長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃は、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳等に出掛けたものだったが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。息子達が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が出来たものの、今度は気力体力が減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっており、今となっては、あの頃、思い切って、登山を敢行していたことを、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を、備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んだり、古い写真は、「デジブック」にし、ブログに貼っていたものだが、その「デジブック」が終了したことで写真がブログから消えてしまったこともあり、改めて、古い写真を引っ張り出して、過去の記事をコピペ、リメイク(再編集)してみようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。
古い写真から蘇る思い出の山旅・その39
「蔵王カンジキハイク」(再)
かれこれ25年前にもなる、1999年(平成11年)2月に、蔵王高原のほんの一部を、カンジキを履いてハイキングするという、旅行会社の格安バスツアーに、夫婦で参加したことが有った。
当時はまだ、自営業を続けていた頃で、時間的余裕、経済的余裕等、全く無かった頃だったが、長年、一度は、蔵王の樹氷風景を観てみたいと思い続けていた老夫婦、かと言って、雪山等を個人的に訪れる等のレベル無しで、なかなか実現しなかったものだが、たまたま、旅行会社のプランが目が止まり、「その内いつか・・・」等と言ってられない歳、「今でしょ!」ばかり、飛びついたものだった。
当時は、まだ、バカチョンカメラ(手の平サイズのフィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、同時プリントし、アルバムに貼っていた拙劣写真が有り、後年になって、スキャナーで取り込み、「デジブック」にし、ブログ・カテゴリー「山歩記」にも、書き留めたりしていたが、その「デジブック」が、2020年3月に廃止されてしまい、ブログで振り返り、写真を見ることが出来なくなってしまったため、改めて、外付けHDから写真を引っ張り出して、リメイク、再度、書き留め置くことにした。ほとんど記憶曖昧になっていても、写真やメモを見ると、あの時、あの場所の情景が蘇ってくるから不思議である。
深田久弥著 「日本百名山」
「蔵王山(ざおうさん)」
(一部抜粋転載)
同じ東北の山でも、蔵王には、鳥海山や岩手のような孤立孤高の姿勢がない。群雄並立といった感じで、その群雄を圧してそびえ立つ盟主がない。山形から見ても、仙台から見ても、一脈の山が長々と連なっているだけで、その中に取り立てて眼を惹くような、抜きん出た高峰がない。それは地図でみ見てもわかる。どの峰も稜線上の鞍部からせいぜい二百メートルくらいの登りしかない。だがらわれわれが蔵王と呼ぶ時には、この一連の山脈を指して言う。この長大な尾根は、東北人特有の牛のような鈍重さをもって、ドッシリと根を張っている。もし最高点を盟主とするならば、それは熊野岳であって、その細長い頂の一端に斎藤茂吉の歌碑が立っている。
陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ
茂吉は山形の生んだ歌人で、その故郷から朝に夕に蔵王を仰ぐことができた。その高弟結城哀草果氏も同じ山麓で一生を農に励んできた歌人であって、その多数の作歌の中から蔵王を選び出すのに事欠かない。
柿紅葉へだてあふぐ蔵王嶺にはつかに白く雪ふりにけり
(中略)
たいていの人は蔵王の雪景色はよく知っているようだが、夏の蔵王も楽しい山登りである。高湯から登り、熊野岳刈田岳を経て蛾々温泉に下るのがコースで、この二つの峰の間が馬ノ背と呼ばれている。高原状の広々した尾根で、冬吹雪に会うと迷いがちなのでスキーの難所とされているが、夏は公園のようなのんびりした遊歩場である。片方が宮城、片方が山形の山河を果てしなく眺めることが出来る。
御釜(おかま)と称する山上湖は蔵王の宝玉とも言うべき存在で、そのために馬ノ背の逍遥はいちだんと精彩を加える。
(中略)
戦後蔵王はスキーヤーのメッカとなった。交通の便がよくなり、リフトやケーブルカーが架けられ、山小屋は随所に立った。高湯は蔵王温泉と改められ、村の名前も、奥羽本線の金井駅まで、「蔵王」に変えられてしまった。山形側のこの繁栄ぶりを宮城側も見逃すはずはなく、いろいろ便利な施設を進めている。近年刈田岳のすぐ近くを経て、宮城と山形をつなぐバス路線も開かれて、何の苦労もなく御釜見物が出来るようになったが、それだけ魅力も少なくなった。
山行コース・歩程等
1日目 山形県上山市蔵王坊平高原、セントラル・ロッジ(泊)
2日目 セントラル・ロッジ → (リフト) → (リフト) →
(カンジキハイク) → お田の神・避難小屋 →
スキー場ゲレンデ → ライザワールドレストラン → セントラル・ロッジ
(カンジキハイク正味所要時間=約3時間)
(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

午前8時30頃、前泊した、山形県上山市蔵王坊平高原の
セントラル・ロッジ(標高1,000m)を、出発、


8時45分頃、スキー場のリフト乗り場に着き、リフトを乗り継ぎ、
9時頃、スキー場上部に到着したようだ。
まだ、誰もおらず、スキー場貸切状態、
リフトの上部では、強風、細かい雪が舞っており、厳寒。
天気予報では、「曇のち晴」となっていたが、山の天気は、別物。
果たして、お目当ての樹氷の景観を堪能出来るのかどうか、
参加者も沈鬱な雰囲気
現地ガイドさんの説明も、「とにかく登ってみましょう!」・・・だった気がする。
とりあえずは、全員、カンジキ装着、出発準備完了、
雪深い北陸の山村で高校卒業まで過ごした人間には、カンジキ自体、珍しいものでは
無いが、カンジキは、冬季の暮らしの道具として認識しており、
レジャーでカンジキを履く等は初体験。懐かしい感覚だった。

登り始めて直ぐ、現地ガイドさんの説明で初めて知った、
風上に向かって氷が伸びる「エビのシッポ」

雪氷に包まれたアオモリトドマツ、

高度を上げるに従って、ますます風が強くなり、体感気温がぐんと下がる。
視界悪く、モクモクと登るのみ、
大丈夫かいな?・・・だった気がする。
10時頃、お田の神・避難小屋(標高1,500m)に到着。
小屋の入口が雪で埋もれており、現地ガイドさんが懸命に掘割ってくれてる様子。

かなりの吹雪状態で、視界も10m程度、最悪。
好天ならば、蔵王連山の大展望や、御釜を見に行けたのかも知れないが、
残念。
現地ガイドさんの判断で、天候回復を待ってみることになり、
小屋の中に入り、しばらく、待機したような気がする。
急な天候回復の見込み無く、後の予定時間の関係で、
そこから引き返すことになったのだと思う。
10時30分頃、お田の神・避難小屋を出発、下山にかかる。
下山し始めてからまもなく、雲が途切れて、青空も見えてきて、
時々、白きモンスター達が、浮かび上がり、歓声がわく。


アオモリトドマツに付着する雪が、様々な造形を作り出している。




雲の流れが速く、時折、青空と陽射しが・・・・、
素晴らしい景観に、歓声が上がり・・・、
マンモス?

中国の賢人? カバ?

立ち上がるライオン?

目まぐるしく変わる天候





当初、樹林帯の中を下山する予定だったようだが、
山頂部での悪天候等で時間ロス、
時間の都合で、スキー場のゲレンデを、直に走り下るような具合に
なったような気がする。
急げ!、急げ!、

最後に、ゲレンデの途中で 全員集合、記念写真、カシャ!

12時きっかり、ライザワールドレストランに到着、
カンジキを返却し、バスに搭乗、
12時30分頃、前泊のセントラル・ロッジに帰り着き、昼食となった。
入浴、帰り支度後、
13時45分頃、セントラル・ロッジを出発、
蔵王坊平高原とお別れし、
各地物産センターやお土産店に立ち寄りながら、帰途についたのだった。
山頂部付近では悪天候で、大展望叶わず、御釜の写真撮影も叶わずで、やや「残念!」な部分もあったが、途中からは、青空が覗き、お目当ての樹氷の景観を堪能出来、「残念!」と「満足!」、五分五分のツアーだったように思う。
また、旅行会社の格安バスツアーならではの強行軍、時間に追われる慌ただしい山旅ではあったが、老夫婦だけでは、なかなか訪れることが難しい「冬の蔵王」、雪の山間部も含めて長距離移動往復共、ウツラ、ウツラしているだけの超ラクチン、バスツアーでの山旅もいいもんだなと、その時思ったものだった。
願わくば、「蔵王」も、季節を変えて、もう一度位は訪れたいものだ等と、当時は思ったものだったが、気力体力減退の今となっては、「蔵王」もまた、もう二度と訪れること叶わない、遠い思い出の山となっているのだ。あの時、思い切って実行していて、本当に良かったと思う。
指折り数えられる程度の山旅の思い出、その一つ一つが、金には換算出来ない、形の無い、心の宝物にも思える今日この頃である。