歴歩

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福島県・国見町 阿津賀志山防塁 想定の倍の規模の土塁の基礎が見つかる

2010年05月28日 | Weblog
 国見町教委は27日、阿津賀志山周辺の防塁の幅や高さが、従来考えられた規模の2倍近かったことを明らかにした。「阿津賀志山の戦い」(1189年)に備え、奥州藤原氏が大規模な工事を行った様子がうかがえる。
 発掘調査現地説明会が29日(土)午後1時30分~2時30分に開かれる。
[参考:毎日新聞、福島県文化財センター白河館HP]

過去の関連ニュース・情報
 2009.11.19 阿津賀志山防塁 第6次発掘調査 二重堀が一重堀に変化する部分の解明
 2008.10.11 阿津賀志山防塁に切れ目 激戦区特定へ

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浜松市・浜松城 天守門は2階建ての櫓門で2階部分の幅が12m

2010年05月28日 | Weblog
 浜松市文化財課の発掘調査で26日、浜松城(同市中区元城町)の天守門が、2階建ての櫓門で、2階部分の櫓は幅約12mと推定されることがわかった。
 17日からの調査で、天守曲輪を作る石垣上部から、天守門の礎石や屋根に葺かれた瓦などが次々と見つかった。礎石などの位置関係から、櫓の幅は約12mと考えられる。地面から屋根までの高さは10m近い可能性がある。
 また、櫓の両脇からは、土塀に使用する塀瓦が多く出土しており、天守門に土塀が連接していたことも確認できた。
 昨年末の調査では、天守門跡からは土台部分となる4個の礎石などが発見され、礎石と礎石の間隔は約4・5m、礎石の幅から観音開きの扉の幅と高さは約4mで、門の上に櫓が乗る2層式だったとみられることがわかっていた。
 今回の調査では、譜代城主の家紋をあしらった瓦片も見つかり、瓦の特徴から16世紀末に建てられ、天守閣が17世紀初め(江戸時代初期)に消滅した後も、浜松城の象徴的な存在として改修が繰り返され維持されたとみられる。
 浜松城は天正18年(1590)、徳川家康の移封に伴い、豊臣秀吉配下の堀尾吉晴が入り、天守閣や天守門を建造。関ケ原の合戦(1600年)後は徳川幕府の譜代大名が順次治めた。
 現地説明会が30日午前10時と午後1時30分から開かれる。雨天時は出土品の見学のみ。
[参考:読売新聞、中日新聞、2009.12.8前出]

過去の情報・ニュース
 2009.12.8 浜松城跡 天守門跡と富士見櫓跡から礎石などの遺構
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