ふたたびの場所、はじまりの場所
第30話 誓夜act.2―side story「陽はまた昇る」
12月25日AM8:00
時間ちょうどに英二は、新宿東口交番前に立った。
いつもグレーの街が今朝は白銀に輝いて、高層ビルも派手な装飾も雪に静まりかえっている。
そんな雪の街で英二は、ブラックグレーのコートをはおって立っていた。
薄い雪が足許をくるんでいる。積雪5cmほど、けれど新宿ではきっと大雪なのだろう。
もうこの程度では「薄い雪」と思ってしまうんだな、なんだか英二は愉快だった。
もう自分はすっかり基準が奥多摩になっている。そんな感覚に微笑みながら、英二は交番の入口を見つめていた。
きっともうすぐ。そんな予感と想いに見つめる真ん中に、小柄な活動服姿が映りこんだ。
「周太、」
うれしくて英二は、きれいに笑って呼びかけた。
小柄な警察官の制帽がかすかに動く、そして黒目がちの瞳が英二を見つめてくれた。
「…っ」
かすかに動いた唇、すこし大きくなる瞳。ずっと逢いたかった顔、逢いたかったひと。
うれしくて英二は、器用に雪を踏んで隣に立った。
「おはよう、周太。ホワイトクリスマスだね?」
ずっと逢いたかった。逢えない1ヶ月ずっと想って毎日電話して、メールをたくさん送って。
そして眠ってまで夢でも追いかけて、ずっと逢いたかった。
「周太、驚いてるの?」
うれしくて微笑んで、英二は周太の顔を覗きこんだ。
覗きこんだ黒目がちの瞳が、ゆっくり瞬いて英二を見つめてくれる。
そしてゆっくり周太の唇が動いた。
「…ん、おどろいた。…だって、9時に改札口、って」
「うん、そうだったね、周太?」
待ち合わせは新宿9時、いつもの改札口。そう約束していた。
けれどね周太?そんなふうに英二は黒目がちの瞳に笑いかけた。
「昨夜の電話でさ、『早くね、あいたい』って周太、おねだりしてくれたろ?
だから俺、周太が仕事上がる瞬間にね、迎えに来たかったんだ。それで早く、おはようって言いたかった」
「…どうして、」
ひとこと言って周太は、そっと唇を閉じてしまった。
でも何て言いたいかなんて英二にはわかる「どうして俺の心が解るの?」そう周太は言いたい。
そんなの解るに決まってるよ?目でも伝えながら英二は微笑んだ。
「クリスマス・イヴの昨日だってさ、ほんとうは俺、周太といたかった。
きっと周太も同じだと思ったんだ。だから仕事終わったら周太は、すぐ俺に迎えに来てほしいかなって」
見上げてくれる黒目がちの瞳が、うれしそうに微笑んだ。
きっと当たりだね?そんな想いに見つめた唇が幸せそうに綻んでくれた。
「…ん。俺、迎えに来てほしかった。そしてね、幸せにしてほしかったんだ…だから今、うれしい」
言いながら気恥ずかしげに首筋が赤くなっていく。
それがきれいで、英二は誰にも見せたくなくなった。だって周太はもう、自分だけのものだから。
だから隠しておきたい。英二は自分のマフラーを外すと、そっと周太の襟元を巻いて温めた。
「周太がね、うれしいなら俺もさ、うれしいよ。ほら、周太?早く私服に着替えて欲しいな、行こう?」
「ん。あの、マフラーありがとう。うれしい、」
黒目がちの瞳が微笑んでくれる。それがうれしくて、英二は隣を眺めながら歩き始めた。
歩く新宿の街はいつもと違う表情でいる、今朝の新宿はどこもが白銀に輝いていた。
見上げる摩天楼も足許のアスファルトも真白に、そして雪の静寂に穏やかでいる。
こういう表情でいつもこの街がいてくれたら良いのに。そんな想いに少し笑って、英二は隣を覗きこんだ。
「ね、周太?さすがに今は、手をつないじゃダメ?」
「ん、駄目。だって俺、今は警察官だからね?警察官の俺と手を繋げば、英二は犯罪者扱いされるだろ?」
明確な話し口調が「今は警察官です」とオフィシャルモードの周太でいる。
こういう周太を間近に見るのは、英二には警察学校卒業以来だった。
それに11月の全国警察けん銃射撃大会での周太は、英二の前では不安を隠さず制服姿でも素顔のままだった。
たまにはこういう凛々しい周太も悪くない、でもつい転がしたくなってしまう。笑って英二は周太に言った。
「俺は構わないけど?周太に触れられるならね、俺は犯罪者でもなんでもなるよ。だって、それくらい周太が欲しいな」
「…そういうことおねがいだからいまはいわないで…うれしい、けど、困るから、ね?英二」
俯いてしまう制帽の頭が可愛くて、ちょっと英二は困った。
今すぐ制帽を外して前髪をおろしてしまいたい、そして抱きしめてキスしたいな。
そんなこと考えながら歩いていると、不意にブラックグレーのコートの背中を引っ張られた。
振り返ると周太が英二のコートを掴んでいる。
「あの、英二?もう警察署の前なのだけど」
「あ、ごめんね周太」
言われて振り仰ぐと見慣れたビルの前だった。
またぼんやりしてしまったな、英二は我ながら可笑しい。それくらい周太のことで頭がいっぱいになっている。
昨夜も呑みながら国村に「おまえってさ、まじエロいよね」と散々言われた、美代もいる前で。
そんなにかなと昨夜は思ったけれど、確かにそうかもしれない。
「じゃあ英二、俺、携行品を戻してくるから。それから着替えてくるから、どこかで待ってて?」
「うん、周太。待ってるよ」
今日の英二は私服だから、中へは付いていけない。
それでも少しでも一緒にいたくて英二は、ロビーまで付いてきた。
そんな英二に周太は微笑んで、マフラーを返しながら遠慮がちに提案してくれる。
「待ってる場所が決まったら、あの、…メールしておいてくれる?」
「ああ、メールするね、周太。なんかさ『くれる?』っていいね、おねだりって感じだ」
「…だからこういうところではなんか困るから、ね?」
そんな会話を交してから英二は、携行品を戻しに行く周太をロビーで見送った。
見送る小柄な背中が見えなくなると、ほっと息をつき英二は周りを見回していく。
どこで待とうかな。そう見渡した目に、休憩所の自販機が映りこんだ。
―警邏の後は、新宿署の射撃指導もしようと提案してくれた。一流の彼からの指導は、ありがたくて
そんな気さくな彼が大好きだった。それから一緒にコーヒーを飲んでいた。彼はココアだったけれどね
周太の父の同期だった、武蔵野署の安本の言葉。
周太の父が殉職した13年前の夜、彼と安本はこの場所でコーヒーとココアを飲んでいた。
ゆっくり英二は休憩所へと歩み寄っていく、そして1つのベンチの前で立ち止まった。
…きっと、このベンチだ
そう見つめる席には微かな気配が遺されている。そんな想いに英二は、自販機でココアとコーヒーを買った。
朝8時過ぎの休憩所には英二の他には誰もいない。英二は1つのベンチに腰掛け、右隣にココアを静かに供えた。
ココアの缶を見つめて英二はニットの胸元に長い指で触れた。その指先に柔らかな手触りの奥で鍵の輪郭がふれる。
その輪郭は周太の父の遺品、川崎の家の合鍵だった。
…いまも見守ってくれていますか?俺、周太に話します、最高峰へ立つこと…その夢は、あなたにも夢でしたか?
周太の父は警視庁山岳会に所属していた、任務の余暇には山を愛し周太を連れて奥多摩も登っている。
そんな山ヤの一人だった周太の父は、この夢を何て言ってくれるのだろう?
そんな想いに微笑んで、英二は缶コーヒーのプルリングを引いた。
ひとくち飲んで、ほっと息をつく。その横顔に視線が刺さるのを英二は感じた。
ふっと緊張が英二の心に翳さしていく。
―周太の父を知る人間がそこにいる
この新宿警察署は周太の父が若い頃に勤務した場所、そして13年前の殉職事件の舞台。
ここで周太の父の軌跡について、どんな事が起きても不思議はないだろう。
そして英二が座るベンチは、周太の父と安本の指定席だったであろう場所。
そこに座る男を見て、何か感じる人間がいても不思議は無い。
…俺を見て、驚いているんだろ?ね、そこのヒト?
そんな考えに座って、英二は穏やかにコーヒーを啜った。その横顔へと視線はまだ刺さっている。
こんなに見つめるなんて振り向いてでもほしいの?すこし心に哂いながら、ゆっくり切長い目だけ動かした。
動かす視線は長くなった前髪が隠してくれる、ひそやかに英二は前髪を透かして「彼」を眺めた。
50歳前後の男、身なりが随分と良い。
その身なりはどういう身分の人間か、警察官ならすぐ解るだろう。
そして尊大な気配が地位の裏付け。けれどその底どこか、怯えたような表情が「彼」の固執を自白する。
―湯原君の成績に期待しているよ
お父上にやはり、似ているね
この新宿署で交番勤務についた、卒業配置の時にお世話になった
こんな言葉を周太に言った人間がこの新宿警察署にいる。
それは卒配後間もない、英二が初めて自殺遺体の行政見分を行った頃。
そして全国警察拳銃射撃大会の2週間前だった。
その夜に電話で周太が話してくれた事を英二は覚えている、啜るコーヒーの缶の影で英二は声も無く呟いた。
「―湯原君の成績に期待しているよ…お父上にやはり似ているね―」
こんな言葉を言うなんて自白も同然だろうにね?英二は穏やかな表情のままで、コーヒーを啜りながら心裡に哂った。
きっとこの男が周太を「異例」の特練抜擢と射撃大会出場へと仕組んだ1人、そんな権限をこの男は持っている。
けれどこの男も前哨兵にすぎないだろう、この警察組織の中では。
そんなこの男には出世の階をつかむチャンスが全てなだけ。
そんな思惑を手繰るように英二は、切長い目の端に男を眺めた。
前髪の向こうでは、まだ男はこちらを見ている。たぶん声を掛けようか迷っている。
単純に尊大に構え少し怯え、そして気押されている、それだけ。そしてきっとこんな考えを巡らせているのだろう?
「あんな若僧に自分から声を掛けるのは沽券にかかわる。けれど確かめたい、何を知って『あの場所』にこんな時間に?」
そんなふうに小さすぎる範疇の迷いにすら、ぐるぐる回って動けないでいるのだろうね?
沽券がどうだなんて拘りは塵にもならない、出世に利用したがる思惑は小さな泡のよう。
そんなものが役立つのは限定された小さな範疇の世界だけ、まるで箱庭のような世界だけのこと。
そう、まるで箱庭のような世界。
その箱庭から一歩でも出たらそんなルールは通用しない、箱庭の外は峻厳すぎるから。
あんたの小さなルールなど何の役にも立ちはしない、そんな考えの底から英二は男を眺めていた。
そして英二の端正な口許が、ふっと冷酷な表情を刻んだ。
…なんて小さな人間
ただ人間だけの社会のごく一部「警察機構」そんな小さな箱庭の世界、そこでただ廻る思惑は矮小すぎて。
そんな小さなものには、もう自分を縛ることは出来ないだろう。
だって自分はもう知っている。世界は人間が支配できるほどには甘くない。
いつも自分が生きる日常。それは奥多摩の山に抱かれた、峻厳な自然の掟にと息をする生活。
そこでは小さなプライドなど役立たず。ただ必要なのは、山への畏敬と謙虚が支える誇らかな自由に立つ想い。
なぜなら山で生きるには言い訳など出来やしない、唯一度のミスで命を落とす事も当然の世界、それが「山」
だから畏敬と謙虚が自分を鍛えてミスを許さぬ誇りを支える、そして生命と自由を誇らかに全うしていく。
そうして山に廻る生死に向き合って、生きる山ヤ達は大らかな優しさがただ温かい。
人間には支配出来ない世界に向き合う、大らかな想いと日々。
その世界をもう自分は知っている。誇らかな自由と峻厳な掟に生きる、強さも美しさも。
そして自分は、その世界で生きると決めている。
この世界で最高の危険に立つ、最高の男のアイザイレンパートナーとして生き始めてしまったから。
そんなパートナーである友人を想いだして、ふと英二は微笑んだ。
…いまごろ国村は、御岳山を元気に歩いているのかな?
上品な容貌のくせにエロオヤジで、純粋無垢な山ヤの魂まぶしい男。
そして底抜けに明るい目は真直ぐで、山への想いと峻厳な掟に生きている。
そうして警察機構で特別な射撃本部特錬すらも、山ヤの誇りをもって虚仮にした男。
そんな国村が自分は大好きで、そして生涯を共に最高峰へ登っていく。
あいつほんと最高でおもしろい、英二は自分のパートナーを思いながらコーヒーを飲んだ。
そして前髪の翳から見つめる男へと、切長い目は侮蔑に眺めた。
ほら、どうした?
声を掛けるなら、さっさと済ませてくれないかな?
俺はこれから大仕事があるんだ、愛するひとに最高の危険地帯に立つ許しを貰うっていうね。
だから邪魔などしないで欲しい、早くお前なんか去ればいい。そんな想いに英二は立ちあがった。
英二はコーヒーの缶をダストボックスへ放りこんだ、それでも男は迷いながらまだ見ている。
ずいぶんと優柔不断だな?それとも気押されているだけかな?
すこし英二は内心で呆れかえった、そして転がしたくなった。
こんな悪戯心はアイザイレンパートナーから伝染された?なんだか可笑しくて英二は微笑んだ。
そして英二は、またベンチの前に立った。
ほら、よく見ればいい。この缶が意味するもの、あんたには解るだろ?
英二は長い指をベンチの座面へと伸ばしていく、その長い指にココアの缶を掴んだ。
ココアの缶を長い指から提げたまま、英二はゆっくりと歩き始めた。
そして、ココアの缶を見止めた男の目が、大きくなった。
ほら、やっぱりそうだったね?
きれいな微笑みの底で英二は哂った、なんて解りやすくて簡単なのだろう?
それにもう本当は知っているよ?あなたの名前も経歴も全てをね、そしてあなたの思惑も解っている。
安本の時もそうだった、この箱庭の世界はなんて簡単で解りやすいのだろう?
直情的で身勝手な自分、だからこそ人から援けてもらう術が備わっている。
そうして自分はもう箱庭の外の世界に立てた、そして箱庭を眺めすかして生きている。
だから手に取るように解ってしまう、この箱庭の小ささも愚かしさも。
ゆっくり英二は歩いてロビーの出口へと向かっていく。
その長く白い指にダークブラウンの缶を提げるよう掴んだまま、英二は男の横へと足を運ぶ。
そして男とすれ違いざまに、端正な会釈を英二は男に送った。
「おはようございます、」
きれいに笑って、英二は男の目を見た。
そう見つめた目は一瞬の動揺を隠すように穏やかに微笑んで返礼を向けた。
「ああ、おはよう、き…」
次の言葉へと男の口は動こうとした。けれど英二は気づかぬ顔でロビーから白銀の街へと出て行った。
外へ踏み出した足許に、さくりと雪踏む音が懐かしい。今朝の御岳山は雪も多いだろう。
ほっと息をひとつ吐くと、ゆるやかな靄が白くとけていく。くゆらされる靄の翳で、そっと英二は哂った。
…ほら?あの男には、自分に話しかける事すら出来やしない。
それは当然のことだろう?
だって箱庭の住人は、箱庭の外の存在に手だし出来る訳がない。
あんな些事に捕われる男になんて、自分が掴まえられるわけがない。
だって自分はもう山ヤとして、あの「山のルール」に生き始めている。
そのルールは人間が決められるものじゃない、そして誰もが従わざるを得ない峻厳に充ちている。
そんなふうに生きている今が楽しい、愉快で英二は微笑んだ。
そして英二は独身寮の傍、奥まった街路樹の下へと立った。
「懐かしいな、」
そっと呟いて英二は微笑んだ。
この常緑の梢ひろやかな木、今朝の雪に白く輝いて佇んでいる。
ここで1ヶ月と5日前、周太と2つめの「絶対の約束」を結んだ。
―いつか必ず一緒に暮らすこと
そんな自分の願いに、周太は言ってくれた。
―必ず自分の隣へと帰って来て
それは初雪の夜に周太が全てを懸けてくれた願い、1つめの「絶対の約束」の想い。
そうして1つめと2つめの「絶対の約束」は一繋ぎの約束でいる。
絶対に必ず周太の隣へ帰ること、そしていつか必ず一緒に暮らすこと
そして生きて笑って一緒に幸せになっていく。
どちらもきっとささやかで、当たり前のような約束なのだろう。
けれど自分たちには叶えることは容易くない、危険と向かう警察官には明日の約束すら難しいから。
それでも自分は今日、3つめの「絶対の約束」を結ぶために隣に帰ってきた。
そして、その約束はもう「当たり前」すらない最高の危険に充ちている。
― 生涯ずっと最高峰から想いを告げていく
最高峰は世界で最高の危険地帯、それ以上の危険などこの世にはない。
それでも自分は必ず隣に帰って必ず一緒に暮らして、幸せな笑顔を見つめていく。
だからその3つめの約束と、あの隣の許しがほしい。
「…許してよ、周太?」
そっとつぶやいて英二は静かに笑った。
そして携帯を取り出すと簡単にメールを打っていく。
To :周太
subject :ここにいる
本 文 :あの木の下で待っている
送信して携帯をポケットに戻すと、英二は梢を見上げた。
見上げる梢には、濃い緑と白銀のコントラストが鮮明なモノトーンに見える。
こんな都会の真ん中で、アスファルトに根を押されても生きて枝を広げる木。
この木がもし奥多摩の山に生まれていたら、どんな木になったのだろう。
そう見上げていた英二は、ふっと気配に独身寮の入口を見つめた。きっと待っているひとが来る。
小柄なショートコート姿が独身寮の階段から現れた。
ほら来てくれた。思った通りの喜びに英二は穏やかに佇んだ。
「お待たせ、英二。ごめんね?」
大好きな落着いた声が軽く弾んでいる。
急いできてくれたのだろう、そんな気配がうれしくて英二は微笑んだ。
「うん、待ったよ周太?だからこっち来てよ」
「ん、」
笑いかけながら英二は、そっと周太の右手をとって雪明の木下闇へ惹きこんだ。
この常緑の木の下で、1ヶ月と5日前の夜に自分達は別れた。
そして今この朝ふたたび周太の手を自分は掴んでいる、うれしくて英二はきれいに笑った。
「周太、逢いたかった、」
そのまま手を惹きこんで、白銀の木下闇にやわらかく抱きとめる。
抱きしめた温もりがうれしくて英二は微笑んだ。そして雪の梢の翳で英二は周太にキスをした。
かすかなオレンジの香、やわらかなふれる熱。
抱きしめる小柄で細いからだ、伝わる鼓動、しがみついてくれる掌。
ふれるやわらかな髪、さわやかで穏やかな髪の香、きれいな頬と長い睫の青い翳。
このすべてに逢いたかった。
ずっと逢いたくて焦れて恋しかった、そして愛しかった。
そしてこんなに今もう、愛しい。
1ヶ月と5日を越えた白銀の木下闇で、英二は周太に再会した。
雪を踏んで真白な街をふたりで歩く。
英二の左掌は周太の右掌を握ったまま、コートのポケットに入れていた。
さっき街路樹の下で掴んだままに、英二は周太の手を自分のコートにしまっている。
そんな英二を隣から周太は見上げて、穏やかに微笑んだ。
「ね、英二?…大丈夫だよ、俺、逃げたりしないよ?」
「うん。解ってるよ、周太。でもね、こうして手を繋ぐのってさ、幸せだろ?だから周太と繋ぎたい」
そうだよ周太?ずっと繋いでいたいんだ。
きれいに笑って英二は、周太の黒目がちの瞳を見つめた。
そう見つめられた瞳が幸せそうに微笑んで、周太は唇を開いた。
「ん、…そうだね、英二。幸せだね?」
「だろ?」
答えながら英二は少し困った。
この隣はきれいになった、想った1か月の記憶よりずっと。
なんだか笑顔まぶしくて、黒目がちの瞳には勇気と深い想いが美しくて。
どうしよう?なんだかすこし途惑ってしまう、けれど幸せで見つめていたい。
そんなふうに歩いて、雪の中のカフェで扉を押した。
そして向き合って座るのに、ようやく英二は周太の右手を解放した。
もっとふれていたかったな。そう見つめる英二の目に、黒目がちの瞳がやさしく微笑んだ。
「ん。右手、温かいよ?ありがとうな、英二」
うれしい。
そんなふうに微笑まれて幸せで、うれしくて英二は笑った。
「良かった。俺ね、周太のことは温かくしたいんだ。だからね周太、俺、いま幸せだ」
「そう?…ん、いつもね、温かいよ…ね、英二。なにを頼む?」
落ち着いた声、ゆるやかなトーン。
おろした前髪の下で穏やかに黒目がちの瞳が微笑んでくれる、やわらかな髪は窓の朝陽につやめいて温かい。
見つめれば幸せで、聴いていれば幸せで。こういう時間がうれしくて英二は心から微笑んだ。
「クラブハウスサンドと、コーヒーかな。周太はココアにする?それともオレンジラテ?」
「ん、…おれんじらて?かな…あ、家に帰ったらね、ココア作ってあげるから」
「周太が作ってくれるの?うれしいな楽しみだよ。なによりさ、周太?『家に帰ったら』って、良いフレーズだよな」
「あ、…ん、なんかいわれるとはずかしくなるね…でも、良い、ね?」
「だろ?あ、周太。オレンジデニッシュあるよ、頼もう?」
なにげない会話、ありふれた話題。
けれどずっとこんな時間がほしかった、ずっとこの空気に座りたかった。
そんな幸せに笑いながら英二は、目の前の瞳を見つめてカフェの時間を過ごした。
カフェを出ると、少しだけ朝の寒気がゆるんでいた。
それでも雪の白さはあざやかで、英二には雪山と雪の街になつかしい。
うれしいなと微笑みながら英二は、周太の右手をまたポケットにしまった。
「あのベンチ、雪のなかでも座れるかな?」
「ん、…ベンチの上の木は、常緑樹だから…雪は避けているかもね?」
「もう公園開いているな、行こうよ」
そんなふうに雪を歩いて、馴れた道を辿っていく。
いつもと同じ公園への道、けれど真白な雪に静められた道は初対面の顔でいる。
なんだか初めて歩いた日みたいだな、半年ほど前の日を英二は想いだし微笑んだ。
あのときはまだ想いを自覚していなかった。けれど駅へ戻る帰り路はもう、想いが心から迫り上げて苦しかった。
そんな記憶の中から、ふっと英二は口を開いた。
「周太、俺ね?最初にここを一緒に歩いたとき。とっくに周太のことをさ、好きだったんだ」
「…そう、なの?」
コートのポケットで繋いだ掌を、そっと英二は握りしめた。
その右手を預けたままで、黒目がちの瞳が見上げてくれる。
「うん、俺はね、ほんとは出会った時から好きだった。
そしてさ、一緒に歩いて公園に行って、あのベンチに最初に座った。あのときだよ、周太を好きだって自覚したのは」
「…ん、そうだったんだ…」
すこし驚いた黒目がちの瞳がすこし大きくなっている。
この瞳が自分は好きだ、そんな想いに微笑んで英二は幸せだった。
けれどこの瞳に今日は、話さなくてはならないことがある。話したらこの瞳は、どんな表情になるだろう?
そんな想いに雪を踏んで英二は、周太と一緒に公園の門を通った。
「ん、きれいだね、」
門を通って周太が微笑んだ。
その門のむこうには白銀の森が広がっていた。
「ほんとにさ、ホワイトクリスマスだね、周太?」
「ん。…なんか素敵だな、きれいだね」
いつものアスファルト舗装の道が、おそい冬の朝陽に輝く雪にまぶしい。
芝生の広場は真白な平原に姿を変えていた、そこに梢ひろげる樹木達は銀色の雪に佇んでいる。
ときおり紅桃色の山茶花が目立つ、常緑の濃緑と雪白に映える花姿はあざやかだった。
それでも周太は真白な山茶花の前に心を留めてしまう。
「ね、…ここにも『雪山』がね、咲いている」
真白に凛と花咲く梢を見上げて、きれいに周太が笑った。
この山茶花『雪山』は周太の実家の庭に咲いている、周太の父が息子の誕生花だからと植えた木だった。
そして同じ『雪山』が御岳山にも咲いている、その木と周太は雲取山に登った翌日に出会った。
だから英二は御岳山巡回のたびごとに、その木の下で花を見上げてしまう。英二は微笑んで周太に教えた。
「御岳山の『雪山』も元気に咲いているよ?」
「あ、いつも見てくれてる…の?」
「うん、もちろんだよ周太?だってあれはさ、周太の木だろ」
そうやっていつも自分は、この隣を少しでも近く見つめたがっている。
もうそれ位に想っている、そしてもっと近づきたくて仕方ない。
だからね周太?今日も許してほしい。そんな想いのまんなかで、周太が微笑んだ。
「ん、…なんか、うれしいな…いつも見てもらえて、うれしい」
「おう、いつも見てる、周太のこと。ずっと、どこからもね」
そう言ったとき、いつものベンチに辿りついた。
ベンチを見つめた黒目がちの瞳が、うれしそうに微笑んだ。
「ん、…雪、避けてるね?やっぱりこの木が、守ってた」
そんなふうに微笑んで周太は梢を見上げた。
常緑の葉を豊かに繁らせた梢には、白く雪がかぶっている。
けれどベンチは雪もなく、冬の朝陽におだやかな佇まいでいた。
この場所からはじまった
ふっと英二の心が響いて、ゆっくりと英二は辺りを見回した。
このベンチの周りには樹林帯が鎮まっている、それは奥多摩を模した森だと書いてあった。
この新宿にある奥多摩の森は今、白銀の雪にさす朝陽に輝いていく。
静かに英二は口を開いた。
「周太ね、この森は奥多摩の森をつくったらしいよ?」
「そう、なの?…あ、確かに雰囲気がね、よく似ているな」
うれしそうに周太は森を見渡していく。
その瞳が明るくてきれいで、英二は昨日の美代の言葉を想いだされた。
―世界でいちばん高いところから、世界を見渡すのでしょう?
そこに自分の大好きな人が立って、自分を想ってくれる。それってきっと、世界一に愉快なことよ
ここは新宿、周太が日常をおくる街。
この森は奥多摩で、いまは雪を抱いて佇んでいる。
そしてこの森に抱かれたベンチでずっと、自分はこの隣への想いを重ねてきた。
この場所で「世界一に愉快なこと」を伝えたいな
そんな想いが英二にゆるく起きあがる。
ほんとうは周太の屋根裏部屋で話そうかとも想っていた。
けれど今日は雪が積もった、そして新宿にある奥多摩の森で大切なベンチを見つめている。
そんな今日に告げたい想いは「最高のクライマーのアイザイレンパートナーとして最高峰に立つ」
この想いは生まれた理由の1つ、この運命をアイザイレンパートナーが示したのは奥多摩の森、そして最高峰は雪世界。
だからいま雪の奥多摩の森で告げることが、いちばん相応しいかもしれない。
「うん、」
英二は軽くうなずくと、自分の隣へと微笑みかけた。
そしてポケットの右手を軽く握りしめて、英二は口を開いた。
「周太、聴いて?これはほんとうの俺の気持ち、俺の想いの真実なんだ」
黒目がちの瞳が見上げてくれる。
その瞳は穏やかで静かに和んで、そっと微笑んでくれた。きちんと聴くよ?そんなふうに。
きちんと聴いて?英二も目で笑いかけて、そして周太に告げた。
「周太への想いだけがね、俺の人生の幕を開けてくれた。だから周太はね、俺が生きる意味の全てだ。
そして俺は山ヤとして生きられた、周太に出会えたから俺は本当の自分に成れた。
だからこそ俺はね、周太。周太への想いのまま本当の俺らしくさ、山ヤの最高の夢に生きたい。
山ヤの最高の夢へ俺は登りたい、この世界の最高峰へ立ちたい…俺は、周太への想いのまま最高峰に立ちたい」
「ん、…」
小さく頷いて黒目がちの瞳が微笑んでいる。
きちんと聴いている、だから続けて?そんな穏やかな目を見つめて英二は続けた。
「国村は最高峰に登る運命の男だよ。その国村が俺をね、生涯のアイザイレンパートナーに選んでくれた。
まだ俺は山自体が初心者だ、それでも国村は俺を選んだ。
そしてね、周太の事情も全て俺は話した、危険な道だとも。それでも国村は俺を選んで、揺るがなかった」
話して告げていく、その黒目がちの瞳も揺るがない。
ただ真直ぐに英二を見つめて微笑んでくれる―さあ、きちんと話して?そんなふうに。
そんな揺るがない想いを見つめながら、英二は想いを言葉へ変えていった。
「そして国村はね、こう言ったんだ。
『最高峰ほど危険な場所が世界のどこにある?
そんな最高の危険へと俺は、アイザイレンパートナーとして宮田を惹きこんだ。
これからの人生をより危険に惹きこむのは俺の方、だから宮田の危険に俺が巻き込まれるくらいで調度いい』
そんなふうに国村はね、俺を選んでくれたんだ。
周太。俺はね、あいつに自分のリスクを背負わせて、あいつの生涯のアイザイレンパートナーになったんだ」
「ん、」
おだやかな相槌を打っていくれる。
白銀の森で英二は、愛する黒目がちの瞳を見つめた。
そうして口を開いた。
「どうか周太、許してほしい。最高峰を望む男の生涯のアイザイレンパートナーに生きること。
そしてね、周太?あいつと一緒に俺は、最高峰から世界を見つめたい。そして周太のことを想いたい。
そして俺はね周太、最高峰からだって周太の隣に必ず帰る。だからその絶対の約束を結ばせて欲しい」
見つめる黒目がちの瞳が、きれいに微笑んだ。
そして微かに唇が動いて、想いがこぼれた。
「…絶対の約束を結んだら、必ず帰って来てくれる?…俺の隣に、生きて、笑って?」
「ああ、必ず帰るよ、周太。どこからだって、いつだって、最高峰からだって。周太の隣に、必ず帰る」
そう、自分は必ず帰る。そして帰り続けてやりたいことがある。
そんな想いに黒目がちの瞳を見つめて、きれいに笑って英二は言った。
「そしてね周太、生涯ずっと最高峰から告げるよ?
周太を心から愛している。
そう、俺は最高峰から告げるよ。生涯ずっと最高峰から、周太だけに想いを告げて生きていきたい」
新宿にある奥多摩の森、白銀の雪の森。
白銀の梢のもと黒目がちの瞳を見つめて、英二は周太に想いを告げた。
許してくれる?そう英二は黒目がちの瞳を見つめていた。
その瞳はゆっくり瞬きをする、そして周太はそっと口を開いた。
「そのままの姿で、そのままの想いに…
真直ぐ心の想う通りにね、英二に生きてほしい…それがね、いちばん英二は素敵だ。
そして俺はね、英二のきれいな笑顔が好きだ。だから英二の笑顔を、俺が守りたい。だからね、英二…お願いだ、」
真直ぐに黒目がちの瞳が見つめてくれる。その瞳には穏やかな静謐と勇気が温かい。
その瞳で見つめたまま、きれいに笑って周太は言った。
「世界の最高峰で、英二の想いのままに、きれいに笑ってほしい。そして、必ず俺の隣に帰って来て?」
黒目がちの瞳には、誇らかな深い想いと勇気ひとつ。
その瞳が愛しくて、まぶしくて、英二はそっと周太を抱き寄せた。
「約束する。最高峰から想いを告げて笑ってみせるよ?そして必ず周太の隣に帰る、絶対に俺が周太を守る」
「ん、…お願い英二、絶対の約束をして?」
見上げてくれる瞳が美しくて、愛しくて。
こんな瞳のひとが自分の運命の相手でいてくれる。そんな幸せが愛おしい。
きれいに笑って英二は、周太に告げた。
「周太、絶対の約束だ。俺は、約束は必ず守って叶える。だから周太、信じて待っていて」
想いを告げられた。その想いのままに、英二はしずかに唇を唇に重ねた。
この新宿の奥多摩の森の、大切なベンチの前で。
(to be continued)
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第30話 誓夜act.2―side story「陽はまた昇る」
12月25日AM8:00
時間ちょうどに英二は、新宿東口交番前に立った。
いつもグレーの街が今朝は白銀に輝いて、高層ビルも派手な装飾も雪に静まりかえっている。
そんな雪の街で英二は、ブラックグレーのコートをはおって立っていた。
薄い雪が足許をくるんでいる。積雪5cmほど、けれど新宿ではきっと大雪なのだろう。
もうこの程度では「薄い雪」と思ってしまうんだな、なんだか英二は愉快だった。
もう自分はすっかり基準が奥多摩になっている。そんな感覚に微笑みながら、英二は交番の入口を見つめていた。
きっともうすぐ。そんな予感と想いに見つめる真ん中に、小柄な活動服姿が映りこんだ。
「周太、」
うれしくて英二は、きれいに笑って呼びかけた。
小柄な警察官の制帽がかすかに動く、そして黒目がちの瞳が英二を見つめてくれた。
「…っ」
かすかに動いた唇、すこし大きくなる瞳。ずっと逢いたかった顔、逢いたかったひと。
うれしくて英二は、器用に雪を踏んで隣に立った。
「おはよう、周太。ホワイトクリスマスだね?」
ずっと逢いたかった。逢えない1ヶ月ずっと想って毎日電話して、メールをたくさん送って。
そして眠ってまで夢でも追いかけて、ずっと逢いたかった。
「周太、驚いてるの?」
うれしくて微笑んで、英二は周太の顔を覗きこんだ。
覗きこんだ黒目がちの瞳が、ゆっくり瞬いて英二を見つめてくれる。
そしてゆっくり周太の唇が動いた。
「…ん、おどろいた。…だって、9時に改札口、って」
「うん、そうだったね、周太?」
待ち合わせは新宿9時、いつもの改札口。そう約束していた。
けれどね周太?そんなふうに英二は黒目がちの瞳に笑いかけた。
「昨夜の電話でさ、『早くね、あいたい』って周太、おねだりしてくれたろ?
だから俺、周太が仕事上がる瞬間にね、迎えに来たかったんだ。それで早く、おはようって言いたかった」
「…どうして、」
ひとこと言って周太は、そっと唇を閉じてしまった。
でも何て言いたいかなんて英二にはわかる「どうして俺の心が解るの?」そう周太は言いたい。
そんなの解るに決まってるよ?目でも伝えながら英二は微笑んだ。
「クリスマス・イヴの昨日だってさ、ほんとうは俺、周太といたかった。
きっと周太も同じだと思ったんだ。だから仕事終わったら周太は、すぐ俺に迎えに来てほしいかなって」
見上げてくれる黒目がちの瞳が、うれしそうに微笑んだ。
きっと当たりだね?そんな想いに見つめた唇が幸せそうに綻んでくれた。
「…ん。俺、迎えに来てほしかった。そしてね、幸せにしてほしかったんだ…だから今、うれしい」
言いながら気恥ずかしげに首筋が赤くなっていく。
それがきれいで、英二は誰にも見せたくなくなった。だって周太はもう、自分だけのものだから。
だから隠しておきたい。英二は自分のマフラーを外すと、そっと周太の襟元を巻いて温めた。
「周太がね、うれしいなら俺もさ、うれしいよ。ほら、周太?早く私服に着替えて欲しいな、行こう?」
「ん。あの、マフラーありがとう。うれしい、」
黒目がちの瞳が微笑んでくれる。それがうれしくて、英二は隣を眺めながら歩き始めた。
歩く新宿の街はいつもと違う表情でいる、今朝の新宿はどこもが白銀に輝いていた。
見上げる摩天楼も足許のアスファルトも真白に、そして雪の静寂に穏やかでいる。
こういう表情でいつもこの街がいてくれたら良いのに。そんな想いに少し笑って、英二は隣を覗きこんだ。
「ね、周太?さすがに今は、手をつないじゃダメ?」
「ん、駄目。だって俺、今は警察官だからね?警察官の俺と手を繋げば、英二は犯罪者扱いされるだろ?」
明確な話し口調が「今は警察官です」とオフィシャルモードの周太でいる。
こういう周太を間近に見るのは、英二には警察学校卒業以来だった。
それに11月の全国警察けん銃射撃大会での周太は、英二の前では不安を隠さず制服姿でも素顔のままだった。
たまにはこういう凛々しい周太も悪くない、でもつい転がしたくなってしまう。笑って英二は周太に言った。
「俺は構わないけど?周太に触れられるならね、俺は犯罪者でもなんでもなるよ。だって、それくらい周太が欲しいな」
「…そういうことおねがいだからいまはいわないで…うれしい、けど、困るから、ね?英二」
俯いてしまう制帽の頭が可愛くて、ちょっと英二は困った。
今すぐ制帽を外して前髪をおろしてしまいたい、そして抱きしめてキスしたいな。
そんなこと考えながら歩いていると、不意にブラックグレーのコートの背中を引っ張られた。
振り返ると周太が英二のコートを掴んでいる。
「あの、英二?もう警察署の前なのだけど」
「あ、ごめんね周太」
言われて振り仰ぐと見慣れたビルの前だった。
またぼんやりしてしまったな、英二は我ながら可笑しい。それくらい周太のことで頭がいっぱいになっている。
昨夜も呑みながら国村に「おまえってさ、まじエロいよね」と散々言われた、美代もいる前で。
そんなにかなと昨夜は思ったけれど、確かにそうかもしれない。
「じゃあ英二、俺、携行品を戻してくるから。それから着替えてくるから、どこかで待ってて?」
「うん、周太。待ってるよ」
今日の英二は私服だから、中へは付いていけない。
それでも少しでも一緒にいたくて英二は、ロビーまで付いてきた。
そんな英二に周太は微笑んで、マフラーを返しながら遠慮がちに提案してくれる。
「待ってる場所が決まったら、あの、…メールしておいてくれる?」
「ああ、メールするね、周太。なんかさ『くれる?』っていいね、おねだりって感じだ」
「…だからこういうところではなんか困るから、ね?」
そんな会話を交してから英二は、携行品を戻しに行く周太をロビーで見送った。
見送る小柄な背中が見えなくなると、ほっと息をつき英二は周りを見回していく。
どこで待とうかな。そう見渡した目に、休憩所の自販機が映りこんだ。
―警邏の後は、新宿署の射撃指導もしようと提案してくれた。一流の彼からの指導は、ありがたくて
そんな気さくな彼が大好きだった。それから一緒にコーヒーを飲んでいた。彼はココアだったけれどね
周太の父の同期だった、武蔵野署の安本の言葉。
周太の父が殉職した13年前の夜、彼と安本はこの場所でコーヒーとココアを飲んでいた。
ゆっくり英二は休憩所へと歩み寄っていく、そして1つのベンチの前で立ち止まった。
…きっと、このベンチだ
そう見つめる席には微かな気配が遺されている。そんな想いに英二は、自販機でココアとコーヒーを買った。
朝8時過ぎの休憩所には英二の他には誰もいない。英二は1つのベンチに腰掛け、右隣にココアを静かに供えた。
ココアの缶を見つめて英二はニットの胸元に長い指で触れた。その指先に柔らかな手触りの奥で鍵の輪郭がふれる。
その輪郭は周太の父の遺品、川崎の家の合鍵だった。
…いまも見守ってくれていますか?俺、周太に話します、最高峰へ立つこと…その夢は、あなたにも夢でしたか?
周太の父は警視庁山岳会に所属していた、任務の余暇には山を愛し周太を連れて奥多摩も登っている。
そんな山ヤの一人だった周太の父は、この夢を何て言ってくれるのだろう?
そんな想いに微笑んで、英二は缶コーヒーのプルリングを引いた。
ひとくち飲んで、ほっと息をつく。その横顔に視線が刺さるのを英二は感じた。
ふっと緊張が英二の心に翳さしていく。
―周太の父を知る人間がそこにいる
この新宿警察署は周太の父が若い頃に勤務した場所、そして13年前の殉職事件の舞台。
ここで周太の父の軌跡について、どんな事が起きても不思議はないだろう。
そして英二が座るベンチは、周太の父と安本の指定席だったであろう場所。
そこに座る男を見て、何か感じる人間がいても不思議は無い。
…俺を見て、驚いているんだろ?ね、そこのヒト?
そんな考えに座って、英二は穏やかにコーヒーを啜った。その横顔へと視線はまだ刺さっている。
こんなに見つめるなんて振り向いてでもほしいの?すこし心に哂いながら、ゆっくり切長い目だけ動かした。
動かす視線は長くなった前髪が隠してくれる、ひそやかに英二は前髪を透かして「彼」を眺めた。
50歳前後の男、身なりが随分と良い。
その身なりはどういう身分の人間か、警察官ならすぐ解るだろう。
そして尊大な気配が地位の裏付け。けれどその底どこか、怯えたような表情が「彼」の固執を自白する。
―湯原君の成績に期待しているよ
お父上にやはり、似ているね
この新宿署で交番勤務についた、卒業配置の時にお世話になった
こんな言葉を周太に言った人間がこの新宿警察署にいる。
それは卒配後間もない、英二が初めて自殺遺体の行政見分を行った頃。
そして全国警察拳銃射撃大会の2週間前だった。
その夜に電話で周太が話してくれた事を英二は覚えている、啜るコーヒーの缶の影で英二は声も無く呟いた。
「―湯原君の成績に期待しているよ…お父上にやはり似ているね―」
こんな言葉を言うなんて自白も同然だろうにね?英二は穏やかな表情のままで、コーヒーを啜りながら心裡に哂った。
きっとこの男が周太を「異例」の特練抜擢と射撃大会出場へと仕組んだ1人、そんな権限をこの男は持っている。
けれどこの男も前哨兵にすぎないだろう、この警察組織の中では。
そんなこの男には出世の階をつかむチャンスが全てなだけ。
そんな思惑を手繰るように英二は、切長い目の端に男を眺めた。
前髪の向こうでは、まだ男はこちらを見ている。たぶん声を掛けようか迷っている。
単純に尊大に構え少し怯え、そして気押されている、それだけ。そしてきっとこんな考えを巡らせているのだろう?
「あんな若僧に自分から声を掛けるのは沽券にかかわる。けれど確かめたい、何を知って『あの場所』にこんな時間に?」
そんなふうに小さすぎる範疇の迷いにすら、ぐるぐる回って動けないでいるのだろうね?
沽券がどうだなんて拘りは塵にもならない、出世に利用したがる思惑は小さな泡のよう。
そんなものが役立つのは限定された小さな範疇の世界だけ、まるで箱庭のような世界だけのこと。
そう、まるで箱庭のような世界。
その箱庭から一歩でも出たらそんなルールは通用しない、箱庭の外は峻厳すぎるから。
あんたの小さなルールなど何の役にも立ちはしない、そんな考えの底から英二は男を眺めていた。
そして英二の端正な口許が、ふっと冷酷な表情を刻んだ。
…なんて小さな人間
ただ人間だけの社会のごく一部「警察機構」そんな小さな箱庭の世界、そこでただ廻る思惑は矮小すぎて。
そんな小さなものには、もう自分を縛ることは出来ないだろう。
だって自分はもう知っている。世界は人間が支配できるほどには甘くない。
いつも自分が生きる日常。それは奥多摩の山に抱かれた、峻厳な自然の掟にと息をする生活。
そこでは小さなプライドなど役立たず。ただ必要なのは、山への畏敬と謙虚が支える誇らかな自由に立つ想い。
なぜなら山で生きるには言い訳など出来やしない、唯一度のミスで命を落とす事も当然の世界、それが「山」
だから畏敬と謙虚が自分を鍛えてミスを許さぬ誇りを支える、そして生命と自由を誇らかに全うしていく。
そうして山に廻る生死に向き合って、生きる山ヤ達は大らかな優しさがただ温かい。
人間には支配出来ない世界に向き合う、大らかな想いと日々。
その世界をもう自分は知っている。誇らかな自由と峻厳な掟に生きる、強さも美しさも。
そして自分は、その世界で生きると決めている。
この世界で最高の危険に立つ、最高の男のアイザイレンパートナーとして生き始めてしまったから。
そんなパートナーである友人を想いだして、ふと英二は微笑んだ。
…いまごろ国村は、御岳山を元気に歩いているのかな?
上品な容貌のくせにエロオヤジで、純粋無垢な山ヤの魂まぶしい男。
そして底抜けに明るい目は真直ぐで、山への想いと峻厳な掟に生きている。
そうして警察機構で特別な射撃本部特錬すらも、山ヤの誇りをもって虚仮にした男。
そんな国村が自分は大好きで、そして生涯を共に最高峰へ登っていく。
あいつほんと最高でおもしろい、英二は自分のパートナーを思いながらコーヒーを飲んだ。
そして前髪の翳から見つめる男へと、切長い目は侮蔑に眺めた。
ほら、どうした?
声を掛けるなら、さっさと済ませてくれないかな?
俺はこれから大仕事があるんだ、愛するひとに最高の危険地帯に立つ許しを貰うっていうね。
だから邪魔などしないで欲しい、早くお前なんか去ればいい。そんな想いに英二は立ちあがった。
英二はコーヒーの缶をダストボックスへ放りこんだ、それでも男は迷いながらまだ見ている。
ずいぶんと優柔不断だな?それとも気押されているだけかな?
すこし英二は内心で呆れかえった、そして転がしたくなった。
こんな悪戯心はアイザイレンパートナーから伝染された?なんだか可笑しくて英二は微笑んだ。
そして英二は、またベンチの前に立った。
ほら、よく見ればいい。この缶が意味するもの、あんたには解るだろ?
英二は長い指をベンチの座面へと伸ばしていく、その長い指にココアの缶を掴んだ。
ココアの缶を長い指から提げたまま、英二はゆっくりと歩き始めた。
そして、ココアの缶を見止めた男の目が、大きくなった。
ほら、やっぱりそうだったね?
きれいな微笑みの底で英二は哂った、なんて解りやすくて簡単なのだろう?
それにもう本当は知っているよ?あなたの名前も経歴も全てをね、そしてあなたの思惑も解っている。
安本の時もそうだった、この箱庭の世界はなんて簡単で解りやすいのだろう?
直情的で身勝手な自分、だからこそ人から援けてもらう術が備わっている。
そうして自分はもう箱庭の外の世界に立てた、そして箱庭を眺めすかして生きている。
だから手に取るように解ってしまう、この箱庭の小ささも愚かしさも。
ゆっくり英二は歩いてロビーの出口へと向かっていく。
その長く白い指にダークブラウンの缶を提げるよう掴んだまま、英二は男の横へと足を運ぶ。
そして男とすれ違いざまに、端正な会釈を英二は男に送った。
「おはようございます、」
きれいに笑って、英二は男の目を見た。
そう見つめた目は一瞬の動揺を隠すように穏やかに微笑んで返礼を向けた。
「ああ、おはよう、き…」
次の言葉へと男の口は動こうとした。けれど英二は気づかぬ顔でロビーから白銀の街へと出て行った。
外へ踏み出した足許に、さくりと雪踏む音が懐かしい。今朝の御岳山は雪も多いだろう。
ほっと息をひとつ吐くと、ゆるやかな靄が白くとけていく。くゆらされる靄の翳で、そっと英二は哂った。
…ほら?あの男には、自分に話しかける事すら出来やしない。
それは当然のことだろう?
だって箱庭の住人は、箱庭の外の存在に手だし出来る訳がない。
あんな些事に捕われる男になんて、自分が掴まえられるわけがない。
だって自分はもう山ヤとして、あの「山のルール」に生き始めている。
そのルールは人間が決められるものじゃない、そして誰もが従わざるを得ない峻厳に充ちている。
そんなふうに生きている今が楽しい、愉快で英二は微笑んだ。
そして英二は独身寮の傍、奥まった街路樹の下へと立った。
「懐かしいな、」
そっと呟いて英二は微笑んだ。
この常緑の梢ひろやかな木、今朝の雪に白く輝いて佇んでいる。
ここで1ヶ月と5日前、周太と2つめの「絶対の約束」を結んだ。
―いつか必ず一緒に暮らすこと
そんな自分の願いに、周太は言ってくれた。
―必ず自分の隣へと帰って来て
それは初雪の夜に周太が全てを懸けてくれた願い、1つめの「絶対の約束」の想い。
そうして1つめと2つめの「絶対の約束」は一繋ぎの約束でいる。
絶対に必ず周太の隣へ帰ること、そしていつか必ず一緒に暮らすこと
そして生きて笑って一緒に幸せになっていく。
どちらもきっとささやかで、当たり前のような約束なのだろう。
けれど自分たちには叶えることは容易くない、危険と向かう警察官には明日の約束すら難しいから。
それでも自分は今日、3つめの「絶対の約束」を結ぶために隣に帰ってきた。
そして、その約束はもう「当たり前」すらない最高の危険に充ちている。
― 生涯ずっと最高峰から想いを告げていく
最高峰は世界で最高の危険地帯、それ以上の危険などこの世にはない。
それでも自分は必ず隣に帰って必ず一緒に暮らして、幸せな笑顔を見つめていく。
だからその3つめの約束と、あの隣の許しがほしい。
「…許してよ、周太?」
そっとつぶやいて英二は静かに笑った。
そして携帯を取り出すと簡単にメールを打っていく。
To :周太
subject :ここにいる
本 文 :あの木の下で待っている
送信して携帯をポケットに戻すと、英二は梢を見上げた。
見上げる梢には、濃い緑と白銀のコントラストが鮮明なモノトーンに見える。
こんな都会の真ん中で、アスファルトに根を押されても生きて枝を広げる木。
この木がもし奥多摩の山に生まれていたら、どんな木になったのだろう。
そう見上げていた英二は、ふっと気配に独身寮の入口を見つめた。きっと待っているひとが来る。
小柄なショートコート姿が独身寮の階段から現れた。
ほら来てくれた。思った通りの喜びに英二は穏やかに佇んだ。
「お待たせ、英二。ごめんね?」
大好きな落着いた声が軽く弾んでいる。
急いできてくれたのだろう、そんな気配がうれしくて英二は微笑んだ。
「うん、待ったよ周太?だからこっち来てよ」
「ん、」
笑いかけながら英二は、そっと周太の右手をとって雪明の木下闇へ惹きこんだ。
この常緑の木の下で、1ヶ月と5日前の夜に自分達は別れた。
そして今この朝ふたたび周太の手を自分は掴んでいる、うれしくて英二はきれいに笑った。
「周太、逢いたかった、」
そのまま手を惹きこんで、白銀の木下闇にやわらかく抱きとめる。
抱きしめた温もりがうれしくて英二は微笑んだ。そして雪の梢の翳で英二は周太にキスをした。
かすかなオレンジの香、やわらかなふれる熱。
抱きしめる小柄で細いからだ、伝わる鼓動、しがみついてくれる掌。
ふれるやわらかな髪、さわやかで穏やかな髪の香、きれいな頬と長い睫の青い翳。
このすべてに逢いたかった。
ずっと逢いたくて焦れて恋しかった、そして愛しかった。
そしてこんなに今もう、愛しい。
1ヶ月と5日を越えた白銀の木下闇で、英二は周太に再会した。
雪を踏んで真白な街をふたりで歩く。
英二の左掌は周太の右掌を握ったまま、コートのポケットに入れていた。
さっき街路樹の下で掴んだままに、英二は周太の手を自分のコートにしまっている。
そんな英二を隣から周太は見上げて、穏やかに微笑んだ。
「ね、英二?…大丈夫だよ、俺、逃げたりしないよ?」
「うん。解ってるよ、周太。でもね、こうして手を繋ぐのってさ、幸せだろ?だから周太と繋ぎたい」
そうだよ周太?ずっと繋いでいたいんだ。
きれいに笑って英二は、周太の黒目がちの瞳を見つめた。
そう見つめられた瞳が幸せそうに微笑んで、周太は唇を開いた。
「ん、…そうだね、英二。幸せだね?」
「だろ?」
答えながら英二は少し困った。
この隣はきれいになった、想った1か月の記憶よりずっと。
なんだか笑顔まぶしくて、黒目がちの瞳には勇気と深い想いが美しくて。
どうしよう?なんだかすこし途惑ってしまう、けれど幸せで見つめていたい。
そんなふうに歩いて、雪の中のカフェで扉を押した。
そして向き合って座るのに、ようやく英二は周太の右手を解放した。
もっとふれていたかったな。そう見つめる英二の目に、黒目がちの瞳がやさしく微笑んだ。
「ん。右手、温かいよ?ありがとうな、英二」
うれしい。
そんなふうに微笑まれて幸せで、うれしくて英二は笑った。
「良かった。俺ね、周太のことは温かくしたいんだ。だからね周太、俺、いま幸せだ」
「そう?…ん、いつもね、温かいよ…ね、英二。なにを頼む?」
落ち着いた声、ゆるやかなトーン。
おろした前髪の下で穏やかに黒目がちの瞳が微笑んでくれる、やわらかな髪は窓の朝陽につやめいて温かい。
見つめれば幸せで、聴いていれば幸せで。こういう時間がうれしくて英二は心から微笑んだ。
「クラブハウスサンドと、コーヒーかな。周太はココアにする?それともオレンジラテ?」
「ん、…おれんじらて?かな…あ、家に帰ったらね、ココア作ってあげるから」
「周太が作ってくれるの?うれしいな楽しみだよ。なによりさ、周太?『家に帰ったら』って、良いフレーズだよな」
「あ、…ん、なんかいわれるとはずかしくなるね…でも、良い、ね?」
「だろ?あ、周太。オレンジデニッシュあるよ、頼もう?」
なにげない会話、ありふれた話題。
けれどずっとこんな時間がほしかった、ずっとこの空気に座りたかった。
そんな幸せに笑いながら英二は、目の前の瞳を見つめてカフェの時間を過ごした。
カフェを出ると、少しだけ朝の寒気がゆるんでいた。
それでも雪の白さはあざやかで、英二には雪山と雪の街になつかしい。
うれしいなと微笑みながら英二は、周太の右手をまたポケットにしまった。
「あのベンチ、雪のなかでも座れるかな?」
「ん、…ベンチの上の木は、常緑樹だから…雪は避けているかもね?」
「もう公園開いているな、行こうよ」
そんなふうに雪を歩いて、馴れた道を辿っていく。
いつもと同じ公園への道、けれど真白な雪に静められた道は初対面の顔でいる。
なんだか初めて歩いた日みたいだな、半年ほど前の日を英二は想いだし微笑んだ。
あのときはまだ想いを自覚していなかった。けれど駅へ戻る帰り路はもう、想いが心から迫り上げて苦しかった。
そんな記憶の中から、ふっと英二は口を開いた。
「周太、俺ね?最初にここを一緒に歩いたとき。とっくに周太のことをさ、好きだったんだ」
「…そう、なの?」
コートのポケットで繋いだ掌を、そっと英二は握りしめた。
その右手を預けたままで、黒目がちの瞳が見上げてくれる。
「うん、俺はね、ほんとは出会った時から好きだった。
そしてさ、一緒に歩いて公園に行って、あのベンチに最初に座った。あのときだよ、周太を好きだって自覚したのは」
「…ん、そうだったんだ…」
すこし驚いた黒目がちの瞳がすこし大きくなっている。
この瞳が自分は好きだ、そんな想いに微笑んで英二は幸せだった。
けれどこの瞳に今日は、話さなくてはならないことがある。話したらこの瞳は、どんな表情になるだろう?
そんな想いに雪を踏んで英二は、周太と一緒に公園の門を通った。
「ん、きれいだね、」
門を通って周太が微笑んだ。
その門のむこうには白銀の森が広がっていた。
「ほんとにさ、ホワイトクリスマスだね、周太?」
「ん。…なんか素敵だな、きれいだね」
いつものアスファルト舗装の道が、おそい冬の朝陽に輝く雪にまぶしい。
芝生の広場は真白な平原に姿を変えていた、そこに梢ひろげる樹木達は銀色の雪に佇んでいる。
ときおり紅桃色の山茶花が目立つ、常緑の濃緑と雪白に映える花姿はあざやかだった。
それでも周太は真白な山茶花の前に心を留めてしまう。
「ね、…ここにも『雪山』がね、咲いている」
真白に凛と花咲く梢を見上げて、きれいに周太が笑った。
この山茶花『雪山』は周太の実家の庭に咲いている、周太の父が息子の誕生花だからと植えた木だった。
そして同じ『雪山』が御岳山にも咲いている、その木と周太は雲取山に登った翌日に出会った。
だから英二は御岳山巡回のたびごとに、その木の下で花を見上げてしまう。英二は微笑んで周太に教えた。
「御岳山の『雪山』も元気に咲いているよ?」
「あ、いつも見てくれてる…の?」
「うん、もちろんだよ周太?だってあれはさ、周太の木だろ」
そうやっていつも自分は、この隣を少しでも近く見つめたがっている。
もうそれ位に想っている、そしてもっと近づきたくて仕方ない。
だからね周太?今日も許してほしい。そんな想いのまんなかで、周太が微笑んだ。
「ん、…なんか、うれしいな…いつも見てもらえて、うれしい」
「おう、いつも見てる、周太のこと。ずっと、どこからもね」
そう言ったとき、いつものベンチに辿りついた。
ベンチを見つめた黒目がちの瞳が、うれしそうに微笑んだ。
「ん、…雪、避けてるね?やっぱりこの木が、守ってた」
そんなふうに微笑んで周太は梢を見上げた。
常緑の葉を豊かに繁らせた梢には、白く雪がかぶっている。
けれどベンチは雪もなく、冬の朝陽におだやかな佇まいでいた。
この場所からはじまった
ふっと英二の心が響いて、ゆっくりと英二は辺りを見回した。
このベンチの周りには樹林帯が鎮まっている、それは奥多摩を模した森だと書いてあった。
この新宿にある奥多摩の森は今、白銀の雪にさす朝陽に輝いていく。
静かに英二は口を開いた。
「周太ね、この森は奥多摩の森をつくったらしいよ?」
「そう、なの?…あ、確かに雰囲気がね、よく似ているな」
うれしそうに周太は森を見渡していく。
その瞳が明るくてきれいで、英二は昨日の美代の言葉を想いだされた。
―世界でいちばん高いところから、世界を見渡すのでしょう?
そこに自分の大好きな人が立って、自分を想ってくれる。それってきっと、世界一に愉快なことよ
ここは新宿、周太が日常をおくる街。
この森は奥多摩で、いまは雪を抱いて佇んでいる。
そしてこの森に抱かれたベンチでずっと、自分はこの隣への想いを重ねてきた。
この場所で「世界一に愉快なこと」を伝えたいな
そんな想いが英二にゆるく起きあがる。
ほんとうは周太の屋根裏部屋で話そうかとも想っていた。
けれど今日は雪が積もった、そして新宿にある奥多摩の森で大切なベンチを見つめている。
そんな今日に告げたい想いは「最高のクライマーのアイザイレンパートナーとして最高峰に立つ」
この想いは生まれた理由の1つ、この運命をアイザイレンパートナーが示したのは奥多摩の森、そして最高峰は雪世界。
だからいま雪の奥多摩の森で告げることが、いちばん相応しいかもしれない。
「うん、」
英二は軽くうなずくと、自分の隣へと微笑みかけた。
そしてポケットの右手を軽く握りしめて、英二は口を開いた。
「周太、聴いて?これはほんとうの俺の気持ち、俺の想いの真実なんだ」
黒目がちの瞳が見上げてくれる。
その瞳は穏やかで静かに和んで、そっと微笑んでくれた。きちんと聴くよ?そんなふうに。
きちんと聴いて?英二も目で笑いかけて、そして周太に告げた。
「周太への想いだけがね、俺の人生の幕を開けてくれた。だから周太はね、俺が生きる意味の全てだ。
そして俺は山ヤとして生きられた、周太に出会えたから俺は本当の自分に成れた。
だからこそ俺はね、周太。周太への想いのまま本当の俺らしくさ、山ヤの最高の夢に生きたい。
山ヤの最高の夢へ俺は登りたい、この世界の最高峰へ立ちたい…俺は、周太への想いのまま最高峰に立ちたい」
「ん、…」
小さく頷いて黒目がちの瞳が微笑んでいる。
きちんと聴いている、だから続けて?そんな穏やかな目を見つめて英二は続けた。
「国村は最高峰に登る運命の男だよ。その国村が俺をね、生涯のアイザイレンパートナーに選んでくれた。
まだ俺は山自体が初心者だ、それでも国村は俺を選んだ。
そしてね、周太の事情も全て俺は話した、危険な道だとも。それでも国村は俺を選んで、揺るがなかった」
話して告げていく、その黒目がちの瞳も揺るがない。
ただ真直ぐに英二を見つめて微笑んでくれる―さあ、きちんと話して?そんなふうに。
そんな揺るがない想いを見つめながら、英二は想いを言葉へ変えていった。
「そして国村はね、こう言ったんだ。
『最高峰ほど危険な場所が世界のどこにある?
そんな最高の危険へと俺は、アイザイレンパートナーとして宮田を惹きこんだ。
これからの人生をより危険に惹きこむのは俺の方、だから宮田の危険に俺が巻き込まれるくらいで調度いい』
そんなふうに国村はね、俺を選んでくれたんだ。
周太。俺はね、あいつに自分のリスクを背負わせて、あいつの生涯のアイザイレンパートナーになったんだ」
「ん、」
おだやかな相槌を打っていくれる。
白銀の森で英二は、愛する黒目がちの瞳を見つめた。
そうして口を開いた。
「どうか周太、許してほしい。最高峰を望む男の生涯のアイザイレンパートナーに生きること。
そしてね、周太?あいつと一緒に俺は、最高峰から世界を見つめたい。そして周太のことを想いたい。
そして俺はね周太、最高峰からだって周太の隣に必ず帰る。だからその絶対の約束を結ばせて欲しい」
見つめる黒目がちの瞳が、きれいに微笑んだ。
そして微かに唇が動いて、想いがこぼれた。
「…絶対の約束を結んだら、必ず帰って来てくれる?…俺の隣に、生きて、笑って?」
「ああ、必ず帰るよ、周太。どこからだって、いつだって、最高峰からだって。周太の隣に、必ず帰る」
そう、自分は必ず帰る。そして帰り続けてやりたいことがある。
そんな想いに黒目がちの瞳を見つめて、きれいに笑って英二は言った。
「そしてね周太、生涯ずっと最高峰から告げるよ?
周太を心から愛している。
そう、俺は最高峰から告げるよ。生涯ずっと最高峰から、周太だけに想いを告げて生きていきたい」
新宿にある奥多摩の森、白銀の雪の森。
白銀の梢のもと黒目がちの瞳を見つめて、英二は周太に想いを告げた。
許してくれる?そう英二は黒目がちの瞳を見つめていた。
その瞳はゆっくり瞬きをする、そして周太はそっと口を開いた。
「そのままの姿で、そのままの想いに…
真直ぐ心の想う通りにね、英二に生きてほしい…それがね、いちばん英二は素敵だ。
そして俺はね、英二のきれいな笑顔が好きだ。だから英二の笑顔を、俺が守りたい。だからね、英二…お願いだ、」
真直ぐに黒目がちの瞳が見つめてくれる。その瞳には穏やかな静謐と勇気が温かい。
その瞳で見つめたまま、きれいに笑って周太は言った。
「世界の最高峰で、英二の想いのままに、きれいに笑ってほしい。そして、必ず俺の隣に帰って来て?」
黒目がちの瞳には、誇らかな深い想いと勇気ひとつ。
その瞳が愛しくて、まぶしくて、英二はそっと周太を抱き寄せた。
「約束する。最高峰から想いを告げて笑ってみせるよ?そして必ず周太の隣に帰る、絶対に俺が周太を守る」
「ん、…お願い英二、絶対の約束をして?」
見上げてくれる瞳が美しくて、愛しくて。
こんな瞳のひとが自分の運命の相手でいてくれる。そんな幸せが愛おしい。
きれいに笑って英二は、周太に告げた。
「周太、絶対の約束だ。俺は、約束は必ず守って叶える。だから周太、信じて待っていて」
想いを告げられた。その想いのままに、英二はしずかに唇を唇に重ねた。
この新宿の奥多摩の森の、大切なベンチの前で。
(to be continued)
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