山と酒で話すこと
第24話 山霜act.5―side story「陽はまた昇る」
山岳訓練と遭難救助と、それから通常勤務の御岳山巡回。
そんなふうに今日は、3度ほど山に登っている。そして今また山の河原で、国村と藤岡と酒を飲み始めた。
この酒は奥多摩の特撰酒で国村が奢ってくれる酒、だから旨いに決まっている。
でもこの酒はちょっと高い条件がついた。その条件に、上機嫌の国村が英二の前で笑って言う。
「もう宮田は飲んじゃったよ、高い条件も一緒にね。さ、訊かせて貰おうか。存分の自慢話をさ」
自慢話か。英二は楽しくなって微笑んだ。
国村も藤岡も快活に笑って、英二と周太の関係をフラットに受けとめてくれている。
だからこそ「自慢話」と言えるのだろう「お前の恋愛は自慢になるよ」そんな気持ちが解ってうれしい。
そういうのはきっと得難いことだ、それが自分には解っている。
なんだか楽しい、そして幸せだ。きれいに笑って英二は言った。
「自慢話、長くなるよ?」
「うん、いいよ。聴かせてくれよ、宮田」
からっと笑って藤岡が英二を見ている。
その横で国村が、底抜けに明るい目で言ってくれた。
「うん、望むところだね。ほら宮田、言っちゃいな?」
焚火に白皙の顔を温めながら、微笑んで英二は藤岡と国村の顔を眺めた。
こういう2人と会えて、きっと本当に自分は幸運だ。
だって一応は解っている。自分と周太の選択は、いまの日本では拒絶されやすいこと。
それでもこの2人。山岳救助隊の同僚で山ヤ仲間のこの2人は、受入れてくれる。
ありがたいな。英二は微笑んで口を開いた。
「どう話せばいいかさ、俺も解らないんだ。だから端から話せばいいかな?」
そう。本当にどう話せばいいのだろう。
そう少し困る英二に、軽く頷いて国村が言ってくれた。
「宮田がさ、話したいように話しなよ。俺はお前の話ならね、どれも楽しいからさ」
何でも全部を受けとめるよ?そんなふうに国村は言ってくれている。
ほんとこいつ良いヤツだな。英二は微笑んだ。
「俺さ。本当は一生ずっとね、告白しないつもりだったんだ」
「うん…そうか、」
国村の底抜けに明るい目が、温かい眼差しに笑って頷いてくれる。
からり明るい藤岡の目が、穏やかに笑って見守ってくれる。
うれしいな。思いながら英二は、ゆっくり話しだした。
「男同士で生涯を添い遂げる約束。
それは今の日本では認められ難くて、タブー視されやすいだろ?そして差別も受ける。
それくらいは俺にも解っているんだ。だから俺はね、周太の事を巻きこみたくなかった」
2人とも真直ぐに英二を見て、聴いてくれている。
こういうのは幸運だ、英二は言葉を続けた。
「父さんの殉職を超えようって、真直ぐに生きてきた周太。
いつも真剣で、きれいで眩しくてさ。いい加減に生きていた俺にとって憧れだった。
だから俺さ。ちょっとも周太のこと傷つけたくなくって、ずっと黙っていようって思っていた。」
「うん。きれいだとさ、傷つけたくないよな」
細い目が「わかるな」と微笑んで相槌を打ってくれる。
国村の相槌に頷いて、英二は微笑んだ。
「卒業式と卒配の挨拶の後だった。俺、周太に告白したんだ。
きっと拒絶されるって思った。けれど告げたかったんだ。
俺たちは警察官だ、危険に生きている。「いつか」なんか無いから、今しか伝えられない。そう思った。
そして俺は山岳救助隊員だ。一秒後に召集を受けて遭難事故に巻き込まれても不思議じゃない。だから伝えたかった」
そっと国村が口を開いた。
「うん、ほんとうにさ、そうだよね」
「うん、俺も同じだな。そういう覚悟をさ、卒配のときした」
藤岡も頷いて、そして英二に笑いかけてくれた。
ちょっと微笑んで英二は言葉を続けた。
「だからね、どうしても想いをさ。あのときに告げてしまいたかった。
もう会えるのは最後になるかもしれない、そんな覚悟がね、俺の口を開かせちゃったんだ。
そうしたらさ、…周太、俺を受入れてくれた。ほんとにね、俺、うれしくてさ。
もう会えないかもしれないって思った、けれど一瞬でも想いを交せた事がね、幸せだった」
2人とも微笑んで、ゆっくり酒を飲みながら聴いてくれる。
英二もコップに口をつけて、ひとくち啜った。
旨いな。ふっと微笑んで、英二はまた続けた。
「最初はさ、周太のこと少し苦手だった。
かわいい顔の癖に気が強くって強情で、優等生で体力も抜群でさ。近寄り難くて。
不真面目な俺を責めるような視線も怖いしさ、生真面目で余裕がなくて。それに俺、初対面で睨まれたんだよ」
ちょっと首傾げて、藤岡が英二に訊いた。
「初対面って制服貸与の時か?」
「いや、入寮前に下見に来たとき。校門の前にさ、周太が立っていたんだ」
へえ、という顔に藤岡がなっている。
おかしそうに国村が微笑んで、口を開いた。
「運命だ?」
「うん、そうだな」
運命。きっと本当にそうだ。
なんだか嬉しくなりながら、英二は続けた。
「でさ、その時の周太って、今みたいに前髪が長かったんだよ。
視線が強いけれど、繊細な雰囲気で可愛かった。だから俺さ、つい軽く言っちゃったんだ。
『その無愛想なんとかしとけよ。結構かわいい顔してんだからさ』そんな俺の態度がね、周太を怒らせたらしいんだ」
ちょっと意外だなと国村が首を傾げている。
ひとくち酒を飲みこんで、藤岡が言った。
「湯原、怒ったのか?」
「うん。顔で舐められたくない、そう思ったらしい。それですぐに周太、ばっさり髪を切ったんだ。
だから周太、印象がすっかり変わってさ。制服貸与で再会した時に俺、周太が誰なのか解らなかったんだよ」
ああと藤岡が頷いた。
「うん、湯原って前髪で雰囲気変わるよな。俺もさ、先週だっけ?
洗濯干場で会った時に、最初は解らなかったな。警察学校の時は湯原、いつも前髪は上げていたからさ」
「いや、学校時代もね、ほんとは前髪、おろしていたんだ」
「なに、どういうことだ?」
首傾げて藤岡が訊いてくれる。
ちょっとうれしくなって英二は笑った。
「俺と周太の最初の外泊日にさ、周太ちょっと額に怪我したんだ。
その手当てした時に校医の立花先生がな、絆創膏を隠すのに周太の前髪を降ろしたんだよ。
それでまた俺、思わず言ったんだよ『やっぱり前髪ある方が可愛いな』って。
それ以来さ、寮の部屋にいる時と外泊日には周太、前髪をおろすようになったんだ」
酒を片手に国村が、すこし首を傾げた。
そしてコップに口付けて呑みこむと、ちょっと呆れたように言った。
「ほんとは宮田がさ、湯原くんの前髪をおろさせていたんじゃないの?」
「あ、解る?」
「もろバレだよ」
そう、その通りだった。
いつも英二が指でかきあげ梳いて、上げた前髪をおろさせていた。
「外出の時と、寮の部屋にいる時はさ。俺が独り占め出来るだろ?
だから可愛いままの素顔の周太で、隣に居てほしくてさ。
最初に髪かきあげた時は、俺、緊張した。手を払いのけられるかな、とかさ。でも周太は嫌がらなかった。
それからいつも静かに触らせてくれた…俺、うれしかったんだ。
いつも髪に触れるたび、自分だけが許して貰えているって、うれしかった。
想いは言えないけれど、自分だけの特別な「いつもの」が出来て嬉しかった。それだけでも俺、ほんとに幸せだった」
英二を見つめていた藤岡が、ゆっくり瞬きをする。
そして藤岡はそっと言った。
「…なんか俺、切なくなってきた」
「そっか、」
なんだか嬉しくて、英二は微笑んだ。
けれど国村は温かい目のままで、冷静に訊いてきた。
「それで宮田、いつ湯原くんへの気持ちを自覚した?」
まずはそこからなんだな。
淡々とした国村の「尋問」が可笑しくて、すこし笑って答えた。
「その最初の外泊日の時だよ。
周太とは実家へ帰る道が新宿まで一緒でさ。それで俺、新宿で飯食おうって誘ったんだよ。
あの時はもう好きだった、けれどまだ俺も無自覚でさ。ただ一緒に飯食いたかったんだ。
それで一緒に本屋に行って、それからラーメン食ってさ。で、その後に偶然、遭遇しちゃったんだ」
首傾げて国村が英二を見た。
そして英二の言葉について淡々と訊いてくれる。
「遭遇?なんか遭難みたいだな」
「うん。ある意味、遭難だな。…ちょっとここの話はさ、俺、嫌な奴になるかも」
「嫌な奴でも何でも宮田だろ?話せよ」
お前のこと嫌な奴なんて思えないよ、そんな目で国村が笑ってくれる。
その横で藤岡も人の好い笑顔で、軽く頷いてくれた。
こういうの嬉しいな。少し笑って英二は話した。
「俺さ。警察学校に入って間もなく、脱走したんだ。藤岡は覚えてるよな?」
「うん、大騒ぎになりかけたな」
そうだった。
同じ教場の藤岡には迷惑をかけるところだった。
思いだしても哀しい、英二は素直に頭を下げた。
「ほんとうに藤岡、あの時は、ごめん」
「いや、気にするなよ?だって今からさ、事情説明してくれるんだろ?」
からっと笑って藤岡は、国村の祖母の煮物を頬張った。
やっぱり藤岡は良いヤツだな。うれしくて微笑んだ英二に、国村が意外そうに訊いた。
「へえ、宮田が脱走?お前、真面目なのにね」
「ああ、俺ってね、前は不真面目なチャラチャラした男だったからさ」
ますます意外そうに、国村は首を傾げた。
それから率直に口を開いて言った。
「違うだろ?それなりの理由があったんだろ、宮田」
信じてくれるんだ。素直に英二はうれしかった。
こんなふうに国村は、真直ぐに英二の本性を見つめてくれる。
だから「違うだろ?」と国村は言ってくれた。
「うん、違う。俺はあのとき、真剣に悩んで脱走した」
「そっか…辛かったな、」
そっと言って国村は、すこし酒を啜り込んだ。
藤岡も口を動かしながら、きちんと英二を見てくれる。
2人の聴いてくれる気持が嬉しくて、英二は微笑んで言葉を紡いだ。
「俺さ。警察学校に入った理由は、公務員で楽かなって程度だったんだ。そんなふうに要領良く生きていた。
ほんとの俺は直情的だろ?そういう自分のままでは生き難いって思ったからさ。
そうやって自分すら誤魔化して、真剣に生きることは諦めていたんだ。
けれど周太に出会った。寮の隣の部屋に周太がいてさ、毎晩遅くまでデスクライトが点いていたんだ。
いつも一生懸命に勉強する気配がね、壁越しにも伝わった。そういう周太が俺、羨ましかった」
話していく空気に、川のせせらぎが静かな夜の底で響く。
その静かな音を聴きながら、3人で焚火を見つめていた。
こういう時間はいいな、思いながら英二は静かに続けた。
「周太の一途に見つめる瞳。不器用でも真摯に生きる姿勢に、本当は憧れていた。
そんなふうに自分も、何かを懸けて生きたい。そんな想いから俺さ、警察官の道に懸けようと思ったんだ。
ずっと俺はいい加減だった、けれど本当はね。直情的な自分のままで、本音で素直に生きたかった。
周太みたいに懸けられたら、俺も自分らしく生きられるかなて思ってさ。そうやって俺、生きる意味に初めて向きあえた」
ぱちり焚火が爆ぜる。
薪をひとつ、国村が器用にくべてから座りなおした。
「そんな矢先にね、当時の彼女から『妊娠した死にたい』だから会いたいって言われた。
それで俺は悩んだ、会う為に脱走したら辞職だ。掴みかけた仕事への誇りは捨てたくなくて、本当に哀しかったよ。
それでも男として責任をとる道を選ぼうと決めた。誰かの人生を傷つけたくなかった。
こんな俺でも求めてくれるなら応えたかった。それで脱走しようとベランダへ出たらさ、周太が部屋に来たんだ」
「湯原から、宮田の部屋に来たのか?」
意外そうに藤岡が訊いてくる。
そうだよと英二は頷いた。
「うん、意外だろ?それで俺さ『どうしても行くなら辞めてから行けよ!』って、周太に怒鳴られたんだよ」
「へえ、湯原くんが怒鳴るなんて、ねえ?」
「うん、湯原って熱い時あるけどさ。でも、そのタイミングで怒鳴ったんだ?へえ」
驚いた顔で、国村も藤岡も英二を見ている。
ちょっと笑って英二は続けた。
「警察官になる覚悟を突きつけてね、周太は俺を引き留めようとしてくれた。
でも俺さ、「退学届」を書き置いて出て行ったんだ。
俺の将来を捨てても、ひとりの女性の人生を救ってやりたい。そんな想いだった。けれど、」
ふっと英二の心の底が重くなる。
暗い痛みが静かに起きあがるのを感じながら、英二は静かに言った。
「けれど、全ては茶番だったんだ。ちょっと会いたかったのって言ってさ、『嘘よ』って彼女は軽く笑ったよ」
底抜けに明るい国村の目が、英二の暗い痛みを映しだしていく。
ああ今、自分の痛みを国村も知ってくれている。そう解って英二はうれしかった。
「真剣に生きたい、それだけだったんだ。俺は警察官として真剣に生きようって。
だから俺、本気で彼女にそう言ったよ。その時さ、俺、初めて怒りながら人に話したんだ。それくらい解ってほしかった。
けれど彼女は何も解ろうとしなかった。他人に自慢して見せびらかせる彼氏がほしい、それだけだった。
彼女にとっては俺はさ、虚栄心を満たす道具ただそれだけ。
だからさ、警察学校に入って会えない俺はね、役立たずだって言われた。そう罵って彼女は帰って行ったよ」
藤岡が、呆然と呟くように言った。
「…ひどいだろ、それ…」
言った藤岡の丸い目が、しずかに漲った。
その横で、国村の細い目が瞠られていく。その澄明な瞳には、英二の哀しみが映りこんでいた。
そうやって2人とも解ってくれるんだ。うれしいなと英二は微笑んだ。
「俺、悔しかった。そして憎いって生れて初めて思った。
馬鹿な自分も、無神経な彼女も。もう何もかもが憎かった。
あの時に俺さ、生まれて初めて、憎さと怒りに本気で泣いたんだ」
彼女の残酷な虚栄心の軽い嘘に、踏みつけられて罵られて、否定された。
あのときの想いが心深くでまた痛い。けれど仕方ない、いい加減に生きていた自分が悪かったのだから。
「俺ってさ、美形なんだろ?だから俺の外見だけ目的の人間が多くてさ。
俺の中身には用が無いって人が多かった、さっきの彼女みたいにね。
でも俺はさ、本当は直情的だろ?そんなふうに外見だけで好かれても、上手く行くわけがない。
だから俺が本音で何かを言うたびさ、お互い傷つくことが多かったんだ。
だからもうね、自分の本音に気付かぬフリをしてさ、真剣に生きる事を馬鹿にしたんだ。
そうやってずっと俺はね、自分にも周りにも嘘をついて。適当に誤魔化して楽しいフリして生きてきた。」
底抜けに明るくて深い細い目が、真直ぐに英二を見つめている。
そうして、そっと国村が呟くように言ってくれた。
「宮田がね、そうやって生きるのは、…辛すぎるな」
「うん、辛かった、」
目の底が熱くなる。
それくらい本当はずっと、そんな生き方は悔しかった。
けれど今はもう素直に生きている。だから泣かないで笑って話したい。そっと英二は微笑んだ。
「だから俺さ。騙されて脱走したって解った時はね、本気で絶望したんだ。
俺はさ、ほんとは真剣に生きたい癖に嘘ついて、真剣に生きる人を馬鹿にしてきた。
そんな自分には真剣に生きる資格はないのか。そんなふうに俺さ、絶望したんだ。
ほんと苦しくてさ、自分も彼女も全てを憎んだよ。全てが何も信じられなくなった。
自分にあんな真剣な想いと憎しみがあることをさ、俺はね、あの時に初めて知ったんだ」
憎悪と絶望と哀しい諦め。あのときの想いがあるから、今はここにいる。
奥多摩の河原に座って、焚火を見つめながら英二は微笑んだ。
「そんな想いのまんま、俺は遠野教官に寮へ連れ戻された。
戻った寮の廊下を歩くのも哀しかった。せっかく見つけた「警察官」にはもう、なれないだろうなって。
そんな想いでな、憎しみと絶望と、諦めとさ、ぼんやり歩いていたんだ。
そんな暗い目にさ、隣の部屋から洩れるデスクライトの光が映りこんだ。周太の光だよ」
ふっと国村が微笑んだ。
「一筋の光明だったんだ」
「ああ、本当にそうだ」
笑って英二は続けた。
「そのころは俺さ、周太の素顔に気が付いていたんだ。純粋で繊細で穏やかな優しさが本当の周太だって。
そういう純粋な優しさが他人への遠慮になって、周太は孤独に籠っていたんだ
そんな周太はさ、純粋なまま一途に勉強していたよ。そしてあの夜もさ、周太が勉強する光が廊下に射していた」
囲んだ焚火が、穏やかに互いの顔を照らしてくれる。
お互いの顔と炎を眺めながら、英二は話した。
「真っ暗な気持ちにさ、その光だけが温かく見えた。
ここだけが自分を待ってくれている。
そんなふうに思えたんだ。それで周太の部屋の扉を開いた。
そして俺ね、周太に抱きしめられて泣いたんだ。受けとめてもらえて俺、うれしかった。」
そう、あの場所だけが自分を待っている。
静かに微笑んで英二は言った。
「周太の気配って静かで穏やかでさ、俺、安心出来るんだよ。それで俺、周太の隣から立てなかった。
そんな俺を周太はね、徹夜勉強に誘ってくれたんだ。そして一晩中を隣ですごして、孤独にしないでくれた。
あのとき俺はね、孤独と憎しみに捕まりかけていた。それを救ってくれたのは、周太なんだ。
穏やかに受けとめて、静かに佇んでくれた。あのときからずっと、周太の隣の居心地がさ、俺は大好きなんだ。」
細い目を笑ませて、そっと国村が言った。
「うん、湯原くんらしいね」
「だろ、」
頷いて、きれいに英二は微笑んだ。
微笑む英二を見て藤岡も笑った。そして藤岡も感心したように頷いた。
「うん、湯原ってさ。なんか佇まいっていうのかな?きれいで穏やかだよな」
「だろ?俺はね、そういう周太を愛してるよ。だからあれは、俺だけのもの」
「ははっ。ほんと宮田、湯原のことばかり見てるんだ」
そうだよと目だけで英二は頷いた。
頷いて静かにコップの酒を啜ると、ほっと息がつかれた。
さて話がだいぶ大廻りになったな。思いながら再び英二は口を開いた。
「でな。外泊日にさ、その元彼女と遭遇したんだ。
きっと見た瞬間に俺の顔は、すごい冷たい表情になったと思う。
要領良く生きていた時は、別に傷つきもしなかった。どうでも良かったから。
けれど。あの時にはさ、俺は周太の隣で、生きる意味に真剣に向き合っていた。
そういう自分の誇りを、見つけたいって努力を始めていた。だからどうしてもさ、」
ふっと英二は口を噤んだ。これから酷い言葉を自分は言うだろう。
直情的な自分は、いつだって思った事しか言えない。そしていま思うことは、残酷な言葉になるだろう。
そんな躊躇をする英二を、国村が体を向けて覗きこんだ。
真直ぐで底抜けに明るい瞳が、そっと英二に笑いかける。
「言っちまいな、宮田」
いつものように笑って、国村が言ってくれる。
黙って見つめる英二に、飄々と細い目が笑いかけた。
「宮田と俺は山のパートナーだろ?俺たちは一蓮托生なんだよ。だからさ、言いたいことは全部、ちゃんと言いな」
「そっか、」
国村に笑いかけて、英二は顔を上げた。
藤岡を見ると、人の好い顔で笑いかけてくれる。
もう今夜は全部、話してしまおうかな。英二は哀しい目のままに言った。
「俺はさ、あの女を許せない」
きれいな低い声で、はっきり英二は言った。
言って2人に笑いかけて、2人の目を見ながら話した。
「そう、あの女だけはね、俺は許せない。だって俺の誇りを踏み躙った。
そして俺はね、辞職するところだった。教場の仲間から離されるところだった。
なにより周太の隣から、俺は離れるところだった。
そうしたら俺は今、山岳救助隊として立つことも出来なかった。山ヤの警察官の誇りに生きる事も出来なかった」
ゆっくりと言って、英二は息をついた。
その合間に、いつも通りに国村が明るく言ってくれた。
「あ、それは困るね。宮田が来てくれないとさ、俺はパートナー居ないままだったからね」
「国村、そうだったんだ?」
思わず英二が訊き返すと、軽く頷いて国村が言った。
「うん。俺ね、ずっと単独か後藤副隊長と組むしかなかったんだ」
「そっか、」
言われてみればそうだ。
でもなんでだろう?ちょっと英二は訊いてみたかった。
けれど国村は、コップ酒を片手に微笑んで、英二を促してくれる。
「で、宮田の話の続きしろよ」
「あ、うん」
明るい国村の相槌を聴いて、英二から暗い毒気が幾分抜かれていた。
やっぱり国村は良いパートナーだ。うれしくて英二は微笑んだ。
「だから俺はね、あの女だけは許せない。
俺は直情的な男だよ、身勝手でさ、ほしいものは絶対に掴んで離さない。
だから俺からさ、大切なものを奪おうとしたあの女。あの女だけは、一生許すことなんか出来ない」
言って、ひとくち酒を飲んで英二は微笑んだ。
ちょっと笑って国村も酒を飲んで、言ってくれた。
「うん、いいんじゃない?」
「いいかな?」
英二の問いかけに、国村は頷いてくれる。
軽やかに笑って、国村は口を開いた。
「俺たちはさ、山ヤだろ?山ヤはね、自由で誇り高いんだ。
山ではさ、小さなミスが本当に命とりになる。それは山ヤにとって不名誉だ。
だから山ヤはさ、誇り高いからこそミスを許さない。ミスをしない為に謙虚に学んで努力も出来る。
そういう努力が出来るから、山ヤは自分を知っている。
そして自分を知っているから、自分がどうすべきかを判断できるよ。
そういう判断を誤らないからさ、山ヤは自由に生きる事も、出来るんだって思う」
ひとくち酒を飲んで、国村は笑った。
「山ヤは誇り高いから、自由に山ヤとして生きられるんだ。
だから宮田。お前がさ、その女を許せなくっても仕方ない。だって宮田は山ヤなんだ、もう生まれた時からね」
生まれた時から山ヤ。
いい言葉だな、英二は嬉しくなった。
だって世田谷の街中に生まれた、そして山の経験浅い英二を、そう言ってくれる。
訊いてみたくて、英二は口を開いてみた。
「生まれた時から、俺も山ヤなのか?」
「うん、きっとね。ほんとの山ヤってさ、皆そんな感じだよ」
当たり前のように言って、国村は酒を飲んだ。
飲んで満足げに笑うと、真直ぐに英二を見ながら言った。
「そんな宮田の誇りをさ、踏んづけた女の無礼を許せないのはね、当然だろ?
そしてさ、そういう誇り高さがきっと、宮田を山ヤとして生かして成長させるんだ。だからね、宮田」
底抜けに明るい目が、楽しそうに英二を見ている。
そして軽やかに笑って、明るい声で国村が言ってくれた。
「宮田は山ヤだ、だから許せない事は、きっと正しいよ」
うれしかった。
だって自分の黒い憎悪まで、国村は「山ヤで必要」と明るく受けとめてくれた。
国村は同じ年だけれど、5歳からクライマーとして生きている。
そしてトップクライマーの素質がまぶしい一流の山ヤだ。
そういう国村に言ってもらえることは、英二は本当に嬉しかった。
こういう男と友達になれて、本当に自分は幸せだろう。うれしくて英二は笑った。
「うん。ありがとう、国村」
「いや、礼はいらないよ?ほら、宮田」
そう言って英二のコップに、酒をまた注いでくれる。
早く呑めと促すと、国村は唇の端を上げた。
「ほら、宮田。自慢話の続きをね、早く聴かせなよ?その酒、高いんだからさ」
こんなふうに笑って、国村は対等にいてくれる。
うれしいなと微笑んで、英二は話し始めた。
「うん、それで女と遭遇してさ。で、俺は冷たい顔になった。
俺ね、周太にそんな顔を見せたくなかったんだ。周太の純粋な瞳にさ、俺の憎しみなんか見せたくなかった。
それで周太の腕を掴んで、ただ歩いた。そして気が付いたら、きれいで大きな公園の前にいたんだ」
「それってさ、御苑?」
「うん、そう」
藤岡の質問に答えて、英二はひとくち酒を啜った。
懐かしくて微笑みながら、英二はまた話しだした。
「ここ入ろうよ。周太はそう言ってくれた。でね、森の中のベンチに座ってさ。ずっと俺の隣にいてくれた。
コーヒーを買ってくれたよ、周太。そのコーヒー飲みながらさ、俺はぼんやり周太の横顔を見ていた。
そのとき周太はね、買ったばかりの本を読んでいた。
フランス語の原書でさ、恋愛小説だった。でもその時はさ、推理小説だと思って周太、買っちゃったんだよな」
初めて書店に一緒に行った。そして初めて一緒に買い物をした。
あのとき買った本は、『Le Fantome de l'Opera』紺青色の表装だった。
「恋愛小説だって気付かなかったんだ、ふうん。湯原くんらしいね」
「だよな、湯原らしいよ。なんか湯原ってさ、優秀な癖にちょっと天然のとこあるんだよな」
「かわいいだろ?でも周太はね、俺のだから」
仕方ないねえという顔で、国村が英二に笑う。
そしてコップに酒を注いでくれながら、早く話せよと目だけで促した。
頷いて英二は、ひとくち飲んで、また始める。
「そのときさ、木洩陽がふっていたよ。
ページを見つめる周太の、長い睫の翳が頬にきれいだった。
横顔の肌がいつもより白くて、森の緑にうかんでいたよ。きれいだなあって見惚れていた。
そうしたらさ、にわか雨が降ってきたんだ。あわい水のカーテンの蔭でさ、俺は気付いたんだよ。
周太のことが好きだ。ことん、ってふうに確信がさ、心に落ちてくる感じだった。そういうのは俺、初めてだった」
焚火が爆ぜて、細かな火の粉が山闇に舞う。
藤岡がちょっと意外そうに、英二に訊いた。
「なに、宮田。もしかして初恋か?」
「うん、そうだよ。俺ね、周太が初恋なんだ。自分から好きになったのはね、周太が初めてなんだよ」
コップ酒を機嫌よく飲んで、ちょっと首傾げて国村が英二を見た。
見て少し唇の端を上げて、楽しげに笑って言った。
「だろね。だって宮田ならさ、本気で好きになったらね。無理矢理にでも掴まえて、絶対に離さないだろ?」
「あ、わかる国村?」
「ああ。もうさ、解りやす過ぎるよね」
国村の祖母の惣菜を楽しみながら、藤岡は2人を楽しげに眺めていた。
でもふと思いついたように、藤岡も口を開いた。
「じゃあさ。それまでの彼女達って、みんな押しかけ?」
「うん?そういうことかな。なんか俺ってさ、モテるんだよね?でもさ、ダメになるばっかだよ」
「へえ。やっぱ美形過ぎるのもさ、大変なんだな」
遣り取りを聴きながら国村は、藤岡の抱える重箱から卵焼きを摘まんだ。
それを口に入れながら英二を見、呑みこんでから呆れたように言った。
「そりゃ当然ダメになるよね。だって宮田は結局さ、思ったことしか言えないし出来ないだろ?」
「うん、そうだな」
「だから宮田はさ、相手の本音とかもね、すぐに見抜くよな。
そういう宮田はさ、本気で誰かを好きになるのは難しいタイプだろ?
だからたぶんさ。自分は本気で好かれていないって女の子が気付いた時、ダメになっているんじゃない?」
「あ、そうだな。多分そうだ」
頷く英二の横で、藤岡が酒をひとくち飲んだ。
そして感心したように国村に言った。
「国村ってさ、ほんと取調官とか適性あるよな。宮田からこんなに聴きだしちゃってさ」
「だからね藤岡、言っただろ?山岳救助隊から外されるんなら、俺は迷わず辞職だね」
「あ、そうだよな。でもさ、山岳救助隊も事情聴取するから、いい適性なんじゃない?」
「うん、そうだな。今も役に立っているしね、宮田?」
そう言って笑って国村は、唐揚げを頬張った英二を見た。
なにかすごい質問をされそうだな。
ちょっと覚悟した英二の目に、国村の唇の端が上がるのが見えた。
「さあ、宮田。最初の尋問に戻ろうか。宮田はさ、湯原くんを組み伏せているんだろ?」
唐揚げを飲みこんだ後で本当に良かった。ちょっと英二はほっとした。
けれどまあ、随分と直接的な質問が飛んできた。
なんて答えたら良いのかな、考えていると藤岡が言った。
「そういえば宮田さ。左肩に痣なんか、学校のときは無かったよな?」
「痣?擦り傷の痕ならあるけど?」
左肩に痣なんて自分は無いはずだ。
怪訝に思っていると、藤岡が訊いてきた。
「昨夜さ、風呂で一緒になっただろ?新宿から帰ってきたとこだって、宮田は言っていたよな。
そしたらさ、お前の左肩に真っ赤な痣があったんだよ。
どうしたのか訊こうと思ったら、お前さっさと出ちゃったからさ。雲取山か新宿で、何かにぶつけたのか?」
言われて英二は、心当たりを考えた。
登山ザックでは痣は出来ないだろう。新宿でも特に何もない。
だいたい痛くもなんともない、打撲では無いのだろう。
「…ん、?」
一昨日の晩の「好きなだけ」の時。
そういえば最中に、周太が左肩にキスしてくれた。
そんなことを周太から、してくれたのは、初めてだった。
「あ、」
ちいさく呟いて、一瞬で英二は幸せに笑った。
きっと周太のキスが残っている。
あんなふうに、周太から想いを刻んでくれたこと。ほんとうに嬉しくて幸せだった。
あんまり嬉しかったから「おなじ所にキスしてよ」って何度もねだってしまった。
そして気恥ずかしそうに微笑んで、周太は何度もキスしてくれた。
だからきっと周太のキスの痕が残っている。
昨日の朝は早く周太の顔を見たくて、急いで朝風呂も済ませた。
昨夜は早く周太に電話したくて、大急ぎで風呂を済ませた。
それに、いつも自分の体なんか見ないから、気付かなかった。
帰ったら見てみよう。考えながら英二は、コップの酒を飲んだ。
そんな英二を眺めて、国村はコップの酒を飲みほした。
そしてコップを河原に置くと、立ちあがって大きく伸びをする。
それを見て、藤岡は重箱を少し離れたところに置いた。
「藤岡はさ、足をよろしくね」
「うん、いいよ、」
「じゃあさ。ちょっと失礼するよ、宮田?」
がばりと国村が、背後から英二を両腕ごと固めた。
「…っえ、な?」
驚いて英二が立ちあがろうとした瞬間、英二の膝下から藤岡が抑え込んだ。
がっちり腕と肩が固められ、膝下の動きも封じられている。
肩越しに国村が、可笑しそうに英二に笑いかけた。
「さあ、宮田。もう、観念するんだね」
「は?…なにこの状況、国村どういうこと?」
訊きながら英二は、肩から動かそうとした。けれどびくとも動かない。
底抜けに明るい細い目が、殊更いつもより明るく楽しげでいる。
「無駄だよ、宮田。俺ね、逮捕術は岩崎さん仕込みだからさ」
御岳駐在所長の岩崎は、第七機動隊時代は逮捕術の特練だった。
その岩崎に教わって、しかも国村は英二と同等に長身でパワーがある。
さすがの英二でも動けない。
「いや、それは知っているんだけどさ。いったい何、国村?」
「あれ、宮田。まだ解らないんだね?ふうん、」
可笑しくてたまらないと、国村が笑いだした。
なんだかわけがわからない。2人とも一体なんだろう?
体を動かそうとしても、英二はやっぱり動けない。膝もとから、からっと藤岡が英二に笑いかけた。
「宮田、無理だよ。俺は鳩ノ巣駐在の柔道指導だよ?いくら宮田がパワーあっても、技は俺、負けないから」
英二の膝下は、藤岡の関節固めにあっているらしい。
どおりで英二の力任せでも動かせないわけだ。
感心しながら英二は、藤岡に訊いた。
「藤岡、これどういうこと?」
「うん、俺がさっき訊いたことだな」
笑って藤岡が言うと、肩越しに国村が宣告した。
「さあ宮田、身体検査の時間だよ。任意だけどね、同意しか選択肢は無いよ?」
なにいっているんだろう国村?
「…え?」
英二が驚いた隙に、すばやく国村の左掌が英二の左肩にかかる。
そのまま国村の左掌は、登山ジャケットごとカットソーを引き下ろした。
「あ、これは動かぬ証拠だね、宮田」
露わになった英二の白い肩には、深紅の痣が刻まれていた。
「な?俺の言った通りだったろ」
「うん、ほんとだね。昨夜の風呂がさ、藤岡が宮田と一緒で良かったよ」
藤岡と国村は、笑いながら英二の体から腕を解いた。
そして国村に服を捲られた左肩を、楽しそうに見学している。
「でもこの痣もさ、きれいだよな。宮田ってさ、肩でもなんでも美形なんだな」
「確かに、これじゃあさ。モテるのも仕方ないね」
「ははっ。でもさ、宮田と湯原が幸せそうで良かったよ」
「ほんとだね。宮田、良いもの見せてもらったよ。ありがとうな」
国村は英二の肩をポンと叩くと、また流木に腰掛けた。
呆気にとられている英二の前で国村は、楽しげに酒をまた呑みだした。
藤岡もまた重箱を抱えて、旨そうに惣菜を口に運んでいる。
「幸せなのはさ、良いよな」
「そうだね。寄り添える体温があるのはさ、幸せなことだね」
「あ、国村はいいよな。かわいい彼女がいるもんな」
「藤岡もがんばんなよ。奥多摩にだって可愛い子いるだろ?」
「じゃあ国村さ、誰か紹介してよ?」
楽しげに焚火と酒を囲む2人を見、仕方ないなと英二は微笑んだ。
どうやら自分は、がっちりと罠にはまって、2人の肴にされたらしい。
左肩のカットソーを引きあげながら、そっと痣にふれて英二は微笑んだ。
藤岡は「きれいな痣」と言い、国村も明るく頷いていた。受けとめてくれている、それが英二には嬉しかった。
それに何よりも。
周太の美しい想いが刻まれた、深紅の痣が自分の肩にある。
そのことがうれしくて、幸せに笑って英二は服を整えた。
「はい、宮田。眼福だったよ、」
言いながら国村が、コップに酒を注いで渡してくれた。
その底抜けに明るい目が、可笑しそうに笑っている。
なんだか可笑しくて、英二も笑って答えた。
「ありがとう、そんなに眼福だった?」
「うん、だってさ。あの可愛い彼が、って思うと余計にさ。ねえ?」
細い目はすっかりご機嫌だ。秀麗な顔は楽しげに笑っている
こんなに上品な風貌なのに国村は、やっぱりオヤジでえげつない。
けれどこれで明日の射撃訓練も、ご機嫌で行ってくれるといい。
思いながら英二は、コップの酒を啜った。
「あ、やっぱ旨いな」
のんびり呑みながら、英二も重箱の惣菜を摘まんだ。
見上げると、今夜もきれいな月が御岳山に架かっている。
月の御岳というのだと、一昨夜に周太と美代が話していた。
ここに今、周太が隣にいてくれたらいいな。
そう思いかけて英二は、首を傾げた。
「…いや、やっぱり今は拙いな」
呟いて自分で少し可笑しくて、英二は笑った。
きっと周太が今ここに居たら、国村の格好の餌食になるだろう。
きっとこの痣で散々に転がされて、真赤になって困り果てるに違いない。
そうしたら、もう二度とこういう幸せな痣は、刻んでくれなくなるかもしれない。
今夜のことは、ちょっと周太には全部は言えない。
ごめんね周太、痣が見られちゃったよ。そんなふうに英二は、心裡で周太にこっそり謝った。
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第24話 山霜act.5―side story「陽はまた昇る」
山岳訓練と遭難救助と、それから通常勤務の御岳山巡回。
そんなふうに今日は、3度ほど山に登っている。そして今また山の河原で、国村と藤岡と酒を飲み始めた。
この酒は奥多摩の特撰酒で国村が奢ってくれる酒、だから旨いに決まっている。
でもこの酒はちょっと高い条件がついた。その条件に、上機嫌の国村が英二の前で笑って言う。
「もう宮田は飲んじゃったよ、高い条件も一緒にね。さ、訊かせて貰おうか。存分の自慢話をさ」
自慢話か。英二は楽しくなって微笑んだ。
国村も藤岡も快活に笑って、英二と周太の関係をフラットに受けとめてくれている。
だからこそ「自慢話」と言えるのだろう「お前の恋愛は自慢になるよ」そんな気持ちが解ってうれしい。
そういうのはきっと得難いことだ、それが自分には解っている。
なんだか楽しい、そして幸せだ。きれいに笑って英二は言った。
「自慢話、長くなるよ?」
「うん、いいよ。聴かせてくれよ、宮田」
からっと笑って藤岡が英二を見ている。
その横で国村が、底抜けに明るい目で言ってくれた。
「うん、望むところだね。ほら宮田、言っちゃいな?」
焚火に白皙の顔を温めながら、微笑んで英二は藤岡と国村の顔を眺めた。
こういう2人と会えて、きっと本当に自分は幸運だ。
だって一応は解っている。自分と周太の選択は、いまの日本では拒絶されやすいこと。
それでもこの2人。山岳救助隊の同僚で山ヤ仲間のこの2人は、受入れてくれる。
ありがたいな。英二は微笑んで口を開いた。
「どう話せばいいかさ、俺も解らないんだ。だから端から話せばいいかな?」
そう。本当にどう話せばいいのだろう。
そう少し困る英二に、軽く頷いて国村が言ってくれた。
「宮田がさ、話したいように話しなよ。俺はお前の話ならね、どれも楽しいからさ」
何でも全部を受けとめるよ?そんなふうに国村は言ってくれている。
ほんとこいつ良いヤツだな。英二は微笑んだ。
「俺さ。本当は一生ずっとね、告白しないつもりだったんだ」
「うん…そうか、」
国村の底抜けに明るい目が、温かい眼差しに笑って頷いてくれる。
からり明るい藤岡の目が、穏やかに笑って見守ってくれる。
うれしいな。思いながら英二は、ゆっくり話しだした。
「男同士で生涯を添い遂げる約束。
それは今の日本では認められ難くて、タブー視されやすいだろ?そして差別も受ける。
それくらいは俺にも解っているんだ。だから俺はね、周太の事を巻きこみたくなかった」
2人とも真直ぐに英二を見て、聴いてくれている。
こういうのは幸運だ、英二は言葉を続けた。
「父さんの殉職を超えようって、真直ぐに生きてきた周太。
いつも真剣で、きれいで眩しくてさ。いい加減に生きていた俺にとって憧れだった。
だから俺さ。ちょっとも周太のこと傷つけたくなくって、ずっと黙っていようって思っていた。」
「うん。きれいだとさ、傷つけたくないよな」
細い目が「わかるな」と微笑んで相槌を打ってくれる。
国村の相槌に頷いて、英二は微笑んだ。
「卒業式と卒配の挨拶の後だった。俺、周太に告白したんだ。
きっと拒絶されるって思った。けれど告げたかったんだ。
俺たちは警察官だ、危険に生きている。「いつか」なんか無いから、今しか伝えられない。そう思った。
そして俺は山岳救助隊員だ。一秒後に召集を受けて遭難事故に巻き込まれても不思議じゃない。だから伝えたかった」
そっと国村が口を開いた。
「うん、ほんとうにさ、そうだよね」
「うん、俺も同じだな。そういう覚悟をさ、卒配のときした」
藤岡も頷いて、そして英二に笑いかけてくれた。
ちょっと微笑んで英二は言葉を続けた。
「だからね、どうしても想いをさ。あのときに告げてしまいたかった。
もう会えるのは最後になるかもしれない、そんな覚悟がね、俺の口を開かせちゃったんだ。
そうしたらさ、…周太、俺を受入れてくれた。ほんとにね、俺、うれしくてさ。
もう会えないかもしれないって思った、けれど一瞬でも想いを交せた事がね、幸せだった」
2人とも微笑んで、ゆっくり酒を飲みながら聴いてくれる。
英二もコップに口をつけて、ひとくち啜った。
旨いな。ふっと微笑んで、英二はまた続けた。
「最初はさ、周太のこと少し苦手だった。
かわいい顔の癖に気が強くって強情で、優等生で体力も抜群でさ。近寄り難くて。
不真面目な俺を責めるような視線も怖いしさ、生真面目で余裕がなくて。それに俺、初対面で睨まれたんだよ」
ちょっと首傾げて、藤岡が英二に訊いた。
「初対面って制服貸与の時か?」
「いや、入寮前に下見に来たとき。校門の前にさ、周太が立っていたんだ」
へえ、という顔に藤岡がなっている。
おかしそうに国村が微笑んで、口を開いた。
「運命だ?」
「うん、そうだな」
運命。きっと本当にそうだ。
なんだか嬉しくなりながら、英二は続けた。
「でさ、その時の周太って、今みたいに前髪が長かったんだよ。
視線が強いけれど、繊細な雰囲気で可愛かった。だから俺さ、つい軽く言っちゃったんだ。
『その無愛想なんとかしとけよ。結構かわいい顔してんだからさ』そんな俺の態度がね、周太を怒らせたらしいんだ」
ちょっと意外だなと国村が首を傾げている。
ひとくち酒を飲みこんで、藤岡が言った。
「湯原、怒ったのか?」
「うん。顔で舐められたくない、そう思ったらしい。それですぐに周太、ばっさり髪を切ったんだ。
だから周太、印象がすっかり変わってさ。制服貸与で再会した時に俺、周太が誰なのか解らなかったんだよ」
ああと藤岡が頷いた。
「うん、湯原って前髪で雰囲気変わるよな。俺もさ、先週だっけ?
洗濯干場で会った時に、最初は解らなかったな。警察学校の時は湯原、いつも前髪は上げていたからさ」
「いや、学校時代もね、ほんとは前髪、おろしていたんだ」
「なに、どういうことだ?」
首傾げて藤岡が訊いてくれる。
ちょっとうれしくなって英二は笑った。
「俺と周太の最初の外泊日にさ、周太ちょっと額に怪我したんだ。
その手当てした時に校医の立花先生がな、絆創膏を隠すのに周太の前髪を降ろしたんだよ。
それでまた俺、思わず言ったんだよ『やっぱり前髪ある方が可愛いな』って。
それ以来さ、寮の部屋にいる時と外泊日には周太、前髪をおろすようになったんだ」
酒を片手に国村が、すこし首を傾げた。
そしてコップに口付けて呑みこむと、ちょっと呆れたように言った。
「ほんとは宮田がさ、湯原くんの前髪をおろさせていたんじゃないの?」
「あ、解る?」
「もろバレだよ」
そう、その通りだった。
いつも英二が指でかきあげ梳いて、上げた前髪をおろさせていた。
「外出の時と、寮の部屋にいる時はさ。俺が独り占め出来るだろ?
だから可愛いままの素顔の周太で、隣に居てほしくてさ。
最初に髪かきあげた時は、俺、緊張した。手を払いのけられるかな、とかさ。でも周太は嫌がらなかった。
それからいつも静かに触らせてくれた…俺、うれしかったんだ。
いつも髪に触れるたび、自分だけが許して貰えているって、うれしかった。
想いは言えないけれど、自分だけの特別な「いつもの」が出来て嬉しかった。それだけでも俺、ほんとに幸せだった」
英二を見つめていた藤岡が、ゆっくり瞬きをする。
そして藤岡はそっと言った。
「…なんか俺、切なくなってきた」
「そっか、」
なんだか嬉しくて、英二は微笑んだ。
けれど国村は温かい目のままで、冷静に訊いてきた。
「それで宮田、いつ湯原くんへの気持ちを自覚した?」
まずはそこからなんだな。
淡々とした国村の「尋問」が可笑しくて、すこし笑って答えた。
「その最初の外泊日の時だよ。
周太とは実家へ帰る道が新宿まで一緒でさ。それで俺、新宿で飯食おうって誘ったんだよ。
あの時はもう好きだった、けれどまだ俺も無自覚でさ。ただ一緒に飯食いたかったんだ。
それで一緒に本屋に行って、それからラーメン食ってさ。で、その後に偶然、遭遇しちゃったんだ」
首傾げて国村が英二を見た。
そして英二の言葉について淡々と訊いてくれる。
「遭遇?なんか遭難みたいだな」
「うん。ある意味、遭難だな。…ちょっとここの話はさ、俺、嫌な奴になるかも」
「嫌な奴でも何でも宮田だろ?話せよ」
お前のこと嫌な奴なんて思えないよ、そんな目で国村が笑ってくれる。
その横で藤岡も人の好い笑顔で、軽く頷いてくれた。
こういうの嬉しいな。少し笑って英二は話した。
「俺さ。警察学校に入って間もなく、脱走したんだ。藤岡は覚えてるよな?」
「うん、大騒ぎになりかけたな」
そうだった。
同じ教場の藤岡には迷惑をかけるところだった。
思いだしても哀しい、英二は素直に頭を下げた。
「ほんとうに藤岡、あの時は、ごめん」
「いや、気にするなよ?だって今からさ、事情説明してくれるんだろ?」
からっと笑って藤岡は、国村の祖母の煮物を頬張った。
やっぱり藤岡は良いヤツだな。うれしくて微笑んだ英二に、国村が意外そうに訊いた。
「へえ、宮田が脱走?お前、真面目なのにね」
「ああ、俺ってね、前は不真面目なチャラチャラした男だったからさ」
ますます意外そうに、国村は首を傾げた。
それから率直に口を開いて言った。
「違うだろ?それなりの理由があったんだろ、宮田」
信じてくれるんだ。素直に英二はうれしかった。
こんなふうに国村は、真直ぐに英二の本性を見つめてくれる。
だから「違うだろ?」と国村は言ってくれた。
「うん、違う。俺はあのとき、真剣に悩んで脱走した」
「そっか…辛かったな、」
そっと言って国村は、すこし酒を啜り込んだ。
藤岡も口を動かしながら、きちんと英二を見てくれる。
2人の聴いてくれる気持が嬉しくて、英二は微笑んで言葉を紡いだ。
「俺さ。警察学校に入った理由は、公務員で楽かなって程度だったんだ。そんなふうに要領良く生きていた。
ほんとの俺は直情的だろ?そういう自分のままでは生き難いって思ったからさ。
そうやって自分すら誤魔化して、真剣に生きることは諦めていたんだ。
けれど周太に出会った。寮の隣の部屋に周太がいてさ、毎晩遅くまでデスクライトが点いていたんだ。
いつも一生懸命に勉強する気配がね、壁越しにも伝わった。そういう周太が俺、羨ましかった」
話していく空気に、川のせせらぎが静かな夜の底で響く。
その静かな音を聴きながら、3人で焚火を見つめていた。
こういう時間はいいな、思いながら英二は静かに続けた。
「周太の一途に見つめる瞳。不器用でも真摯に生きる姿勢に、本当は憧れていた。
そんなふうに自分も、何かを懸けて生きたい。そんな想いから俺さ、警察官の道に懸けようと思ったんだ。
ずっと俺はいい加減だった、けれど本当はね。直情的な自分のままで、本音で素直に生きたかった。
周太みたいに懸けられたら、俺も自分らしく生きられるかなて思ってさ。そうやって俺、生きる意味に初めて向きあえた」
ぱちり焚火が爆ぜる。
薪をひとつ、国村が器用にくべてから座りなおした。
「そんな矢先にね、当時の彼女から『妊娠した死にたい』だから会いたいって言われた。
それで俺は悩んだ、会う為に脱走したら辞職だ。掴みかけた仕事への誇りは捨てたくなくて、本当に哀しかったよ。
それでも男として責任をとる道を選ぼうと決めた。誰かの人生を傷つけたくなかった。
こんな俺でも求めてくれるなら応えたかった。それで脱走しようとベランダへ出たらさ、周太が部屋に来たんだ」
「湯原から、宮田の部屋に来たのか?」
意外そうに藤岡が訊いてくる。
そうだよと英二は頷いた。
「うん、意外だろ?それで俺さ『どうしても行くなら辞めてから行けよ!』って、周太に怒鳴られたんだよ」
「へえ、湯原くんが怒鳴るなんて、ねえ?」
「うん、湯原って熱い時あるけどさ。でも、そのタイミングで怒鳴ったんだ?へえ」
驚いた顔で、国村も藤岡も英二を見ている。
ちょっと笑って英二は続けた。
「警察官になる覚悟を突きつけてね、周太は俺を引き留めようとしてくれた。
でも俺さ、「退学届」を書き置いて出て行ったんだ。
俺の将来を捨てても、ひとりの女性の人生を救ってやりたい。そんな想いだった。けれど、」
ふっと英二の心の底が重くなる。
暗い痛みが静かに起きあがるのを感じながら、英二は静かに言った。
「けれど、全ては茶番だったんだ。ちょっと会いたかったのって言ってさ、『嘘よ』って彼女は軽く笑ったよ」
底抜けに明るい国村の目が、英二の暗い痛みを映しだしていく。
ああ今、自分の痛みを国村も知ってくれている。そう解って英二はうれしかった。
「真剣に生きたい、それだけだったんだ。俺は警察官として真剣に生きようって。
だから俺、本気で彼女にそう言ったよ。その時さ、俺、初めて怒りながら人に話したんだ。それくらい解ってほしかった。
けれど彼女は何も解ろうとしなかった。他人に自慢して見せびらかせる彼氏がほしい、それだけだった。
彼女にとっては俺はさ、虚栄心を満たす道具ただそれだけ。
だからさ、警察学校に入って会えない俺はね、役立たずだって言われた。そう罵って彼女は帰って行ったよ」
藤岡が、呆然と呟くように言った。
「…ひどいだろ、それ…」
言った藤岡の丸い目が、しずかに漲った。
その横で、国村の細い目が瞠られていく。その澄明な瞳には、英二の哀しみが映りこんでいた。
そうやって2人とも解ってくれるんだ。うれしいなと英二は微笑んだ。
「俺、悔しかった。そして憎いって生れて初めて思った。
馬鹿な自分も、無神経な彼女も。もう何もかもが憎かった。
あの時に俺さ、生まれて初めて、憎さと怒りに本気で泣いたんだ」
彼女の残酷な虚栄心の軽い嘘に、踏みつけられて罵られて、否定された。
あのときの想いが心深くでまた痛い。けれど仕方ない、いい加減に生きていた自分が悪かったのだから。
「俺ってさ、美形なんだろ?だから俺の外見だけ目的の人間が多くてさ。
俺の中身には用が無いって人が多かった、さっきの彼女みたいにね。
でも俺はさ、本当は直情的だろ?そんなふうに外見だけで好かれても、上手く行くわけがない。
だから俺が本音で何かを言うたびさ、お互い傷つくことが多かったんだ。
だからもうね、自分の本音に気付かぬフリをしてさ、真剣に生きる事を馬鹿にしたんだ。
そうやってずっと俺はね、自分にも周りにも嘘をついて。適当に誤魔化して楽しいフリして生きてきた。」
底抜けに明るくて深い細い目が、真直ぐに英二を見つめている。
そうして、そっと国村が呟くように言ってくれた。
「宮田がね、そうやって生きるのは、…辛すぎるな」
「うん、辛かった、」
目の底が熱くなる。
それくらい本当はずっと、そんな生き方は悔しかった。
けれど今はもう素直に生きている。だから泣かないで笑って話したい。そっと英二は微笑んだ。
「だから俺さ。騙されて脱走したって解った時はね、本気で絶望したんだ。
俺はさ、ほんとは真剣に生きたい癖に嘘ついて、真剣に生きる人を馬鹿にしてきた。
そんな自分には真剣に生きる資格はないのか。そんなふうに俺さ、絶望したんだ。
ほんと苦しくてさ、自分も彼女も全てを憎んだよ。全てが何も信じられなくなった。
自分にあんな真剣な想いと憎しみがあることをさ、俺はね、あの時に初めて知ったんだ」
憎悪と絶望と哀しい諦め。あのときの想いがあるから、今はここにいる。
奥多摩の河原に座って、焚火を見つめながら英二は微笑んだ。
「そんな想いのまんま、俺は遠野教官に寮へ連れ戻された。
戻った寮の廊下を歩くのも哀しかった。せっかく見つけた「警察官」にはもう、なれないだろうなって。
そんな想いでな、憎しみと絶望と、諦めとさ、ぼんやり歩いていたんだ。
そんな暗い目にさ、隣の部屋から洩れるデスクライトの光が映りこんだ。周太の光だよ」
ふっと国村が微笑んだ。
「一筋の光明だったんだ」
「ああ、本当にそうだ」
笑って英二は続けた。
「そのころは俺さ、周太の素顔に気が付いていたんだ。純粋で繊細で穏やかな優しさが本当の周太だって。
そういう純粋な優しさが他人への遠慮になって、周太は孤独に籠っていたんだ
そんな周太はさ、純粋なまま一途に勉強していたよ。そしてあの夜もさ、周太が勉強する光が廊下に射していた」
囲んだ焚火が、穏やかに互いの顔を照らしてくれる。
お互いの顔と炎を眺めながら、英二は話した。
「真っ暗な気持ちにさ、その光だけが温かく見えた。
ここだけが自分を待ってくれている。
そんなふうに思えたんだ。それで周太の部屋の扉を開いた。
そして俺ね、周太に抱きしめられて泣いたんだ。受けとめてもらえて俺、うれしかった。」
そう、あの場所だけが自分を待っている。
静かに微笑んで英二は言った。
「周太の気配って静かで穏やかでさ、俺、安心出来るんだよ。それで俺、周太の隣から立てなかった。
そんな俺を周太はね、徹夜勉強に誘ってくれたんだ。そして一晩中を隣ですごして、孤独にしないでくれた。
あのとき俺はね、孤独と憎しみに捕まりかけていた。それを救ってくれたのは、周太なんだ。
穏やかに受けとめて、静かに佇んでくれた。あのときからずっと、周太の隣の居心地がさ、俺は大好きなんだ。」
細い目を笑ませて、そっと国村が言った。
「うん、湯原くんらしいね」
「だろ、」
頷いて、きれいに英二は微笑んだ。
微笑む英二を見て藤岡も笑った。そして藤岡も感心したように頷いた。
「うん、湯原ってさ。なんか佇まいっていうのかな?きれいで穏やかだよな」
「だろ?俺はね、そういう周太を愛してるよ。だからあれは、俺だけのもの」
「ははっ。ほんと宮田、湯原のことばかり見てるんだ」
そうだよと目だけで英二は頷いた。
頷いて静かにコップの酒を啜ると、ほっと息がつかれた。
さて話がだいぶ大廻りになったな。思いながら再び英二は口を開いた。
「でな。外泊日にさ、その元彼女と遭遇したんだ。
きっと見た瞬間に俺の顔は、すごい冷たい表情になったと思う。
要領良く生きていた時は、別に傷つきもしなかった。どうでも良かったから。
けれど。あの時にはさ、俺は周太の隣で、生きる意味に真剣に向き合っていた。
そういう自分の誇りを、見つけたいって努力を始めていた。だからどうしてもさ、」
ふっと英二は口を噤んだ。これから酷い言葉を自分は言うだろう。
直情的な自分は、いつだって思った事しか言えない。そしていま思うことは、残酷な言葉になるだろう。
そんな躊躇をする英二を、国村が体を向けて覗きこんだ。
真直ぐで底抜けに明るい瞳が、そっと英二に笑いかける。
「言っちまいな、宮田」
いつものように笑って、国村が言ってくれる。
黙って見つめる英二に、飄々と細い目が笑いかけた。
「宮田と俺は山のパートナーだろ?俺たちは一蓮托生なんだよ。だからさ、言いたいことは全部、ちゃんと言いな」
「そっか、」
国村に笑いかけて、英二は顔を上げた。
藤岡を見ると、人の好い顔で笑いかけてくれる。
もう今夜は全部、話してしまおうかな。英二は哀しい目のままに言った。
「俺はさ、あの女を許せない」
きれいな低い声で、はっきり英二は言った。
言って2人に笑いかけて、2人の目を見ながら話した。
「そう、あの女だけはね、俺は許せない。だって俺の誇りを踏み躙った。
そして俺はね、辞職するところだった。教場の仲間から離されるところだった。
なにより周太の隣から、俺は離れるところだった。
そうしたら俺は今、山岳救助隊として立つことも出来なかった。山ヤの警察官の誇りに生きる事も出来なかった」
ゆっくりと言って、英二は息をついた。
その合間に、いつも通りに国村が明るく言ってくれた。
「あ、それは困るね。宮田が来てくれないとさ、俺はパートナー居ないままだったからね」
「国村、そうだったんだ?」
思わず英二が訊き返すと、軽く頷いて国村が言った。
「うん。俺ね、ずっと単独か後藤副隊長と組むしかなかったんだ」
「そっか、」
言われてみればそうだ。
でもなんでだろう?ちょっと英二は訊いてみたかった。
けれど国村は、コップ酒を片手に微笑んで、英二を促してくれる。
「で、宮田の話の続きしろよ」
「あ、うん」
明るい国村の相槌を聴いて、英二から暗い毒気が幾分抜かれていた。
やっぱり国村は良いパートナーだ。うれしくて英二は微笑んだ。
「だから俺はね、あの女だけは許せない。
俺は直情的な男だよ、身勝手でさ、ほしいものは絶対に掴んで離さない。
だから俺からさ、大切なものを奪おうとしたあの女。あの女だけは、一生許すことなんか出来ない」
言って、ひとくち酒を飲んで英二は微笑んだ。
ちょっと笑って国村も酒を飲んで、言ってくれた。
「うん、いいんじゃない?」
「いいかな?」
英二の問いかけに、国村は頷いてくれる。
軽やかに笑って、国村は口を開いた。
「俺たちはさ、山ヤだろ?山ヤはね、自由で誇り高いんだ。
山ではさ、小さなミスが本当に命とりになる。それは山ヤにとって不名誉だ。
だから山ヤはさ、誇り高いからこそミスを許さない。ミスをしない為に謙虚に学んで努力も出来る。
そういう努力が出来るから、山ヤは自分を知っている。
そして自分を知っているから、自分がどうすべきかを判断できるよ。
そういう判断を誤らないからさ、山ヤは自由に生きる事も、出来るんだって思う」
ひとくち酒を飲んで、国村は笑った。
「山ヤは誇り高いから、自由に山ヤとして生きられるんだ。
だから宮田。お前がさ、その女を許せなくっても仕方ない。だって宮田は山ヤなんだ、もう生まれた時からね」
生まれた時から山ヤ。
いい言葉だな、英二は嬉しくなった。
だって世田谷の街中に生まれた、そして山の経験浅い英二を、そう言ってくれる。
訊いてみたくて、英二は口を開いてみた。
「生まれた時から、俺も山ヤなのか?」
「うん、きっとね。ほんとの山ヤってさ、皆そんな感じだよ」
当たり前のように言って、国村は酒を飲んだ。
飲んで満足げに笑うと、真直ぐに英二を見ながら言った。
「そんな宮田の誇りをさ、踏んづけた女の無礼を許せないのはね、当然だろ?
そしてさ、そういう誇り高さがきっと、宮田を山ヤとして生かして成長させるんだ。だからね、宮田」
底抜けに明るい目が、楽しそうに英二を見ている。
そして軽やかに笑って、明るい声で国村が言ってくれた。
「宮田は山ヤだ、だから許せない事は、きっと正しいよ」
うれしかった。
だって自分の黒い憎悪まで、国村は「山ヤで必要」と明るく受けとめてくれた。
国村は同じ年だけれど、5歳からクライマーとして生きている。
そしてトップクライマーの素質がまぶしい一流の山ヤだ。
そういう国村に言ってもらえることは、英二は本当に嬉しかった。
こういう男と友達になれて、本当に自分は幸せだろう。うれしくて英二は笑った。
「うん。ありがとう、国村」
「いや、礼はいらないよ?ほら、宮田」
そう言って英二のコップに、酒をまた注いでくれる。
早く呑めと促すと、国村は唇の端を上げた。
「ほら、宮田。自慢話の続きをね、早く聴かせなよ?その酒、高いんだからさ」
こんなふうに笑って、国村は対等にいてくれる。
うれしいなと微笑んで、英二は話し始めた。
「うん、それで女と遭遇してさ。で、俺は冷たい顔になった。
俺ね、周太にそんな顔を見せたくなかったんだ。周太の純粋な瞳にさ、俺の憎しみなんか見せたくなかった。
それで周太の腕を掴んで、ただ歩いた。そして気が付いたら、きれいで大きな公園の前にいたんだ」
「それってさ、御苑?」
「うん、そう」
藤岡の質問に答えて、英二はひとくち酒を啜った。
懐かしくて微笑みながら、英二はまた話しだした。
「ここ入ろうよ。周太はそう言ってくれた。でね、森の中のベンチに座ってさ。ずっと俺の隣にいてくれた。
コーヒーを買ってくれたよ、周太。そのコーヒー飲みながらさ、俺はぼんやり周太の横顔を見ていた。
そのとき周太はね、買ったばかりの本を読んでいた。
フランス語の原書でさ、恋愛小説だった。でもその時はさ、推理小説だと思って周太、買っちゃったんだよな」
初めて書店に一緒に行った。そして初めて一緒に買い物をした。
あのとき買った本は、『Le Fantome de l'Opera』紺青色の表装だった。
「恋愛小説だって気付かなかったんだ、ふうん。湯原くんらしいね」
「だよな、湯原らしいよ。なんか湯原ってさ、優秀な癖にちょっと天然のとこあるんだよな」
「かわいいだろ?でも周太はね、俺のだから」
仕方ないねえという顔で、国村が英二に笑う。
そしてコップに酒を注いでくれながら、早く話せよと目だけで促した。
頷いて英二は、ひとくち飲んで、また始める。
「そのときさ、木洩陽がふっていたよ。
ページを見つめる周太の、長い睫の翳が頬にきれいだった。
横顔の肌がいつもより白くて、森の緑にうかんでいたよ。きれいだなあって見惚れていた。
そうしたらさ、にわか雨が降ってきたんだ。あわい水のカーテンの蔭でさ、俺は気付いたんだよ。
周太のことが好きだ。ことん、ってふうに確信がさ、心に落ちてくる感じだった。そういうのは俺、初めてだった」
焚火が爆ぜて、細かな火の粉が山闇に舞う。
藤岡がちょっと意外そうに、英二に訊いた。
「なに、宮田。もしかして初恋か?」
「うん、そうだよ。俺ね、周太が初恋なんだ。自分から好きになったのはね、周太が初めてなんだよ」
コップ酒を機嫌よく飲んで、ちょっと首傾げて国村が英二を見た。
見て少し唇の端を上げて、楽しげに笑って言った。
「だろね。だって宮田ならさ、本気で好きになったらね。無理矢理にでも掴まえて、絶対に離さないだろ?」
「あ、わかる国村?」
「ああ。もうさ、解りやす過ぎるよね」
国村の祖母の惣菜を楽しみながら、藤岡は2人を楽しげに眺めていた。
でもふと思いついたように、藤岡も口を開いた。
「じゃあさ。それまでの彼女達って、みんな押しかけ?」
「うん?そういうことかな。なんか俺ってさ、モテるんだよね?でもさ、ダメになるばっかだよ」
「へえ。やっぱ美形過ぎるのもさ、大変なんだな」
遣り取りを聴きながら国村は、藤岡の抱える重箱から卵焼きを摘まんだ。
それを口に入れながら英二を見、呑みこんでから呆れたように言った。
「そりゃ当然ダメになるよね。だって宮田は結局さ、思ったことしか言えないし出来ないだろ?」
「うん、そうだな」
「だから宮田はさ、相手の本音とかもね、すぐに見抜くよな。
そういう宮田はさ、本気で誰かを好きになるのは難しいタイプだろ?
だからたぶんさ。自分は本気で好かれていないって女の子が気付いた時、ダメになっているんじゃない?」
「あ、そうだな。多分そうだ」
頷く英二の横で、藤岡が酒をひとくち飲んだ。
そして感心したように国村に言った。
「国村ってさ、ほんと取調官とか適性あるよな。宮田からこんなに聴きだしちゃってさ」
「だからね藤岡、言っただろ?山岳救助隊から外されるんなら、俺は迷わず辞職だね」
「あ、そうだよな。でもさ、山岳救助隊も事情聴取するから、いい適性なんじゃない?」
「うん、そうだな。今も役に立っているしね、宮田?」
そう言って笑って国村は、唐揚げを頬張った英二を見た。
なにかすごい質問をされそうだな。
ちょっと覚悟した英二の目に、国村の唇の端が上がるのが見えた。
「さあ、宮田。最初の尋問に戻ろうか。宮田はさ、湯原くんを組み伏せているんだろ?」
唐揚げを飲みこんだ後で本当に良かった。ちょっと英二はほっとした。
けれどまあ、随分と直接的な質問が飛んできた。
なんて答えたら良いのかな、考えていると藤岡が言った。
「そういえば宮田さ。左肩に痣なんか、学校のときは無かったよな?」
「痣?擦り傷の痕ならあるけど?」
左肩に痣なんて自分は無いはずだ。
怪訝に思っていると、藤岡が訊いてきた。
「昨夜さ、風呂で一緒になっただろ?新宿から帰ってきたとこだって、宮田は言っていたよな。
そしたらさ、お前の左肩に真っ赤な痣があったんだよ。
どうしたのか訊こうと思ったら、お前さっさと出ちゃったからさ。雲取山か新宿で、何かにぶつけたのか?」
言われて英二は、心当たりを考えた。
登山ザックでは痣は出来ないだろう。新宿でも特に何もない。
だいたい痛くもなんともない、打撲では無いのだろう。
「…ん、?」
一昨日の晩の「好きなだけ」の時。
そういえば最中に、周太が左肩にキスしてくれた。
そんなことを周太から、してくれたのは、初めてだった。
「あ、」
ちいさく呟いて、一瞬で英二は幸せに笑った。
きっと周太のキスが残っている。
あんなふうに、周太から想いを刻んでくれたこと。ほんとうに嬉しくて幸せだった。
あんまり嬉しかったから「おなじ所にキスしてよ」って何度もねだってしまった。
そして気恥ずかしそうに微笑んで、周太は何度もキスしてくれた。
だからきっと周太のキスの痕が残っている。
昨日の朝は早く周太の顔を見たくて、急いで朝風呂も済ませた。
昨夜は早く周太に電話したくて、大急ぎで風呂を済ませた。
それに、いつも自分の体なんか見ないから、気付かなかった。
帰ったら見てみよう。考えながら英二は、コップの酒を飲んだ。
そんな英二を眺めて、国村はコップの酒を飲みほした。
そしてコップを河原に置くと、立ちあがって大きく伸びをする。
それを見て、藤岡は重箱を少し離れたところに置いた。
「藤岡はさ、足をよろしくね」
「うん、いいよ、」
「じゃあさ。ちょっと失礼するよ、宮田?」
がばりと国村が、背後から英二を両腕ごと固めた。
「…っえ、な?」
驚いて英二が立ちあがろうとした瞬間、英二の膝下から藤岡が抑え込んだ。
がっちり腕と肩が固められ、膝下の動きも封じられている。
肩越しに国村が、可笑しそうに英二に笑いかけた。
「さあ、宮田。もう、観念するんだね」
「は?…なにこの状況、国村どういうこと?」
訊きながら英二は、肩から動かそうとした。けれどびくとも動かない。
底抜けに明るい細い目が、殊更いつもより明るく楽しげでいる。
「無駄だよ、宮田。俺ね、逮捕術は岩崎さん仕込みだからさ」
御岳駐在所長の岩崎は、第七機動隊時代は逮捕術の特練だった。
その岩崎に教わって、しかも国村は英二と同等に長身でパワーがある。
さすがの英二でも動けない。
「いや、それは知っているんだけどさ。いったい何、国村?」
「あれ、宮田。まだ解らないんだね?ふうん、」
可笑しくてたまらないと、国村が笑いだした。
なんだかわけがわからない。2人とも一体なんだろう?
体を動かそうとしても、英二はやっぱり動けない。膝もとから、からっと藤岡が英二に笑いかけた。
「宮田、無理だよ。俺は鳩ノ巣駐在の柔道指導だよ?いくら宮田がパワーあっても、技は俺、負けないから」
英二の膝下は、藤岡の関節固めにあっているらしい。
どおりで英二の力任せでも動かせないわけだ。
感心しながら英二は、藤岡に訊いた。
「藤岡、これどういうこと?」
「うん、俺がさっき訊いたことだな」
笑って藤岡が言うと、肩越しに国村が宣告した。
「さあ宮田、身体検査の時間だよ。任意だけどね、同意しか選択肢は無いよ?」
なにいっているんだろう国村?
「…え?」
英二が驚いた隙に、すばやく国村の左掌が英二の左肩にかかる。
そのまま国村の左掌は、登山ジャケットごとカットソーを引き下ろした。
「あ、これは動かぬ証拠だね、宮田」
露わになった英二の白い肩には、深紅の痣が刻まれていた。
「な?俺の言った通りだったろ」
「うん、ほんとだね。昨夜の風呂がさ、藤岡が宮田と一緒で良かったよ」
藤岡と国村は、笑いながら英二の体から腕を解いた。
そして国村に服を捲られた左肩を、楽しそうに見学している。
「でもこの痣もさ、きれいだよな。宮田ってさ、肩でもなんでも美形なんだな」
「確かに、これじゃあさ。モテるのも仕方ないね」
「ははっ。でもさ、宮田と湯原が幸せそうで良かったよ」
「ほんとだね。宮田、良いもの見せてもらったよ。ありがとうな」
国村は英二の肩をポンと叩くと、また流木に腰掛けた。
呆気にとられている英二の前で国村は、楽しげに酒をまた呑みだした。
藤岡もまた重箱を抱えて、旨そうに惣菜を口に運んでいる。
「幸せなのはさ、良いよな」
「そうだね。寄り添える体温があるのはさ、幸せなことだね」
「あ、国村はいいよな。かわいい彼女がいるもんな」
「藤岡もがんばんなよ。奥多摩にだって可愛い子いるだろ?」
「じゃあ国村さ、誰か紹介してよ?」
楽しげに焚火と酒を囲む2人を見、仕方ないなと英二は微笑んだ。
どうやら自分は、がっちりと罠にはまって、2人の肴にされたらしい。
左肩のカットソーを引きあげながら、そっと痣にふれて英二は微笑んだ。
藤岡は「きれいな痣」と言い、国村も明るく頷いていた。受けとめてくれている、それが英二には嬉しかった。
それに何よりも。
周太の美しい想いが刻まれた、深紅の痣が自分の肩にある。
そのことがうれしくて、幸せに笑って英二は服を整えた。
「はい、宮田。眼福だったよ、」
言いながら国村が、コップに酒を注いで渡してくれた。
その底抜けに明るい目が、可笑しそうに笑っている。
なんだか可笑しくて、英二も笑って答えた。
「ありがとう、そんなに眼福だった?」
「うん、だってさ。あの可愛い彼が、って思うと余計にさ。ねえ?」
細い目はすっかりご機嫌だ。秀麗な顔は楽しげに笑っている
こんなに上品な風貌なのに国村は、やっぱりオヤジでえげつない。
けれどこれで明日の射撃訓練も、ご機嫌で行ってくれるといい。
思いながら英二は、コップの酒を啜った。
「あ、やっぱ旨いな」
のんびり呑みながら、英二も重箱の惣菜を摘まんだ。
見上げると、今夜もきれいな月が御岳山に架かっている。
月の御岳というのだと、一昨夜に周太と美代が話していた。
ここに今、周太が隣にいてくれたらいいな。
そう思いかけて英二は、首を傾げた。
「…いや、やっぱり今は拙いな」
呟いて自分で少し可笑しくて、英二は笑った。
きっと周太が今ここに居たら、国村の格好の餌食になるだろう。
きっとこの痣で散々に転がされて、真赤になって困り果てるに違いない。
そうしたら、もう二度とこういう幸せな痣は、刻んでくれなくなるかもしれない。
今夜のことは、ちょっと周太には全部は言えない。
ごめんね周太、痣が見られちゃったよ。そんなふうに英二は、心裡で周太にこっそり謝った。
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