WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

しっぽ筋を鍛えよう

2008年03月06日 | 今日の出来事

 今日は病医院掛け持ちだった。午前中、歯科。夕方、泌尿器科。

 先週、ヒニョーキ系の造影検査をやってもらって、今日はその結果を聞きにいった。で、その造影検査の写真でボーコー憩室なるものの説明をしてもらった。
 造影写真をもらってくるわけにはいかないので、図で描くとこんな感じ。私のボーコーはまるでミッキーマウスのようになっていた。「憩室(ミッキーの耳の部分)にニョーが残って細菌感染しやすいのでしょう。しばらく様子を見て、あまり頻繁に細菌感染するようだと手術した方が良いかもしれないですね。」との見立てであった。ハァ~
 憩室ができる原因はよく分かっていないそうだ。下に書くように筋肉かあるいはボーコーの壁自体が弱いのだろうか?もしそうだとすると筋肉はまだしも、ボーコーを鍛えるってわけにもいかないし..。

 そう言えば昨日、NHKで「ニョー漏れ特集?」をやっていた。ま、私の場合は漏れるどころか出なくなってしまったのだが、おりもおり、タイムリーというかついつい気になって見た。なんでも、ニョー漏れは「年のせい」ではなく「れっきとしたビョーキ」なんだそうな。原因には2つあって、「ぐらぐら尿道」と「暴走ボーコー」なんだって。

 「ぐらぐら尿道」は、昔人間(猿?)に尻尾があった頃しっぽを動かしていた筋肉が、尻尾がなくなってボーコーを支える役目に変わったんだけど、そいつが出産などで緩んだり弱ったりすると、咳やクシャミをしたりしてお腹に圧がかかったり体を曲げたりしたときにボーコーも下がって尿道がぐらぐら動きオシッコが漏れるんだそうで、女性に多いとか。「暴走」の方はボーコーが勝手に収縮してしてしまうビョーキで、男女とも起こりうるのだが原因はまだ分かっていないらしい。
 ちなみに、ボーコーは我慢すれば1リットルくらいは溜め込むことができるそうだ。

 で、その治療法だが、「ぐらぐらボーコー」の方は体操をしてしっぽ筋を鍛えるとかなりの確率で改善されることが分かってきたらしい。しっぽ筋体操も紹介していたのでお悩みの方はやってみては。何も難しいものではなく、洗いものなどしている時などに、しっぽを動かすことを意識して股のあたりの筋肉に力を入れるというようにするとよいようです。
 「暴走」の方は原因が分かっていないので治療の決め手はないようだ。

 実は私、4年前ダッチョになったことがある。医師の説明では、やはり腹の筋肉が弱ってると、筋肉の隙間から腸がはみ出してしまうということであった。子供の頃からよく運動をして腹筋を鍛えておくのが良いんだとか。「じゃあ、今から腹筋を鍛えれば防げますか」と訊いたら「大人になってからでは手遅れです」と言われてしまった。私は手術で腹筋の隙間に“網”を埋め込んで治してもらった。

 皆さん、子供は外で遊ばせて腹周りの筋肉を鍛えさせておかないと大変なことになりますよ。ただでさえ、最近はメタボで筋肉の弛んでるお方が増えてきてるみたいだし。

 そうそう、ラグビーのボールがあんな形をしているのは、昔、牛のボーコーでボールを作っていたのだが、ボーコーボールの形が尖った楕円形だった名残だそうな。


里地里山シンポジウム

2008年03月04日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 行ってきました、里山シンポ。
 参加者はざっとみて130人くらい、その95%は団塊世代以上の熟年世代と、まあこの日時設定ではさもありなんというか。まつたけ十字軍からは、代表はじめ実に10名近くが参加し盛り上げに貢献した。

 司会は環境省自然環境計画課長 渡邊氏。冒頭、司会者からの問いかけで挙手した、実際に里山保全活動に関わっている人は参加者の約1/4。
 司会者より環境省の里地里山政策の紹介とシンポジウム開催に至った経緯の説明があり、続いて「芸術の視点」から北川フラム氏、「循環型社会の視点」から内藤正明氏、「美しさ・景観の視点」から森本幸裕氏の講演、休憩を挟んでアイトワ主宰の森孝之氏、アミタ(株)の熊野英介氏、サントリー次世代研の佐藤友美子氏、環境省里地里山専門官の青木氏を加えた7名でのパネルディスカッション。


 パネラーの発言には、実質引退名誉職と現役の、あるいは学者、官僚、事業家、民間のと、現在のお立場がよく出ていて興味深かった。「存在が意識を規定する」唯物論の原理は確かに存在していた。
 里地里山の保全については、問題の捉え方や解決に向けての視点・方法論が百家騒乱(あえて百花繚乱とは言わない)状態であることは昨日書いた。前半の3つの視点からの講演と後半のパネルディスカッションでそのあたりをどう整理していくか、何らかの方向性の提示を期待したが、それぞれの立場からの報告がなされただけで残念ながらそうした問題意識はなかったようだ。
 北川氏の報告は、新潟県の田舎町でのフィールドアートによる住民意識改革の実践例が中心であった。例えば、畑に洗剤のコマーシャルのようにシャツを並べ吊るしたり、林の中にビーズで作った造花をちりばめる、といったもの。その地にないものや石油製品を持ち込んでそのときは確かに「アート」かもしれないが、その後どうするのか、ゴミにならなかったのかと老婆心ながら心配させられるものであった。実際、丹後のリゾート公園破綻地で、環境テーマに芸大の方々が作ったらしい鉄骨とビニールテントの造形物が、時を経て汚らしいゴミとなった醜い姿をさらけ出していたのを見てしまったことがあった。なにも都会的「アート」を持ち込まなくても、地域にある芸術、芸能を広く発信する方がよいのでは、と感じた。その発想は、「ひこにゃん」の向こうを張って童子(大仏?)に角付けて奈良のシンボルキャラクターとしたゲイジュツ家と同レベルだ。

 内藤氏は、国立環境研究所を経て京大地球環境学堂の初代学堂長を務められ、現在は琵琶湖環境科学研究センター長、NPO理事長、佛大教授とながく環境関連・循環共生型社会研究に関わってこられた経験から、「国や大企業が変わらない現状ではすでに手遅れ、各家庭で努力すれば変わるというものではない」と、ちょっと過激?な発言(ショック療法のおつもりか)も挟んで嘆いておられたが同感であった。
 ゴミ分別・減量・リサイクルだの、CO2を出すな、無駄な電気を消せの、省エネ製品を買えのと、一般庶民にばかり環境「教育(洗脳?)」し行動を強要する環境政策では根本的解決からは程遠い。環境学者というのは、破綻に向かって驀進する資本主義社会を担う現政府の目くらまし環境洗脳政策への国民動員のお先棒を担いでいるものと思っていたが、中にはそうでもない人もいるようだ。まあ、国と資本家に遠慮がないのは実質引退組の強みか。

 森本氏のお話は、まあ独法になったとはいえ国などから金をもらう立場は変わらない現役研究者の弱みが現れた、当たり障りのない教科書的「生物多様性論」で特に印象に残るものはなかった。終了間際に客席からお騒がせオバサンのようなお方が、「これがお抱え学者と官僚の実態だ」と八つ当たりしていたが、気持ちは分からないでもない。

 パネルディスカッションも、パネラーの方々の旧論を披露する取りとめのないものでコメントするのもめんどくさい。

 やはりミニシンポのやり方のほうが、地域限定的で話としては小さいかもしれないが、「手遅れ的現状でも何かしなければ、しないよりはまし」と頑張る一線の実践者には役に立つだろう。次回に期待。ん~、環境省に期待するよりは市民レベルでそういう場を作った方がよいのかもしれない。

 個人的には、小難しい理屈をこね回さなくても、要は必要以上に資産を所有し金を持つことこそが諸悪の根源と考えている。1億円は1億円分の環境負荷なくしては得られないと知るべきだ。土地の個人所有は300坪以下(森氏は300坪で循環・自給自足できるとの持論)、年収は1千万円以下に限定、それだけあれば十分、それ以上は没収し社会や地域の共同財産とする。あまり肩肘張らずソフトを充実させてビンボー生活を楽しんでいきたい。


「里地里山シンポジウム」“京都公演?”

2008年03月03日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 環境問題、とりわけ里地里山の保全に関わるようになって以来、強く感じていたことがある。それは、問題の捉え方や解決に向けての視点・方法論について、主宰団体や関係者がそれぞれが我田引水、てんでにいろいろなことを言ったり行ったりしており、中には全く相反するような主張や行動もあったりして、調整をする場が必要だということである。
 関連学会やお役所関係では交流の場もあるのだろうが、こうした活動の実戦部隊となるべき主人公は市民、地域住民でなければならない。そうでなければ、それぞれ特徴のある地域に根ざして、地道に数十年、数百年の長いスパンで継続していかねばならないこれらの活動は、いくら掛け声ばかりが高くても到底持続はできないだろう。

 そんな折、環境省の外郭団体=「(財)水と緑の惑星保全機構里地ネットワーク」が「里なび」というネット交流の場を作ったので、また天下り先作りかとの懸念をしつつも期待を寄せたいことは以前にも書いた。
 まだまだ交流、調整の場には程遠い情況が続いているが、チョットは期待できそうな全国縦断コンサートツアーのようなシンポジウムがただいま進行中である。その“京都公演?”=「里地里山シンポジウム」が明日予定されている。
 これまで環境関連のイベントには失望させられることが多かった。今回の“京都公演”も、地方都市開催分のミニシンポと違って、その道の権威を自認する方々ばかりからなるパネラーのおしゃべりを参加者が有難く拝聴しお勉強をさせていただくという、安直でありがちなシンポジウムで、市民、地域住民の関わりがない点で不満はある(大体、学者をはじめとしたヒマ人しか参加できない平日の昼間に計画する時点ですでに市民への配慮に欠けている)が、今後の展開への期待の可能性を探る意味で参加してこようと思っている。おヒマな方は行ってみてはいかがでしょう。なお、地方都市開催分のミニシンポは、なかなか充実した内容だっただろうことが終了分のレポートからもうかがえて大変参考になります
 あらためてその様子はレポートします。ま、私のことですから素直には見ません、かなりの色メガネで斜交いから眺めることにはなるでしょうが。(いろんなメガネを掛け替えて、いろんなはす方向から見て初めて真実が見えてくるものです)


「家畜人ヤプー」

2008年03月02日 | このごろ思うこと
 最近、TVや週刊誌では四半世紀ぶりのロス疑惑でもちきりだ。もちろん、被害者や遺族にとっては、日本の裁判での無罪に納得できずロス市警に期待する向きもあるだろう。しかし、事件そのものは一般的な殺人、傷害事件であり、何をそんなに大騒ぎしているのか。ある意味容疑者M氏の思う壺、ないしはメディアとM氏は持ちつ持たれつ、カビの生えたロス疑惑ネタでもう一儲けと企んでいるのだろう。つくづく浅ましい人達だ。
 
 一方、沖縄では恒例の米兵ワイセツ・強姦事件。被害者側が騒がれるのを恐れて告訴を取り下げ、日本側は容疑者を釈放したという。米側は日本側の捜査放棄とは関係なく取調べを続けるのだとか。もっとも、きちんと取り調べ、相応の処分をすることなどなく、時がたつのを待ってうやむやにされるのが落ちだろうが。というのも、以前にも同様の事件で被害者が告訴しているにもかかわらず、米側は日本の捜査に非協力的であったり容疑者の引渡し・取調べを拒否した前歴が多々あるからだ。

 この2件に触れて感じたのは、アジア人ごときに自国内で犯罪を犯されたまま逃がしてたまるか、自国民をアジア人に裁かせたりしてたまるかという、アメリカの傲慢さだ。ましてその対象が白人であればなおさらのことだ。やっぱり、アメリカというのは、口でなんと言おうが精神の根っこでは人種差別国家だ。

 周知のように米軍基地があるのはなにも日本だけではない。日本の駐留米軍約4万人に対し、敗戦国ドイツには実に6万人以上、イタリアには約1万人、英国1万人他NATO諸国にも1000人単位で配備している。しかし、ゲルマンのドイツ、アングロサクソンの英国、ラテン・ゲルマン他のイタリアの駐留米軍でワイセツ・強姦事件など聞いたこともない。日本人は、捜査権や裁判権がどうとか安全保障がどうとか言う以前に、アメリカ人(特に白人)のアジア人観(人間と思っているのかどうかさえ疑わしい)を思い知るべきだ。彼らの頭の中では黒人は下僕であり、日本人は所詮「家畜人ヤプー」にしかすぎない。