歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

全米桜祭り ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜が100周年を迎える

2012年03月13日 | Weblog
 1912年に日米友好の証として、ワシントンD.C.のポトマック河畔に植樹が実現した。今年は、100周年を迎える。
 在米日本大使館は12日、首都ワシントンの春の恒例行事「全米桜祭り(National Cherry Blossom Festival)」の関連行事について発表した。
 桜祭りの開催期間は例年2週間程度だが、今年は3月20日~4月27日。
 3月25日の記念式典には日本の女性シンガーMISIAさんや雅楽の東儀秀樹さんが参加し、東儀さんは君が代を演奏する。
 同27日にはアイドルグループ「AKB48」の高橋みなみや宮沢佐江など16人のメンバーが公演する。
 ほかに、東京電力福島第1原発事故の被害を受けた福島県川俣町山木屋地区の太鼓クラブによる演奏。
4月14日には東日本大震災の被災地の福島県の物産展を開催する。
 今年のワシントンは暖冬で、ポトマック川沿いの桜は例年より早く3月下旬に見ごろを迎えると予測している。
[参考:時事通信社、共同通信]

AKB48、ワシントンで公演=桜寄贈100周年イベント(時事通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2010.4.11 エライザ・シドモア提唱によるワシントンD.C.のポトマック河畔の桜が2012年に100周年を迎える
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足利市・樺崎寺跡 浄土庭園北東部に13世紀末から14世紀中頃の導水路跡を確認

2012年03月09日 | Weblog
 足利市教委は7日、鎌倉時代初期に足利義兼が創建したとされる国史跡「樺崎寺(かばさきでら)跡」(同市樺崎町)の2011年度発掘調査で、「浄土庭園」北東部に、近くを流れる樺崎川から池までを結ぶ約100mの導水路(幅約2・6m、深さ約1・2m)の跡を確認したと発表した。
 上流部を砂利で埋め、混入物を濾過する浄化システムを備えた構造とみられる。 その下流部には井戸状に2mほど掘り下げた跡があり、湧き水を得る井戸の役割があったらしく、川の水と湧き水を得る二重構造の導水施設だった。 内部からも大量の砂利が見つかった。また、素焼きの「かわらけ」や陶器の破片など約400点も出土した。 この導水路は13世紀末から14世紀中頃にかけて整備されたと推定される。
 この導水路より古い時代のものとみられる導水の遺構もあるが、浄化構造は見当たらなかったという。南北朝時代にかけて、初期の導水施設を改修する際に浄化システムが採用されたらしい。
 現場説明会が10日(土)午前10時半~正午に開かれる。
[参考:朝日新聞、東京新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 樺崎寺跡
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千葉市・大膳野南貝塚 縄文後期(4000年前)の漆喰を用いた国内最古の住居跡

2012年03月09日 | Weblog
 千葉市緑区にあるおよそ4000年前の縄文時代後期初め頃を中心とする「大膳野南貝塚(だいぜんのみなみかいづか)」から貝を砕いて作った「漆喰」を用いた国内最古の住居の跡が発掘された。 縄文人の巧みな知恵がうかがえる貴重な資料。
 遺跡からはこれまでに98軒の竪穴住居跡が発掘されているが、このうち2軒で、「漆喰」が床一面に敷き詰められていたことが分かった。 ほかにも、炉穴の内部、炉周辺の床にも白土が使用されていた。 白土は貝殻を焼いて粉末状にした後、水や土と混ぜたもので、現在の漆喰と同様消石灰が主成分と判明した。
 これまで国内で漆喰が住居に使われたのは平安時代ごろといわれ、漆喰自体を使った例としても、8世紀ごろが最も古いと考えられていた。国内で漆喰が使われた最も古い例は、8世紀初め頃の奈良県の高松塚古墳の壁画などが知られていたが、今回の発見はそれより2500年ほど遡ることになる。
 5日午前10時に現地説明会が開かれた。
[参考:2012.3.4NHKニュース、2012.3.8読売新聞]
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桜井市・松之本遺跡 ほぼ完全な子持ち勾玉が出土

2012年03月09日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が8日、縄文時代から中世にかけての集落跡「松之本遺跡」(桜井市粟殿)で、古墳時代後期(6~7世紀前半)に制作されたとみられる子持ち勾玉がほぼ完全な状態で見つかったと発表した。
 同遺跡の古墳時代の集落跡約北東隅の水路跡で長さ約8.1cm、幅約5.1cm、厚さ約2・5cm、重量130gの子持ち勾玉が出土した。親勾玉の腹部に子勾玉(3.2cm)がある。 紀の川市の貴志川流域西岸で採取される滑石を使用しているという。 今回の出土場所近くで上半分が欠けた子持ち勾玉(長さ約5.3cm)も見つかった。
 県内の子持ち勾玉の出土例は過去に56点あり、うち32点が三輪山周辺の遺跡で確認されているという。
 今回の調査地からは5棟の掘っ立て柱建物跡が出土しており、いずれも軸線が北東約1・5kmの三輪山に向いていることから、三輪山の神に豊作や繁栄を願った祭祀用の子持ち勾玉ではないかとしている。
 出土した子持ち勾玉や土器片などは10~25日、橿考研の付属博物館(橿原市畝傍町)で特別展示される
[参考:産経新聞、NNN読売テレビ、読売新聞]
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京都市・法住寺殿跡 南側の発掘調査で建春門院が造営・居住した最勝光院跡を確認

2012年03月09日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所が8日、平安時代後期、後白河法皇(1127-1192)の后で平清盛(1118-1181)の義理の妹、建春門院(平滋子、1142-1176)が造営し居住した最勝光院の建物跡が、同市東山区の法住寺殿跡で見つかったと発表した。 最勝光院跡が確認されたのは初めて。
 法住寺殿跡内の南側を発掘調査し、西に向かって傾斜する地面を平らにした工事跡が4カ所見つかった。 盛り土にこぶし大の石と粘土を交互に重ねる「石積み地業」と呼ばれる工法で、最大で6段(厚さ約65cm)あった。 同様の工法は、白河天皇発願による同市の鳥羽離宮などでも確認されているという。 一帯は建春門院の住居である最勝光院の「南御所」にあたる可能性があるという。
 法住寺殿は後白河法皇の院政の舞台となったことで知られる。東西600m、南北1.1kmの広大な敷地を有し、造営は1161年頃に始まり、御所や神社などが併存。平等院(京都府宇治市)をモデルに承安3年(1173)に建てたとされる最勝光院や、平清盛が建てた蓮華王院(本堂・三十三間堂)があったが、襲撃や火災によって現在は三十三間堂などしか遺構は残っておらず、最勝光院も鎌倉時代の正安3年(1301)の火災で焼失してから再建されていない。
 現地説明会は10日(土)午前10時から開かれる。
[参考:共同通信、朝日新聞、産経新聞]


最勝光院の土台と見られる遺構 法住寺殿跡から出土(朝日新聞) - goo ニュース
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松江市・石屋古墳 力士や武人など人物埴輪を復元し5世紀中頃と判明

2012年03月09日 | Weblog
 島根県古代文化センターは8日、松江市の石屋古墳(いしやこふん)で1978年に出土した埴輪片を復元したところ、力士や武人だったことが分かり、5世紀中頃のものと判明したと発表した。 人物埴輪としては国内最古級という。
 確認された人物埴輪は力士2点、武人2点、椅子に座った人物の椅子部分1点、貴人の可能性がある人物1点で、同時期の力士、武人、椅子に座った人物の発見は初めて。 いずれも、細部まで描写する初期の特徴がある。
 力士とみられる1体は、全身立像(推定全長110~120cm)の下半身部分(高さ約80cm)のみがほぼ復元できた。橿原市の四条古墳群で見つかった5世紀後半の力士埴輪を遡るという。
 ほかに国内最古級の馬形埴輪2点もあった。
 石屋古墳は一辺約40mの方墳で、1978年の調査で約1万点の埴輪の破片が出土した。 発掘当時は5世紀後半頃のものと推定されたが、2010年10月以降、同古墳から出土した土器を全国の他のものと比較するなどの調査を進めた結果、時期が特定された。
 復元した埴輪は10日から県立八雲立つ風土記の丘(松江市)で展示される。(3月20日まで) また、22日からは県立古代出雲歴史博物館(出雲市)で展示される。(5月21日まで)
[参考:時事通信、共同通信、日本海新聞、毎日新聞]

埴輪群、5世紀中ごろと判明=「出現期解明手掛かりに」―松江・石屋古墳(時事通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2008.9.3鳥取市・青谷上寺地遺跡 弥生時代の盾から緑土 アジア最古の使用例
 緑色顔料は、松江市東津田町の石屋古墳で出土した埴輪の盾に塗られたり、熊本市の千金甲一号墳など装飾古墳の壁に描かれた幾何学模様に使われているが、いずれも5世紀後半。


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堺市・孫太夫山古墳 周濠跡から仁徳天皇陵と同様の埴輪片出土

2012年03月08日 | Weblog
 堺市が7日、仁徳天皇陵とされる大山古墳(5世紀中頃)の陪塚の一つと考えられている堺市の孫太夫山古墳(まごだゆうやまこふん)の周濠跡から、同時期の埴輪片が多数見つかったと発表した。 同古墳で埴輪の出土は初めて。
 孫太夫山古墳は全長約56m、後円部径48m、前方部幅30mで、前方部が短い帆立貝形の前方後円墳で、大山古墳の周濠の約30m南にある。後円部だけは宮内庁管理となっており、世界文化遺産登録を目指す大阪府の百舌鳥・古市古墳群の一つ。
 出土した埴輪片は、円筒埴輪と朝顔形埴輪。 復元した場合、多くは直径約20cmの小型のものとみられる。 いずれの表面にも仁徳陵やその陪塚で出土した埴輪と同様に、仕上げの工程で木べらの動きを止めた際にできる線の間隔が共通していることから、同時期のものと判定した。 仁徳天皇陵の「陪塚」だった可能性が高まったとしている。
 仁徳陵の埴輪と同じ工房で作られた可能性も高いとみている。
 現地説明会は10日(土)午後1時~4時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、堺観光コンペンション協会HP]
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海住山寺「阿弥陀浄土図」と興聖寺「兜率天曼荼羅」 両掛け軸が鎌倉時代に一対で製作

2012年03月07日 | Weblog
 奈良国立博物館(奈良市)が6日、木津川市の海住山寺(注1)が所蔵する鎌倉時代の掛け軸「阿弥陀浄土図」が、軸木の墨書から、京都市上京区の興聖寺(注2)にある重要文化財「兜率天曼荼羅(とそつてんまんだら)」と一対のものとして製作された可能性が高いと発表した。大きさはともに縦約1・8m、横約2m前後。
 興聖寺には、慶長年間(1596-1615)に海住山寺から伝わった一切経も残るため、曼荼羅も同時期に渡ったとも考えられるという。
 今年は解脱上人800年遠忌(おんき)の年に当たる。 奈良国立博物館では、特別展「解脱上人貞慶-鎌倉仏教の本流」が4月7日~5月27日から開かれ、両掛け軸も展示される。
[参考:京都新聞]

(注1) 海住山寺(かいじゅうせんじ)
真言宗智山派 補陀洛山海住山寺  (京都府木津川市加茂町)
 天平七年(735)聖武天皇が、大盧舎那仏造立の工事の平安を祈るため、良弁僧正に勅して一宇を建てさせ、十一面観音菩薩を安置して、藤尾山観音寺と名づけたのが始まりという。
 保延三年(1137)に焼失し、承元二年(1208)十一月、笠置寺にいた解脱上人貞慶(1155-1213)が廃址に草庵を営なんで補陀洛山海住山寺と名づけ中興した。
当初は、法相宗であったが、近世に真言宗に転じた。

(注2) 興聖寺(こうしょうじ)
臨済宗興聖寺派本山 円通山興聖寺 (京都府京都市上京区堀川通寺之内)
 慶長8年(1603)古田織部正重然(しげなり、1544-1615)により、虚応円耳(こおうえんに、1559-1619)を開山として創建。 当時は興聖顕密自得禅寺と称し、八宗兼学の道場であったという。 現在は、臨済宗の相国寺派から分かれて興聖寺派の本山である。
 織部寺とも呼ばれる。 古田織部正重然や絵師・曾我蕭白(しょうはく、1730-1781)の墓がある。

 備考:曾我蕭白は曽我蕭白とも書かれる。


2012.4.24追記
海住山寺で貞慶800年遠忌 
 海住山寺は5月10日午後2時から、貞慶の800年御遠忌法要を行う。
 興福寺の僧だった貞慶は1193年に笠置寺(同府笠置町)に移住。1208年には海住山寺に移って寺を再興、亡くなるまで過ごした。
 当日は興福寺と、海住山寺が所属する真言宗智山派の僧侶ら計約20人が参列する。
 奈良国立博物館の特別展「解脱上人貞慶―鎌倉仏教の本流―」で展示されている「十一面観音立像」(平安時代)は奥の院の本尊で、貞慶が手元に置いていた念持仏と伝わる。 長年、「解脱上人坐像」と一緒に安置されていたという。
[参考:読売新聞]
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熊本市・熊本城 櫓門(高麗門)の土台や根固め石、瓦を発見

2012年03月06日 | Weblog
 熊本県教委は5日、熊本市新町・横手地区(高麗門踏切~下馬天神踏切の約200m区間)の調査で、細川時代の熊本城の城門の土台や、加藤、細川両時代の菩提寺につながる参道などが見つかったと発表した。
 高麗門踏切そばには、慶長3(1598)年頃加藤清正が、熊本城西方からの敵を防ぐため築いた高麗門があり、細川時代に櫓門に建て替えられたという。 明治初期には解体されている。
 同踏切北側で、櫓門の土台だった土が固められた跡(3×14m)、門柱の礎石下の根固め石、細川家家紋が入った瓦や清正時代の慶長4年の瓦も見つかり、高麗門もほぼ同じ場所にあったとみられている。
 また、両踏切区間では、土層断面に時期の異なる道路面も見つかった。加藤家の重臣らの菩提寺への参道(注1)を、後の細川家が拡張整備した跡と考えられている。
[参考:熊本日日新聞]

(注1) 2011年12月09日付け熊本日日新聞で、「加藤・細川家臣団の墓 建立時のまま現存 熊本市・禅定寺」と題して、禅定寺は、16世紀に創建され、1137基ある墓のうち、489基が江戸期に建立されていると報じている。 禅定寺は、高麗門跡の西200mの距離にある。 菩提寺の一つであろう。
 
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新宿区立小学校展 四谷第六小学校

2012年03月05日 | Weblog
      
   平成20年度に校庭が芝生化されました。 (写真は、2010年11月撮影)

 新宿歴史博物館で開催されている「新宿区立小学校―受け継がれた学び舎の宝―」(2月18日~4月15日)を見てきました。
 残念ながら、思っていたような内容と出展数、図録ではなかったです。
 私は、四谷第六小学校の卒業生。 もっと、たくさんの内容と写真があるかと思っていましたが、予想以上に少なかったです。
 図録も、校歌が1番までしかないのでは尻切れトンボ。 校歌は3番まであります。 四谷第六小学校のホームペジにきちんと載っていますので割愛します。 私の持っている約50年前の卒業文集と漢字の部分もまったく同じです。(ただし、元は漢字の部分がたくさんあったようです。)
 校歌の作詞は関房司氏、作曲は長谷山峻彦氏です。 長谷山峻彦氏は、第4代校長。また初代新宿区立西戸山小学校初代校長で、同校校歌の作曲もしているようです。音楽家かつ教育者です。 関氏は5代目校長。教育者で、「小学校 道徳指導の計画と展開」(1958)、「新そろばん物語」(1947)の著書があります。

 さて、四谷第六小学校のお宝が1点飾られていました。 状態はあまりよくありませんが、第29代内閣総理大臣を務めた犬養毅(1855-1932)の扁額で「業精干勤」(注1)と記されていました。 いつ頃、どのような形で四谷第六小学校に収蔵されたかは説明がありませんでした。

(注1) 唐の韓愈の『韓昌黎文集』《進學解》より「業精干勤荒干嬉 行成干思毀干隋」の一部。
 (訳)学業は、努力すれば精しく、遊び楽しめば荒(すさ)む。 行ないは、思慮すれば成り、気ままにすれば失敗をする。

(原文)
唐・韓愈(768-824) 『韓昌黎文集』 第十一巻 《進學解》
國子先生。(略)誨之曰。
業精于勤、荒于嬉。行成于思、毁于随。方今聖賢相逢、治具畢張、拔去兇邪、登崇良。占小善者率以録、名一安藝者無不庸。爬羅剔抉、刮垢磨光。盖有幸而獲選、孰云多而不掲。諸生業患不能精、無患有司之不明。行患不能成、無患有司之不公。(略)

 犬養毅の邸宅が、同じ学区内(新宿区南元町)にあったようだ。現在、上智大学明泉寮となっている。



2018.8.5追記
阿川佐和子さんは後輩であった
土曜日の「サワコの朝」は好きな番組で、録画をしておいて後から見ている。
最近、阿川佐和子(1953-)さんが四谷第六小学校の同窓生(後輩)であることがわかった。 彼女は5才下だから、私が小学校6年生の時は1年生。 しかし4年生の時(1966)に中野区鷺宮(注1)から転校してきたというから、同時期に通うことはなかったようだ。 鷺宮時代は中野区白鷺1丁目の団地に住んでいたという。「めぐみ幼稚園」(阿佐ヶ谷北)、若宮小学校(白鷺)に通っていたようだ。
同じ鷺宮に住んでいた小泉八雲の三男坊・清(1900-1962、画家)が自殺した年は、同じ町に住んでいたことになる。 私も、平成12年から平成22年まで、鷺宮に住んだ。

2018.9.20追記
<四谷第六小学校沿革 (一部、西戸山小学校に関する沿革を併記)>
大正15年4月1日 「東京市四谷第六尋常小学校」として開校
昭和22年4月1日 「四谷第六小学校」と改称、第4代校長 長谷山峻彦氏就任
昭和25年5月 校歌制定
昭和26年8月 西戸山小学校 初代校長 長谷山峻彦氏が就任
昭和26年8月 第5代校長 関房司氏就任(~昭和32年3月)
昭和26年9月 「四谷第六青空保育園」を併設 初代園長 関房司氏が兼任
昭和27年2月17日 西戸山小学校校歌制定(作詞・校歌作成委員会、作曲・長谷山峻彦氏)
昭和32年4月 西戸山小学校 第2代校長 関房司が就任
昭和32年4月 第6代校長 本木栄一氏就任
昭和33年4月 第7代校長 樋口賢氏就任
昭和36年4月 「新宿区立四谷第六幼稚園」開園 初代園長 樋口賢氏
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明日香村・甘樫丘東麓遺跡 7世紀前半~中頃の窯や炉の床面の遺構が見つかる 工房跡か?

2012年03月03日 | Weblog
 奈良文化財研究所が2日、飛鳥時代の大豪族、蘇我蝦夷と入鹿親子の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおかとうろくいせき)で、7世紀前半~中頃の窯や炉の床面の遺構とみられる高熱で変色した土が確認されたと発表した。 蘇我氏の工房跡の可能性もあるという。
 日本書紀によると、644年、蝦夷の邸宅が丘の上に、入鹿の邸宅が丘の谷間に築かれたとされる(注1)。 丘の南東端の谷底近くを調査したところ、地面に赤く焼け焦げて変色した被熱面(約10㎡)が見つかった。 焦げて黒く固まった地層も周囲で2カ所確認された。
 また、蘇我氏が滅ぼされた後の7世紀後半に、埋め戻された跡も確認された。 これまでの奈文研の調査により、今回の調査地の近くでは、蘇我入鹿の邸宅とみられる建物跡や石垣も見つかっている。
 現地見学会は4日(日)午前11時~午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞]

(注1) 日本書紀・皇極天皇三年(644年)冬十一月に、蘇我大臣蝦夷・児入鹿臣、家を甘樫岡に双べ起(た)つ。大臣の家を呼びて、上の宮門と曰う。入鹿が家をば谷の宮門と曰う。(略) 家の外に城柵(きかき)を作り、門の傍に兵庫(つわものぐら)を作る。門毎に、水盛(い)るる舟一つ、木鈎(きかぎ)数十を置きて、火の災いに備う。恒に力人(ちからひと)をして兵(つわもの)を持ちて家を守らしむ。(「岩波文庫」より)

過去の関連ユース・情報
 甘樫丘東麓遺跡
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筑西市・宮後東原遺跡 平安時代前期の土師器に「小長谷部継成」名

2012年03月02日 | Weblog
 茨城県教育財団が29日、筑西市宮後の宮後東原遺跡((みやごひがしはらいせき)(注1)から「小長谷部継成」とへらで刻まれた土器が見つかったと発表した。
 昨年11月から発掘調査した結果、竪穴住居跡15軒、掘っ立て柱建物跡13棟など、奈良、平安期の集落跡を確認した。
 井戸跡からは多数の土器が出土した。土師器の甑(こしき、口径20cm、高さ16cm)の側面に「小長谷部継成」と、焼く前に人名が刻まれていた。同氏の名(注2)は東日本で確認されているが、県内では、石岡市内の遺跡で「小長谷」と記した墨書土器の発掘例が1件あるだけで、同氏の存在自体が明らかになっていなかった。 土器の形などから平安前期に、小長谷部一族が住んでいたとみられる。
 同じ井戸などから墨書土器27点が出土し、土師器の裏面に「宮城」「山神」「大田」などと書かれていた。奈良時代の硯も出土し、古くから、この地に文字文化が浸透してきていたことが分かるとしている。
 現地説明会は3日(土)午前10時半から開かれる。

(注1) 同遺跡は平安時代の「真壁郡」に位置する。
(注2) 「小長谷部(おはつせべ)」は5世紀後半、武烈天皇を支えた氏族として知られ、山梨県や長野県など東日本に多いとされる。
[参考:茨城新聞、毎日新聞]

2012.3.8 追記
 昨日、初めて多摩ニューセンターに行ってきました。
 近辺には、サンリオピューロランド、東京都埋蔵文化財センター、多摩美術大学美術館、パルテノン多摩などがあります。
 パルテノン多摩の歴史ミュージアムでは企画展「消えた寺が語るもの 多摩市の廃寺と寿徳寺の周辺」が開催されており、真慈悲寺についても何か紹介されるということなので、期待をしていました。 残念ながら、期待しているほどの展示は少なかったですが、常設展の方で、武蔵国一之宮小野神社について紹介されており、小野神社の初見史料として宝亀3年(772)の太政官符(複製)が展示されていました。 その中に、「小長谷部廣麿」の名がありました。 この太政官符は、歴史ミュージアムで購入した図録「特別展 武蔵国 一之宮 多摩市一ノ宮小野神社の変遷」でも載っていました。

太政官符神祇官
応奉幣帛神社事
右得武蔵国司去年九月廿五日解偁以今月十七日入間郡正倉四宇着火所焼糒穀惣壱万伍佰壱拾参斛亦滅百姓十人忽臥重病頓死二人仍卜占在郡家西北角神□□出雲伊波比神祟云我常受給 朝庭幣帛而頃年之□□給。因茲引率郡家内外所有雷神発此火災者仍勘□□外大初位下小長谷部広麿申云実常班奉 朝庭幣帛□神也而頃年之間不為給下者仍検案内太政官去天平勝宝七年十一月二日符偁武蔵国預幣帛社四所多磨郡(小)野社加美郡今城青八尺稲実社横見郡高負比古(乃)社入間郡出雲伊波比社者官符灼然而時々班奉幣帛漏落者右大臣宣奉 勅依例施行者官宜承知准 勅施行符到奉行
参議正四位下行右大弁兼右兵衛督越前守藤原朝臣百川 左大史正六位上会賀臣真綱
宝亀三年十二月十九日

 この中に、「外大初位下小長谷部広麿」と記されています。 名を「長谷部広麿」と判断している人もあるようですが、大宝律令の位階に「外大初位」がありますが、「外大初位小」はないので、したがって、「小長谷部広麿」と読むのではないでしょうか。
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奈良市・平城京跡 長屋王邸北側の側溝で出土した墨から牛のコラーゲンを検出

2012年03月02日 | Weblog
 奈良女子大学(A大)と奈良文化財研究所(B研)の調査で、平城京跡で出土(注1)した奈良時代の墨から膠(にかわ)の原料に使われた牛のコラーゲンが検出(注3)された。 出土した墨から原料の動物が明らかになるのは初めて。
 国内の墨の歴史は古く、推古18年(610)に高句麗から渡来した僧侶が墨を作ったと日本書紀が伝える(注3)。奈良時代の正倉院文書では、牛皮の膠を石山寺(大津市)の塗装に使ったという(注4)。
 墨が使用された時期は、左大臣だった長屋王(684-729)が謀反の疑いをかけられて自殺し、皇后宮に改変され頃という。

(注1) 平成元年に長屋王邸北側の側溝(同市二条大路南1丁目)から出土した。
(注2) 検出されたタンパク質をA大理学部が分解して調べたところ、結合したアミノ酸(ペプチド)の質量が牛のコラーゲンと一致した。
(注3) 日本書記・推古天皇十八年春三月の条に、「麗の王、僧曇徴と法定とを貢上りき。曇徴、五経を知り、またよく彩色及び紙墨を作り(略)」と記されている。
(注4) 8世紀の正倉院文書に、石山寺の柱を白土で塗る際、白土に混ぜた膠の原料にウシの皮が使われたとする記述がある。
[参考:奈良新聞、朝日新聞、産経新聞、NHKニュース]
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笛吹市・甲斐国分寺跡 講堂跡の南側から広範囲にわたり石敷きが出土

2012年03月02日 | Weblog
 笛吹市教委が進めている甲斐国分寺跡(同市一宮町国分の発掘調査で、講堂跡の南側160㎡(20m×8m)を発掘したところ、広範囲にわたって奈良時代の創建時の石敷きが見つかった。
 石が隙間なく敷かれている部分もあり、高度な技術で造られていたことの証しという。
 現地説明会が3日(土)午前10時から開かれる。
[参考:山梨日日新聞]
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出雲市・神門寺付近遺跡 大溝を確認、3日に現地説明会で水切瓦なもど紹介

2012年03月02日 | Weblog
 出雲市塩冶町の神門寺付近遺跡(かんどじふきんいせき)(注1)において、昨年10月以降の調査で、奈良時代から江戸時代にかけて同じ場所で、幅約5mの大溝が何度も掘られていたことが初めて確認された。奈良時代に豪族が建てた氏寺の区画を示す遺構と考えられるという。
 山陰・山陽の一部地域に特徴的な水切瓦(奈良時代後期)(注2)などの展示もある。
 出雲市文化財課は、発掘調査現地説明会を3日(土)午後1時半~2時半に開く。

(注1) 神門寺は、『出雲国風土記』に記載された新造院(「朝山郷」または「古志郷」)の一所に比定する説がある。
(注2) 水切瓦は軒丸瓦の下端部を削って三角状に尖らせたもの。これまで、備後北部を中心に出雲・安芸・備中の一部に分布している。

[参考:毎日新聞、産経新聞、出雲市HP]
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