけとうことは、弁当は持っていかなかったはずで、多分、「バアチャ」が
  用意してくれた昼食にかぶりついたのだと思う。


 

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ジイチャとバアチャ その9(再)

2024年01月14日 21時27分12秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

その9
「バアチャのおむすび、菜飯、おやつ」(再)

昭和20年代から30年半ば、M男が、小学生、中学生、高校生だった頃の話である。
当時、M男は、北陸の山村で、祖父母、父母、弟、妹、3世代、7人家族で暮らしていたが、祖母のことを、「バアチャ」と呼んでいた。
「バアチャ」は、誰に対しても如才無く、家族には献身的で、M男にとっては、母親より母親的であり、最も頼りにしていた人だったと思っている。
ほとんど、記憶は曖昧になっているが、脳裏に焼き付いている「バアチャ」の断片的な記憶を炙り出して見ることにした。

▢醤油でまぶしたおむすび

当時はまだ、プロパンガス等も普及しておらず、三度の食事の煮炊等は、竈(かまど、へっつい)や、囲炉裏(いろり)で、をくべて(燃やして)行っていた時代、パン食等、想像も出来なかった時代であり、もっぱら、主食は、ごはんの時代だった。
M男の家の台所にも、隅に竈が有り、朝夕、お釜(おかま)で、炊飯していた。炊飯も、一家の食事を一切賄っていた「バアチャ」の役目で、朝は早起きし、きちっと朝食に間に合わせ、夕方も、きちっと夕食に間に合わせていた。炊き上がったご飯は、お釜からお鉢(おはち、お櫃とは呼んでいなかった)に移すのも「バアチャ」がしていたが、こげつき(おこげ)が出来た時等は、お釜に少し多めにごはんを残し、醤油でまぶして、おむすびにし、夕食前、腹ペコの食べ盛りのM男達に食べさせてくれたものだった。これが、熱々で、たまらなく美味しく、飛びついて食べたものだった。

(ネットから拝借画像)
竈(かまど)・へっつい      囲炉裏(いろり)
   
 

▢焼きおにぎり

当時は、冷蔵庫も保温器具も無かった時代、お鉢(お櫃)に移したごはんも、季節によっては、時間が経過すると、ニオイが付いたり悪くなり、捨てるには勿体無いという状態になることが多かったのだと思う。そんな時、「バアチャ」は、そんなごはんを、固く握って、囲炉裏の脇に炭火を寄せて、焼きおにぎりにして、M男達のおやつにしてくれた。
記憶曖昧だが、味噌を塗りつけたり、でまぶしたり、醤油を付けて焼いたり、いろいろ工夫していたような気がする。

▢大根の葉の菜飯おむすび

多分、季節は限られていたはずだが、「バアチャ」は、収穫した大根を沢庵漬けした後の大根の葉も捨ててしまわず、塩漬けし、これを細かく切り刻んで、やはり、炊きたてごはんにまぶして、おむすびにしてくれた。これが、また、絶妙に美味しく、その味が未だに忘れられず、今でも、時々、大根の葉を塩漬けにし、菜飯にして食している。

▢おやつ(「こびり」と言っていたが)

菓子類等食料品が溢れかえっている現在とは大違い、当時の農村では、「おやつに、市販の菓子等・・・」という概念が無かったように思う。大人も、子供も、おやつ(「こびり」と言っていたが)は、ほとんど、自家製のものだった。当然、季節によって、違ってはいたと思うが、思い出してみる。

(1)蒸したサツマイモ、蒸したジャガイモ、蒸したサトイモ、
(2)カボチャの煮物
(3)茹でたトウモロコシ
(4)蒸し饅頭(小麦粉?を練って、重曹?、砂糖少々で蒸した饅頭)
(5)かき餅(家でついたのし餅を薄く切り乾燥させたもの)
(6)あられ(家でついたのし餅を細かく切り刻んで乾燥させたもの)
(7)焼き餅(小麦粉を練って砲丸形にし、炭火で焼いたもの)
(8)干し栗(秋、茹でた山栗を綿糸で数珠繋ぎにして乾燥させたもの)
(9)干し柿(渋柿の皮を剥いて、藁縄に数珠繋ぎして乾燥させたもの)
(10)茹でた枝豆
(11)炊きたてごはんのおむすび、菜飯おむすび、焼きおにぎり
(12)野沢菜漬け、沢庵、白菜漬け、キュウリやナスの糠漬け、

(つづく)

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ジイチャとバアチャ その8(再)

2024年01月08日 17時45分29秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

その8
「バアチャが作ってくれた弁当」(再)

昭和20年代から30年半ば、M男が、小学生、中学生、高校生だった頃の話である。
当時、M男は、北陸の山村で、祖父母、父母、弟、妹、3世代、7人家族で暮らしていたが、祖母のことを、「バアチャ」と呼んでいた。
「バアチャ」は、誰に対しても如才無く、家族には献身的で、M男にとっては、母親より母親的であり、最も頼りにしていた人だったと思っている。
ほとんど、記憶は曖昧になっているが、脳裏に焼き付いている「バアチャ」の断片的な記憶を炙り出して見ることにした。
明治24年、埼玉県の農家の次女として生まれ、子供の頃から、東京へ奉公に出され、若い頃には、食堂を営んだり、家政婦をしたり、戦後、養女の婿の実家を頼って疎開し、その地に定住、大変な苦労をして生き抜いていた「バアチャ」だったが、それだけに、料理手腕は、年季が入っており、近所でも評判だったように思っている。
ただ、冷蔵庫も無く、食料品店等、全く無かった村落で、肉、魚等、おいそれとは買えなかった時代だった。時々、担ぎ屋のおばさんが回ってきて買えるのも、魚の干物や塩漬け物位で、食材と言えば、お決まりの自家製野菜ばかりだったが、それらをうまく工夫しながら、外で野良仕事に明け暮れていたM男の母親になりかわり、一家の食事を一切を賄っていた。
当時、M男の通った小学校、中学校、高校には、給食は無く、昼食は、もっぱら、各自持参する弁当だったが、ずっと、M男の弁当を作ってくれたのも、「バアチャ」だった。
記憶は曖昧になっているが、アルマイトの弁当箱に、「ごはん」は、ぎっしり詰め込み、「おかず」は、おかず入れに詰めて、風呂敷で包んで、持たせてくれたような気がする。
いつのまにやら、M男は、食べ物の好き嫌いが激しい子になっていたが、後年になってから、どうも、「バアチャ」は、M男が好む物に偏重して作ってくれたことも、その一因だったのかも知れないと思ったものだ。
「バアチャ」が作ってくれた弁当の「おかず」を 思い出してみると・・・・、

◯里芋の煮っころがし、
◯サツマイモ、ネギ、カボチャ等の天ぷら、
◯焼いた塩鮭、焼いた塩鱒、
◯ダイコン、キュウリ、ナス等の味噌漬け、(大樽の自家製味噌の中に漬け込んだもの)
◯野沢菜漬け、(毎年大量に野沢菜漬けし、晩秋、冬季、食していた)
◯たくあん、
◯梅干し、
◯茹で卵、(ニワトリを飼っていたことが有った)
◯海苔弁、
◯治部煮?(ジャガイモやダイコンの煮染)
◯金時豆、
◯イカの丸ごと煮、(足を詰め込んで輪切りにしたもの)
◯ハタハタ(乾物)
・・・・等々。

「弁当」で、思い出したことが有る。
小学校、中学校で、ある年から、冬季だけ限定で、婦人会だかPTAだかの数人が、学校の給食室で、大鍋で「味噌汁」だけを作り、昼食時、児童生徒に飲ませるようになった。
ほとんどが農家の子供だったこともあり、「味噌汁」の具は、児童生徒全員が、定期的に、各自、家から担いで持参した、大根、里芋、白菜、人参、牛蒡、玉葱、葱等々。
多分、「給食費」O円?で、現物野菜持ち込み?だったのだろう。
とにかく、なんでもかんでも、やたらぶち込んだような味噌汁で、後年になって知った「ちゃんこ鍋」のようなものだった。好き嫌いの激しかったM男にとっては、どうも苦手で、完食するのが苦痛だったような気がする。
さらに、冬季、各教室には、薪ストーブ(後に石炭ストーブ)が、設えられたが、4時間目前位には、持参した各自の弁当箱を、ストーブの周りに積み上げて温める等も、許されていたように思う。授業中に、おかずのニオイが教室に充満?、空きっ腹が鳴ったりしたものだ。


懐かしいアルマイト弁当箱
(ネットから拝借画像)

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ジイチャとバアチャ その7(再)

2024年01月06日 11時22分59秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

その7
「バアチャの写真」

今から10数年前に、長年空き家になっていた北陸の山村の実家を整理解体処分したが、その際に残っていた古いアルバム数冊を持ち帰った。なかなか廃棄出来ないままで、未だに埃を被ったままになっているが、先日、「バアチャ」の写真が残っていないか、めくってみた。
昭和40年に、亡くなっている「バアチャ」。
M男は、これまで、「バアチャ」の写真と言えば、実家の座敷に飾ってあった遺影の写真を見ていた位で、他ではあまり見た覚えが無かったが、
戦前の、表紙がボロボロの小さなアルバムに糊で貼り付けられた写真の中に、
「もしかして、これ、バアチャ、かな?」という写真が何枚かが有る。
その内の1枚を、転写してみた。
姿形から、多分、「バアチャ」に間違い無いと思うが、年齢も、10代?なのか、20代?なのか、30代なのか?は、分からない。
明治24年、埼玉県の農家の次女として生まれ、東京で、奉公したり、食堂を営んだり、苦労して生き抜いた「バアチャ」、
いつ頃、どこで撮った写真なのかも、分からない。


また、別のアルバムには、座敷に飾ってあった遺影の写真の元と思われる写真が有った。
多分、昭和30年代の「バアチャ」で有り、生前最後のいい写真だったのかも知れない。
M男を、母親よりも母親らしく、可愛がり、厳しくしつけ、育ててくれた「バアチャ」だった。

(つづく)

 

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ジイチャとバアチャ その6(再)

2024年01月03日 17時28分13秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

その6
「バアチャと浪曲(浪花節)」

昭和20年代から30年代、M男が、小学生、中学生だった頃の話である。
当時、M男は、北陸の山村で、祖父母、父母、弟、妹、3世代、7人家族で暮らしていたが、祖母のことを、「バアチャ」と呼んでいた。
「バアチャ」は、誰に対しても如才無く、家族には献身的で、M男にとっては、母親より母親的であり、最も頼りにしていた人だったと思っている。
ほとんど、記憶は曖昧になっているが、脳裏に焼き付いている「バアチャ」の断片的な記憶を炙り出して見ることにする。
M男の家は、終戦直前に、東京から家族全員、父親の郷里の実家を頼って自主疎開し、戦後、そのままその地に定住した家だった。その頃はまだ、貧しい暮らしが続いていたはずだが、M男が小学生高学年になった頃には、茶の間の茶箪笥(ちゃだんす)の上に、真空管ラジオが鎮座していた。
多分、農業の傍ら、隣り町の印刷店に勤めていた父親が、同じ商店会仲間のラジオ屋(当時は、家庭電器店等とは呼んでいなかった)から、譲り受けた中古の真空管ラジオだったのだと思う。
他に娯楽等、ほとんど考えられなかった山村の暮らしの中で、家族が集まる夕食時等に、ラジオ放送を聞くのが、唯一楽しみだったように思う。ただM男の家が有った集落は、東西南三方を山で囲まれた地形のため、電波は極めて弱く、雑音も入り、NHKラジオ第1放送が、かろうじて聞けるという、情けない状態だったが、皆で、ラジオの前で耳を欹てて聞いていたものだ。

夕食時の、子供も一緒に楽しめる番組、「三つの歌」等が終わる時間帯、20時半過ぎ位になると、「バアチャ」が楽しみにしていた浪曲(浪花節)等の番組も有ったように思う。
戦前、東京で、一時、定食屋を開いていたことも有ったという「バアチャ」は、子供だったM男から見ても、華奢で粋な、和服の似合う、垢抜けた感じの女性だったが、東京では、浪曲(浪花節)を、楽しんでいたようで、戦後、やっとラジオで楽しめるようになって、嬉しくてしかたなかったのかも知れない。
東京から移住する際に持って来たという蓄音機レコード盤を、M男が初めて知ったのも、小学生の頃だったと思うが、レコード盤の約半数、十数枚は、浪曲(浪花節)で、井の中の蛙、田舎の子供のこと、レコードとは、浪曲(浪花節)が主なものなのか等と思った位だった。後年になってから、浪曲(浪花節)好きの「バアチャ」にとっては、浪曲(浪花節)のレコード盤は、宝物?のひとつだったのかも知れない等とも思ったものだ。
M男にとっては、そろそろ眠くなる時間帯、ラジオから流れてくる、ただ唸っているだけの面白みのない演芸にしか感じなかった浪曲(浪花節)だったが、完全な「バアチャッ子」だったこともあり、横で一緒に聴いていたことも有った。
繰り返し聞いている内に、子供ながらに、有名な浪曲師の名前や演目、特長有る節やフレーズ等、ところどころをなんとなく覚えてしまう程になってもいた。

春日井梅鶯、玉川勝太郎、寿々木米若、広沢虎造、・・・・・、

「佐渡へ佐渡へと草木も靡く 佐渡は居よいか住みよいか・・・・」(佐渡情話)、
「旅行けば 駿河の道に茶の香り 流れ清き大田川・・・」(清水次郎長伝)
「飲みねい、飲みねい、寿司食いねい・・」「江戸っ子だってな・・」「神田の生まれよ・・」

今では、すっかり、過去の演芸となりつつあり、ほとんど、見る、聴く、機会が無くなってしまった浪曲(浪花節)であるが、「バアチャ」を思い出す時は、必ず、真空管ラジオから流れていた雑音混じりの浪曲(浪花節)が、連想されてしまうのである。
懐かしい浪曲(浪花節)のさわり?を、YouTubeで見付け、共有させていただいた。

寿々木米若の「佐渡情話」 (YouTubeから共有)

広沢虎造の「石松三十石船道中」 (YouTubeから共有)

(ネットから拝借画像)

(つづく)

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ジイチャとバアチャ その5(再)

2024年01月02日 14時46分17秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

その5
「鋸(のこぎり)の目立て」

昭和20年代、M男が小学生だった頃の話である。
M男は、一緒に住んでいた祖父のことを、「ジイチャ」と呼んでいたが、その「ジイチャ」が、天気の良い日等、やはり 玄関先に莚(むしろ)を敷いて、どっかと腰を下ろし、自作の固定治具に、いろいろな形の鋸(のこぎり)を挟み込んで、その歯を、1本、1本、何種類もの鑢(やすり)で、ギー、ギー、嫌ーな音を立てながら、「鋸の目立て」に精を出している姿を見ていた。
当時は、電動工具等というものは、一般家庭には普及していなかった時代、山林の伐採、下刈り、薪作り、樹木の剪定、小屋作り等には、鋸は、欠かせない道具の一つだった。用途によって、何種類かの形の鋸を保有し、大事に扱っていたものだが、極めて、使用頻度が高く、刃こぼれしてしまったり、切れ味が悪くなってしまうことも多々有ったはずで、現在のように、簡単に、ホームセンターで代替品を買う等ということ等、考えられない時代、どこの家でも、目立てをしながら、長年、大事に使用するというのが常識だった。
「ジイチャ」が、本当に、鋸の目立ての技術を習得していたのかどうかは定かではなかったが、出来栄えが良かったのか、親戚や近所隣りから、次々と依頼されていたように思う。何らかのお礼の金品を受取っていたのかも知れないが、人を寄せ付けない雰囲気で、黙々と作業している姿が妙に脳裏に焼き付いている。記憶は曖昧になっており、もしかしたら、そんな「鋸の目立て」をしていたのも、ほんの1~2年間だったかも知れないのだが・・・。

YouTubeで、「ジイチャ」がやっていたような、「鋸の目立て」の動画を見付け、参考までに共有させていただくことにした。

池田目の のこぎり大将実演 (YouTubeから共有)

(つづく)

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ジイチャとバアチャ その4(再)

2023年12月30日 13時57分42秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

その4
「ジイチャと煙草入れ」

昭和20年代、M男が、小学生だった頃の話である。
祖父のことを「ジイチャ」と呼んでいたが、「ジイチャ」は、木工、工作が得意だったようで、ある時期、「刻み煙草(きざみたばこ)」を詰めて持ち歩く道具、「煙草入れ(たばこいれ)」 を作るのに、精を出していたことがあった。
その頃、M男の家では、「ジイチャ」も、「バアチャ」も、「トウチャ」も、喫煙者だったが、「巻き煙草(まきたばこ)」がまだふんだんに普及していなかったのか、貧しくて買えなかったのか、主に、煙管(きせる)刻み煙草を詰めて吸っていたような気がする。長時間、外出の際等には、「煙草入れ」を腰に差して出掛ける姿が記憶に残っている。
M男の住んでいた山村には、当時、ブナの木の製材工場が有って、製材後の切れ端が山積みになっているのを、登下校途中、見ていたが、おそらく、「ジイチャ」は、何らかの手蔓で、そのブナの切れ端を貰い受けて、「煙草入れ」を作ろうと考えたのではないかと思う。
電動工具等一切無かった時代、全て手作業、鋸(のこぎり)で、10cm×10cm×5cm程度のブロックにした後、本体部と蓋部に切り分け、それぞれを、鑿(のみ)等で時間を掛けて、彫り抜いて、丁寧に削り、最後には、丸みを帯びた煙草入れに仕上がげていくのである。
出来上がった後も、鑢(やすり)木賊(とくさ)で、木目がピカピカになるまで磨いていたような気がする。
本体部と蓋部が、ピタッとおさまった完成品は、子供のM男から見て、ものすごく立派なものに思われ、「ジイチャ」って大したものだと、尊敬の目で見た覚えがある。
出来、不出来もあったようだが、次々と作り、下駄と同様、親戚、近所隣りの喫煙者にプレゼントし 喜ばれていたようだった。
その、「ジイチャ」の「煙草入れ」作りも、もしかしたら、1~2年間だったのかも知れない。隣り町の印刷店に勤めていた「トウチャ」等は、いつのまにか、巻き煙草、「いこい」や「ピース」を主に吸うようになり、「煙草入れ」を使うことが無くなっていたし、あっという間に「刻み煙草」は、姿を消していったような気がする。「ジイチャ」、「バアチャ」は、「巻き煙草」に変わっても、煙管を使い、1cm足りとも残さず、最後の最後まで吸っていたようではあったが。
「ジイチャ」の作っていた「煙草入れ」が、どんな物だったかの記憶も曖昧になっているが、ネットに、昔の喫煙具について大変詳しいサイトを見付け、参考にさせていただいた。
⇨ ともさんの「たばこの文化」

(拝借した「煙草入れ」の画像)

(つづく)

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ジイチャとバアチャ その3(再)

2023年12月29日 09時55分17秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

その3
「ジイチャの下駄」

昭和20年代、M男が、小学生だった頃の話である。
祖父のことを、「ジイチャ」と呼んでいたが、「ジイチャ」は、人付き合いが悪く、家族とも一線を画して、年中、一人、川へ魚釣りに出かけていたような、孤高の?年寄りだったと思っているが、断片的には、あることに一生懸命になっている姿を見せていたことも有った。
その一つが、「下駄(げた)作り」だ。
どこで技術を習得したのかは不明だったが、木工、工作が得意だったようで、天気の良い日等、玄関先に莚(むしろ)を敷き 専用の作業台、治具まで自分で作ってしまって、黙々と下駄作りをしていた。
当時の農村では、まだまだ、下駄を履いている人が多かったが、凸凹の道路事情もあり、よく割れてしまったり、歯が磨り減ったりしたものだ。
下駄は、隣り町の下駄屋(「靴屋」のことを、そう呼んでいた)で、買える時代ではあったが、子供が多かったりする、大家族の家では、おいそれと新調出来る訳ではなかったのだと思う。
そんな時代、「ジイチャ」は、せっせと下駄を作っては、親戚や近所隣りに、プレゼントし、大いに喜ばれ、感謝されていたようだ。
おそらく、近所の家から、倒れたか切り倒されたかの桐の木を譲り受けたり、村落に有った製材工場から不要な木片を貰ってきて、それを材料に、下駄作りをしていたのだと思う。
電動工具等一切無い時代、全て手作業、鋸(のこぎり)で切り刻み、鉋(かんな)、鑿(のみ)を 器用に使いこなし、下駄に仕上げていく工程を、M男は、遠巻きに眺め、感心していたものだった。
当然、M男の家族は、「ジイチャ」の作った下駄を履くことになり、家計的には、大いに助かったはずであるが、M男自身は、下駄屋で買う下駄と比べ、やはり、見た目余り良くないため、出来れば履きたくない等と思ったことも有った気がする。その都度、家族から、「贅沢言っちゃいかん」と叱られ、しぶしぶ履いていたような記憶も有る。
それに、鼻緒(はなお)は、藁(わら)を捩って、端切れ(はぎれ)を巻きつけて作ってようなもので、雨水に濡れる等すると、直ぐにも破れたり、千切れてしまい、その都度、修復する手間も掛かった。
記憶は曖昧になっているが、「ジイチャ」が、そんな下駄作りをしていたのも、もしかしたら、ほんの2~3年間だったのかも知れない。
M男が小学生高学年になる頃には、当時、短靴(たんぐつ)と呼ばれたゴム製の靴が普及してきて、子供達の主な履物は、下駄から短靴に変わっていったからだ。

さらに、「ジイチャ」が下駄を作っていた時期とは少しずれたかも知れないが、M男は、中学生になり、詰襟の学生服と学生帽を身につけるようになった頃のこと、ある日から 男子学生は、足駄(あしだ、高下駄)を履いて通学するようになった。おそらく、クラスの誰かが履いて、得意気にしていたのを見て、我も我もと、一気に流行ってしまったんだと思う。M男も、親にせがみ倒して買ってもらったような気がする。
荷車、リヤカーが通る農道は有っても、自動車を所有している家等無かった山村のこと、「通学路」等という決められたルートも無く、山沿いの道であろうが、用水の土手であろうが、畦道であろうが、自由に通学していたが、学校から最も遠い集落のM男達は、自転車通学を認められ、一番しっかりした田んぼの中を真っ直ぐ突っ切る、やや広い農道を通学するようになっていった。
しかし、その農道とて、舗装もなく凸凹で、雨が降れば、たちまち水溜りが出来、泥んこになる道路、足駄(高下駄)を履き、片手に傘では、何度、つんのめったり、横倒しになったことか 知れない。
でも、多少の打撲やすり傷を負っても、大騒ぎする風でもなく、赤チンメンソレを塗っておしまいという具合だった。
当時は、学校も、地域も、家族も、そんなことは 日常茶飯事、大騒ぎするでも無し、当たり前だという風潮だったような気がする

(つづく)

(ネットから拝借画像)

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