歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

韓国・益山市 弥勒寺址 石塔舎利孔から出土した円形盒から百済官吏「達率目近」の名前を確認

2010年05月27日 | Weblog
 国立文化財研究所は26日、昨年1月に弥勒寺址(미륵사지)石塔(석탑、国宝11号)舎利孔(사리공)出土遺物を整理する過程で、新たな事実を確認したと発表した。
① 円形青銅盒(청동합)蓋表面に「上部達率目近」と判読される字が現れた。
 刀子、あるいはキリのような鋭い道具で刻まれたこの銘文は「上部(中北部)区域に住む達率(百済官職中2品)の目近」という人の名前であり、銘文が刻まれた青銅盒は弥勒寺石塔を建てる時に、達率目近が施主した供養品と判断される。
 弥勒寺址石塔出土遺物のうち、貨幣機能をしたと考えられる金塊でもこれと似た様式の銘文が既に確認されており、これらが石塔を建てる時の供養品という点には疑いの余地がなくなったとする。
② この青銅盒をはじめとして舎利具からは銀盒5点を合わせ、全6点に達する円形盒が収集された。その中には瑪瑙や真珠、琥珀、金塊のような各種宝石が現われた点からみて、宝石箱であったとみられる。
 「1番盒」と命名された青銅盒からは、金製玉370点強をはじめとして金製輪、金製小型板など多くの金製品と小玉、真珠、勾玉など総4千800点強に達する遺物が収集された。
③ さらに規模が最も大きい「4番銀盒」からは、彩られた金装飾帽子を被せた曲玉1点を含む4千400点余りの遺物が発見された。
④ その他にも織物と香粉(향분)と推定される有機物質などが円形盒から確認された。

 研究所は青銅盒とその収集遺物に関する1次的な調査内容を27~28日に、国立故宮博物館で開催する「弥勒寺国際学術シンポジウム」を通じて公開する予定。
[参考:連合ニュース]

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 弥勒寺址
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大津市・中路遺跡 古代官道「東山道」の関所の可能性

2010年05月27日 | Weblog
 市教委が26日、奈良―平安時代に近江国を統治した近江国庁の関連遺跡「中路(ちゅうろ)遺跡」(大津市神領)で、古代の官道・東山道(とうさんどう)に面した造成地などが見つかったと発表した。道路幅約12mで敷かれたと考えられていた東山道を約5m、侵食するような形で造成して道路幅を狭くし、関所のような役割をした施設、官道を管理、警備する事務所のような施設、あるいは駅屋(うまや)だった可能性があるとしている。
 同遺跡では2008年、東西方向に直線で延びる東山道の側溝(幅約2m)を検出。今回、約20m東の約200㎡を発掘したところ、側溝(同約1・6m)が想定より約5m南側で出土した。
 側溝北側では、傾斜地を平らに造成した面(南北約16m、東西約23m)を検出。この造成面に沿った東西約30m間は、東山道の道路幅は約7mに縮小していたことがわかった。
 造成面の周囲は側溝や溝で囲われ、ほかの近江国庁関連遺跡で確認された蓮華文軒丸瓦や複数の柱穴なども見つかったが、建物跡は判然としなかった。
 発掘地点は丘陵上にあり、08年の調査では、道路両端に礎石建物などの下に敷く根石も発見され、門などがあった可能性が指摘されている。
 中路遺跡は07年に市教委が初めて本格調査し、大型建物2棟跡や「修」の字が刻印された瓦12枚が出土。近江国庁の南から南東に位置し、高官の居館と想定される青江遺跡、大型倉庫群の惣山遺跡、駅家とみられる堂ノ上遺跡とともに、国庁関連遺跡として国史跡に指定されている。
 現地説明会が29日午後1時半に開かれる。
[参考:読売新聞、中日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.6.26 大津市・近江国府跡 国庁北側から建物跡が出土、役所跡か
 2008.12.11 中路遺跡 近江国府跡、勢多(瀬田)唐橋につながる東西一直線の道路跡を確認



キーワード:近江国府跡・国庁跡

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京都市・村ノ内町遺跡 飛鳥時代の竪穴住居跡10棟分が出土

2010年05月27日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所は26日、村ノ内町遺跡(同市右京区常盤出口町)で飛鳥時代の竪穴住居跡10棟分が見つかったと発表した。近くの渡来系豪族・秦氏の氏寺とされる広隆寺が造営されたとみられる時期と重なっており、当時の集落がより広範囲だったことが明らかになったとしている。
 見つかったのは一辺が3~5・5mの方形をした住居跡。7世紀前半ごろとみられ、住居を囲う溝の状況から、ほぼ同じ場所で1、2回建て替えられていたことが分かった。また3棟の内部に煮炊きにより土が焼けた跡があったが、据え付け式のかまど跡はなく、渡来人が持ち込んだとされる移動式かまどを使用していたとみられる。
 同時代の住居跡は広隆寺周辺で多数見つかっているが、寺から北東約300mに位置する村ノ内町遺跡内で見つかったのは初めて。
 現地説明会が29日(土)午前10時から11時までを行われる。
[参考:京都新聞、京都市埋蔵版家財研究所HP]



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