たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

振り返り記事、13年前の今日、「彼岸花」

2024年09月25日 09時21分05秒 | ブログ考

「十年一昔」という言葉が有る。
10年前のことと言えば、つい最近のことであるような、随分と昔のことであるような、微妙な感じがするものだ。
時々、今から10年前の今日、自分はどんな暮らしをしていたのだろう等と、過去のブログ記事を、クリックしてみることがある。
ほとんど記憶に残っていないことが多いが、写真やブログ記事をみると、
「そう言えば、そうだったなあ」・・・、記憶が蘇ってくる。
そこには、確実に今より10歳若い自分がいたのだと、感慨深くもなる。

ブログを始めて間もなくの13年前の今日、2011年9月25日のブログ記事を、クリックしてみた。
近所で撮った「彼岸花」の写真が貼ってあり・・・・、
すっかり忘れていたが、
「へー!、そうだったかなー?」・・・、
である。


振り返り記事
「彼岸花」
ブログを始めて間もなくの13年前の今日、2011年9月25日の記事
👇️
こちら


2011年・・・、
それまで家族の一員だった、三毛猫ノンノンが、旅立った年でもあった。

記憶力の無い老脳であっても、古いブログ記事や古い写真等をみると、当時の暮らしや当時の自分の姿まで、炙り出されてくるから不思議である。


5月29日、今日は何の日?

2024年05月29日 06時18分13秒 | ブログ考

「今日は何の日?」・・・・・、時々、ふっと思い出しては、ネットで検索してみることが有るが、ほとんど、毎日が、何らかの「記念日」になっているのが簡単に分かり、有難い時代だと思う。無知で、記憶力無しの爺さんでも、知ったかぶりし、ブログネタにも出来る。

5月29日、「今日は何の日?」

「エベレスト登頂記念日」
1953年(昭和28年)5月29日、ニュージーランドのエドモンド・ヒラリーと、シェルパのテンジン・ノルゲイが、世界で初めて世界最高峰のエベレスト登頂に成功した日。
その後、エベレスト登頂者が続出、次第に、大ニュースにならなくなってしまったが、
当時は歴史的快挙として世界に報道され、子供心ながら、その感動の記憶が残っている。

「呉服の日」
全国呉服小売組合総連合会が制定した記念日。
五(ご)二(ふ)九(く)で、「ごふく」。語呂合わせ。

「こんにゃくの日」
全国こんにゃく協同組合連合会が、1989年に制定した記念日。
五(こ)二(に)九(く)で、「こんにゃく」。語呂合わせ。

「幸福の日」
グリーティングカードや慶弔ギフト等を販売する㈱ヒューモニーが制定した記念日。
五(こ)二(ふ)九(く)で、「こうふく」。語呂合わせ。

等々。

そして、そして、今日は・・・・、
個人的に、勝手に決めている「記念日」。
「ブログ開設記念日」だ。
「ブログ」なるものを、初めて始めたのは、2011年5月29日だった。
光陰矢の如し、あれからもう、13年の歳月が流れたことになる。
よくもまあ、13年も飽きずに続けてきたものだと我ながら感心してしまうが・・・・。

今思えば、13年前はまだ、自営業を続けていた頃で、仕事柄、PC、インターネットは活用していたものの、プライベートでは、SNS等にはまるで無縁、IT音痴で、「ブログ?って なんのこっちゃ?」レベルの爺さんだったものだ。
「それが、なんで、ブログを・・」・・・。
ちょうどその頃、一時、朝日新聞に、「初めてのブログ」?等という記事が連載されていたことが有って、「PCさえ有れば、誰でも簡単に始められますよ・・・」等という、甘い?文句が並んでいた。ついその気になって、なんだか良く分からないまま、開設してしまったというブログだったのである。
そのブログ、当時、仕事上で利用していたプロバイダーOCNが運営していた「ブログ人」で始めたものだったが、数年後にその「ブログ人」が廃止となり、丸ごと、「gooブログ」に引っ越してきたという経緯が有る。そんなことも、つい先日のことだったような気もするし、ずいぶん昔のことだったような気もしてくる。そのように何気なく始めたブログではあったが、紆余曲折、試行錯誤しながら、形を変え、次第に、長い老いの坂を下る爺さんには、欠かせない存在になってきたような気がしている。

そういう意味で、「5月29日」は、爺さんの暮らし方を大きく変えた日とも言える。
他人様にはまるで関係ない意味の無い記念日だが、勝手に、「5月29日」=「ブログ開設記念日」と、決めているのだ。
「たかが、ブログ、されど ブログ」


振り返り記事
2011年5月29日・「ブログ人 始めました」
ブロクの第1歩
👇
こちら


「十年一昔」という言葉が有るが、13年前に、今の自分の暮らしを想像出来ていただろうか。
当時とほとんど変わっていない部分もあれば、まるっきり変わってしまった部分も有り、さらに言えば、未だに生きていること自体、想定外?で、感慨無量となってしまう。

              あと幾年ブログ道連れ八十の坂
              ボケぬ内あしあと辿る爺ブログ
              記憶補助ツールになってる爺ブログ、
              過去現在ブログで辿る最終章、

「日残リテ 昏ルルニ 未ダ 遠シ・・・・」
(藤沢周平著「三屋清左衛門残日録」より)

子供の頃、よく眺めていた、ふるさと北陸の夕景
日本海水平線上に浮かんで見えるのは能登半島

 


「残日録とは、日残リテ昏ルルニ未ダ遠シノ意ナリ」(再)

2024年03月09日 23時10分43秒 | ブログ考

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがある。「アクセス数」を気にしてでのことではなく、すっかり忘れてしまっているような、随分前に書き込んだ古い記事にアクセスが有ったりするのを、楽しみにチェックしている風なのだ。
そんな記事に目に止まった瞬間、「エッ、こんな記事にアクセス?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりしているのだ。
「gooブログ」=「記憶力がまるで無くなっている爺さんの自分のための記憶補助ツール」と決め込んでいる爺さんには、「アクセス解析」もまた、便利で有難いツール、大いに活用しているという次第。
先日、7~8年前に書き込んでいた記事、「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」に、アクセスが有ったことに気が付いた。
「おお!、懐かしい!」・・、早速、コピペ、リメイクすることにした。
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


「残日録とは、日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」(再)

2016年11月頃のこと、相互フォロワー登録しているある方のブログの「自己紹介欄」に、目が止まったことが有った。

  「古希過ギタリト謂エドモ残日ヲ数エズ我カッテ夢見シ創造ノ世界ヲ気ママニ逍遥セリ」
  「残日録とは 日残リテ昏ルルニ未ダ遠シノ意ナリ」

まさに名文。
「いいね」・・・、
そのまんま、いただきたいくらいの気持ちがしたものだったが、それは出来ない相談。
そして、その名文が、藤沢周平著 「三屋清左衛門残日録」の文中の一節から、引用されたものであることが分かり、早速、その書を入手、読んだものだった。
ブログを始めてまだ数年目で、読書の習慣等身についていなかった頃だったが、なんとなく、日日の暮らしや、過去の足跡(あしあと)を書き込んでいて、その心境を、言い当ててくれているような気がして、共感、同感したのだった。

藤沢周平著 「三屋清左衛門残日録」(文春文庫)

「残日録とは日残リテ昏ルルニ未ダ遠シの意ナリ」は、嫁の里江の問いかけに対して、三屋清左衛門が答えた一節だが、その部分を転写してみると、

   3年前に愛妻喜和を病気で亡くし、先代藩主が死去した時、
   藩主の信頼を得ていた用人三屋清左衛門はまだ49歳だったが 
   隠居を決意した。
   ところが隠居した後、
   思い描いていた悠々自適、開放感とは逆に
   世間から隔てられた寂寥感、
   老いの身を襲う悔恨に駆られる日日となり、
   気を使う嫁の里江が 
   清左衛門の机の「残日録」に目を止めて
   「お日記でございますか」
   「ぼんやりしておっても仕方がないからの。日記でも書こうかと思い立った」
   「でも 残日録というのはいかがでしょうね」
   「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シの意味でな。残る日を数えようというわけではない」

になる。
藤沢周平著、「三屋清左衛門残日録」は、東北の小藩の用人だった三屋清左衛門が、家督を長男に譲り、隠居の身分になってからの日記という意味合いの表題だが、現役を退いた後の寂寥感や、引退しても尚頼られる充実感、老いた身を襲う悔恨、少年時代の友人や同じ道場に通った先輩後輩、元の同僚等々同年輩との関わり、さらに、藩の派閥争いに巻き込まれ、痛快に処していくといった内容の連作短編時代小説である。
高齢化社会の現代の定年退職後の我々の生き方にも相通ずる文章が随所に見られ、味わい深いものがある。
以後、ここまで、ブログを続けてこれたのも、
「残日録とは日残リテ昏ルルニ未ダ遠シの意ナリ」から
「ブログ」を「残日録」と見立て、
共感、同感したことによるもの、大だったような気がしている。


振り返り記事、12年前の今日、2月2日、

2024年02月02日 20時10分56秒 | ブログ考

「OCNブログ人」で初めてブログを開設してまだ間もない頃の、12年前の今日、2012年2月2日に書き込んでいた記事を、振り返ってみた。
「12年前」と言えば、十二支が1回めぐる年数、「一回り前」等と表現することもあるが、今より確実に12歳若かったわけで、それなりにまだ気力体力も有ったはずだが、それが、つい先日のようでもあり、遠い昔のような、微妙な感覚になる。
当時はまだ、ブログ初心者、写真を投稿する方法も知らず、メモ書きのような記事になっており、懐かしくもなる。


振り返り記事
👇
2012年2月2日「非日常的なこと」


こんな風に、10年前、12年前の自分を振り返ることが出来るブログ、記憶力減退爺さんにとって、便利で、有難いツールだと思っている。
従来の紙ペースの日記、日誌では、過去を振り返る等、なかなか難しいことだが、ブログであれば、クリック、クリックで、瞬時に見ることが出来るというもの。
ブログを、自分のための日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録、生きている間の「引き出し」として利用している、「不常識」な爺さんである。

 

 


「塵も積もれば山となる」・・「爺さんの備忘録的花図鑑」も684件?

2023年11月27日 09時33分10秒 | ブログ考

ブログを始めてからのこと、我が家の猫額庭で咲く花達や、散歩・ウオーキングの途中で見掛ける花達を、やたら カシャ、カシャ、撮り、ブログに書き留め置くことが習慣になってしまっている爺さんであるが、元来、草花に超疎く、どれもこれも、「君の名は?」、知らない花、忘れてしまった花ばかりで、その都度、ネットや図鑑で調べたり、相互フォロワー登録している草花に詳しい方々から教えてもらったりしてきた。ただ、自分で調べても、教えてもらっても、そのそばから忘れてしまう老脳。せっかく知った花名や花情報を、備忘録として、ブログ・カテゴリー 「爺さんの備忘録的花図鑑」に、書き留め置くことにしてきたのだった。

「塵も積もれば山となる」
塵のようなわずかなものでも、それが積もり積もれば山のように大きくなるの意のことわざ。(出典・大智度論)

知らず知らずに、その数が増えてきて、気が付いたら、684件になっている。
本来、「ブログ」とは、「不特定多数の他人様に、日々の暮らしや地域の情報を発信したり、写真や絵画、詩、俳句、小説等、日々の作品を発表したり、政治経済社会問題等についての考え等をつぶやいたり、その内容や形式は千差万別であっても、共感、同感を得て、コメント等で交流する場」というのが、オーソドックスな考え方だとはと思っているが、
「ブログ」「記憶力減退老脳に代わる自分のための記憶補助ツール」と決め込んでいる爺さんの不常識的ブログであり、ブログ・カテゴリー 「爺さんの備忘録的花図鑑」も、「自分のための引き出し」の一つと考えており、
「えーっと?、えーっと?、これ、なんていう花だっけ?」・・・、なーんて時に、「ブログ内検索」で、サッと呼び出し確かめることが出来、今や、有難い存在になっている。
これを、もし、紙に描いて保管等したら、684部、収納場所にも困るし、第一、その中から1枚を探し出すこと等、容易なことではないはずで、その点、デジタルのお陰、収納場所も不要、後日、大いに役に立ってくれる。

花に詳しい人からは、「なーんだ、そんな花も知らなかったの?」と笑われそうな花が大部分だが、花に疎い爺さんにとっては、どれもこれも、新情報、新知識。中には、たまたま、超珍しい花も有ったりする。まだまだ、序の口?、これからも、背伸びせず、出来る範囲で、「塵を積んでいきたい」ものだと思っているところだ。
「覚えるために、メモする」ではなく、
「覚えられないから、メモして置く」・・、
の類ではあるが・・・・。


例えば
数年前のこと、何の花かも知らず分からず撮ってきた写真、
当然、「君の名は?」だったが、
相互フォロワー登録している方から教えていただき
「アケビ(木通)」の花であることが分かり、
「へー!、アケビって、こんな花を咲かせるんだ・・・」
目から鱗・・・だったことがある。


ブログ・カテゴリー 「爺さんの備忘録的花図鑑」
👇
こちら


 

コメント (6)

振り返り記事、8年前の今日、11月20日は?

2023年11月20日 17時28分55秒 | ブログ考

数年前に、それまで続けていた自営業を完全に辞め、国民年金頼りの暮らしになったのを機に、暮らしを全面的に見直し、あらゆる家計支出削減をはかったものだったが、思い切って年賀状を止める決心をしたのも、その時だった。
年賀状を止めてから、もう随分経っているような気がしていたが、「ブログ内検索」してみると、8年前にはまだ、迷っていたことが分かった。
  死亡説流れぬために年賀状
「へー!、そうだったかなあ?」である。


振り返り記事
2015年11月20日
「年賀状出す?、出さない?」
👇
こちら



12年前の今日、10月30日は?

2023年10月30日 21時17分46秒 | ブログ考

年齢差等を言う場合、「一回り」という言葉をよく使っている類で、もちろん、十二支が、1回巡る年数の意味で使っているが、他にも、いろいろ意味が有り、もしかしたら、年代によっては、誤解されるのかも知れないな等と、思ってしまっている。
相手が、「一回りもお若い」となると、ジェネレーションのギャップを感じるし、自分が、その歳の頃は、どんなだったろう・・とも思ってしまう。
「十年一昔」という言葉も有る。
10年前、12年前のことと言えば、つい最近のことであるような、随分と昔のことであるような、微妙な感じがするものだ。
時々、今から10年前の今日、12年前の今日、自分はどんな暮らしをしていたのだろう等と、過去のブログ記事を、クリックしてみることがある。
ほとんど記憶に残っていないことが多いが、写真やブログ記事をみると、
「そう言えば、そうだったなあ」・・・、記憶が蘇ってくる。


12年前、2011年10月30日、
当時は、「OCNブログ人」で、初めてブログを始めてから、まだ数ヶ月の頃で、自営業を続けていた頃だった。月に数件、書き込むのが精一杯だった気がするが、たまたま、その日は、ブログ・カテゴリー「畑仕事・見様見真似の野菜作り」に、書き込んでいた。
畑の写真を見る限り、まだまだ、気力、体力に、多少余裕が有ったのか、きれいになっており、
そうだよな、今より12歳若い自分(一回り違う自分)が、そこにいたんだよなあー
「エッ!、もう 大根が出来上がってたの?」
「へー!、そうっだったかなあー」


振り返り記事
2011年10月30日 「土日好日限定 野菜作り人」
👇
こちら


こんな風に、10年前、12年前の自分を振り返ることが出来るブログ、記憶力減退爺さんにとって、便利で、有難いツールだと思っている。
従来の紙ペースの日記、日誌では、過去を振り返る等、なかなか難しいことだが、ブログであれば、クリック、クリックで、瞬時に見ることが出来るというもの。
ブログを、自分のための日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録、生きている間の「引き出し」として利用している、「常識」な爺さんである。

 

コメント (1)

12年前の今日、10月16日は?

2023年10月16日 16時14分04秒 | ブログ考

年齢差等を言う場合、「一回り」という言葉をよく使っている類で、もちろん、十二支が、1回巡る年数の意味で使っているが、他にも、いろいろ意味が有り、もしかしたら、年代によっては、誤解されるのかも知れないな等と、思ってしまっている。
相手が、「一回りもお若い」となると、ジェネレーションのギャップを感じるし、自分が、その歳の頃は、どんなだったろう・・とも思ってしまう。
「十年一昔」という言葉も有る。
10年前、12年前のことと言えば、つい最近のことであるような、随分と昔のことであるような、微妙な感じがするものだ。
時々、今から10年前の今日、12年前の今日、自分はどんな暮らしをしていたのだろう等と、過去のブログ記事を、クリックしてみることがある。
ほとんど記憶に残っていないことが多いが、写真や記事をみると、
「そう言えば、そうだったなあ」・・・、記憶が蘇ってくる。


因みに、
12年前の今日、2011年10月16日のブログ記事
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代の記事だが・・、
「しゅんぎく、京水菜 種蒔き」
👇
こちら


今の暮らしとほとんど変わっていないようにも見えるが、当時と比べて、気力、体力が、俄然、減退していることが、垣間見える場合もある。
いずれにしても、従来の紙ペースの日記、日誌では、なかなか難しい過去の様子が、クリック、クリックで、瞬時に見ることが出来る・・、
記憶力減退爺さんにとって、ブログは、便利で、有難いツールだと思っている。

 

コメント (1)

「ブログ内検索」と「ブログ・カテゴリー」

2023年10月05日 21時46分11秒 | ブログ考

「塵も積もれば山となる」
ブログ・カテゴリー「懐かしいあの曲」に、書き留めてきた記事も、600件を超していることに、我ながら驚いているところだ。

「ブログ」とは、本来、「不特定多数の他人様に、日々の暮らしや地域の情報を発信したり、写真や絵画、詩、俳句、小説等、日々の作品を発表したり、政治経済社会問題等についての考え等をつぶやいたり、その内容や形式は千差万別であっても、共感、同感を得て、コメント等で交流する場」というのが、オーソドックスな考え方(「常識的なブログ」)ではないかと思っているが、
当ブログは、当初から、
「ブログ」「記憶力減退老脳に代わる、自分のための記憶補助ツール」と決め込んでおり、「常識的ブログ」にはなっていないと思っているが、いわば、常識的ブログ」なのかも知れないという気がしている。
「ブログ・カテゴリー」も、「自分が生きている間の自分のための引き出し」の一つと考えており、しょっちゅう、「ブログ内検索」で、引っ張り出して、確かめてみたり、再度 ブログ・ネタにしてみたり、活用しているような気がする。
「引き出し」に仕舞い込んでいるだけでは、もったいない?、つまらない?、等と勝手に思い込み、ときどき引き出しを開けて、古い記事を引っ張り出して、懐かしがっている風である。

例えば、昨日、ブログ・カテゴリー「懐かしいあの曲」に、「悲しき口笛」を書き込んだが、
では、「美空ひばり」が歌った曲、これまで、何を書き込んできたか?、
記憶はどんどん曖昧になっているが、「ブログ内検索」してみると、
なんと 6曲も有ることが分かる。
「そう言えば・・・・・」
記憶が蘇ってくる。

2019年08月31日 「A列車で行こう」 ⇨ こちら

2021年07月08日 「月光価千金」   ⇨ こちら

2022年06月06日 「夾竹桃の咲く頃」 ⇨ こちら

2022年10月11日 「恋人よ我に帰れ」 ⇨ こちら

2022年11月27日 「マイ・ウエイ」  ⇨ こちら

2023年10月04日 「悲しき口笛」   ⇨ こちら

斯々然々、脳トレのつもりで、自分流に、ブログを楽しんでいるのかも知れない。

(ネットから拝借イラスト)

 


人生、アミダクジ?

2023年08月17日 14時35分47秒 | ブログ考

最近は、数多の相互フォロワー登録している方のブログを、拝見、拝読することが、すっかり、日課の一つになっている。ただ、サラッと拝見、拝読するのが、精一杯で、熟読したり、コメントを入れたり等は、時間的、肉体的、気力的、視力的に、無理、困難になっており、失礼している。
ブログを始める前頃までは、読書の習慣等まるで無くて、新聞記事ですら、斜め読みする程度だった類だが、これほど多くの他人様の文章(記事)を、毎日読むことになるなんて、全く想像もしていなかったことで、80数年の人生で、今が、最も大量に、他人様の文章を読んでいるんじゃないかという気がしている。
もし、ブログを始めていなかったら、読書を始めよう等とも思わなかったかも知れないし、当然、数多のブログを拝見、拝読することもなく、時間の使い方、暮らし方も、今とはまるで違っていたかも知れない等とも思ってしまう。
「もし、あの時、・・・」
「・・・たら、・・・れば」
よく言われるが
人生も、アミダクジ。
スタートが同じでも、途中、1本、横線を加えただけでも、左右間違えて進んだだけでも、出口は、全く違った所になってしまう。
絶対に後戻り出来ないアミダクジ? ではあるが、
選択が、正しかったか、誤っていたかは、問わず
選択を変えて、想像、空想、妄想してみると、
もしかしたら、その後の人生、かなり違ったものになっていたかも知れず、
3つも、4つもの物語が出来そうな気がしてくる。

コメント (4)