<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





懐かしさに誘われてアマゾンプライムで「大草原の小さな家(字幕版)」を見始めたら、すっかりその魅力に捕まってしまった。
子供の頃にすでに見ているのにも関わらずだ。
多分、新型コロナウィルスで世の中の雰囲気が陰々滅々になってしまっているからかもわからない。

この大草原の小さな家。
改めて見てみると少女ローラ・インガルスが語るアメリカ開拓時代の家族の物語はなんと人間味に溢れた温かさに溢れていることだろう。
つくづく感心する。
また米国の中部ミネソタ州の美しい景観が清々しい。

物語は平凡だが、意味深い。
このドラマはキリスト教の精神に基づいて作られているというが、日本人の私にも心に響くものがあるのだ。

まずはローラの家族がいい。
若く逞しい誠実なお父さん。
お父さんが留守をしていてもしっかり家を守るお母さん。
この際シリーズの終盤でお父さん役のマイケル・ランドンとお母さん役のカレン・グラッスルの関係がどうなったかは忘れることにしよう。
そしてメアリー、ローラ、キャリーの三姉妹と犬。
犬が我が家の愛すべきアホ犬と似ていないこともないのだが、こっちはそこそこ賢そうで羨ましい。

近くの街・ウォルナットグローブの人々も実に魅力的だ。

とりわけのオルソンさん一家は今でもテレビを見ずに名前が出てくるくらい印象的だ。
誠実なおじさんオルソンさん本人。
クソババアのオルソン婦人。
クソババアの性格をそのまま受け継いでいる意地悪ネリー。
実に楽しい。
じゃりン子チエのマサルと腰巾着、ドラえもんのジャイアンとスネ夫にも通じる悪役ながらも愛すべきキャラクターたちだ。

ヒゲモジャのエドワーズさんも私の好きなキャラクターだ。
ちょっと屈折した性格を持っている熊みたいな人だが、その根底は非常に優しく子どもたちとも仲良しだ。
またオルデン牧師の説教は時に痛烈にストレートで優しくないところが人間らしい。少々頑固な宗教家というところがリアルだ。
お医者のベイカー先生は街でたった一人の医者である。
要所要所に登場するがスタートレックの船医とは多少とも役割が違うのだが、医者が一人という共通点はなかなかアメリカドラマとして面白いように思う。

で、共通して言えるのは古き良きアメリカの普通の生活が描かれていること。
日本の時代に置き換えると明治維新の頃のアメリカなのだ。
この普通の生活を見ることで、非常事態の現在を束の間でも意識から放すことができるのは精神的には大きなメリットということができる。
それに今回初めて英語版で見たのだが、なかなかわかりやすい優しい英語で話されている。
スタートレックのように分けのわからない科学用語がどんどん出てきて頭が混乱することがなくていい。

「大草原の小さな家」
日本人にも心あたたまる家族のドラマなのだ。


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カミュの「ペスト」がベストセラーになっているという。
今回の新型コロナウィルスの拡散が進行する中、このような小説に注目が集まるのは当然の成り行きだろう。

パンデミックを扱った映画も少なくない。
例えばダスティン・ホフマンが主演した「パンデミック」、草刈正雄やオリビア・ハッセーが主演してた「復活の日」、ロバート・ワイズが監督したSF「アンドロメダ」がすぐに思い浮かぶところだ。
小松左京原作の「復活の日」は見たことがないのだが「パンデミック」は小品ながらもなかなかおもしろい映画だった。
冒頭、伝染病が蔓延して救いがたい状態になっているキャンプに対して燃料気化爆弾が爆撃機によって投下されるシーンはかなり衝撃的だった。
今回に例えれば武漢市を中国軍自ら爆撃すようなものだ。
「アンドロメダ」は特殊撮影を「2001年宇宙の旅」「未知との遭遇」のダグラス・トランブルが担当していたので観たくて仕方がなかった映画だった。
ところが実際に見る機会ができて映画館に行ってみると途中で寝てしまうという体たらく。
映画としては悪くなかったと思うのだがきっと静かなSF映画だったので寝てしまったのだ。
なお同様に途中で寝てしまったSF映画に「惑星ソラリス」がある。

テレビではパンデミックを単体で扱ったドラマの記憶は少ないが、シリーズの中で頻繁に題材にしてドラマ化していたものに「スター・トレック」がある。
スタートレックは私の大好きなSFTVシリーズなのだ。

初期のスタートレックは今の映画版スタートレックと大きく異なりアクションは重要視されず各エピソードには社会的テーマが存在した。
この社会的テーマが子供向けと思われていた当時のテレビSFシリーズの印象を大きく突き崩すことになった。
そして結果的に今日でも続く人気シリーズの下地になっている。

放送が開始された1960年代後半、アメリカはベトナム戦争真っ只中だった。
外国の戦争をイデオロギーのために戦うことの無意味さが若者を中心に叫ばれていたころで深刻化する東西冷戦、人種差別問題や核爆弾や化学兵器など科学の進歩で生み出される負の要素などがあちらこちらにエッセンスとして散りばめられたのだ。
SFにすることで政府が主導する戦争や社会システムの盲点などを鋭く突くことが若い視聴者を中心に観る者の心を掴んだのだった。

パンデミックや細菌戦争は重要なテーマで、それらを扱ったエピソードは少なくない。

「400才の少女」というエピソードでは細菌戦争のために大人が全滅してしまった惑星が舞台になっている。
大人になると死んでしまう伝染病と思春期を迎えた少女の心を上手くからませた優秀なエピソードなのであった。

細菌戦争といえば「細菌戦争の果て」というエピソードも強く印象に残っている。
人類が避け得た細菌戦争を実行してしまたある惑星がある。
ここではコム族とヤン族という2つの種族お互いのイデオロギーで争っていた、というストーリーだ。
まさに東西冷戦の虚しさを取り扱った作品だった。
このエピソードのハイライトは勝利を得たヤン族が「神の言葉」と捉えていた有名な文章なのであったが、その意味の履き違えは細菌戦争によって文明が破壊され、真の意味を失ってしまうという恐ろしさを伝えていたのではないかと思えるのだ。

新型コロナウィルスのパンデミックは中国の隠蔽とそれを養護する世界保健機構により発生したと言っても過言ではない。
その後の両者は責任はそれぞれにまったくなく、中国に至っては米国の陰謀説を唱えだしたぐらいだ。
ある意味、新型コロナウィルスは一種の細菌戦争といえなくもない。

現に中国マネーはコロナで疲弊した欧州の企業の買収を始めている。

細菌戦争ならぬパンデミックの果てにあるものは?




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米テレビシリーズ「スピンシティ」はアメリカらしい秀逸なコメディドラマだった。
ニューヨーク市長と彼を取り巻くスタッフや市議会員、市民らが織りなす社会風刺ドラマ。
それもかなりセンスのいい上質の番組なのであった。

CSのスーパーチャンネルで放送されていたこの番組では「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や一連の映画作品とは違ったマイケル・J・フォックスを見ることになった。
彼の役どころはニューヨーク市長補佐。
市長を立てながらどのように市政をこなしていくかという、知的で行動力を要する仕事だ。
そもそもこういう「政治の舞台」をコメディにする能力に関しては日本人にはまったくといっていいほど備わっておらず、同様の番組を日本では見ることはない。
練られたアイデアがトントン拍子で進む筋書き。
個性豊かな各キャラクター。
時代を取り入れたセンスの良さ。
あっと驚くようなゲスト出演者が登場。
スピンシティは放送から20年近く経過したいま見ても楽しめる古くならないコメディだ。

そもそもどうしてこういうアイデアが生まれたのか。
大いに関心があった。
ツインタワーが遠目に臨める風景カットが時々出てくる番組は9.11で世界が変わってしまう以前の平和でノホホンなニューヨークであるというところも安心して見ることのできる要素だ。
当時の実際の市長はジュリアーニ氏だったわけだが、番組内に登場するランドール市長はそのフィクションさに違和感を抱かせない風格とおかしさを併せ持っていた。
そして市長を支える「背は低いがエリート敏腕補佐官」がマイケルなのであった。

先日読んだ「ラッキーマン」でこの番組の素となったのがマイケル・ダグラス主演、ロブ・ライナー監督の「アメリカン・プレジデント」であったことを知った時、少なからず驚いたのであった。
なぜなら、あの映画にマイケル・J・フォックスが脇役で出ていたことを完璧に忘れていたからなのであった。
彼の役どころは大統領補佐官。
マイケル・ダグラス演じる大統領は画面に頻繁に登場するが、マイケル演じる補佐官はそんなに画面に出てこなかったように記憶する。
今になって、
「お、あれマイケル・J・フォックスちゃうんか」
と彼が脇役をやっていることに少なからず驚いたことを思い出したのであった。

その裏側では、彼は映画での役割に限界を感じていたということがある。
主演する映画はことごとく失敗。
その証拠に、外国の我々には彼の記憶は薄れて、主演作の題名なんか言える人は殆どいない・
そんな時に「君には不十分な仕事かも知れないが」とオファーされた脇役を甘んじて受け入れた。
これはなかなか出来ないことだ。
ところがその裏側では、彼はこれをヒントにテレビへの復帰を模索した。
そしてマイケル・フラハティというNY市長補佐官の役どころで復活したのであった。
しかも彼は「スピンシティ」に製作者という立場で番組に参加。
制作会社も「バック・トゥ・ザ・フューチャー」以来付き合いのあるスピルバーグおドリームワークスなのであった。
病気療養に専念することを理由にチャーリー・シーンに主役を譲り番組を降板してからも製作に関与して活躍を続ける姿には感銘さえ受けるものがある。

先年「マイケル・J・フォックス ショー」というテレビシリーズで役者としても復活した。
パーキンソン病の治療目的で引退していたニュースキャスターが復活して活躍。
というコンセプトで、コメディのテンポも相変わらずの快調さだった。
ただ、今度はパーキンソン病の病状を隠さずに出演していたことが多少共影響があったのか、面白いけど「大変だね」と思ってしまうことも少なくなく、ひとつのシーズンで終了してしまった。

いずれにせよ、テレビの俳優から映画に進出し、そしてテレビに復帰した人気俳優は色んな意味で人びとに勇気と笑いを送り続ける。
映画と違って好きな時間に居間のテレビの前に座ってみるマイケル・J・フォックスアワーは近年少なくなったアメリカの良質なコメディを楽しめる貴重な時間なのである。




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来年で放送開始50周年を迎える米SFTVシリーズ「スター・トレック」。
その50周年の記念を待たずに亡くなったのがミスター・スポック演じるレナード・ニモイ。
享年83歳。
昨年末に亡くなった高倉健と同じ年齢なのであった。

私は中学生の特、スタートレックを初めて見た。
当時はスタートレックではなく「宇宙大作戦」というタイトルで放送されていた。
深夜のテレビ。
スイッチをひねり、チャンネルを8に合わせる。
深夜独特のコマーシャルが終わると14インチのブラウン管テレビに映し出されたのが流れるような星空の中を飛行してくる宇宙船エンタープライズ号。
ブリッジが映しだされ、主要な登場人物が何やら会話しているシーンでだいたいは始まるのだが、そのなかで「あっ」と印象に残ったのが耳の尖った宇宙人ミスタースポックなのであった。

あのシリーズはSFドラマというよりもどちらかというと人間ドラマが主体となっていた。
未来の世界、しかも恒星間飛行をする宇宙船で様々な惑星を訪れることにより、ディフォルメされたリアルな社会問題や政治テーマなどを描くことでその内容は、当時の他のSFシリーズとはまったく一線を画すものになっていたのだ。
今ではかなりお粗末に見えてしまう特撮でも、物語として現在でもなお見るに耐えうるクオリティを生み出しているのはまさにこの部分といえるだろう。
このシリーズの特徴は様々な肌の色の人々や異なる文化を持った人々が同じ船に乗ってミッションをこなしているところだったが、その中でもひときわ異彩を放っていたのがニモイ演じるスポックなのであった。
スポックはその個性、風貌ともにSF世界を超越した独特のリアリズムを備えていたのであった。

放送開始の1966年といえばアメリカは2年前に起こったトンキン湾事件を経てベトナム戦争の泥沼にどっぶりと浸かってしまった頃であった。
外国の紛争に首を突っ込むことが正しいのか。
イデオロギーのためにアメリカの若者の命を捧げてしまっていいのか。
アメリカの正義は本当に世界の正義なのか。
などといった、今も中東政策などで交わされる疑問が投げかけられていた。
さらにシリーズ放送中の1968年にはキング牧師が暗殺されるというショッキングな事件が発生し、番組には人種差別や思想の違いなどによる偏見への疑問提起などがなされるようになった。

あるエピソードで登場したある惑星の住人は顔の肌の色が左右が白黒のツートン。
2種類の民族が存在していてお互い殺戮を繰り返し、いがみ合っているという物語だ。
「どうして君たちは闘い続けているんだ?」
と訊ねたカーク船長に彼らは答えた。
「ヤツは右側が白色で、俺は黒だ」
たったそれだけのことで戦争に発展する。
まさに人種差別との闘いに明け暮れるアメリカという社会に対する痛烈な批判なのであった。

レギュラーのキャラクターであったミスター・スポックは、まさにそういう複雑でデリケートなアメリカ社会の1つのサンプルでもあった。

かれは純粋の宇宙人ではない。
地球人とバルカン星人の混血。
常に地球人の感情と、バルカン星人としての論理性という一種の感情に挟まれ苦悩する姿は、混血が普通であるアメリカ社会のごくありふれた、しかし重要な心の問題とリンクしていたのであった。

そのミスタースポック。
バルカン人のキャラクターを作り上げたのは、もちろん製作者や監督などであったわけだが、ニモイ自身が俳優としてスポックを演じるために生み出した様々な所作や感情表現が大きな影響を与え、今日もなお継続しているこのシリーズの1つの重要なエッセンスになっている。

俳優レナード・ニモイ。
スタートレックだけでなく、SFファンには永遠に語り継がれる俳優なのであった。

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子供の頃からなじみだった俳優やコメディアンが亡くなると寂しさを強く感じる。

広川太一郎や野沢那智、納谷悟朗といった個性的な声優が亡くなったときも強く寂しさを感じたものだが、サザエさんの磯野波平の声を演じていた永井一郎が亡くなったというニュースも、これまた強く寂しさを感じるものなのであった。
サザエさんという長寿番組で演じ続けてきたからか、はたまた突然の亡くなり方だったのでニュースで報じられたためか、巨人の星の星一徹の声を演じていた加藤精三が亡くなっていたことに気づいたのは、新聞を整理している時なのであった。

永井一郎は磯野波平を演じていたほかに、YAWARAの猪熊滋悟郎を演じていたことが再三報道されているが、私には宮凬駿のテレビアニメーション「未来少年コナン」のダイス船長や高畑勲の「母をたずねて三千里」のペッピーノさんが強く印象に残っている。
磯野波平が安全牌的役柄であれば、ダイス船長やペッピーノは個性派で演じる方も面白かったに違いない。

加藤精三の星一徹はあまりに個性的で、あの声をどこで聞いも星一徹を思い出してしまうくらい、役柄と声の一致した声優だった。
何を聞いても星一徹のタガが外れたのは、スタートレックDS9で異星人のオドーの声を演じていた時だった。
やはりアニメーション作品と実写の海外ドラマは雰囲気が違ったからだろうか。
オドーの声を聞いても星一徹をイメージすることはなかった。

声を聞くだけでキャラクターを思い出す。
星一徹と磯野波平。

個性の違う二人の父が逝った。


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ルパン三世の銭形警部の声を演じていた声優の納谷悟朗が亡くなった。
かなり、ショックだ。

納谷悟朗といえば銭形のとっつあん以外にチャールトン・へストンの吹き替えが印象に残っている。
テレビの洋画劇場で放送された「猿の惑星」では、納谷悟朗の声で、「ちくしょー!ここは地球だったんだ」と砂に埋もれた自由の女神を背景に砂地を拳で叩くチャールトン・ヘストンが私には印象的で、この場面を見る度に、頭に去来するのは納谷悟朗の声なのであった。

このように、有名な声優さんが亡くなると困るのがキャラクターの生命。
声はいなくなってもキャラクターは生き続けるわけだから、声優の都合で声が変わってしまうキャラクターはある意味いい迷惑だ。

最近は劇場映画が吹き替えで多く上映されているのに対して、テレビの海外番組が字幕スーパーなんてことが少なくない。
私の世代からすると、かなり変な状況だ。
劇場映画の吹き替え版はめったに見ないのだが、声優さんはどういう基準で選ばれているのだろうか。
広告を見ると、人気アイドルや漫才師が声を当てたりしているので、ろくなものではないような気がしないでもない。
怖くて見る気が起こらない、というのが正直な気持ちだ。

私の子供の頃は海外テレビドラマが吹き替えで、演じる役者に応じて個性豊かな声優さんが見事な演技を披露していたものだ。
従って、今も声を聞くだけでそのキャラクターがイメージとして浮かんでくる。

野沢那智の声を聞けばアラン・ドロン。
広川太一郎の声を聞けばロバート・レッドフォードかジーン・ワイルダー。
小池朝雄はピーター・フォークで、小林昭二はジョン・ウェインで、川合伸旺ならポール・ニューマン。
城達也ならロバート・ワグナー、山田康雄ならクリント・イーストウッド。


多くのキャラクターが亡くなっている一方、声優さんもベテランの多くが亡くなっている。
上にあげた声優さんはすべて鬼籍に入ってしまってもう新作で素敵な声を耳にすることはできないのだ。

生身の俳優やキャラクターが生きていて声が別人になるという。
この当たり前だが、姿が同じでもキャラクターが別物になってしまったような、なにかやりきれない気持ちになるのだ。




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ニール・サイモンの傑作コメディ”おかしなカップル”
病的な潔癖症のフェリックスとスポーツ記者でちゃらんぽらん、いつも汗まみれのシャツのままベッドに寝てしまうようなオスカーの二人。
共に奥さんに逃げられた寡婦男、という設定だったと思うのだが、このニューヨークを舞台にした30分のコメディ番組が、高校生の頃のお気に入りのテレビ番組の1つだった。

とりわけオスカーを演じたジャック・クラグマンはこの番組の後に「ドクター刑事クインシー」という番組で検視官の役を演じ、それが魅力的であっただけに今も深く記憶に刻み込まれている米国のテレビ俳優だ。
そのクラグマンが亡くなった。
享年90歳。

そしてもう一人。
89歳で亡くなったのは名脇役のチャールズ・ダーニング。
チャールズ・ダーニングといえばポール・ニューマンとロバート・レッドフォードは主演してアカデミー作品賞を受賞した「スティング」に登場する悪徳刑事が印象的だった。
とりわけロバート・レッドフォードを追いかけてシカゴのループの駅をあっちへドタバタ、こっちへドタバタ走り回るシーンはスコット・ジョプリンの音楽も相俟ってスリリングだが滑稽な面白いシーンだった。

海外ドラマや映画ではよく目にする二人の俳優だったが、お別れの時が来てしまった。
なんだか、やっぱり寂しいし、日本ではニュースや新聞記事でもなかなか取り上げないので、うっかり見落とすところなのであった。

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「コロンボ刑事死す」
などと書くと、太陽にほえろの人気刑事が亡くなったみたいな感覚になるのだが、刑事コロンボことピーター・フォークの訃報はマカロニやGパンが亡くなった時のような寂しさを感じたのであった。

ピーター・フォークのことで最も印象に残っているのは、その声なのであった。

子供の頃、刑事コロンボの声といえば小池朝雄が定番で、あの独特の江戸なまりがたまらなかった。
小池朝雄が早世してしまったので、以後、石田太郎が吹き替えを担当したけれども、やはり小池朝雄の印象が強烈的で、「新・刑事コロンボ」の題名で放送されたシリーズはストーリーこそ悪くはなかったものの、主人公になじむことができず、未だに見たくなるのは70年代のシリーズだ。

ところで、小池朝雄もしょせんは吹き替えの声。
本当の声はどんな質で、どんな印象なのだろうか、と興味をもっていたのは中学生の時。
高校生になって、はじめての海外旅行でピーター・フォーク本人の声を聞くことになり、びっくりしたことが忘れられない。

場所はロサンゼルスのビルトモアホテル。
自室のテレビのスイッチを入れてチャンネルをガチャガチャ回していると、なんと刑事コロンボの新作が放送されていたのだ。
その新作、日本で放送されたときの題名「秒読みの殺人」というエピソードで、当時、英語はさっぱりわからなかったが、ストーリーはあんとなくわかり、暫しテレビに釘付け。
やがてピーター・フォークが登場して話した声に驚いた。

小池朝雄とは程遠い、バックスバニーのような声なのであった。

「これは..............全然ちゃうやん」

と、テレビの吹き替えは似た質の声が選ばれるものと思っていた私は大きな衝撃を受けたのであった。

あれから約30数年。

またひとり、米国TVのスターがこの世を去った。
とっても寂しいニュースなのであった。

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ウィリアム・カットが主演した凸凹スーパーマン的ヒーロー番組「アメリカン・ヒーロー」でFBI捜査官を演じていたロバート・カルプが亡くなった。

最近、芸能の世界は国内国外に関わらず、親しみのある名前が次々と鬼籍に入ってとっても寂しい思いをしている。
考えてみれば自分もそういうことを感じる年齢に達してしまっていたんだな、としみじみと感じているのだが、さらにつきつめて考えれば、そのうち自分自身が鬼籍に入ることも考えられ、ある意味、油断のできない世代になってしまっていたのだ。

ロバート・カルプはその死がかなり大きく扱われていたことから、かなり有名な俳優さんであったことが伺われる。
残念ながら、私は「アメリカン・ヒーロー」シリーズしか思い浮かばない想像力に乏しい面がある。
しかし、ひとりの俳優を知るには一作の有名シリーズを知るだけで十分といえ、それも自分が青春時代を送っていた頃に放送されていたドラマということになれば,ひとりの俳優を身近に感じるにはなに不足ない。

2~3年前にドラマ「犯罪捜査官ネイビーファイル」にゲスト出演していたウィリアム・カットを見たときは、
「エライおっさんになってしまったものんだ。あの若々しさはどこへ行ってしまったんだ」
と思ったものだ。
しかし、今回はさらに驚いた。
なんとカルプの享年は80才を過ぎていたのだった。
最近の様子を伝える写真はヨボヨボそう。

正直、見なきゃ良かった。
という感想を持ってしまったのであった。

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何年かに一度の割合で、アカデミー賞授与式を見逃してしまうことがある。
今年がそうなのであった。

考えてみれば、私が始めてアカデミー賞の授与式をテレビで鑑賞したのは1977年度アカデミー賞授与式で、確か「ゴールデン洋画劇場」の時間帯に8チャンネルで放送されたように記憶している。

生れて初めて観たアメリカのエンタテイメントなショーの世界に酔いしれたのはもちろんのことながら、この年は未だに日本では公開されていなかった「スターウォーズ」が主題曲賞や衣装デザイン賞など七部門を制覇する、それはそれは派手やかなショーなのであった。
今も、ストームトゥルーパーが舞台上段から大挙して現れたことを記憶している。

以来、アカデミー賞は放送されるごとに出来るだけ観るようにしてきたのだった。

ところが衛星放送が開始されるとアカデミー賞の放送ががらりと変わってしまった。

なんと有料の放送局「WOWOW」が独占放送するようになったのだ。
それに合わせてかどうか知らないが、NHK-BSでダイジェストが放送されるようになってきたのだ。

このNHKでの放送は不定期で注意して新聞のテレビ欄をチェックしておかないと見逃してしまうという代物だった。
いや。
今もの見逃してしまう代物なのだ。

最近プライベートがめちゃくちゃ忙しく、今回もNHKの放送予定をチェックするのを忘れていた。

今日、その事実に気付いたのであったが、ときすでに遅し。
アカデミー賞授与式は7日夜に放送されてしまっていたのであった。

今年は観られなかったことが、特に悔しい。

久々に日本人が受賞。
しかも、アニメではなく実写映画で。

監督のスピーチを是非とも観てみたかったのであった。

次は「トニー賞」を見逃さないように注意しなければいけない。

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