福岡市教育委員会は21日、同市西区の「元岡古墳群G6号墳」(直径約18mの円墳、7世紀中頃)の横穴式石室から8月末に、19文字の銘文が入った鉄製の象眼大刀(長さ75cm)が出土したと発表した。 銘文入りの刀剣出土は全国7例目となる。 大刀には日付も刻まれており、わが国での暦使用を示す最古の文字資料としている。 朝鮮半島の百済から暦を導入したとする日本書紀の記述を裏付けるもの。
大刀は表面が錆びているが、X線撮影で背の部分に19文字が、1文字5~6mm四方の大きさで約12cmにわたって刻まれていることが分かった。 表面を細い溝で刻み、中に金か銀を埋め込む象嵌技法により文字を作っていた。 日本製の可能性が高いとみられる。
刻まれた文字は、「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果■」(■は「練」の可能性)。
年号の干支を示す最初の「庚寅」年のうち、「正月六日」が庚寅の日なのは、古墳時代では570年のみ。
意味は、「570年1月6日に刀を作った。およそ12回鍛錬した」と読める。
日本書紀には、
□ 欽明天皇十四年(553)六月 遣内臣〈闕名。〉使於百濟。仍賜良馬二疋。同船二隻。弓五十張。箭五十具。勅云。所請軍者。隨王所須。別勅醫博士。易博士。暦博士等。宜依番上下。今上件色人正當相代年月。宜付還使相代。又卜書。暦本種種藥物可付送。
□ 欽明天皇十五年(554)二月 百濟遣下部杆率將軍三貴。上部奈率物部烏等乞救兵。仍貢徳率東城子莫古。代前番奈率東城子言。五經博士王柳貴代固徳馬丁安。僧曇惠等九人代僧道深等七人。別奉勅貢易博士施徳王道良。暦博士固徳王保孫。醫博士奈率王有悛陀。採藥師施徳潘量豊。固徳丁有陀。樂人施徳三斤。季徳己麻次。季徳進奴。對徳進陀。皆依請代之。
と、記されている。
すなわち、553年に百済に暦博士の派遣を要請、翌554年に、暦博士・固徳王保孫が来日する。 この時にもたらされた暦は、中国・南北朝時代の宋で作られた元嘉暦(げんかれき)」とみられる。
元嘉暦は、5世紀の雄略天皇の時代から既に使われていた可能性も指摘されている。 今回の大刀に書かれた「庚寅正月六日庚寅」のうち、570年と1月6日の干支が「庚寅」というのは、いずれも元嘉暦と一致する。
暦博士の来日後、十数年にして元嘉暦が普及したことを確実に示す極めて貴重な資料という。
横穴式石室から大刀のほかに、水晶やガラスの玉類、金銅製の耳環なども見つかった。
ほかに6号墳では、古墳時代では国内最大級の銅鈴(全長12cm)や鉄矛も見つかった。
市民向け現地説明会が23日(金)午前10時~午後1時に開かれる。
大刀は9月28日~10月9日、福岡市博多区の市埋蔵文化財センターでも展示される。
[参考:共同通信、時事通信、産経新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、聨合ニュース、福岡市HP]
備考
この大刀が作られた570年前後の百済・金石文として、2点を参考に記す。
① 韓国・陵山里寺址から出土した「百済昌王銘石造舎利龕」には、「百済昌王十三季太歳在丁亥妹兄公主供養舎利」と刻まれている。 百済昌王(威徳王)13年(567年)の時に作られたことがわかる。 改元は立年称元でなく、踰年称元をとっている。
② 韓国・王興寺址から出土した、青銅舍利箱本体には、「丁酉年二月十五日百済王昌為亡王子立刹本舍利二枚葬時神化為三」と銘が刻まれていた。 丁酉年は577年に当たる。
過去の関連ニュース・情報
2010.7.3 元岡古墳群で7世紀初頭の装飾付圭頭大刀など出土
この時は、G1号墳(方墳)から7世紀初頭の製作とみられる装飾付きの大刀が出土した。
追記
2011.10.6 聨合ニュースが指摘、「三寅(さんいん)剣(삼인검)」
(注) 「三寅剣」は、中国では、古代思想に言う人間に害をする三寅(虎・豹・狸(猫))、を収める力を持つ剣、という意味があり、すなわち魔よけの剣のことである。
韓国では、年・月・日あるいは月・日・刻の3つがすべて寅の時に作られる大刀を意味する。 また、年・月・日・刻すべてが寅の時に作られる大刀は「四寅剣」という。 特に新年最初の寅の日に効果が最も効果が高いらしい。 ただし、「三寅剣」「四寅剣」とも朝鮮時代に盛んに作られたものであり、570年頃に当てはまるかどうかはわからない。
2011.12.9 X線CTスキャナーで立体化した画像を公開
象嵌大刀をX線CTスキャナーで立体化した画像が公開された。
文字を立体的に見ることで、彫った字にどの順番で金属を流し込んだかが分かる。 刃と柄の形も分かった。
画像データを基に、石膏製の復元レプリカ(全長73cm、幅2・5cm、厚さ7mm)を作製した。
CT画像とレプリカは、同市埋蔵文化財センター(同市博多区)で12月10日~来年4月1日まで公開する。
[参考:産経新聞、毎日新聞、朝日新聞]
大刀は表面が錆びているが、X線撮影で背の部分に19文字が、1文字5~6mm四方の大きさで約12cmにわたって刻まれていることが分かった。 表面を細い溝で刻み、中に金か銀を埋め込む象嵌技法により文字を作っていた。 日本製の可能性が高いとみられる。
刻まれた文字は、「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果■」(■は「練」の可能性)。
年号の干支を示す最初の「庚寅」年のうち、「正月六日」が庚寅の日なのは、古墳時代では570年のみ。
意味は、「570年1月6日に刀を作った。およそ12回鍛錬した」と読める。
日本書紀には、
□ 欽明天皇十四年(553)六月 遣内臣〈闕名。〉使於百濟。仍賜良馬二疋。同船二隻。弓五十張。箭五十具。勅云。所請軍者。隨王所須。別勅醫博士。易博士。暦博士等。宜依番上下。今上件色人正當相代年月。宜付還使相代。又卜書。暦本種種藥物可付送。
□ 欽明天皇十五年(554)二月 百濟遣下部杆率將軍三貴。上部奈率物部烏等乞救兵。仍貢徳率東城子莫古。代前番奈率東城子言。五經博士王柳貴代固徳馬丁安。僧曇惠等九人代僧道深等七人。別奉勅貢易博士施徳王道良。暦博士固徳王保孫。醫博士奈率王有悛陀。採藥師施徳潘量豊。固徳丁有陀。樂人施徳三斤。季徳己麻次。季徳進奴。對徳進陀。皆依請代之。
と、記されている。
すなわち、553年に百済に暦博士の派遣を要請、翌554年に、暦博士・固徳王保孫が来日する。 この時にもたらされた暦は、中国・南北朝時代の宋で作られた元嘉暦(げんかれき)」とみられる。
元嘉暦は、5世紀の雄略天皇の時代から既に使われていた可能性も指摘されている。 今回の大刀に書かれた「庚寅正月六日庚寅」のうち、570年と1月6日の干支が「庚寅」というのは、いずれも元嘉暦と一致する。
暦博士の来日後、十数年にして元嘉暦が普及したことを確実に示す極めて貴重な資料という。
横穴式石室から大刀のほかに、水晶やガラスの玉類、金銅製の耳環なども見つかった。
ほかに6号墳では、古墳時代では国内最大級の銅鈴(全長12cm)や鉄矛も見つかった。
市民向け現地説明会が23日(金)午前10時~午後1時に開かれる。
大刀は9月28日~10月9日、福岡市博多区の市埋蔵文化財センターでも展示される。
[参考:共同通信、時事通信、産経新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、聨合ニュース、福岡市HP]
備考
この大刀が作られた570年前後の百済・金石文として、2点を参考に記す。
① 韓国・陵山里寺址から出土した「百済昌王銘石造舎利龕」には、「百済昌王十三季太歳在丁亥妹兄公主供養舎利」と刻まれている。 百済昌王(威徳王)13年(567年)の時に作られたことがわかる。 改元は立年称元でなく、踰年称元をとっている。
② 韓国・王興寺址から出土した、青銅舍利箱本体には、「丁酉年二月十五日百済王昌為亡王子立刹本舍利二枚葬時神化為三」と銘が刻まれていた。 丁酉年は577年に当たる。
過去の関連ニュース・情報
2010.7.3 元岡古墳群で7世紀初頭の装飾付圭頭大刀など出土
この時は、G1号墳(方墳)から7世紀初頭の製作とみられる装飾付きの大刀が出土した。
追記
2011.10.6 聨合ニュースが指摘、「三寅(さんいん)剣(삼인검)」
(注) 「三寅剣」は、中国では、古代思想に言う人間に害をする三寅(虎・豹・狸(猫))、を収める力を持つ剣、という意味があり、すなわち魔よけの剣のことである。
韓国では、年・月・日あるいは月・日・刻の3つがすべて寅の時に作られる大刀を意味する。 また、年・月・日・刻すべてが寅の時に作られる大刀は「四寅剣」という。 特に新年最初の寅の日に効果が最も効果が高いらしい。 ただし、「三寅剣」「四寅剣」とも朝鮮時代に盛んに作られたものであり、570年頃に当てはまるかどうかはわからない。
2011.12.9 X線CTスキャナーで立体化した画像を公開
象嵌大刀をX線CTスキャナーで立体化した画像が公開された。
文字を立体的に見ることで、彫った字にどの順番で金属を流し込んだかが分かる。 刃と柄の形も分かった。
画像データを基に、石膏製の復元レプリカ(全長73cm、幅2・5cm、厚さ7mm)を作製した。
CT画像とレプリカは、同市埋蔵文化財センター(同市博多区)で12月10日~来年4月1日まで公開する。
[参考:産経新聞、毎日新聞、朝日新聞]