歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

足利市・樺崎寺跡 浄土庭園北東部に13世紀末から14世紀中頃の導水路跡を確認

2012年03月09日 | Weblog
 足利市教委は7日、鎌倉時代初期に足利義兼が創建したとされる国史跡「樺崎寺(かばさきでら)跡」(同市樺崎町)の2011年度発掘調査で、「浄土庭園」北東部に、近くを流れる樺崎川から池までを結ぶ約100mの導水路(幅約2・6m、深さ約1・2m)の跡を確認したと発表した。
 上流部を砂利で埋め、混入物を濾過する浄化システムを備えた構造とみられる。 その下流部には井戸状に2mほど掘り下げた跡があり、湧き水を得る井戸の役割があったらしく、川の水と湧き水を得る二重構造の導水施設だった。 内部からも大量の砂利が見つかった。また、素焼きの「かわらけ」や陶器の破片など約400点も出土した。 この導水路は13世紀末から14世紀中頃にかけて整備されたと推定される。
 この導水路より古い時代のものとみられる導水の遺構もあるが、浄化構造は見当たらなかったという。南北朝時代にかけて、初期の導水施設を改修する際に浄化システムが採用されたらしい。
 現場説明会が10日(土)午前10時半~正午に開かれる。
[参考:朝日新聞、東京新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 樺崎寺跡
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千葉市・大膳野南貝塚 縄文後期(4000年前)の漆喰を用いた国内最古の住居跡

2012年03月09日 | Weblog
 千葉市緑区にあるおよそ4000年前の縄文時代後期初め頃を中心とする「大膳野南貝塚(だいぜんのみなみかいづか)」から貝を砕いて作った「漆喰」を用いた国内最古の住居の跡が発掘された。 縄文人の巧みな知恵がうかがえる貴重な資料。
 遺跡からはこれまでに98軒の竪穴住居跡が発掘されているが、このうち2軒で、「漆喰」が床一面に敷き詰められていたことが分かった。 ほかにも、炉穴の内部、炉周辺の床にも白土が使用されていた。 白土は貝殻を焼いて粉末状にした後、水や土と混ぜたもので、現在の漆喰と同様消石灰が主成分と判明した。
 これまで国内で漆喰が住居に使われたのは平安時代ごろといわれ、漆喰自体を使った例としても、8世紀ごろが最も古いと考えられていた。国内で漆喰が使われた最も古い例は、8世紀初め頃の奈良県の高松塚古墳の壁画などが知られていたが、今回の発見はそれより2500年ほど遡ることになる。
 5日午前10時に現地説明会が開かれた。
[参考:2012.3.4NHKニュース、2012.3.8読売新聞]
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桜井市・松之本遺跡 ほぼ完全な子持ち勾玉が出土

2012年03月09日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が8日、縄文時代から中世にかけての集落跡「松之本遺跡」(桜井市粟殿)で、古墳時代後期(6~7世紀前半)に制作されたとみられる子持ち勾玉がほぼ完全な状態で見つかったと発表した。
 同遺跡の古墳時代の集落跡約北東隅の水路跡で長さ約8.1cm、幅約5.1cm、厚さ約2・5cm、重量130gの子持ち勾玉が出土した。親勾玉の腹部に子勾玉(3.2cm)がある。 紀の川市の貴志川流域西岸で採取される滑石を使用しているという。 今回の出土場所近くで上半分が欠けた子持ち勾玉(長さ約5.3cm)も見つかった。
 県内の子持ち勾玉の出土例は過去に56点あり、うち32点が三輪山周辺の遺跡で確認されているという。
 今回の調査地からは5棟の掘っ立て柱建物跡が出土しており、いずれも軸線が北東約1・5kmの三輪山に向いていることから、三輪山の神に豊作や繁栄を願った祭祀用の子持ち勾玉ではないかとしている。
 出土した子持ち勾玉や土器片などは10~25日、橿考研の付属博物館(橿原市畝傍町)で特別展示される
[参考:産経新聞、NNN読売テレビ、読売新聞]
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京都市・法住寺殿跡 南側の発掘調査で建春門院が造営・居住した最勝光院跡を確認

2012年03月09日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所が8日、平安時代後期、後白河法皇(1127-1192)の后で平清盛(1118-1181)の義理の妹、建春門院(平滋子、1142-1176)が造営し居住した最勝光院の建物跡が、同市東山区の法住寺殿跡で見つかったと発表した。 最勝光院跡が確認されたのは初めて。
 法住寺殿跡内の南側を発掘調査し、西に向かって傾斜する地面を平らにした工事跡が4カ所見つかった。 盛り土にこぶし大の石と粘土を交互に重ねる「石積み地業」と呼ばれる工法で、最大で6段(厚さ約65cm)あった。 同様の工法は、白河天皇発願による同市の鳥羽離宮などでも確認されているという。 一帯は建春門院の住居である最勝光院の「南御所」にあたる可能性があるという。
 法住寺殿は後白河法皇の院政の舞台となったことで知られる。東西600m、南北1.1kmの広大な敷地を有し、造営は1161年頃に始まり、御所や神社などが併存。平等院(京都府宇治市)をモデルに承安3年(1173)に建てたとされる最勝光院や、平清盛が建てた蓮華王院(本堂・三十三間堂)があったが、襲撃や火災によって現在は三十三間堂などしか遺構は残っておらず、最勝光院も鎌倉時代の正安3年(1301)の火災で焼失してから再建されていない。
 現地説明会は10日(土)午前10時から開かれる。
[参考:共同通信、朝日新聞、産経新聞]


最勝光院の土台と見られる遺構 法住寺殿跡から出土(朝日新聞) - goo ニュース
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松江市・石屋古墳 力士や武人など人物埴輪を復元し5世紀中頃と判明

2012年03月09日 | Weblog
 島根県古代文化センターは8日、松江市の石屋古墳(いしやこふん)で1978年に出土した埴輪片を復元したところ、力士や武人だったことが分かり、5世紀中頃のものと判明したと発表した。 人物埴輪としては国内最古級という。
 確認された人物埴輪は力士2点、武人2点、椅子に座った人物の椅子部分1点、貴人の可能性がある人物1点で、同時期の力士、武人、椅子に座った人物の発見は初めて。 いずれも、細部まで描写する初期の特徴がある。
 力士とみられる1体は、全身立像(推定全長110~120cm)の下半身部分(高さ約80cm)のみがほぼ復元できた。橿原市の四条古墳群で見つかった5世紀後半の力士埴輪を遡るという。
 ほかに国内最古級の馬形埴輪2点もあった。
 石屋古墳は一辺約40mの方墳で、1978年の調査で約1万点の埴輪の破片が出土した。 発掘当時は5世紀後半頃のものと推定されたが、2010年10月以降、同古墳から出土した土器を全国の他のものと比較するなどの調査を進めた結果、時期が特定された。
 復元した埴輪は10日から県立八雲立つ風土記の丘(松江市)で展示される。(3月20日まで) また、22日からは県立古代出雲歴史博物館(出雲市)で展示される。(5月21日まで)
[参考:時事通信、共同通信、日本海新聞、毎日新聞]

埴輪群、5世紀中ごろと判明=「出現期解明手掛かりに」―松江・石屋古墳(時事通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2008.9.3鳥取市・青谷上寺地遺跡 弥生時代の盾から緑土 アジア最古の使用例
 緑色顔料は、松江市東津田町の石屋古墳で出土した埴輪の盾に塗られたり、熊本市の千金甲一号墳など装飾古墳の壁に描かれた幾何学模様に使われているが、いずれも5世紀後半。


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