歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

筑西市・宮後東原遺跡 平安時代前期の土師器に「小長谷部継成」名

2012年03月02日 | Weblog
 茨城県教育財団が29日、筑西市宮後の宮後東原遺跡((みやごひがしはらいせき)(注1)から「小長谷部継成」とへらで刻まれた土器が見つかったと発表した。
 昨年11月から発掘調査した結果、竪穴住居跡15軒、掘っ立て柱建物跡13棟など、奈良、平安期の集落跡を確認した。
 井戸跡からは多数の土器が出土した。土師器の甑(こしき、口径20cm、高さ16cm)の側面に「小長谷部継成」と、焼く前に人名が刻まれていた。同氏の名(注2)は東日本で確認されているが、県内では、石岡市内の遺跡で「小長谷」と記した墨書土器の発掘例が1件あるだけで、同氏の存在自体が明らかになっていなかった。 土器の形などから平安前期に、小長谷部一族が住んでいたとみられる。
 同じ井戸などから墨書土器27点が出土し、土師器の裏面に「宮城」「山神」「大田」などと書かれていた。奈良時代の硯も出土し、古くから、この地に文字文化が浸透してきていたことが分かるとしている。
 現地説明会は3日(土)午前10時半から開かれる。

(注1) 同遺跡は平安時代の「真壁郡」に位置する。
(注2) 「小長谷部(おはつせべ)」は5世紀後半、武烈天皇を支えた氏族として知られ、山梨県や長野県など東日本に多いとされる。
[参考:茨城新聞、毎日新聞]

2012.3.8 追記
 昨日、初めて多摩ニューセンターに行ってきました。
 近辺には、サンリオピューロランド、東京都埋蔵文化財センター、多摩美術大学美術館、パルテノン多摩などがあります。
 パルテノン多摩の歴史ミュージアムでは企画展「消えた寺が語るもの 多摩市の廃寺と寿徳寺の周辺」が開催されており、真慈悲寺についても何か紹介されるということなので、期待をしていました。 残念ながら、期待しているほどの展示は少なかったですが、常設展の方で、武蔵国一之宮小野神社について紹介されており、小野神社の初見史料として宝亀3年(772)の太政官符(複製)が展示されていました。 その中に、「小長谷部廣麿」の名がありました。 この太政官符は、歴史ミュージアムで購入した図録「特別展 武蔵国 一之宮 多摩市一ノ宮小野神社の変遷」でも載っていました。

太政官符神祇官
応奉幣帛神社事
右得武蔵国司去年九月廿五日解偁以今月十七日入間郡正倉四宇着火所焼糒穀惣壱万伍佰壱拾参斛亦滅百姓十人忽臥重病頓死二人仍卜占在郡家西北角神□□出雲伊波比神祟云我常受給 朝庭幣帛而頃年之□□給。因茲引率郡家内外所有雷神発此火災者仍勘□□外大初位下小長谷部広麿申云実常班奉 朝庭幣帛□神也而頃年之間不為給下者仍検案内太政官去天平勝宝七年十一月二日符偁武蔵国預幣帛社四所多磨郡(小)野社加美郡今城青八尺稲実社横見郡高負比古(乃)社入間郡出雲伊波比社者官符灼然而時々班奉幣帛漏落者右大臣宣奉 勅依例施行者官宜承知准 勅施行符到奉行
参議正四位下行右大弁兼右兵衛督越前守藤原朝臣百川 左大史正六位上会賀臣真綱
宝亀三年十二月十九日

 この中に、「外大初位下小長谷部広麿」と記されています。 名を「長谷部広麿」と判断している人もあるようですが、大宝律令の位階に「外大初位」がありますが、「外大初位小」はないので、したがって、「小長谷部広麿」と読むのではないでしょうか。
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奈良市・平城京跡 長屋王邸北側の側溝で出土した墨から牛のコラーゲンを検出

2012年03月02日 | Weblog
 奈良女子大学(A大)と奈良文化財研究所(B研)の調査で、平城京跡で出土(注1)した奈良時代の墨から膠(にかわ)の原料に使われた牛のコラーゲンが検出(注3)された。 出土した墨から原料の動物が明らかになるのは初めて。
 国内の墨の歴史は古く、推古18年(610)に高句麗から渡来した僧侶が墨を作ったと日本書紀が伝える(注3)。奈良時代の正倉院文書では、牛皮の膠を石山寺(大津市)の塗装に使ったという(注4)。
 墨が使用された時期は、左大臣だった長屋王(684-729)が謀反の疑いをかけられて自殺し、皇后宮に改変され頃という。

(注1) 平成元年に長屋王邸北側の側溝(同市二条大路南1丁目)から出土した。
(注2) 検出されたタンパク質をA大理学部が分解して調べたところ、結合したアミノ酸(ペプチド)の質量が牛のコラーゲンと一致した。
(注3) 日本書記・推古天皇十八年春三月の条に、「麗の王、僧曇徴と法定とを貢上りき。曇徴、五経を知り、またよく彩色及び紙墨を作り(略)」と記されている。
(注4) 8世紀の正倉院文書に、石山寺の柱を白土で塗る際、白土に混ぜた膠の原料にウシの皮が使われたとする記述がある。
[参考:奈良新聞、朝日新聞、産経新聞、NHKニュース]
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笛吹市・甲斐国分寺跡 講堂跡の南側から広範囲にわたり石敷きが出土

2012年03月02日 | Weblog
 笛吹市教委が進めている甲斐国分寺跡(同市一宮町国分の発掘調査で、講堂跡の南側160㎡(20m×8m)を発掘したところ、広範囲にわたって奈良時代の創建時の石敷きが見つかった。
 石が隙間なく敷かれている部分もあり、高度な技術で造られていたことの証しという。
 現地説明会が3日(土)午前10時から開かれる。
[参考:山梨日日新聞]
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出雲市・神門寺付近遺跡 大溝を確認、3日に現地説明会で水切瓦なもど紹介

2012年03月02日 | Weblog
 出雲市塩冶町の神門寺付近遺跡(かんどじふきんいせき)(注1)において、昨年10月以降の調査で、奈良時代から江戸時代にかけて同じ場所で、幅約5mの大溝が何度も掘られていたことが初めて確認された。奈良時代に豪族が建てた氏寺の区画を示す遺構と考えられるという。
 山陰・山陽の一部地域に特徴的な水切瓦(奈良時代後期)(注2)などの展示もある。
 出雲市文化財課は、発掘調査現地説明会を3日(土)午後1時半~2時半に開く。

(注1) 神門寺は、『出雲国風土記』に記載された新造院(「朝山郷」または「古志郷」)の一所に比定する説がある。
(注2) 水切瓦は軒丸瓦の下端部を削って三角状に尖らせたもの。これまで、備後北部を中心に出雲・安芸・備中の一部に分布している。

[参考:毎日新聞、産経新聞、出雲市HP]
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