たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

2023年(令和5年)まもなく終幕、アンコール!、アンコール!

2023年12月31日 21時42分47秒 | 暮らしの記録

記憶力減退爺さんの
自分のための
「記憶補助ツール」
「備忘録、雑記録、懐古録の類」等と
決め込んでいる当ブログ、
・・・・・にも拘わらず、
見ず知らずの数多の方々からエールを送っていただき、
それを励みにして、
今年もまた1年間、ブログを続けることが出来ました。
フォロワー登録していただいている数多の方々や、
随時覗いて下さる方々に、
改めてお礼申し上げます。
いつも
「ブログを書き込めなくなった時が、本当のお終いだな?」等と
つぶやいている、八十路過ぎの爺さんではありますが、
願わくば、1日でも長く、
続けていきたいものだと思っているところです。
来年もよろしくお願い申し上げます。

(ネットから拝借イラスト)


2023年(令和5年)まもなく終幕、
アンコール!、アンコール!

毎年、大晦日に、同じことを書き込んでいるが、
今年も、コピペ、リメイクして・・・・、

ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団の「ニュー・イヤー・コンサート」のアンコール曲の定番になっている、ヨハン・シュトラウス一世 作曲、「ラデッキー行進曲」。
クラシック音楽に疎い爺さん、今更になってネットで調べてみると
「ラデッキー行進曲(Radetzky Marsch)(作品228)」は、1848年に、オーストリアのヨハン・シュトラウス一世によって作曲された楽曲で、ヨハン・シュトラウス一世の最高作と言われており、クラシック音楽全体の中でも人気の高い楽曲だった。

ヨハン・シュトラウス一世
(ネットから拝借画像)

因みに、ヨハン・シュトラウス一世は、「ワルツの父」と呼ばれ、さらに息子のヨハン・シュトラウス二世は、「ワルツの王」と呼ばれ、父子で功績を残している。

この曲が作曲された1848年頃、当時、オーストリア帝国の領国だった北イタリアに独立運動が起こったが、これを鎮圧、オーストリアの危機を救ったのが、ヨーゼフ・ラデッキー将軍。ヨーゼフ・ラデッキー将軍は、たちまちオーストリア国民の英雄となり、それを称える曲として、ヨハン・シュトラウス一世が作曲した楽曲が「ラデッキー行進曲」なのだそうだ。

ヨーゼフ・ラデッキー将軍
(ネットから拝借画像)

そのような歴史的経緯からも、「ラデッキー行進曲」は、オーストリア国民の愛国歌ともいうべき存在になり、ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団のニュー・イヤー・コンサート等で、必ず演奏されるというのも頷ける。

ヨハン・シュトラウスの「ラデッキー行進曲」・指揮:小澤征爾 (YouTubeから共有)

ブラボー!
思わず笑みも浮かび、
気分も高揚する「ラデッキー行進曲」を聴きながら
2023年(令和5年)の「締め」にします。
ヨーーーーッ!、ポン!

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ジイチャとバアチャ その4(再)

2023年12月30日 13時57分42秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

その4
「ジイチャと煙草入れ」

昭和20年代、M男が、小学生だった頃の話である。
祖父のことを「ジイチャ」と呼んでいたが、「ジイチャ」は、木工、工作が得意だったようで、ある時期、「刻み煙草(きざみたばこ)」を詰めて持ち歩く道具、「煙草入れ(たばこいれ)」 を作るのに、精を出していたことがあった。
その頃、M男の家では、「ジイチャ」も、「バアチャ」も、「トウチャ」も、喫煙者だったが、「巻き煙草(まきたばこ)」がまだふんだんに普及していなかったのか、貧しくて買えなかったのか、主に、煙管(きせる)刻み煙草を詰めて吸っていたような気がする。長時間、外出の際等には、「煙草入れ」を腰に差して出掛ける姿が記憶に残っている。
M男の住んでいた山村には、当時、ブナの木の製材工場が有って、製材後の切れ端が山積みになっているのを、登下校途中、見ていたが、おそらく、「ジイチャ」は、何らかの手蔓で、そのブナの切れ端を貰い受けて、「煙草入れ」を作ろうと考えたのではないかと思う。
電動工具等一切無かった時代、全て手作業、鋸(のこぎり)で、10cm×10cm×5cm程度のブロックにした後、本体部と蓋部に切り分け、それぞれを、鑿(のみ)等で時間を掛けて、彫り抜いて、丁寧に削り、最後には、丸みを帯びた煙草入れに仕上がげていくのである。
出来上がった後も、鑢(やすり)木賊(とくさ)で、木目がピカピカになるまで磨いていたような気がする。
本体部と蓋部が、ピタッとおさまった完成品は、子供のM男から見て、ものすごく立派なものに思われ、「ジイチャ」って大したものだと、尊敬の目で見た覚えがある。
出来、不出来もあったようだが、次々と作り、下駄と同様、親戚、近所隣りの喫煙者にプレゼントし 喜ばれていたようだった。
その、「ジイチャ」の「煙草入れ」作りも、もしかしたら、1~2年間だったのかも知れない。隣り町の印刷店に勤めていた「トウチャ」等は、いつのまにか、巻き煙草、「いこい」や「ピース」を主に吸うようになり、「煙草入れ」を使うことが無くなっていたし、あっという間に「刻み煙草」は、姿を消していったような気がする。「ジイチャ」、「バアチャ」は、「巻き煙草」に変わっても、煙管を使い、1cm足りとも残さず、最後の最後まで吸っていたようではあったが。
「ジイチャ」の作っていた「煙草入れ」が、どんな物だったかの記憶も曖昧になっているが、ネットに、昔の喫煙具について大変詳しいサイトを見付け、参考にさせていただいた。
⇨ ともさんの「たばこの文化」

(拝借した「煙草入れ」の画像)

(つづく)


穏やかな年の瀬、久し振りの散歩・ウオーキング

2023年12月30日 12時19分30秒 | 散歩・ウオーキング

今年も、いよいよ、年の瀬押し迫ったが、
当地、今日は、快晴で、風も無く、
日中、13℃前後まで上がり、
体感的には、暖かくも感じる日になっている。
好天に誘われ、午前中、買い物で出掛けたついでに、
ちょこっと、近くを歩いてきた。
スマホの歩数計で、約6,900歩。
なんだかんだ有って、1週間振り?の散歩・ウオーキングと
なってしまい・・・。

大岳、御前山、三頭山、雲取山 方面

高尾山 方面

サザンカが、青空に映える

 

最近、なかなか見られない立派な門松

 


コノテガシワ(児の手柏)

2023年12月29日 16時30分10秒 | 爺さんの備忘録的花図鑑

これまで、散歩・ウオーキングの途中や山歩き、畑地や我が家の猫額庭等で、やたら、コンデジで、カシャ、カシャ撮ってきた花の写真が、外付けHDに大量に溜まっており、時々、その気になって、不要、無用写真を大胆に削除しながら、散歩、旅行、山行・・・等のファイルに仕訳分類整理をしているところだが、懐かしい写真を見掛けると手が止まってしまったりもする。そんな古い花の写真の中から目に止まった花の写真を引っ張り出して、ブログ・カテゴリー「爺さんの備忘録的花図鑑」に、書き留め置くことにしている。草花に詳しい人からは、「なーんだ、そんな花も知らなかったの?」と笑われそうだが、爺さんにとっては、新情報、新知識、後日、また忘れてしまった時等に、確認したりするのに役に立つ存在になっている。花名を調べたり、知ったところで、ナンボになる分けでも無しだが、脳トレ、ボケ防止の一助になるかも知れない等と、勝手に思い込みながら・・・。


ふっと、思い浮かんだ「コノテガシワ」
「ブログ内検索」してみると、12年前、「OCNブログ人」で初めてブログを開設して間もない頃の2011年8月21日に、散歩・ウオーキングの途中、変わった実を付けた街路樹を見掛けて、コンデジで撮っていたことが分かった。
「へー!、そうだったかな?」
草木花に超疎い爺さん、多分、その時は、「君の名は?」だったはずで、後日、調べて、初めて、「コノテガシワ」という名を知ったのだと思う。
ブログをやってなかったら、写真も撮らなかったろうし、それ以前に、まったく気付かないまま、通り過ぎていたのではないかと思う。

2011年8月21日、散歩・ウオーキングの途中で撮っていた「コノテガシワ」の実。

081

2016年9月26日、散歩・ウオーキングの途中で見掛け、撮っていた「コノテガシワ」、

2023年6月5日、散歩・ウオーキングの途中で見掛け、撮っていた「コノテガシワ」の実


コノテガシワ(児の手柏)

ヒノキ科、コノテガシワ属、常緑針葉樹、高木(小低木)
    別名 「センジュ(千手)」
    和名「児の手柏」は、小枝がよく分岐して、子供の手のひらに似ていることに
    由来している。
原産地 中国、
    日本には、江戸時代に渡来した。
樹高 1m~20m
   中国では、墓地や寺院に植樹され、樹高20m程になるが、
   日本では、公園樹、街路樹、庭木として、小低木の園芸品種が多い。
花色 雌雄同株で雄花は黄褐色、雌花は、淡紫緑色
   小花を沢山付ける。
開花時期 4月頃~5月頃
     花後、1cm~2.5cmの球状で角(つの)が有る独特の実を付ける。
     青緑色から、熟すと褐色に変わり、裂開して種子を落とす。
花言葉 「一生変わらない友愛」


因みに、
「コノテガシワ」の花は
こんな感じのようだ。
👇
(ネットから拝借画像)

コノテガシワの花

まだ、実際に、見掛けて撮ったことは無く、
来年の春、しっかり見て見ようと思っているところだ。


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ジイチャとバアチャ その3(再)

2023年12月29日 09時55分17秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

その3
「ジイチャの下駄」

昭和20年代、M男が、小学生だった頃の話である。
祖父のことを、「ジイチャ」と呼んでいたが、「ジイチャ」は、人付き合いが悪く、家族とも一線を画して、年中、一人、川へ魚釣りに出かけていたような、孤高の?年寄りだったと思っているが、断片的には、あることに一生懸命になっている姿を見せていたことも有った。
その一つが、「下駄(げた)作り」だ。
どこで技術を習得したのかは不明だったが、木工、工作が得意だったようで、天気の良い日等、玄関先に莚(むしろ)を敷き 専用の作業台、治具まで自分で作ってしまって、黙々と下駄作りをしていた。
当時の農村では、まだまだ、下駄を履いている人が多かったが、凸凹の道路事情もあり、よく割れてしまったり、歯が磨り減ったりしたものだ。
下駄は、隣り町の下駄屋(「靴屋」のことを、そう呼んでいた)で、買える時代ではあったが、子供が多かったりする、大家族の家では、おいそれと新調出来る訳ではなかったのだと思う。
そんな時代、「ジイチャ」は、せっせと下駄を作っては、親戚や近所隣りに、プレゼントし、大いに喜ばれ、感謝されていたようだ。
おそらく、近所の家から、倒れたか切り倒されたかの桐の木を譲り受けたり、村落に有った製材工場から不要な木片を貰ってきて、それを材料に、下駄作りをしていたのだと思う。
電動工具等一切無い時代、全て手作業、鋸(のこぎり)で切り刻み、鉋(かんな)、鑿(のみ)を 器用に使いこなし、下駄に仕上げていく工程を、M男は、遠巻きに眺め、感心していたものだった。
当然、M男の家族は、「ジイチャ」の作った下駄を履くことになり、家計的には、大いに助かったはずであるが、M男自身は、下駄屋で買う下駄と比べ、やはり、見た目余り良くないため、出来れば履きたくない等と思ったことも有った気がする。その都度、家族から、「贅沢言っちゃいかん」と叱られ、しぶしぶ履いていたような記憶も有る。
それに、鼻緒(はなお)は、藁(わら)を捩って、端切れ(はぎれ)を巻きつけて作ってようなもので、雨水に濡れる等すると、直ぐにも破れたり、千切れてしまい、その都度、修復する手間も掛かった。
記憶は曖昧になっているが、「ジイチャ」が、そんな下駄作りをしていたのも、もしかしたら、ほんの2~3年間だったのかも知れない。
M男が小学生高学年になる頃には、当時、短靴(たんぐつ)と呼ばれたゴム製の靴が普及してきて、子供達の主な履物は、下駄から短靴に変わっていったからだ。

さらに、「ジイチャ」が下駄を作っていた時期とは少しずれたかも知れないが、M男は、中学生になり、詰襟の学生服と学生帽を身につけるようになった頃のこと、ある日から 男子学生は、足駄(あしだ、高下駄)を履いて通学するようになった。おそらく、クラスの誰かが履いて、得意気にしていたのを見て、我も我もと、一気に流行ってしまったんだと思う。M男も、親にせがみ倒して買ってもらったような気がする。
荷車、リヤカーが通る農道は有っても、自動車を所有している家等無かった山村のこと、「通学路」等という決められたルートも無く、山沿いの道であろうが、用水の土手であろうが、畦道であろうが、自由に通学していたが、学校から最も遠い集落のM男達は、自転車通学を認められ、一番しっかりした田んぼの中を真っ直ぐ突っ切る、やや広い農道を通学するようになっていった。
しかし、その農道とて、舗装もなく凸凹で、雨が降れば、たちまち水溜りが出来、泥んこになる道路、足駄(高下駄)を履き、片手に傘では、何度、つんのめったり、横倒しになったことか 知れない。
でも、多少の打撲やすり傷を負っても、大騒ぎする風でもなく、赤チンメンソレを塗っておしまいという具合だった。
当時は、学校も、地域も、家族も、そんなことは 日常茶飯事、大騒ぎするでも無し、当たり前だという風潮だったような気がする

(つづく)

(ネットから拝借画像)

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畑仕事納め?・・かな、

2023年12月28日 17時09分03秒 | 畑日誌(見様見真似の野菜作り)

当地、今日は、朝の内、やや曇っていたが、
午前中には、雲ひとつ見えない快晴となり、
気温も、10℃前後まで上がり、
穏やかな1日となった。
好天に誘われた分けでもないが、
午後になってから、やおら重い腰を上げ、
Go To 畑! と相成った。


11月末に、ダメモト?覚悟で種蒔きしていたコマツナ、第2弾が
約1ヶ月掛かって、やっと発芽し始めているのに、先日気付いていて、
そろそろ寒冷対策、寒冷紗でトンネルを作ってやらないとならず・・・・、
今日、やるっきゃないか・・・、
2023年、畑仕事納め?のつもりで・・・・、

第1弾のコマツナは、あと1回収穫で終わる状況、
茹でて冷凍保存在庫が、かなり残っているらしいが、
第2弾の生育が待たれる。
大丈夫かな?

ついでに、サニーレタスにも、寒冷さを・・・、

これで、ひとまず安心、
やれやれ、

 

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ジイチャとバアチャ その2(再)

2023年12月28日 10時22分35秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

その2
「ジイチャの写真」

M男は、小学生の頃、祖父のことを、「ジイチャ」と呼んでいた。祖父は、人付き合いが悪く、家族とも一線を画して、年中、一人、川へ魚釣りに出掛けるような、身勝手な?、孤高の?、年寄りだったと思っている。
今から10数年前に、長年空き家になっていた北陸の山村の実家を整理解体処分したが、その際に残っていた古いアルバム数冊を持ち帰り、なかなか廃棄出来ないまま、未だに埃を被ったままになっており、先日、「ジイチャ」の写真が残っていないか、めくってみた。
M男は、これまでも、「ジイチャ」の写真と言えば、実家の座敷に飾ってあった遺影の写真を見ていた位で、他では見た覚えが無かったが、
「もしかして、これ、ジイチャ、かな?」という写真が、2枚だけ見つかった。
戦前の表紙がボロボロの小さなアルバムの中間のページに、糊で貼り付けられた、3cm✕5cm程の小さな、セピア色の写真が有り、間違い無さそう?である。
「ジイチャ」の経歴等を、祖母や父母から詳しく聞いた覚えは無いが、「ジイチャ」は、戦前、東京で、警察の用務員(警察官ではなく)をしていたらしいという話をどこかで聞いていたような記憶が有り、どうも、その写真は、その職場で撮った写真なのではないかと思われるからだ。
よくよくみると、遺影の写真は、この写真を修正加工したものではないかという気がしてきた。貴重な写真だった分けだ。

           

終戦間際、M男の父親の実家を頼って北陸の山村に疎開し、そのままその地に定住した家だったため、当初、村落では、疎開者?、よそ者?、扱いだったとも聞いていた。そんな中で、「ジイチャ」は、なかなか、地元に溶け込めなかったのかも知れない。
カメラ等持っていなかった時代で、家族で写っている写真等、ほとんど無いが、わずかに、アルバムに貼り付けられている、親戚や近所の冠婚葬祭等で撮られた集合写真等にも、「ジイチャ」は、写っていない。そういう場には、いっさい顔を出さなかったのか、出ても写真嫌いで、逃げていたのか、とにかく、孤高の人?だったのだと思う。

(つづく)

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今年最後の満月、コールドムーン(Cold Moon)

2023年12月27日 20時10分15秒 | 暮らしの記録

今朝の日の出時刻に、ふっと、西北の山並みに沈み掛かろうとしていた月を見掛け、あまりにもまんまるなので、とりあえず、コンデジでカシャ、カシャしていたが、
先程、相互フォロワー登録している方のブログを拝見していて、
今日が、今年最後の満月で有ることを知った。
正確には、9時33分頃なのだそうで、朝の方が、満月に近かったようだが。
「エッ!、ソウダッタノ?」・・・・、
夕食前、ベランダでに出てみると、やや雲が掛かった東の空の雲間から、まんまるお月さんが顔を出しており、慌てて、カシャ、カシャ、
毎度のこと、安物カメラでは、限界有りで、ピンボケだが、なんとか撮れた。
アメリカの先住民は、季節を把握するために、
各月の満月に、動物、植物、季節等の名前を付けていたが、
12月の満月は、「コールドムーン(Cold Moon)」
名付けられているのだそうだ。

朝、6時40分頃、西北の山並みに沈みかけた月

18時頃の月

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ギリギリ間に合った白菜?

2023年12月27日 17時15分06秒 | 畑日誌(見様見真似の野菜作り)

毎年、12月初旬~中旬には、ボチボチ収穫しているハクサイ(白菜)
今年は、異常な気候が続いたせいなのかどうか不明だが、
発芽から育苗、生育、絶不調で、
未だに、ほとんどが固く締まって巻いておらず、
収穫すべきかどうか迷っていたが、
今日は、12月27日、
もう待てません・・・とばかり、
不出来承知で、5個だけ、初収穫
お世話になっている近所のお宅に、薄謝、歳暮代わり、
なんとか、ギリギリ、間に合わせた。
見掛けは、立派?だが、いつもより、軽い感じ。
それでも、喜んでもらい、安堵。

ダイコン(大根)も添えて・・・、

やれやれ、1件落着。


ジイチャとバアチャ その1(再)

2023年12月27日 05時27分46秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

昭和30年代半ばに、地元の高校を卒業するまで、M男は、北陸の山村で、祖父母、父母、弟、妹 7人家族で過ごした。東西が山稜の狭い盆地で、その真ん中を日本海に向かって1本の川が流れ下って、童謡「ふるさと」の絵にもなるような風景の山村だった。
M男の家族は、形の上では、3世代同居で、当時の農村では、ごく普通の家族構成であったが、祖父と祖母は、再婚者同士、母は、祖母の養女で、父は、婿養子、つまり、M男と祖父母とは、血が繋がっておらず、複雑な関係の家族ではあった。
しかし、当時のM男には、その辺の事情等、理解出来るはずもなく、近所隣りの、3世代同居、4世代同居の家と、同類の家であると思い込んでいたため、なんの違和感も持たず、暮らしていたのだった。
M男は、祖父のことを、「ジイチャ」と呼び、祖母のことを、「バアチャ」と呼んでいた。
「ジイチャ」は、昭和32年に亡くなり、「バアチャ」も昭和40年には亡くなっており、もはや、思い出せる記憶も、極く僅かになってしまったが、「ジイチャ」と「バアチャ」について、今だったら思い出せる いくつかの断片的な、かすかな記憶を炙り出して、書き留め置こう等と思っているところだ。


その1
「孤高だった?、ジイチャ」

M男が小学生の頃のジイチャは、まだ、60代だったはずである。
中肉中背、一見、健康そうに見えていたジイチャではあったが、ニコニコして、孫であるM男達の相手をしてくれたり、遊んでくれたりするような、やさしさを持ち合わせた人ではなかった。
孫に限らず、祖母とも、父母とも、親密に話しをしている姿を、M男は、見たことが無く、いつも 苦虫を噛み潰したような顔、厳格な態度で、近寄り難い雰囲気を漂わせていた。
当時の農村では、田植えや稲刈り等の農繁期には、子供まで手伝いをし、家族総出で農作業をするのが当たり前だったが、M男のジイチャは、決して、農作業に手を貸すことはせず、てんてこ舞いの家族を尻目に、一人悠然と、川へ魚釣りに行ってしまうような人でもあった。
地域の人達との付き合いも一切せず、家族とも一線を画して、自分の世界で生きているといった風だったような気がする。
当然、周囲から、「変わり者」という目で見られ、陰口をたたかれていたはずであるが、本人は、まるで 頓着無く、どこ吹く風・・というふうで、平然と暮らしていたのである。
複雑な家族関係からくる、なんらかの事情で、そのようなジイチャになってしまったのかも知れない。皆、当たり障りのないよう、気を遣っていることは、子供のM男でも感じられ、特に嫌っていた訳ではないが、決して、なつくことはなかった。
朝起きると、囲炉裏(いろり)上座にどっかり座り込み、「煙管(きせる)」「刻み煙草(きざみたばこ)」を吸いながら、ほとんど動かない後ろ姿が、目に焼き付いている。
時々は、多分、歳暮等でいただいた清酒だったと思うが、徳利1本を、囲炉裏端に置き、自分で採ってきた「浅葱(あさつき)」に味噌を付けて酒の肴にし、一人、チビチビやっていることもあって、どんなにか、祖母、父母からは、恨めしく思われたに違いない。

1日中、慣れない農作業でくたくたになっていた、東京育ちのまだ若かったM男の母が、たびたび 癇癪を起こしたり、泣きじゃくる姿を見せていたが、子供のM男には、感じ得なかった、家族関係の確執、葛藤から生じたものだったのだろうと、後年になって思ったものだ。
そんな、自分勝手な?、孤高の?ジイチャであったが、いくつかの特技を持っていて、その特技が 家族や地域の人達と、ほんの僅かな接点になっていたように思う。

(つづく)

(ネットから拝借イラスト)