小学校、中学校、高校を通じて担任をしてくれた先生で、この先生は良かったなと思っている先生は数人いる。
小学校3年生のときの担任の先生は厳しいけど優しい先生で、宿題を忘れるとオデコに赤色スタンプで「寺内(先生の名前) 昭和〇〇年○月○日」というスタンプを押された。
家に帰ると一目瞭然である。
「また宿題せえへんかったんか!」
と母に叱られる。
給食を残すことも先生は許さず食べきるまで昼休みはずっと食器と向かい合わされる。
食べ物の好き嫌いの多かった私は当然学校給食は大嫌い。
食べずにバケツに捨てようとするのを先生は許さなかった。
でも食べきると、
「美味しいやろ、ちゃんと食べられたやん。好き嫌いしたらアカン」
と叱られたものだ。
小学校4年のときの先生は大学を卒業したばかりの福岡出身の先生で九州弁で我々生徒と戦った。
言うことを効かない大阪の子供と対峙する若い九州女子の先生は仲良くあるいは喧嘩もしながら非常に印象に残った1年間を過ごさせていただいた。
先生は生徒の誕生日には九州の石を使った名前はんこを自分で掘ってプレゼントしてくれた。
私は3月生まれなので最後の最後だったが今も手元に残っていて年賀状なんかに押している。
つい3年ほど前に数十年ぶりの同窓会で再会したときも、お土産として先生は新しい判子をプレゼントしてくれた。
感動なのであった。
小学校6年のときの先生は朝鮮半島からの引き上げ時の苦しく辛い話を良くしてくれた。
もう中学生になるのだから日教組が教えるような反戦教育ではなく生の真実を知って欲しいということで授業時間を割いて父母のものとは違う終戦前後の話を聞かせてくれたのだ。
中学校1年のときの担任はラグビーを教えてくれた。
このことは先日ここに書いたとおり。
高校の現国の先生は、
「うちの学校には日教組に入っているようなアホはいません」
と堂々と言う人だったし、
九州出身の地学の先生は、
「おまら真面目に勉強せんのならその場で正座!文句あるんならどこからでもかかって来たらよか」
と空手有段者として突っ張り連中と身体を張って対峙していた。
みんなこれらの先生に文句は言うけど、心から反発する者はいなかった。
かように先生はいい人が多く、今思いだすと年齢を重ねるごとに感謝の気持ちが高まってくる。
共通しているのは大人になるために何をどう身についけたらいいのかということが主だったように思われる。
いずれも公立の学校だしバリバリの進学校でもなかったので勉強の出来は二番目の目的で、真の目的は人間形成だったのかも、と時々思うことがある。
神戸の若手教師いじめのニュースを見ていると、これはなんじゃい!
校長は名前が仁王という人らしいが天の邪鬼退治のできないお仁王様だったようだ。
これが目指していた教育なのか。
少なくとも神戸は私の出会ったような先生はいないのかもしれない。