歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

福井県若狭町・ユリ遺跡 4500~3500年前の住居跡が見つかる

2011年08月27日 | Weblog
 若狭町の若狭三方縄文博物館は26日、縄文時代の丸木舟9隻が出土しているユリ遺跡(同町鳥浜)で、縄文時代中期から後期(4,500~3,500年前)の住居跡が発見されたと発表した。 住居跡は丸木舟の発掘地点から約20m北側に位置する。
 住居跡は、直径6mの円形の平地住居とみられ、柱の跡が8個あり、中央付近には炉の跡とみられる直径約1mのくぼみがあった。 そばに別の住居の柱跡も見つかっており、複数の住居があった可能性がある。
 住居跡は丸木舟の発掘地点から約20m北側に位置し、漁網の重りとして使用する石錘(せきすい)や矢尻、木の実をすりつぶす石器も複数出土した。
一般向け現地説明会が9月3日(土)午前10時から開かれる。
[参考:福井新聞、中日新聞]

2011.9.3追記
「ユリ遺跡発掘調査現地説明会」延期について
 9月3日(土)の現地説明会は、台風12号の接近が予想されるため、9月10日に延期された。 集合場所■若狭三方縄文博物館
[参考:若狭三方縄文博物館HP]

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日田市・永山城跡 初の本格調査で本丸御殿跡から礎石や虎口の石垣などが見つかる

2011年08月27日 | Weblog
 日田市丸山2丁目の月隈山・月隈公園にある江戸時代初頭の永山城跡の本丸御殿跡から、等間隔で並ぶ礎石や虎口の石垣、搦手(からめて)門の隅石、櫓門(大手門)の石垣などが発見された。
 永山城は豊臣家大名の小川壱岐守光氏(みつうじ、?-1610)が関ケ原の戦い翌年の慶長6年(1601)から3年かけて築いた平山城。当時の名称は丸山城。元和2年(161)年に石川忠総が美濃大垣城から移封され、永山城に改称した。寛永16年(1639)、城下町に永山布政所(日田陣屋、日田代官所)が置かれ、廃城になった。
 市教委から委託を受けた別府大が調査した結果、山頂部(約1000㎡)から本丸御殿の遺構を見つけ、当時の規格6尺5寸(195cm)間隔で並ぶ礎石の一部5基(各直径30cm)を含む計10基を発見した。 北隅の土坑(ごみ捨て場)から茶器の菓子皿とみられる古唐津片や備前焼のすり鉢、中国製の壺が出土した。 古唐津は16世紀末から17世紀初頭に焼かれ、築城年代と合致する。
 櫓門北側から延べ23mの石垣跡が確認され、一部残存する石垣と合わせ、本丸を1周していたようだ。
 現地説明会が28日(日)午前10時~正午に開かれる。 集合場所は城跡近くの月隈神社前。
[参考:大分合同新聞、西日本新聞、毎日新聞、NHK]

備考
小川光氏
 戦国武将小川祐忠の子と云われる。
 小川氏は宇多源氏佐々木義秀あるいは藤原系下河辺氏の末裔といわれ、近江国神埼郡小川村に住んで小川と名乗った。
 応仁の乱(1467-77)後、江南の佐々木六角氏が江北の京極氏と対立し、六角氏の重臣であった小川左近太夫を佐和山城主として置いたのが、小川氏の歴史初登場である。 主君を六角氏、織田信長、明智光秀、柴田勝豊、豊臣秀吉と変えていき、関が原の戦いでは、最初西軍に属していたが、後に東軍に寝返るなどして戦国時代を送った。 戦後、東軍につきながら通款(内通)を明らかにしなかったとの理由により改易となった。
 祐忠の娘が一柳直高の正室であったことから、一柳氏の奔走もあり、嗣子・光氏が豊後国日田において二万石を与えられ大名に復活したとされる。

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