たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

1月も、あっという間に往ぬり・・・・、

2024年01月31日 21時32分43秒 | スイミング

「一月往ぬる、二月逃げる、三月去る」等という言葉があるようだ。
まさしく、あっという間に、1月が終わってしまい、
2月も、あっという間に、過ぎ去っていくに違いない。
加齢と共に、
時の過ぎ行く速さが加速しているような錯覚さえ覚え、
愕然としてしまう。
1月31日、
当地、今日は、晴れたり曇ったりの1日だったが、
家籠もったきりで、グテグテ過ごしてしまい、
身体、重ーい、怠ーい、
いかん、いかん、
こんな日こそ、泳いで来るべし・・、
やおら、重い腰を上げ、
19時~20時、スイミングクラブ成人クラスレッスンに出席、
先程、帰ってきたところだ。
若い頃からの持病の腰痛対策、リハビリ的運動と決め込んで
続けているスイミング、 
細くても、長ーく、続けるべし・・・。



1月最後の水曜日、
今日は、ベテランのE指導員が休みで、
ちょっと小太り若手K指導員によるバタフライ中心レッスンだったが、
4種目混合
25m✕6本、50m✕2本、
バタフライ
25m✕4本 等々
連続スイム有りで、最後は、バテバテ。
レッスン終了後、居残って、
疲れを知らない女性陣の後ろにくっついて、
泳いではみたが、足が攣る寸前になり、
クロール、50m✕7本で、離脱、
疲れ果てて帰ってきた。
毎度のこと、泳いで帰ってくれば
心地よい疲労感と、それなりのスッキリ感、
遅い夕食に、自家製梅酒水割り1杯、
いい気分になり・・・・。
今日も、バタンキューで、熟睡出来そうだ。

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葉室麟著 「乾山晩秋」

2024年01月31日 14時24分08秒 | 読書記

昨年12月に図書館に予約していた、葉室麟著 「乾山晩秋」(角川書店)の順番が回ってきた旨の連絡が有り、先日借りてきて、読み終えた。毎度のこと、予備知識もなにも無く、ふっと予約したものだったが、本書には、第29回歴史文学賞を受賞した「乾山晩秋」の他、戦国時代から江戸時代に名を馳せた絵師達に焦点を合わせ描いた、「永徳翔天」「等伯慕影」「雪信花匂」「一蝶幻景」の短編時代小説、5篇が収録されている。


「乾山晩秋(けんざんばんしゅう)」(表題作)

▢主な登場人物
尾形深省(おがたしんせい、号=乾山(けんざん)、幼名=権平(ごんべい))
尾形光琳・多代
二条綱平、中川右京大夫、近衛基熙(もとひろ、前関白)
ちえ、与兵衛(与市、与助)、宇津木甚伍、
▢あらすじ
天才絵師の名をほしいままにした兄・尾形光琳が没して以来、深省(乾山)は、追い打ちをかけるように、拝領していた、京の西北、公家二条綱平の鳴滝山荘の窯も廃止となり、陶工としての限界に悩む。在りし日の兄を思い、葛藤しながら、晩年の傑作「花籠図」に、苦悩を昇華させるまでを描いている。
「どうやら、わしは、この年になって兄さんの真似がしたくなってきた。兄さんは、狩野探幽さんに勝とうと思って、江戸に行かはったんや、と思う。・・・・わしにもできることあるかもしれん」。
深省は、江戸で、81歳で没しているが、晩年は、絵筆をとることが多く、後に文人画の先駆けとも言われるようになった。


「永徳翔天(えいとくしょうてん)」

▢主な登場人物
狩野永徳(狩野家当主、幕府御用絵師、狩野源四郎)
狩野元信(源四郎の祖父)、狩野松栄(源四郎の父)、狩野内膳(松栄の弟子)
近衛前久(このえさきひさ、前関白)、土佐光茂、
足利義昭(覚慶)、
織田信長、羽柴秀吉、万見仙千代
前田玄以(京都奉行、半夢斎)、長谷川等伯、
織田信長好みの「天を飛翔する程の力の有る絵」、天下人にふさわしい安土城の壮大な障壁画を完成させた狩野永徳、嫡男光信、次男孝信、狩野派の絶頂期を迎えるが、本能寺の変で、秀吉の時代に、絵師の世界も、長谷川派の台頭、狩野派と長谷川派の激しい鍔迫り合いが続く、


「等伯慕影(とうはくぼえい)」

▢主な登場人物
長谷川等伯(長谷川又四郎春信)・久藏・宗宅・宗也・左近、
狩野正信、元信、松栄、永徳、光信、
豊臣秀吉、千利休、前田玄以、
千鳥(なつ)
▢あらまし
武田信玄像を描いた絵師として知られる長谷川等伯に焦点を当てて描いた作品。病み衰えた72歳の等伯が、徳川幕府に接近せんと、京から江戸に辿り着いた日は粉雪が舞っており、40年前、郷里能登七尾を出た頃からのことを回想する形の物語である。京に上り、ライバルの狩野派を強引に押しのけ、御用絵師に成り上がった等伯。暗い野心と情念を燃やし続けた等伯。しかし、時代が変わり・・・。
「父上、いかがですか」、宗宅がのぞきこんで等伯の手をとった。等伯は意識が薄らいでいった。脳裏には白い闇が広がっている。「雪だ」、等伯は空を見た。真っ白な空に薄墨色の影が浮かんでいた。郷里七尾の松の林だろうか。いや人影だ。「久蔵・・・」。
徳川時代となり、再び狩野派が御用絵師として繁栄したのと対照的に長谷川派の存在は影のように薄れていった。


「雪信花匂(ゆきのぶはなにおい)」

▢主な登場人物
清原雪信(きよはらゆきのぶ、久隅守景の娘、雪)・春信(守清と雪信の娘、春)
久隅守景(くすみもりかげ、鍛冶橋狩野家、狩野探幽の高弟筆頭)・国(くに)・雪(ゆき)・信(のぶ)・彦十郎、
狩野探幽(狩野守信、鍛冶橋狩野家当主、とのさま)、池田幽石、狩野益信、
狩野安信(中橋狩野家当主、狩野惣領家、狩野探幽の末弟)
狩野尚信(木挽町狩野家当主、狩野探幽の次弟)
平野守清(ひらのもりきよ、元摂津尼崎青山藩藩士平野清三郎、伊兵衛)、
駿河屋新右衛門(元狩野探幽の内弟子新藏)
井原西鶴、薫太夫

京島原の遊郭で、天王寺屋五兵衛(俳号=井原西鶴)が、花魁の薫太夫の着物の絵柄に注目、薫太夫が、それを描いた絵師、清原雪信の物語を話すという構成の物語になっている。
狩野三家の妬み、恨みの派閥争いの中で、狩野探幽の姪で美貌の雪(ゆき)が、恋に生き、閨秀画家として歩んだ道が描かれている。狩野幽斎が言う。「絵師とは、命がけで、気ままにするものだ」。


「一蝶幻景(いっちょうげんけい)」

▢主な登場人物
英一蝶(はなぶさいっちょう)
侍医多賀伯庵の三男多賀朝湖(たがちょうご)、幼名=猪三郎、元服名=助之進、俳号=暁雲(ぎょううん)、
絵師、俳人、狩野家宗家から破門された放蕩者、

宝井其角(たからいきかく)、松尾芭蕉、服部嵐雪、
村田屋半兵衛、民部(みんぶ)、

胖幽斎(はんゆうさい)
五代将軍徳川綱吉・信子(正室、御台所)、
桂昌院(お玉、家光の側室、綱吉の生母)
右衛門佐(うえもんのすけ)、お伝の方、大典侍(おおすけ、北の丸殿)
牧野備前守成貞・亜久里・お安、
柳沢出羽守保明(柳沢吉保、側用人、大老)・染子(側室)
日珪、大高源五、富盛助右衛門、吉良上野介、
▢あらすじ
元禄時代の絵師として知られる英一蝶の運命を描いた作品だが、絵師の世界だけに留まらず、著者の視点は、俳諧、大奥の争い、さらに赤穂浪士吉良討ち入りまで、広がっており、「へー!、そうだったのか」、納得してしまう作品だ。
「蝶が群れ翔ぶように元禄の世から一人取り残されたという思いを「一蝶」という名にこめていたのかもしれない」
で、本書の幕を閉じている。


各篇完結した短編5篇ではあるが、登場人物等、微妙に重複したり、時系列で繋がっており、長編時代小説を読んでいるような感覚がする書だった。

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古い写真から蘇る思い出の山旅・その39(再)

2024年01月30日 14時39分02秒 | 山歩記

長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃は、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳等に出掛けたものだったが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。息子達が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が出来たものの、今度は気力体力が減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっており、今となっては、あの頃、思い切って、登山を敢行していたことを、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を、備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んだり、古い写真は、「デジブック」にし、ブログに貼っていたものだが、その「デジブック」が終了したことで写真がブログから消えてしまったこともあり、改めて、古い写真を引っ張り出して、過去の記事をコピペ、リメイク(再編集)してみようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その39
「蔵王カンジキハイク」(再)

かれこれ25年前にもなる、1999年(平成11年)2月に、蔵王高原のほんの一部を、カンジキを履いてハイキングするという、旅行会社の格安バスツアーに、夫婦で参加したことが有った。
当時はまだ、自営業を続けていた頃で、時間的余裕、経済的余裕等、全く無かった頃だったが、長年、一度は、蔵王の樹氷風景を観てみたいと思い続けていた老夫婦、かと言って、雪山等を個人的に訪れる等のレベル無しで、なかなか実現しなかったものだが、たまたま、旅行会社のプランが目が止まり、「その内いつか・・・」等と言ってられない歳、「今でしょ!」ばかり、飛びついたものだった。
当時は、まだ、バカチョンカメラ(手の平サイズのフィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、同時プリントし、アルバムに貼っていた拙劣写真が有り、後年になって、スキャナーで取り込み、「デジブック」にし、ブログ・カテゴリー「山歩記」にも、書き留めたりしていたが、その「デジブック」が、2020年3月に廃止されてしまい、ブログで振り返り、写真を見ることが出来なくなってしまったため、改めて、外付けHDから写真を引っ張り出して、リメイク、再度、書き留め置くことにした。ほとんど記憶曖昧になっていても、写真やメモを見ると、あの時、あの場所の情景が蘇ってくるから不思議である。 


深田久弥著 「日本百名山」
   「蔵王山(ざおうさん)」
(一部抜粋転載)

同じ東北の山でも、蔵王には、鳥海山や岩手のような孤立孤高の姿勢がない。群雄並立といった感じで、その群雄を圧してそびえ立つ盟主がない。山形から見ても、仙台から見ても、一脈の山が長々と連なっているだけで、その中に取り立てて眼を惹くような、抜きん出た高峰がない。それは地図でみ見てもわかる。どの峰も稜線上の鞍部からせいぜい二百メートルくらいの登りしかない。だがらわれわれが蔵王と呼ぶ時には、この一連の山脈を指して言う。この長大な尾根は、東北人特有の牛のような鈍重さをもって、ドッシリと根を張っている。もし最高点を盟主とするならば、それは熊野岳であって、その細長い頂の一端に斎藤茂吉の歌碑が立っている。
  陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ
茂吉は山形の生んだ歌人で、その故郷から朝に夕に蔵王を仰ぐことができた。その高弟結城哀草果氏も同じ山麓で一生を農に励んできた歌人であって、その多数の作歌の中から蔵王を選び出すのに事欠かない。
  柿紅葉へだてあふぐ蔵王嶺にはつかに白く雪ふりにけり
(中略)
たいていの人は蔵王の雪景色はよく知っているようだが、夏の蔵王も楽しい山登りである。高湯から登り、熊野岳刈田岳を経て蛾々温泉に下るのがコースで、この二つの峰の間が馬ノ背と呼ばれている。高原状の広々した尾根で、冬吹雪に会うと迷いがちなのでスキーの難所とされているが、夏は公園のようなのんびりした遊歩場である。片方が宮城、片方が山形の山河を果てしなく眺めることが出来る。
御釜(おかま)と称する山上湖は蔵王の宝玉とも言うべき存在で、そのために馬ノ背の逍遥はいちだんと精彩を加える。
(中略)
戦後蔵王はスキーヤーのメッカとなった。交通の便がよくなり、リフトやケーブルカーが架けられ、山小屋は随所に立った。高湯は蔵王温泉と改められ、村の名前も、奥羽本線の金井駅まで、「蔵王」に変えられてしまった。山形側のこの繁栄ぶりを宮城側も見逃すはずはなく、いろいろ便利な施設を進めている。近年刈田岳のすぐ近くを経て、宮城と山形をつなぐバス路線も開かれて、何の苦労もなく御釜見物が出来るようになったが、それだけ魅力も少なくなった。


山行コース・歩程等

1日目 山形県上山市蔵王坊平高原、セントラル・ロッジ(泊)
2日目 セントラル・ロッジ → (リフト) → (リフト) → 
    (カンジキハイク) → お田の神・避難小屋 → 
    スキー場ゲレンデ → ライザワールドレストラン → セントラル・ロッジ
    (カンジキハイク正味所要時間=約3時間)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)


午前8時30頃、前泊した、山形県上山市蔵王坊平高原の
セントラル・ロッジ(標高1,000m)を、出発、

 

8時45分頃、スキー場のリフト乗り場に着き、リフトを乗り継ぎ、
9時頃、スキー場上部に到着したようだ。
まだ、誰もおらず、スキー場貸切状態、
リフトの上部では、強風、細かい雪が舞っており、厳寒。
天気予報では、「曇のち晴」となっていたが、山の天気は、別物。
果たして、お目当ての樹氷の景観を堪能出来るのかどうか、
参加者も沈鬱な雰囲気
現地ガイドさんの説明も、「とにかく登ってみましょう!」・・・だった気がする。
とりあえずは、全員、カンジキ装着、出発準備完了、
雪深い北陸の山村で高校卒業まで過ごした人間には、カンジキ自体、珍しいものでは
無いが、カンジキは、冬季の暮らしの道具として認識しており、
レジャーでカンジキを履く等は初体験。懐かしい感覚だった。

登り始めて直ぐ、現地ガイドさんの説明で初めて知った、
風上に向かって氷が伸びる「エビのシッポ」

雪氷に包まれたアオモリトドマツ、

高度を上げるに従って、ますます風が強くなり、体感気温がぐんと下がる。
視界悪く、モクモクと登るのみ、
大丈夫かいな?・・・だった気がする。
10時頃、お田の神・避難小屋(標高1,500m)に到着。
小屋の入口が雪で埋もれており、現地ガイドさんが懸命に掘割ってくれてる様子。

かなりの吹雪状態で、視界も10m程度、最悪。
好天ならば、蔵王連山の大展望や、御釜を見に行けたのかも知れないが、
残念。
現地ガイドさんの判断で、天候回復を待ってみることになり、
小屋の中に入り、しばらく、待機したような気がする。
急な天候回復の見込み無く、後の予定時間の関係で、
そこから引き返すことになったのだと思う。
10時30分頃、お田の神・避難小屋を出発、下山にかかる。
下山し始めてからまもなく、雲が途切れて、青空も見えてきて、
時々、白きモンスター達が、浮かび上がり、歓声がわく。

アオモリトドマツに付着する雪が、様々な造形を作り出している。

雲の流れが速く、時折、青空と陽射しが・・・・、
素晴らしい景観に、歓声が上がり・・・、
                      マンモス?

       中国の賢人?                   カバ?

                  立ち上がるライオン?

 
目まぐるしく変わる天候

当初、樹林帯の中を下山する予定だったようだが、
山頂部での悪天候等で時間ロス、
時間の都合で、スキー場のゲレンデを、直に走り下るような具合に
なったような気がする。
急げ!、急げ!、

最後に、ゲレンデの途中で 全員集合、記念写真、カシャ!

12時きっかり、ライザワールドレストランに到着、
カンジキを返却し、バスに搭乗、
12時30分頃、前泊のセントラル・ロッジに帰り着き、昼食となった。
入浴、帰り支度後、
13時45分頃、セントラル・ロッジを出発、
蔵王坊平高原とお別れし、
各地物産センターやお土産店に立ち寄りながら、帰途についたのだった。

山頂部付近では悪天候で、大展望叶わず、御釜の写真撮影も叶わずで、やや「残念!」な部分もあったが、途中からは、青空が覗き、お目当ての樹氷の景観を堪能出来、「残念!」と「満足!」、五分五分のツアーだったように思う。
また、旅行会社の格安バスツアーならではの強行軍、時間に追われる慌ただしい山旅ではあったが、老夫婦だけでは、なかなか訪れることが難しい「冬の蔵王」、雪の山間部も含めて長距離移動往復共、ウツラ、ウツラしているだけの超ラクチン、バスツアーでの山旅もいいもんだなと、その時思ったものだった。

願わくば、「蔵王」も、季節を変えて、もう一度位は訪れたいものだ等と、当時は思ったものだったが、気力体力減退の今となっては、「蔵王」もまた、もう二度と訪れること叶わない、遠い思い出の山となっているのだ。あの時、思い切って実行していて、本当に良かったと思う。
指折り数えられる程度の山旅の思い出、その一つ一つが、金には換算出来ない、形の無い、心の宝物にも思える今日この頃である。

 

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今冬3回目の「白菜漬け」用、ハクサイ収穫、他

2024年01月29日 15時07分17秒 | 畑日誌(見様見真似の野菜作り)

当地、今日は、午前中までは、曇っており、
やはりかなり冷え込んでいたが、
昼頃からは、青空が広がり出し、午後は快晴になり、
気温も12℃前後まで上がって、体感的には温か。
  もう、1週間行ってないし・・・、
ということで、
午後になってから、Go To 畑! と相成った。

(1)今冬3回目の「白菜漬け」用に、ハクサイ4個、収穫。
   毎年、12月初旬~中旬には、ボチボチ収穫しているハクサイだが、
   昨年の夏、秋、異常な気候が続いたせいだったのかどうか?、
   発芽から育苗、生育、絶不調で、
   12月になっても、固く締まらず、巻かず、だった。
   12月27日に、やっと、1回目、5個を収穫出来、
   その後、不出来でも仕方無し、
   ボチボチ、収穫しては食しているが、
   今日は、今冬3回目になる「白菜漬け」用に、4個収穫。

(2)ダイコン1本、サニーレタス、ネギ 収穫、
   そろそろ、在庫が底をついているため。
   

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「夢」って、朝の数分間に見るものなのかなあ?

2024年01月29日 10時35分03秒 | 暮らしの記録

今日も、5時前には目覚めたが、冷え切った部屋、ヌクヌクの布団から這い出す気合が入らず、
潜り込み、うとうと・・・・、いつの間にか再び眠り込んでしまったようで、
「7時過ぎてるよ!、いつまで眠てるのよ・・・」の妻の声で飛び起きた。
夏ならば、4時頃には目覚め、日の出と共に、早朝散歩・ウオーキングに出掛ける爺さんも、毎年のこと、冬は、からっきしだらしなくなっている。

「夢」等、滅多にみない方だが、今朝は、支離滅裂の夢を見た。
妻の声で起こされ、最後の方は、うやむやだが、だいたいのところを思い出してみると・・・、

元所属していた組織の年若い社長Y氏から「新年会をするので出席して欲しい」とのはがきが届いた。その会場は、東京都心部に有り、知らない所だった。打ち合わせ、待ち合わせ等、まるで不明のまま、案内状の通り、最寄りの駅に到着すると、元の同僚で、超真面目、几帳面なM氏が一人待っており、二人で、地図を見ながら会場へ向かうが、不思議なことに、繁華街から次第に、大きな川べりの断崖の上の雑木林になり、その一角に、何やら怪しげな広い屋敷が見えてきた。まるで、江戸時代初期の江戸にタイムスリップしたようだ。
「ここらしいですね?」。大きな門を潜ると、大木が茂り鬱蒼とする広い屋敷、恐る恐る進むと、奥には、みすぼらしい平屋建て木造建物が数棟が有り、一番大きな建物から、ワッと大勢が飛び出してきて、二人は取り囲まれる。一瞬、身の危険を感じ、固まってしまうが、皆、笑っている。「いらっしゃい!」、「いらっしゃい!」、「いらっしゃい!」、これまで会ったこともない知らない顔ばかり。しかも、いずれも只者でないような形相。二人は、背中を押され、建物に入り、座敷に用意されたテーブルに座るが異様な雰囲気に、怯えてしまう。
やがて、一人の音頭で乾杯、宴が始まったが、何故が、一緒に出席したM氏が、初っ端に、そばに有ったギターを手にして、井上陽水ばりに歌い出す。どうやら、元の社長は、そこでは、芸能プロダクションのような会社の社長となっていて、型破り、変わり者の芸能人等を多数集めて、そこを梁山泊のようにしていたのだった。M氏が一生懸命歌っているのに、そんなことそっちのけで、あっちこっちでどんちゃん騒ぎとなり、たまらず、一人で屋敷の外に逃げ出して歩き回っている内に、屋敷への帰り道が分からなくなり、暗い街中をぐるぐる回り、なんとか屋敷に辿り着き、裏口を見つけた。恐る恐る入ると、そこでは、侍の衣装をした男二人が、日本刀を抜刀して斬り合いをしており、その回りでは酔った大勢が、囃子立てている。建物の中からは、社長が、「前期は、これまでにない黒字決算で、今期も・・・・」等と、大声で挨拶する声が聞こえている。
M氏はどこ?、化け物屋敷のようになんとも気味悪く、二人で早く逃げ出そう・・・、としているところで起こされた。
支離滅裂、何が何だか分からない夢、時代小説の読み過ぎか?


(追記)
もしかしたら、8年振りに見た夢かも知れない。

振り返り記事
2015年10月17日「有り得ない話」
👇
こちら



上記「夢」とは、無関係。
40年程前に、妻が友人Iさんからいただいた画。
描画が趣味だった、Iさんのご主人の作、
上高地、焼岳・・・かな?

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「中学生日記より」その64

2024年01月28日 16時13分31秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」で、一度書き込んだことの有る「中学生日記より」、順不同、で、ボチボチと、コピペ、リメイクしているが、まだ、少し残っており、再開?
「中学生日記」とは、北陸の山村で中学生だった頃のM男が、ほんの一時期だが、付けていた日記帳のことで、数年前に実家を解体する際に発見した、変色、腐食し、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等まで、全て押し入れの奥に詰め込んでいたようで、その中から出てきたものだ。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じがして、即廃棄処分出来ずに、持ち帰っている。ページを捲ってみると、日毎に、わずか数行のメモ、日誌のような類ではあるが、自分で書いた文字から、すっかり喪失してしまっていた当時の情景までも、断片的に炙り出されてくるから不思議である。まさか 60数年後に、第三者の目に晒される等とは、当時のM男には想像すら出来なかったはずで、下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その64 「田植えが始まる頃」

昭和30年(1955年)6月1日、水曜日、晴、

第1限目 「音楽」、太平洋、強弱記号、
第2限目 「図画」、モザイク、
第3限目、第4限目 「映画」、
     「月の物語」「運動の法則」「ガラス」「火の歴史」「ニュース」等
1、くりのき(栗の木)にたかる「くりまたばち(蜂)」退治してくれと
  たのまれた(頼まれた)。
2、田うえ(田植え)が始まったので、今日から昼前限り(授業は午前中で終わり)
3、父が休んだ。親戚の田植え手伝いのため。
  学校へ、自転車に乗って行った。
4、テキストの帰りに、どこかの家へ自転車をぶつけた。
5、始じめて(今年初めて)、ふせばりをかけて見た(伏せ針を仕掛けてみた)
6、うちの田うえ(田植え)は 6日ときまった(決まった)
(宅) 13時10分


当時、M男の通っていた、北陸の山村の1学年1クラスの小さな小学校、中学校併設校では、田植えの時期のピーク、稲刈りの時期のピークには、必ず約1週間の「田植え休み」「稲刈り休み」が有った。
井の中の蛙大海を知らず、M男達は、それが当たり前のことと思っていたものだが、ほとんど農家の子供だったこともあって、中学生ともなれば、一人前の労働力?、学業より家の手伝い優先という考えが、まだ、その地には有ったのかも知れない。さらに、「田植え休み」「稲刈り休み」に入る前の1週間位は、授業は午前中で終わり、午後は放課、家の手伝いの無い者は、部活等に充てていたような気がする。
M男は、郷里を離れた後も、長年に渡って、「田植え」や「稲刈り」の手伝いに、わざわざ、帰省することを続けたが、機械化、その他の事情も有って、後年、「田植え時期」=「ゴールデンウイーク」というイメージになってしまった
が、ほとんど人力の当時はまだ、6月初旬だったということになる。

第1限目の「音楽」、太平洋、強弱記号
  「太平洋」って何?、曲名かな?、良く判らない。
第2限目の「図画」、モザイク
  確か、各自家から卵の殻を乾燥させ持ってくるように言われ、それを割って小さな断片にして
  絵の具で12色だか何色だかに色付けし、その1片1片を、あらかじめ下絵を描いた板に
  糊で張り付けていくという授業で「モザイク」と呼んでおり 出来上がった作品は、
  秋の文化祭に展示していた。
  後年になってからのこと、写真や映像の一部等を隠す手法を「モザイクを掛ける」ということを
  知った時、なんとなく違和感を感じたものだった。
第3限目第4限目は「映画」「月の物語」「運動の法則」「ガラス」「火の歴史」「ニュース」等
  各学年1クラスの小さな小学校・中学校併設校のこと、全校生徒児童が、大教室に集合し、
  教育用映画を見る授業が、年間に何回か有った気がする。
  その日もそうだったようだ。白黒で、退屈な内容が多かったような気がするが、通常授業と
  異なり、ワイワイガヤガヤ、喜んでいたように思う。
  廊下の壁に、投影用の穴が開けられており、機械に強いI先生が、廊下で映写機を操作、
  時々、フィルムが切れて修復したりの間が有ったり、なんとものんびりしたものだったが。

1、栗の木に、「くりまた蜂」、
  「くりまた蜂」???、全く記憶が無いが、敷地内に栗の木が有ったことは覚えており、、
  蜂が巣を作って飛び回っていて危険なので退治しろ!と親から命じられたのかも知れない。
3、父が休んだ。学校に自転車に乗って行った、
  当時、M男の家には、まだ自転車が1台しか無く、父親が通勤に使っていたため、
  普段乗ることが出来なかった。その日は、父が親戚の田植えの手伝い(結・ゆい)のため
  休んだため、
自転車が空き、M男は、それを借りて学校に乗って行ったということだと思う。
4、テキストの帰りに、どこかの家へ自転車をぶつけた、
  「テキスト」の帰り?って、何のこと?、分からない。
  多分、放課後、学校で何か有り、その帰り道、慣れない自転車で運転を誤り、
  どこかの家にぶつかった?ということなのだろう。
  全く記憶が無いが・・・。
5、今年初めて、伏せ針を仕掛けてみた、
  当時、近所の子供達はつるんで、徒歩20分~30分の川に、夕方に出掛け、
  1m程の棒の先に、釣り糸をくくりつけ、釣り針にミミズ等の餌を付け、
  川べりに、大きな石で押さえて仕掛けて帰り、
  翌日早朝見に行き、ウグイ、フナ、ナマズ、コイ等が掛かるのを
  楽しみにする遊びが流行っていた。
  「フセバリ」と呼んでいたが、多分、釣り針を伏せて置くことからの言葉で、
  「伏せ針」でいいのではないかと思われる。
  年上の子供等から、大物が掛かった話を聞いて、夢中になった時期が有ったが
  M男自身、大物が釣れた記憶は、全く無い。
6、ウチの田植えは,6日と決まった、
  当時、「田植え」や「稲刈り」は,親戚同士が日を決めて順番にお互い家族全員で手伝いに
  行く習慣が有った。後に、「ゆい(結い)」と呼ばれる習慣であることを知ったが、
  子供心には、何日も他所の手伝いをし、田んぼの少ないM男の家は、簡単に終わって
  しまうのは、割が合わないことではないかと考えたこともあった。
  M男の家の「田植え」は、6月6日と、決まってようだ。
帰宅 13時10分、
  授業が午前中だけとうことは、弁当は持っていかなかったはずで、多分、「バアチャ」が
  用意してくれた昼食にかぶりついたのだと思う。


 

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梅は咲いたか?

2024年01月27日 16時20分14秒 | 散歩・ウオーキング

当地、今日も、最低気温は、ー4℃前後で、
冷え込み厳しい朝だったが、
快晴で、風も無く穏やか、
日中、気温は、14℃前後まで上がったようだ。
体感的には、春のような温かさ、
こんな日に、家籠もりは、もったいない?
午後になってから、ちょこっと近くと歩いてきた。
スマホの歩数計で、約7,600歩。

梅は咲いたか、桜はまだかいな ♫

 


振り返り記事
「梅は咲いたか」
👇
こちら


エナガの群れが、木から木へ、
忙しなく動き回っており・・・、
「アッ!、エナガだ・・・・」、
やたら、あてずっぽうに、カシャ、カシャ、撮ったが、
みなピンボケ、・・・削除、
なんとか、2枚だけ、OK?

メジロ

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「月は、◯◯に、日は、◯◯に・・・」

2024年01月27日 08時48分12秒 | 暮らしの記録

当地、今日の日の出時刻は、6時47分頃、快晴、
因みに、日の入時刻は、17時4分頃、日長時間は、約10時間17分、

西方に目をやれば、まんまるお月さん、
有明の月?
どうやら、今日、1月27日は、満月(ウルフムーン)のようだ。

「月は、西に、日は、東に・・・」
どうも、ゴロが良くないけど・・・。


(蛇足)

菜の花や月は東に日は西に  与謝蕪村

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「2023年サラッと一句!わたしの川柳」・優秀作品100

2024年01月26日 16時13分21秒 | 川柳・俳句・五七五

長年「サラ川」と呼ばれて親しまれてきた川柳。
毎年、第一生命保険が公募している川柳で、以前の「サラリーマン川柳」、
改名されて、現在は、「サラッと一句!わたしの川柳」のことだが、
昨日1月25日、楽しみにしていた、「2023年サラッと一句!わたしの川柳コンクール」の優秀作品100句が発表された。
昨年9月19日から10月31日までに応募された66,949句から選ばれた作品である。
同日、その中から、ベスト10を選ぶための投票も開始された。
投票は、一人1句と定められており、100句から1句だけを選ぶのは辛いが、投票してみようかなと思っているところだ。投票締め切りは、3月18日。ベスト10発表は、5月下旬、第一生命保険のホームページで発表予定のようだ
五七五、わずが17文字で、日常生活の悲哀や世相を面白く表現する「サラ川」、川柳の達人の皆さんの着眼、ユーモアセンスに拍手、いずれも傑作、
思わず、吹き出してしまったり、
有る、有る・・・、頷いてしまったり、
うまいなあー・・・、感心してしまったり・・・である。
今回、特に目に止まったのは、やはり、「アレ」、
  業界でアレを目指せと我が上司
  アレとソレ用事済むのが日本流
  アレと言う上司が増えて皆困る
  我が家でも「アレ」で通じる老い二人
  物忘れアレは忘れぬ阪神ファン
  衰えた夫婦の会話アレだらけ
等々・・・・、
「ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、・・・・・」

(ネットから拝借イラスト)


第一生命保険
「サラッと一句!わたしの川柳コンクール・投票受付・スタート」
👇
こちら


 

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好天に促され、半年振りに都立小宮公園

2024年01月25日 17時23分11秒 | 散歩・ウオーキング

今日も、北海道や東北日本海側、北陸、山陰等を中心に、
降雪、積雪、大荒れの予報が出ており、
当地も、最低気温は、ー6℃前後、最高気温も、7℃前後と
ブルッとする寒さではあるが、快晴。
なんだかんだで、すっかり出不精になってしまっている老夫婦、
今日も、1日中、コタツムリ?になるところだったが、
いかん!、いかん!、
好天に促され、午後になり、やおら重い腰を上げ、
車で街中に出掛けたついでに、足を伸ばし、
久し振り、雑木林の公園、都立小宮公園に立ち寄り、
ちょこっと歩いてきた。
昨年の夏に訪れてから、半年振りになる。
お目当ては、園内の一区画におよそ100本程植樹されているロウバイ(蝋梅)。
1時間程ゆっくり園内を散策、帰ってきた。
スマホの歩数計で、約5,000歩。

菜の花畑



 

                            ウバユリの種殻

 

真白き富士山

ユーカリ

 

    メジロ               ツグミ

 

ロウバイ

 

 

山歩きとは言えないまでも、雑木林内の遊歩道、
なにわともあれ、コンクリートやアスファルトの道では無く、
土を踏んで歩くだけでも、心地よい。

 

 

 

 

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