茨城県教育財団が29日、筑西市宮後の宮後東原遺跡((みやごひがしはらいせき)(注1)から「小長谷部継成」とへらで刻まれた土器が見つかったと発表した。
昨年11月から発掘調査した結果、竪穴住居跡15軒、掘っ立て柱建物跡13棟など、奈良、平安期の集落跡を確認した。
井戸跡からは多数の土器が出土した。土師器の甑(こしき、口径20cm、高さ16cm)の側面に「小長谷部継成」と、焼く前に人名が刻まれていた。同氏の名(注2)は東日本で確認されているが、県内では、石岡市内の遺跡で「小長谷」と記した墨書土器の発掘例が1件あるだけで、同氏の存在自体が明らかになっていなかった。 土器の形などから平安前期に、小長谷部一族が住んでいたとみられる。
同じ井戸などから墨書土器27点が出土し、土師器の裏面に「宮城」「山神」「大田」などと書かれていた。奈良時代の硯も出土し、古くから、この地に文字文化が浸透してきていたことが分かるとしている。
現地説明会は3日(土)午前10時半から開かれる。
(注1) 同遺跡は平安時代の「真壁郡」に位置する。
(注2) 「小長谷部(おはつせべ)」は5世紀後半、武烈天皇を支えた氏族として知られ、山梨県や長野県など東日本に多いとされる。
[参考:茨城新聞、毎日新聞]
2012.3.8 追記
昨日、初めて多摩ニューセンターに行ってきました。
近辺には、サンリオピューロランド、東京都埋蔵文化財センター、多摩美術大学美術館、パルテノン多摩などがあります。
パルテノン多摩の歴史ミュージアムでは企画展「消えた寺が語るもの 多摩市の廃寺と寿徳寺の周辺」が開催されており、真慈悲寺についても何か紹介されるということなので、期待をしていました。 残念ながら、期待しているほどの展示は少なかったですが、常設展の方で、武蔵国一之宮小野神社について紹介されており、小野神社の初見史料として宝亀3年(772)の太政官符(複製)が展示されていました。 その中に、「小長谷部廣麿」の名がありました。 この太政官符は、歴史ミュージアムで購入した図録「特別展 武蔵国 一之宮 多摩市一ノ宮小野神社の変遷」でも載っていました。
太政官符神祇官
応奉幣帛神社事
右得武蔵国司去年九月廿五日解偁以今月十七日入間郡正倉四宇着火所焼糒穀惣壱万伍佰壱拾参斛亦滅百姓十人忽臥重病頓死二人仍卜占在郡家西北角神□□出雲伊波比神祟云我常受給 朝庭幣帛而頃年之□□給。因茲引率郡家内外所有雷神発此火災者仍勘□□外大初位下小長谷部広麿申云実常班奉 朝庭幣帛□神也而頃年之間不為給下者仍検案内太政官去天平勝宝七年十一月二日符偁武蔵国預幣帛社四所多磨郡(小)野社加美郡今城青八尺稲実社横見郡高負比古(乃)社入間郡出雲伊波比社者官符灼然而時々班奉幣帛漏落者右大臣宣奉 勅依例施行者官宜承知准 勅施行符到奉行
参議正四位下行右大弁兼右兵衛督越前守藤原朝臣百川 左大史正六位上会賀臣真綱
宝亀三年十二月十九日
この中に、「外大初位下小長谷部広麿」と記されています。 名を「長谷部広麿」と判断している人もあるようですが、大宝律令の位階に「外大初位」がありますが、「外大初位小」はないので、したがって、「小長谷部広麿」と読むのではないでしょうか。
昨年11月から発掘調査した結果、竪穴住居跡15軒、掘っ立て柱建物跡13棟など、奈良、平安期の集落跡を確認した。
井戸跡からは多数の土器が出土した。土師器の甑(こしき、口径20cm、高さ16cm)の側面に「小長谷部継成」と、焼く前に人名が刻まれていた。同氏の名(注2)は東日本で確認されているが、県内では、石岡市内の遺跡で「小長谷」と記した墨書土器の発掘例が1件あるだけで、同氏の存在自体が明らかになっていなかった。 土器の形などから平安前期に、小長谷部一族が住んでいたとみられる。
同じ井戸などから墨書土器27点が出土し、土師器の裏面に「宮城」「山神」「大田」などと書かれていた。奈良時代の硯も出土し、古くから、この地に文字文化が浸透してきていたことが分かるとしている。
現地説明会は3日(土)午前10時半から開かれる。
(注1) 同遺跡は平安時代の「真壁郡」に位置する。
(注2) 「小長谷部(おはつせべ)」は5世紀後半、武烈天皇を支えた氏族として知られ、山梨県や長野県など東日本に多いとされる。
[参考:茨城新聞、毎日新聞]
2012.3.8 追記
昨日、初めて多摩ニューセンターに行ってきました。
近辺には、サンリオピューロランド、東京都埋蔵文化財センター、多摩美術大学美術館、パルテノン多摩などがあります。
パルテノン多摩の歴史ミュージアムでは企画展「消えた寺が語るもの 多摩市の廃寺と寿徳寺の周辺」が開催されており、真慈悲寺についても何か紹介されるということなので、期待をしていました。 残念ながら、期待しているほどの展示は少なかったですが、常設展の方で、武蔵国一之宮小野神社について紹介されており、小野神社の初見史料として宝亀3年(772)の太政官符(複製)が展示されていました。 その中に、「小長谷部廣麿」の名がありました。 この太政官符は、歴史ミュージアムで購入した図録「特別展 武蔵国 一之宮 多摩市一ノ宮小野神社の変遷」でも載っていました。
太政官符神祇官
応奉幣帛神社事
右得武蔵国司去年九月廿五日解偁以今月十七日入間郡正倉四宇着火所焼糒穀惣壱万伍佰壱拾参斛亦滅百姓十人忽臥重病頓死二人仍卜占在郡家西北角神□□出雲伊波比神祟云我常受給 朝庭幣帛而頃年之□□給。因茲引率郡家内外所有雷神発此火災者仍勘□□外大初位下小長谷部広麿申云実常班奉 朝庭幣帛□神也而頃年之間不為給下者仍検案内太政官去天平勝宝七年十一月二日符偁武蔵国預幣帛社四所多磨郡(小)野社加美郡今城青八尺稲実社横見郡高負比古(乃)社入間郡出雲伊波比社者官符灼然而時々班奉幣帛漏落者右大臣宣奉 勅依例施行者官宜承知准 勅施行符到奉行
参議正四位下行右大弁兼右兵衛督越前守藤原朝臣百川 左大史正六位上会賀臣真綱
宝亀三年十二月十九日
この中に、「外大初位下小長谷部広麿」と記されています。 名を「長谷部広麿」と判断している人もあるようですが、大宝律令の位階に「外大初位」がありますが、「外大初位小」はないので、したがって、「小長谷部広麿」と読むのではないでしょうか。