「中学生日記より」その9 「田植え休み」、
昭和30年6月3日(水金)、晴、
(1時間目)図工、モザイク、
(2時間目)数学、分数、
(3時間目)習字、東西文化交流、
(4時間目)そとそうじ、
1、明日から 田植え休み、10日まで、
2、選挙ポスターの部の3等として 僕が賞状と賞品をもらった、
3、父 (勤務先を) 休む、
4、自転車で 学校に行った、
5、ふせばり えごい(うぐい)1匹、
帰家 12時半、
「明日から 田植え休み、10日まで」と 書いてある。
M男の通っていた北陸の山村の中学校では 毎年 この時期に 1週間程の「田植え休み」が 有った。
生徒のほとんどが農家の子供で有り 田植えや稲刈り等の農繁期には 1人前の労働力として 家の手伝いをするのが当たり前だった時代、学校も それに合わせていたものだ。
後年 北陸の山村の田植え時期は 5月上旬、ゴールデンウイーク前後に変わっていることを知ったが 当時は 梅雨の初期、6月上旬だったということだ。
因みに 秋の稲刈り時期には 「稲刈り休み」も有った。その分 「夏休み」は 通常より短かったような気がする。
昭和30年6月4日(土)、晴、
田植え休み初日、
うちの田植えは 6日の予定、
M男の家の田植えは 「6日予定」と書いてある。
当時は 田植え機もなにも無い時代、全てが人力、大勢の人で仕事を分担し 一挙に終わらせるため 親類関係や近所隣りで調整し お互いに手伝い合う「結い(ゆい)」が行われていた。
この日は 多分 他の家の田植えの手伝いをしたのかも知れない。
昭和30年6月5日(日)、晴、
1、川島のばあちゃん 死す、
ばんくるわせ、
うちの田植え、明日は やられない(出来ない)、
2、いそがしいので きょよむ(屋号)の田植え、
3、うちの田植えは 7日になる、
最も忙しい田植え時期に 父親の実姉が嫁いでいた大農家川島さんの家のおばあさんが亡くなったことで 親戚が慌てふためいたようだ。葬儀最優先で 田植えの日取りを 変更している。
昭和30年6月6日(月)、晴、
1、川島の葬式、
るすばん、
多分 父母、祖父母共 葬式の手伝い、参列に 出掛けたに違いない。
1日中、留守番をしたようだ。
昭和30年6月7日(火)、晴、
1、家(うち)の田植え、大勢が手伝いにきた。
2、明日は オカヤの田植え、
3、子供ねこ(猫)、川原にぴしゃりにいった、1匹、
4、父 休む、
「結い(ゆい)」の順番で いよいよ M男の家の田植えの日。
親戚関係や近所隣りから 大勢が手伝いにきたようだ。もともと、戦後移住したM男の家の田畑は少なく 多分 午前中位で 終わったのかも知れない。
午後は 翌日に田植予定の 本家に当たる大農家 オケヤ(屋号)の下準備作業の手伝いをしたのだと思う。
「子猫を川原に ぴしゃり(捨てに)に 行った」と 書いて有る。
当時の農家、だいたい猫を飼っていたが 現在のようなペットとしての存在ではなく 作納屋、米蔵等から ネズミ被害を防ぐ 用心棒?だった。だいたいが 放ったらかしで 周辺の田んぼ畑等で 何か掴まえて食したり 家に戻ってきても 残飯や魚の骨くらいが与えられる位で とても大切に育てる等という時代ではなかった。ふっと居なくなったり 病気で死んでしまったり 野良猫と紙一重だったような感じもする。子猫の処分も 川原に捨てる等という 残酷なことが 当たり前に行われていたということだ。
昭和30年6月8日(水)、晴のち雨、
1、オケヤ(屋号)の田植え、
家中で(家族全員で) 手伝いに、(行った)、
テキスト休む、
2、雨が降ってきたので 子守ばかり、
M男の父親に実家、本家に当たるオケヤ(屋号)の田植えの日。
家族全員で 手伝いに行ったと 書いてあるが 途中 雨が降ってきて まだ幼かった妹を連れ戻り 家で子守をしたようだ。
「数行の 日記から 記憶 蘇る」