あっという間に1月も末日、
まだまだ西高東低の気圧配置、
強い寒気団の南下で
北海道や東北、北陸等日本海側で
降雪、積雪予報が出ているようだが
当地 今日は 快晴、
ただ 冷たい風がやや強く
出不精爺さんは、腰が引けてしまう。
いかん、いかん、
午後になって やおら重い腰を上げ
ちょこっと近くを歩いてきた。
スマホの歩数計で 約7,000歩。
朝方の西の空
ウンナンオウバイ(雲南黄梅)? かな・・、
咲き始めている。
あっという間に1月も末日、
まだまだ西高東低の気圧配置、
強い寒気団の南下で
北海道や東北、北陸等日本海側で
降雪、積雪予報が出ているようだが
当地 今日は 快晴、
ただ 冷たい風がやや強く
出不精爺さんは、腰が引けてしまう。
いかん、いかん、
午後になって やおら重い腰を上げ
ちょこっと近くを歩いてきた。
スマホの歩数計で 約7,000歩。
朝方の西の空
ウンナンオウバイ(雲南黄梅)? かな・・、
咲き始めている。
図書館から借りていた 藤沢周平著 新装版 「雪明かり」(講談社)を 読み終えた。本書には 表題の「月明かり」の他、「恐喝」、「入墨」、「潮田伝五郎置文」、「穴熊」、「冤罪」、「暁のひかり」、「遠方より来る」、の 武家物4篇、市井物3篇、全8篇の短篇が収められている。
読み進める内に気がついたことだが 「入墨」は 2020年2月2日に読み終えた「闇の梯子」に、「遠方より来る」は 2017年1月14日に読み終えた「海坂藩大全(上)」に、「雪明かり」は 2019年10月8日に読み終えた「時雨のあと」に 収められている作品だった。
主な登場人物とあらすじ
「恐喝」
竹二郎、おその、おたか、おはつ、善九郎、鍬蔵、結城屋保太郎、
履物屋備前屋の前で薄板の端切れが強風に煽られ、ちんぴらの竹二郎の脛に当たった。難癖を付けて3両せしめた竹二郎、引き上げる途中、その怪我が酷くなり、皮肉にも備前屋の娘おそのに助けられる。下屋敷で中間頭の善九郎(夜になると賭場の胴元)の指示で博打に大負けしている結城屋保太郎に金か女で支払えと脅すが その女こそ・・・・。「兄貴、今度だけは見のがしてくんねえ」。激しい痙攣が襲って・・・海老のように背を曲げた。「助けてくれ姉ちゃん」
「入墨」(再読)
お島、おりつ、卯助、牧蔵、乙次郎、
★2020年2月2日のブログ記事 藤沢周平著「闇の梯子」からコピペ。
お島、おりつ姉妹で切り盛りする「めし・酒」店に ろくでなしの父親卯助が現れるようになるが 島から帰ってきたお島のかっての情夫乙次郎が店に現れ、お島が恐喝される段になって、卯助は・・。
「何も言わないで行っちゃたよ」、お島は呟いた。雁の声がした。
「潮田伝五郎置文」
潮田伝五郎(うしおだでんごろう)、井沢勝弥、七重、希世、
霧の中でほとんど同時に刀を抜いた。潮田伝五郎は 井沢勝弥が一塊の骸になった後、ためらいも無く小刀を腹に突き立てた。果し合いの場面から物語が始まり、そこに至るまでの経緯が描かれている。
「穴熊」
浅次郎、尾州屋徳兵衛、塚本伊織、佐江、お弓、赤六、
賭場に出入りする浅次郎、以前働いていた経師屋の娘お弓を探しているが 闇の商売の赤六の紹介でお弓に似ている佐保と出会う。いかさま賭博を看破している浅次郎、賭場で浪人塚本伊織に一稼ぎさせるが・・・・。「何ぞ裏があるのか」・・・、「さらばだ・町人」、そしてお弓は?
「冤罪」
堀源次郎、堀三郎右衛門、徳江、明乃、黒瀬隼人、市川六之丞、
婿養子の口を求めている下級武士の家の三男坊(部屋済み)の堀源次郎、散歩途中、同じく下級武士相良彦兵衛の娘明乃に思いを寄せる。彦兵衛が藩金横領の罪で切腹させられるが、冤罪の可能性が大。源次郎は、中老黒瀬忠左衛門の息子御勘定組頭黒瀬隼人を追い詰め、明乃の行方を探す。裕福な百姓屋銀左衛門の養女になっていた明乃。「そなたと一緒なら少々の苦労は厭わん」、源次郎は武士を捨て、百姓の婿養子に収まろうとする。
「暁のひかり」
市蔵、おこと、おつな、富三郎、源吉、小梅の伊八、花庄、
賭場で壺振の市蔵、朝方賭場から帰る途中、足が悪く歩く練習をしているおことと出会い、鏡を作ってやると約束してしまう。おことは?、いかさまを見破られた市蔵は?、
「遠方より来る」(再読)
三崎甚平、好江、曾我平九郎、寺田弥五右衛門、
★2017年1月14日のブログ記事で、藤沢周平著「海坂藩大全(上)」に 「遠方より来る」を読み終えたことを書き込んでいるが 4年前のこと、全く記憶が無い。
大阪攻めの最中に知り合っただけの曾我平九郎が突然、海坂藩で足軽の身分の三崎甚平を訪ねてきた。居座られ、「お前さまは、お人が好いから・・」、女房の好江に尻をつねられる。その正体は?、「生来、争いごとが不得手でな・・・」「実は 解っておったのだ」
「雪明かり」(表題の作品)(再読)
菊四郎、由乃、牧尾、朋江、宮本清吾、
★2019年10月8日のブログ記事 藤沢周平著「時雨のあと」からコピペ。
部屋住みの菊四郎は芳賀家の養子となっていたが 実家の古谷家には 継母の連れ子(義妹)由乃がいる。婿入りした菊四郎は 実家とは縁が切れていたが 懐いてくれていた由乃が気になっていた。由乃は宮本家に嫁いだが 嫁ぎ先で由乃は酷い仕打ちを受け 瀕死の状態になる。菊四郎は 由乃を救出し幸せにしてやろうと決心するが・・・・。由乃は跳べと言っている。雪明かりの道があるだけだったが・・・。
心温まる、淡い恋の義兄妹の物語である。
★2020年11月24日に 録画してあった時代劇映画「隠し剣・鬼の爪」を観たことを書き込んだことがあったが その作品の原作にも 「雪明かり」も含まれていたことに気がついた。
⇨ 2020年11月24日 映画「隠し剣・鬼の爪」
昭和20年代~30年代の幼少の頃は、まるで音楽等というものに興味も関心も無く、環境的にも無縁だったような気がしている。ただ、ラジオ等から流れていた歌謡曲等を聴くとも無しに聴いていた類で、特に覚えようとした曲等もなかったはずだが、妙に脳裏に焼き付いていて、この歳になって何故かふっと思い出す曲が有るから不思議なことだと思っている。
毎年、冬になると必ず思い浮んでくる曲の一つに 灰田勝彦が歌っていた「新雪」が有る。やはり、当時、特別好きな曲だったという分けでもないのに、今聴いてみると、タンゴ調で、なんとも素敵な曲だったんだなあと思えるところがある。
今更になってネットで調べてみると
「新雪」は 昭和17年(1942年)に公開された映画「新雪」の主題歌だった。(佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲)
当然、映画「新雪」を見た記憶は無いが、松竹から大映に移ったばかりの五所平之助が監督で、当時の大映のスター水島道太郎、宝塚歌劇団に在籍していた月丘夢路が主演した映画だったという。映画「新雪」は 「大映初の大ヒット作」となり、主題曲「新雪」も大ヒットしたようだ。原作は 昭和16年(1941年)11月24日から昭和17年(1942年)4月28日まで朝日新聞に連載された藤澤恒夫の小説「新雪」。まさに太平洋戦争が勃発する時期だったが「まろやかな恋物語」として 好評だったのだそうだ。
灰田勝彦の「新雪」 (YouTubeから共有)
「中学生日記より」
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。
「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のこと。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると すっかり喪失してしまっていた記憶が 断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。
その8「実習田の あらくれ、しろかき、あぜぬり」
昭和31年5月7日(月)、天気 晴、
週番
1限目 (作業)実習田の あらくれ、しろかき、その他 あぜぬり。
2限目 々
3限目 々
4限目 々
1,作業のため(実習田の作業が終わらなかったため)、(4限目の)映画鑑賞を見られなかったので(取り止め) 昼から(午後から)見せた(映画鑑賞となった)(中二)
「週番」・・下校時に、最後まで居残り、教室等構内を一巡し 窓の閉め忘れ等を確認する程度の任務だった思うが 最後に 教員室の前に整列し 担当教師に 「特に 異常有りません」等と報告しなければならず、面倒臭い・・という感じだったと思う。1学年1クラス、全校生徒も100人程度の小さな中学だったが 登下校を一緒にする集落毎に班分けされ 順番に 「週番」が回ってくるのだが その週は 「週番」になったようだ。
「実習田」・・M男の通っていた中学校には、校庭の横に「実習田」と呼ばれていた田んぼが1枚有った。ほとんどが農家の子供であり、中学生ともなれば家で農作業の手伝いをするのが当たり前だった時代、「都会の子供の農業初体験」的な発想、目的では無かったはずだが 何故か米を作っていた。春に耕し、田植えをし、秋には稲刈りをし、晩秋には 生徒、父兄、教師をまじえて「収穫感謝祭」なる行事まで行っていたのだ。
その日、生徒全員(もしかしたら男子生徒だけだったかも知れないが)、午前の授業を取り止め、「実習田」のあらくれ、しろかき、あぜぬり・・をしたようだ。
「あらくれ」と M男達が言っていたのは、「田打ち(田起こし)」した田んぼの土の塊を更に細かく砕いていく作業、「しろかき(代掻き)」と言っていたのは 田に水を入れ、十分浸透した時点で 土がトロトロな状態になるまで こねくり回す作業。
耕運機等がまだ北陸の山村にまで普及していなかった時代、
「田打ち(田起こし)」も、「あらくれ」も、「しろかき(代掻き)」も、
牛、馬に 馬鍬、犂(すき)を引かせて行っていたはずで、
「実習田」で M男達が実際行った記憶は全く無い。
多分、実際の作業を行ったのは、頼まれた近くの農家で、
生徒達は補助的な作業をしたのではないかと思う。
「あぜぬり(畦塗り)」とは 荒れた畦の表面を削り、改めて鍬を使って 壁塗りの要領で畦に土を塗付け、水が抜けないようにする作業。
最期には 「えぶり」で 凸凹を均す作業をし、田植え前の下準備が終わる。「えぶり」とは T字状の農具で よくグランド整備に使われるトンボと同類の道具。
やがてやってくる受験戦争時代前の なんとものどかな中学生生活だった気がする。
(ネットから拝借画像)
牛による代掻き
牛、馬で 思い出したことがある。
父親の生家(本家)オケヤ(屋号)は 当時 藁葺きの堂々たる旧家で、居宅、作業場、牛小屋、倉庫が 一つの建物に収まっていた。M男は その家の従兄弟のT男とは同級生だったこともあり、互いに自分の家のように出入りし、双子の兄弟の如く育ったが、そんなことで本家の間取りの概略まで脳裏に焼き付いている。
本家は 大農家だったので、当然牛を飼っており 玄関を入ると 牛独特の異臭が漂う家だったが、当時は それも当たり前、平気に暮らしていたということだ。
父親の生家の間取り(概略)
当時の元々地元の農家の家は ほとんど同じような造りだった。
当地 今日は 冷たい風がやや強かったものの
昨日とは打って変わって快晴、
陽だまりに入ると、ポカポカするような春陽気、
不要不急の外出自粛中ではあるが
こんな日に1日中家籠もりでは もったいない?、
どっか 行くとこ無ーい?
人のいないとこ?、
近場の低山?、
弱った脚のトレーニング?、
2時間位歩けるとこ?
午後になってから やおら重い腰を上げ
神奈川県相模原市の「県立津久井湖城山公園」を
初めて 訪れてみた。
お目当ては 「城山」山歩き。
津久井湖湖畔の駐車場は、ガラガラ、
散策山道で 行き交った人は 数人。
野鳥の鳴き声だけが聞こえる静かな山だった。
「城山」は 標高375mの低山だが、
戦国時代 北条氏に仕えた内藤氏が城主の津久井城(山城)が有った山。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めに伴って落城、
江戸時代初頭には麓に陣屋が置かれていたという。
「ガイドマップ(城山散策絵図)」が 随所に置かれていて、
参考にした。
散策山道の途中、随所で津久井湖が一望出来る。
「堀切」と「引橋」
山頂(標高375m)・「本城曲輪(ほんじょうくるわ)」と「築井古城記念碑」
スマホの歩数計で 約10,000歩、
久し振りの山歩き、気晴らしにはなった。
健康で丈夫な身体の方にはそれなりの楽しみ方が出来るが、いろいろ不具合を抱えた身体の者もそれなりの楽しみ方で暮らしていくしか無いと思いながら・・・。
新型コロナウイルス禍が続く中、最近のテレビ番組等でも、新規番組製作が出来ない等の事情?で、過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきて、このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている次第。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事、17~18年前の話、「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした。
追想「中山道を歩く」
その7 第6日目 「倉賀野宿~高崎宿」
第5日目「本庄宿~新町宿」を歩いてから数週間後の初冬の休日、好天に誘われ、仕事の方にも支障が無く 「中山道を歩く」の続きをする気になり、前回の終点JR新町駅に向かった。
午前9時30分頃、JR新町駅を出発→「小林本陣跡(木柱)」→伊勢島神社~信迎庵(石仏)→芭蕉句碑・スリーデーマーチ発祥の地碑→柳瀬橋南詰→(歩道橋)→高崎線陸橋→「倉賀野宿」倉賀野の追分・常夜灯・阿弥陀堂~→安楽寺→新幹線立体交差点→上信電鉄踏切~(南大通り)→「高崎宿」新町交差点→高崎城址公園→(渋川街道)→高崎神社・大黒神社→君が代橋→萬月堂→(国道406号)→信州街道分去れ→(旧中山道)→八坂神社→若宮神社→常安寺→庚申塚石碑→豊岡の茶屋本陣飯野家→藤塚の一里塚の碑→JR群馬八幡駅
JR新町駅前の国道17号歩道橋を渡り直進、T字状交差点を左折、旧中山道を進むと 「小林本陣跡の木柱」が立っている。
「小林本陣の跡」 「伊勢島神社」
「信迎庵(石仏)」
烏川沿いの土手を進む
温井川(ヌクイガワ)の弁天橋の手前に
「弁天の芭蕉句碑」、「スリーデーマーチ発祥の地の碑」が有る。
柳瀬橋で烏川を渡ると 高崎市(岩鼻町)。
右方に 「岩鼻陣屋跡」が有る。
旧中山道は 現在の柳瀬橋より 約250m下流を 船渡りしていたという。
「倉賀野宿」
江戸から12番目の宿場、 江戸から 利根川、烏川を利用する物資運搬船の最上流の河岸だったことで、
信州方面との水陸輸送の拠点として 栄えた宿場。
天保14年(1843年)では
人口2,312人、家数2,917軒、本陣1、脇本陣2、旅籠32軒の
宿場だった。
「倉賀野の追分」
道標、常夜燈・阿弥陀堂が有る。 中山道と日光例幣使道の分岐点、
例幣使道とは
徳川家康の命日4月18日に行われた日光東照宮祭礼に
朝廷から派遣された勅使が通った道。
京都から中山道と通ってきて ここから日光に向かったという。
「脇本陣跡」
「高札場跡」
「安楽寺」
「高崎宿」
江戸から13番目の宿場、倉賀野宿から一里三十町、
天保14年(1843年)では
人口 3,235人、家数 837軒、旅籠 15軒の
宿場だったという。
高崎宿は 城下町だったため
本陣、脇本陣等は 置かれなかった。
高崎は 鎌倉時代、和田氏によって和田城が築かれ
鎌倉街道の宿場町として栄えていたが
慶応3年(1598年)に井伊直政が 箕輪から城を移し、
地名を 高崎とし、その城下町として発達した。
「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺の暖簾がひらひらと」等と歌われ、
大田南畝は「江戸にかへりし心地ぞする」と記している。
「新町交差点」
JR高崎駅西口入口
「高崎城址公園」・「高崎神社」・「大黒神社」 高崎えびす講開催中で
露店、フリーマーケット、農業祭等で大変な賑わい。
少し 寄り道をしていくことにした。
「高崎城址・乾櫓と東門」
「萬月堂」
「信州街道分去れ(わかされ)道標」
「上豊岡の茶屋本陣飯野家」
群馬県指定史跡
「藤塚の一里塚跡の碑」 塚跡には榎の大木が立っていました。
群馬県下で現存している唯一の一里塚。
江戸日本橋から28里(112キロ)。
「JR群馬八幡駅」
次の宿場「板鼻宿」まで足を伸ばし
JR安中駅をその日の終点にするつもりでいたが
帰宅所要時間を考えて、JR群馬八幡駅を終点とした。
午後3時頃 JR群馬八幡駅に到着。
「中山道を歩く」6日目は 約16キロ歩いたようだ。
(「中山道を歩く」(山と渓谷社)から拝借画像)
17~18年前、まだ自営で仕事をしていた頃のこと、突然 「街道歩き」に興味関心を持ち、思い立って 「日本橋」から「中山道」を 歩いたことがあった。仕事の合間、忙中閑をひねり出してのことで 細切れ、日帰りの繰り返しで歩き継なぐ方法ではあったが、それでもなんとか 2~3年掛けて、「高崎宿」の先 「板鼻宿」まで達した。しかし それ以上続行するには 日帰りが困難となり、まとまった休日等取れない自営の仕事に支障をきたすため あっさり 中止してしまった。もともと 始点「日本橋」から終点「三条大橋」まで 「中山道六十九次」を完歩するつもり等さらさら無く、とりあえず、行けるところまで行ってみよう位の 軽い気持ちだったので、「中山道」のほんの一部、関東平野を縦断しただけで終わった分けだが、残念というよりは 十分、いい体験をしたものだと満足したものだった。現代においては、数十キロ、数百キロ先の地点に移動する場合 鉄道や車を利用するのが当然の時代、敢えて自分の足で歩いて移動してみて、本当の距離感というものを 実感することが出来たように思う。
当時のブログには まだ 「たっぷり時間の有るご身分になった暁には さらに 信濃路から木曽路、そして 美濃路、近江路、京都三条大橋まで 「中山道」を 歩き通してみたいものだ」等と 思いを書き込んでものだったが、今となっては、気力的、体力的に無理、夢の話になってしまっている。
先日 浅田次郎の長編時代小説「一路」を読破したが 中山道が舞台だった。美濃路、木曽路はともかく、「安中宿」辺りから「日本橋」に掛けての描写では 「あの辺りか・・」等と場面を想像、記憶を重ねたものだ。近年、「東海道(日本橋~京都三条大橋)を歩きました」とか、「五街道を全て踏破しました」等という人が やたら大勢おられ、現在進行中の方々もおられる。ブログをやるようになってからは、自分では出来ない「街道歩き」の記録や写真を拝見拝読し楽しんでいるところだ。
横山正治・安斎達雄 著 「中山道を歩く」(上)(学研文庫)から拝借「中山道六十九次」
「中山道を歩く」(おわり)
当地 今日は 午前中 曇、
午後になってから 一時的に 雪が舞ってきたが、
すぐに 雨に変ってしまい(?)、積雪には ならなかった。
気温の方は 朝から下がる一方、
夕方の気温は 0度前後、
天気予報では 次第に 天気は回復し
明日はまた 晴れるようだ。
まだまだ 寒さ厳しい日が続きそうだが、
ここのところ 2~3日おきに ややまとまった雨が降り
それまでずっと続いていた、カラッ、カラッに乾燥した気候から、
なんとなく冬が和らぎ始めているような気候に
変わりつつある感有りだ。
「中学生日記より」
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。
「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のこと。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると すっかり喪失してしまっていた記憶が 断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。
その7「苗代作り手伝い、真空管ラジオ故障」
昭和31年4月22日(日) 天気 晴、起床 6時、就床 9時10分、
1、すじまきをした。
昼前9時ごろから(午前9時頃から)
農林1号、農林21号、〆帳(?)モチ(餅)、
2,昼からは(午後は) ねぎ(葱)、かんらん(甘藍、キャベツのこと)、その他の草とり、
3、「英語会話」テキスト、手紙出して(郵便で申し込み)、もらった。(届いた)
4、ラジオ屋(今でいう町の電器店)が来て ラジオをなおしていったが(修理していったが) 真空管が一つ悪いとのこと、一番安い真空管を 父 帰りにかってきた(買ってきた)。
「すじまき」と言っていたのは 稲の苗を育てるための種蒔きのこと。近年では ビニールハウス等で 育苗するのが当たり前になっているが、当時は 田んぼの一部を耕し、畑状にし、水を張り(M男達は その田んぼのことを「苗代」)と呼んでいたが)、多分、予め保存しておいた前年収穫した米の籾を蒔き、日にちを掛けて、気長に育てていたのだった。田植えの時期も 6月初旬、梅雨入りの頃で 近年の田植え時期より 1ケ月以上遅かったように思う。
その日、M男は その苗代作りの手伝いをしたようだ。米は、戦後、品種改良が進み、近年では より美味しい米が主流になっているが あの頃 M男の家で作っていた米の品種は、「農林1号」、「農林21号」だったようだ。普通米の他に 毎年 必ず「餅米」も 作っていた。〆帳(?)・・餅米の品種だと思うが・・。
2、午後からは 畑の草取りの手伝いをさせられたようだ。
当時 M男が 「カンラン(甘藍)」と呼んでいた野菜が 一般的には、「キャベツ」と呼ばれていることを知ったのは 随分後年のことだった気がする。嫌嫌、渋渋 手伝っていたM男の姿が思い浮かんでくる。
3、「英語会話」テキスト・・・(?)
全く記憶は無いが もしかしたらNHKラジオ講座のテキストを郵便で申し込み、それが郵送されたということなのかも知れない。
4、隣り町の小さな印刷店兼文房具店に勤めていた父親が 馴染みのラジオ屋(町の電器店を 当時、ラジオ屋と呼んでいた)から 初めて、中古の「真空管ラジオ」を譲り受け、担いで帰ってきた時の感激や、茶箪笥の上に鎮座していた「真空管ラジオ」が、度々故障し、修理に出したり、別の中古ラジオと取り替えしたりしていた記憶が なんとなく炙り出されてくる。当時 NHKラジオ第1で 夕方放送されていた子供向け番組、連続ラジオ放送劇「新諸国物語」等を楽しみにしていたM男、早く直して欲しいとせがんだのかも知れない。ラジオ屋に来てもらい、父親が 一番安い真空管を買ってきたと書いてある。
「真空管ラジオ」・・・そんな時代だったか。
当地 今日の天気は 曇のち晴、
最低気温 6度前後、最高気温 14度前後、
昨夜から未明に掛けて 弱い雨が降ったようで
やや湿度が高く、体感的には ほんわかした温かさの1日だった。
もう 2週間も 畑に行ってないし・・・、
雨が降った後で 土も柔らかくなっているはずだし・・、
今日は 温ったかいし・・、
ということで 昼食後、
やおら 重い腰を上げ、
「Go To 畑!」と 相成った。
(1)残っている大根の土寄せ
すでに 地面から飛び出して、半分以上、裸体?をさらしている大根、
腐ったり、スが入ってしまわないように・・、
裸体?を隠す。
(2)ホウレンソウ収穫
まだまだ 元気なホウレンソウ、
トレスギチャッテ コマルノー ♪・・需要が追いつかない。
季節を先取りする雑草達、
畑の雑草ご三家?
ホトケノザ、オオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウ・・・、
春よ来い、来い、早く来い・・・、
ど素人の野菜作り、
元々、12月中旬頃から3月初旬頃までは 時々 冬野菜を収穫する程度で 畑仕事は冬眠?と決め込んでいるが 好天の日に、畑で一汗掻くのもいいものだ。新型コロナウイルス禍、基本、家籠もりの暮らしになってからは 一層、「Go To 畑」が有ることで 救われているようにも思う。
親戚の法要の引き出物だったり、知人からのいただき物だったりと思われる、缶やプラスチック容器に詰った「味付け海苔」が出てきた。「味付け海苔」、普段 余り口にしない老夫婦、すっかり忘れていたこともあるが、年月が経ったせいですっかり湿気てしまい、べったりくっついて使い物にならない。
どうしよう?
もったいない!
早速 妻が細かく切り刻んで、鍋で煮詰め、
塩分控え目、添加物無しの「海苔の佃煮」作りと 相成った。
「海苔の佃煮」、今では 結構高い食品、
おいそれとは買えない国民年金頼りの老夫婦、
「海苔の佃煮もどき」ではあるが、
結構!、結構!
しばらくは 「海苔の佃煮もどき」が
食卓に並びそうだ。