冬の花、かおりよせて、
第30話 誓暁act.3―another,side story「陽はまた昇る」
ゆっくり歩きだした足元の雪がすこしゆるんでいる。
ふる太陽の暖かさが緩やかに雪を溶かしていた、明日まで雪は残るだろうか?
もし雪が残ったら今日ここで願った想いも残れる?
そっと想いながら周太は、ときおり零れる滴の光を見ながら歩いていた。
「周太、お母さんは何時に家を出るって?」
「ん、お昼食べたらすぐって…なんかね、夕焼けを見ながら、温泉で呑むって企画?らしい」
「楽しそうだな。ね、周太?周太が温泉で呑んだらさ、どのくらい真赤になるかな。きっと可愛いだろな、試してみたいよ?」
どうしてすぐそういうこというの?
ほんとうに恥ずかしくて困るのに、けれど本当に試させてあげたら…喜んでくれる?
そう考えかけて周太は余計に恥ずかしくなった。
「…だからね英二、そういうはなしはちょっとそとではこまるから…いま真赤になっちゃうから…ね?」
「ほんとだね、周太。真赤で可愛い、こういう初々しい周太がね、俺すごく好きなんだ。ね、試させて?」
「…だめです…今はちょっと、ダメ…」
そんなふうに真赤になっていると、見慣れた一軒のショップの扉を英二は開いた。
そこは前に周太の服を買ってくれたショップだった。
もしかして英二はまた買ってくれるつもりだろうか?でももう貰い過ぎている。
そう周太が困っているうちに、気がついたらもうダッフルコートを試着させられていた。
「英二?これ、あの、」
ブルーがかったライトグレーのヘリンボーン生地が暖かい。
そんなダッフルコート姿の周太に、英二が満足げに微笑んでくれる。
「じゃ、次はこれな?…うん、かわいい周太」
途惑ってしまう周太に気づかぬふうで、英二は冬物のニットを周太に充てていく。
そうして3点きれいな色のニットを選ぶと、ダッフルコートとまとめて英二は抱えこんだ。
「はい、周太、行こう?」
困った顔の周太の手を、そっと英二は掴んでくれる。
そして周太が着ていたショートコートも一緒に持って、そのまま英二は1階のレジへと出した。
「すぐ着たいので、タグなど外していただけますか?」
「はい、ではこちらのコートはニットと一緒にパッキングですね?」
手際よく店員は対応してくれる。
あざやかなパッキングをつい眺めている周太に、英二はダッフルコートを着せかけてくれた。
どうしよう?また貰い過ぎてしまう。そう困っている周太に英二は言う隙も与えないでいる。
そして出来あがった紙袋を受け取って通りへ出ると、周太は遠慮がちに口を開いた。
「…あの、英二?コートとか、…さすがに悪いよ?」
「悪くないよ、周太?似合ってる、かわいいよ。それ温かいだろ?」
「ん、…温かいよ、でも…俺、貰いすぎてるよ、ね?」
あんまり貰うの悪くて申し訳なくて、周太は困った顔になってしまう。
そう見上げる先で、貰いすぎてほしいのに?そんなふうに英二は首傾げて微笑んだ。
「俺が選んだ服を着るとき、周太は俺を想いだしてくれてる。そうだろ?周太」
「…ん、そう、だね…」
ほんとうにその通り。
いつもそうやって自分は英二を想って、英二の選んでくれた服を着る。
そうして選んでくれた長い指の手の温もりをなぞってしまう、それが周太は気恥ずかしい。
「俺ね?たくさん周太にさ、俺を想ってほしいんだ。だから服を贈りたくなるよ?
それにね、周太。クリスマスには俺ね、コートを贈りたかったんだ。
それと11月に訊いたよね?『周太が欲しいもの』とさ、2つ贈るつもりでいたんだけど。欲しいもの、教えてよ?」
「欲しいもの」言われて周太の心が大きくノックされた。
昨夜も当番勤務の合間に休憩室でちいさく練習していたこと、けれどまだ今は言えない。
なんだか気恥ずかしくて周太は顔を俯けてしまった。
でも何か言わないと、なんとか周太は唇を動かして声を押し出した。
「…あの、コートとか、うれしい。ありがとう、」
それだけ言うと周太はなんとか微笑んだ。
けれど英二はすこし不思議そうな目で周太を見ている。
やっぱり苦し紛れだって英二には解るよね?けれどちょっと今はダメなんだ。
そんな想いで見上げる英二は、やさしく微笑んで周太のマフラーを巻き直し始めた。
「よかった、受取ってもらえて。いま周太が風邪ひいたらさ、きっと俺にも伝染っちゃうしね。温かくしてて」
「ね、英二?…どうして俺が風邪ひくと、英二にも伝染るの?」
何気なく周太は英二に質問をした。
だって英二は毎日のように勤務前の早朝から雪山へ登るほど元気だ。
そして朝晩の巡回で登山道を登って巡り、休憩時間には岩場でクライミングをする。
そんな健康で逞しい英二が、自分から風邪を伝染されるなんて無いだろう。
不思議なことを言うんだね、英二?そう見上げた隣から英二は微笑で、少し顔を近寄せて周太に答えた。
「だって周太『絶対の約束』だからね、今夜は俺の好きにさせてもらうだろ?そしたらさ、風邪も伝染っちゃうよ」
言われて周太の瞳が大きくなる。
風邪がうつるのは「今夜は俺の好きにさせてもらう」から、って?
そして田中の四十九日に電話で英二が言った言葉が、はっきり思い出されてしまった。
―だからね、俺が服を脱がせたいのは周太だけだよ?だから周太には俺、服をプレゼントしたくなる
だから今日も服を贈ってくれたの?
そういえば「初めてのあの夜」卒業式の夜に着ていたのも、最初に贈られた白いシャツだった。
だから、そういうことだから…いつも服を贈ってくれる、の?
そんな想いに紅潮が昇って治まりかけた赤みが戻ってしまう、それでも周太はなんとか口をきいた。
「…あ、の…まだ、俺…いいとかなにもいってないしそんなかってにきめないで…よ」
いつものように口調が途惑ってしまう、そんな周太に英二はやさしく笑っている。
そしてマフラーを巻き終わった長い人さし指で、そっと周太の唇をふさいだ。
唇ふれる指に想いをのんだ周太に、きれいに笑って英二が静かに告げた。
「だめだよ、周太。『絶対の約束』なんだからね。言うことをさ、きいてよ」
そう言って微笑んで英二は周太の右掌を長い指の左掌に繋ぐと、またコートのポケットにしまいこんだ。
こんな不意打ちづくしもう何も言えない、途惑いと幸せで周太は真っ赤に困ってしまった。
どうしたらこの赤み治まってくれるの?すっかり困りながら顔を伏せ気味に歩いていると、ふっと英二が立ち止まった。
「すみません、クリスマスの花束をお願いできますか?」
英二の声に顔を上げると、いつもの可愛い花屋に立っていた。
この駅近い花屋は今日も明るくて、たくさんの花々がクリスマスの雰囲気にディスプレイされている。
きれいだなと見ている周太の隣で、英二は前にもお願いした売子と花を選び始めた。
「またお越しいただいて、ありがとうございます。今日はどんな方へ?」
「ありがとう。先月と同じです、瞳がきれいな、ね」
「その方なら、あわいお色がよろしいですね?」
そんなふうに微笑みながら彼女は、パステルトーンの花を選んでくれる。
紅あわい冬ばら、ばらの赤い実、白いクリスマスローズ、雪柳。きれいにまとめて、リボンをかけてくれる。
優しい雰囲気のクリスマスの花束、きっと母は喜ぶだろう。うれしく眺めて、ふと周太は気がついた。
手際よく花をまとめていく彼女の目線が、ときおり英二へ密やかに向けられている。
そんな彼女の微笑は微かな艶をふくんできれいだった。
…あ、
きりっと周太の胸が痛んだ。
その艶の意味が今の自分にはもう解るから。
英二を想う自分の顔が窓や鏡に映るとき、いつも同じような艶を自分の瞳に見つめているから。
…きっと英二を、見惚れている、よね
そっと心つぶやいた言葉の、痛いような熱いような感覚に迫り上げられて周太はちいさな吐息をついた。
ほんとうは少しだけ彼女が羨ましいから、自分の心の言葉に傷ついた。
だってほんとうは、すごく哀しいけれど本当は…もし自分が女性だったら?そう考えたこと本当はあるから。
もし女性だったら英二の子供を産んであげられる、そして温かい家庭を贈ってあげられる。
そんな「普通の幸せ」で英二を温めてあげられる。
けれど自分は英二と同じ男で、それは出来ない望みだった。
このことを想うとき、いつも哀しくなる。だって自分は英二の「普通の幸せ」の為に何をしてあげられるの?
…でも、離れるなんて出来ない
もう愛してしまった、自分の全てを懸けて。
だから今更もう離れるなんてできない、だって自分の全てを英二に渡してしまったから。
きっと離れたら自分は立っていられない、それに覚悟だってとっくにしてしまっている。
あの「初めての夜」卒業式の夜と、初雪の夜と2度の覚悟で自分も選んだ。
そのほかの瞬間も何度も望まれて自分も選んで、自分の隣に英二が立つことを許してしまった、だから自分も逃げたくない。
けれどいま「わがまま」を告げることには迷いを抱いている―自分から望むことは許されるのだろうか?
「お待たせ、周太」
名前を呼ばれて目を上げると、きれいな笑顔の英二が花束と佇んでいた。
薄紅と白と、霜まとうような緑の葉が美しい花々を抱えて、おだやかに英二は微笑んでくれる。
そうして花を抱いて立つ端正な長身の姿は、やさしくて華やかで明るくきれいで。
そんな英二に色んな視線の賞賛がふるのが自分にはわかる、心惹きつける輝きは隠れないから。
英二は生来の美貌だけでも人を惹きつける。
そして今の英二は素直な自身のままに、山に生きる想いに輝いている。
だってもう英二は憧れ努力し掴んだ、山ヤの誇らかな自由に生き始めているから。
そんな誇らかな自由のまばゆさが端正な美貌を明るませて、どうしたって心惹いてしまう。
…きれいなひと、
そんなひとをこの自分が、自分の隣に求めて繋ぎとめて良いの?
そんなふうに立ち止まってしまう、こんなふうに衆目ふる英二を見ていると。
だって自分は危険を選ぶ道にいる、そして男で、子供も家庭も贈れない。
それなのに、こんな美しいひとの幸せのために何が自分にできるというの?
こんな自分に、このひとを繋ぎとめる資格なんてあるの?
そんな哀しい自責が心を痛ませる、今だって本当は涙を心と瞳の深くに止めている。
もう2度も覚悟した、それでも哀しい自責は止んではくれない。
きっと愛するからこそ、想いが深まるからこそ哀しみも深くなる。
だって愛するほどに唯ひとつの願いが強くなる、
―このひとに本当に幸せになってほしい
そんな想いに幸せを贈りたくて何かする、そのたびに喜ばれて幸せな笑顔を見せてくれる。
そんな笑顔がうれしくて、温かな幸せに自分もくるまれて、見つめていたいと願ってしまう。
そうして見つめるたびにまた、このひとの幸せを祈るなか哀しい自責も痛みだす。
いつもそう、温かな幸せと哀しい自責が織り合わさって心を深く涙がわきおこる。それが苦しくて、痛い。
それでも離れられなくて、きれいな笑顔を見つめていたくて、この隣に佇んでしまう。
けれど英二は衆目なんて気にしない。
いつもそう、雲取山でも新宿でも変わらずに、ただ自分だけを見つめてくれる。
「これさ、お母さん喜んでくれるかな?」
この花束どう思う?そんなふうに英二は目で訊いてくれる。
ほらこんなふうに、英二は自分を想って母まで大切にしてくれる。
こんなに想ってくれる英二を自分は、拒絶することなんて出来ない。こんな一途な想いを自分は壊せない。
どんなに何度も心を深く涙がわきおこるとしても、苦しくて痛くても。
だって知っている。美しい心も体も時間も全てかけて、英二は自分だけを見つめてくれること。
どんなに逃げても強く掴まれて、いつも離れられなかった。
だから本当は知っている、あの美しい最高のクライマーですら英二の想いは掴めない。
それくらい英二は全てを懸けて自分だけを見つめ続けてくれる。だから自分は想いに応えたい。
そして本当は知っている、どうしたら想いに応えられるか?
さあ瞳、この幸せな想いに微笑んで?
さあ唇、くれる温もり幸せに想いを言葉にして?
この心に抱いた1つの勇気よ、想いを伝える強さを自分に与えて?
「ん、…母にまで、ありがとう…すごくね、うれしい」
ほら、告げられた。
告げて見上げる英二が幸せそうに、きれいに笑ってくれる。
きれいに微笑んで右掌を長い指の左掌に繋いで、コートのポケットに仕舞ってくれた。
そのままコンコースの片隅へと周太を連れて英二は微笑んだ。
「おいで、周太」
きれいに笑って英二は、抱えた花束の隣に周太を惹きこんだ。
花の香が周太の頬を撫でる、花束と一緒に抱えられて周太は英二を見上げた。
どうしたの、英二?そう目だけで訊いた唇に、そっと熱い唇が重ねあわされる。
ふっと花の香が唇に誘われて周太の唇へふれはいった。
― 逢いたかった、
花の香と想いが重ねた唇から忍び込む。
おだやかで清楚な冬ばらの香、ふれる熱い唇の想い、抱きしめてくれる腕の力。
その全てから英二の想いがあふれて周太の心を浚いこんだ。
― 逢いたかった、
ずっと逢いたかった、ずっと一緒にいたいんだ
ふれたかった抱きしめたかった、もっと温もりを通わせたい
恋しかった募る想い苦しかった、いつも想ってる愛しているんだ
ほんとうに?英二…そんな小さな想いが重なる唇へ昇りそうになる。
ほんとうに自分のことを求めているの?どうしてそんなに自分なの?
いまこうして伝わる英二の想いが苦しい、しあわせな想い誘われる分だけ痛くなる。
だって幸せな分だけ自分は自責に苦しくなる、英二の隣でいる幸せと自責の狭間が本当はもう辛いから。
―だからもっと愛してよ?俺をもっと想ってよ、もっと俺のこと掴んで愛して
もうそんなに求めないで?
もう苦しい、愛する分だけ強くなる自責に壊れてしまうから。
愛するほど願う「英二の幸せ」それを壊すのが自分の存在だと思いしらされてしまうから。
けれど拒絶もできない傷つけたくなくて。でも苦しい、これ以上もっと想うなんて出来ない。
…もう無理かもしれない
そんな想いに周太は少し英二の体から離れようとした。
けれど長い指が髪をからめて惹きよせて、周太を深く抱きこんだ。
そして重ねた唇のはざまで、微かな音無い声に英二が「想い」を囁いてくれた。
「― 幸せは「あなたの隣」だけだから…ずっと俺だけのものになって俺の帰る場所でいて?―」
幸せはあなたの隣だけ― ふれる唇から、強い腕から、抱きとめる胸の鼓動から、長い指から。
ひとつひとつから想いが伝わって、心を深くわきおこる涙へと英二の想いが融けていく。
そして英二の想いが周太の心響かせていく、ただ一途きれいな想いが届いてしまう。
ほんとうに?そんなふうに訊くことすらもう出来ない、きれいな一途な英二の想い。
…この想いを拒めない、
きれいな一途な英二の想いに涙ひとすじ、周太の瞳からこぼれた。
…この想い全て、守って応えてしまいたい
ほんとうはすこし迷っていた。
自分がクライマーウォッチを英二に渡すこと、そして英二の時計を自分が贈られ嵌めること。
クライマーウォッチなら英二は常に身に着けて最高峰にだって連れて行く。
そして時間も高度も方位も全てをその時計で見る、そうして見るたび自分を想い出させてしまいたい。
そんなふうに英二のこれからの時間全てを、自分への想いで埋めさせて、英二の時間全てを独り占めしたい。
そして。
いま英二が嵌めているクライマーウォッチは、英二の人生で大切な時間と想いを刻んだ時計。
それを自分が腕に嵌めて英二の大切な時間と想いを、自分が独り占めして見つめたい。
この父の時計を外して英二の時計をしたい。そして英二に一緒に父の想いを抱き留めてほしい
そんな意味を持ってしまう「クライマーウォッチの交換」これを自分が望んでいいのか?
そうして自分が英二の過去と未来と、すべての時間と想いを独り占めしていいのか?
そんなふうに迷っていた。
だって英二は本当に美しくなってしまった、この逢えなかった1ヶ月と少しの間なおさらに。
大人の男として山ヤとして美しくなった、山岳救助に立つ警察官の日々と「山」に生きる想いが英二を輝かせた。
そして英二は選ばれた、あの美しい最高のクライマーと最高峰へ立つ山ヤの美しい夢に望まれてしまった。
だから自分は迷い始めてしまった。
そんな美しい英二には、自分の隣よりもっと相応しい場所があるかもしれない?
そんな迷いと悲しみが心のどこか痛み始めていた。
本当に愛する唯ひとり、だからこそ本当に幸せになってほしくて、迷っていた。
…でも、もう、迷ってはいけない、ね?
もう今このときに、英二の想いを自分はしってしまった。
この想いの全てに応えられるのは自分だけ。
この花の香と強い腕に抱かれて今、熱い唇の想いに知らされた。
―もし運命があるなら、この美しいひとが「運命」
そんな静かな確信と決意が、心の深くわきおこる涙すら呑みこんでいく。
だから想う「運命なら従えばいい」そして唯まっすぐ見つめればいい、このひとの想いだけを。
花の香の翳、重ねられた熱い唇の想い。こんなに美しい想いを伝えてくれるひと、自分こそが守りたい。
たとえ誰に謗られても悲しませても、この想いのひとを守りたい。
きっとこれからも自責は痛み自分は苦しむだろう、それでも求めに応えたい。
もう自分は初雪の夜に、この美しい隣の幸せの為だけに生きると決めている。
そして抱いた1つの勇気のままに告げればいい。
だから今日は自分から想いを告げる。
この隣の時間を受けとる願いを告げて、生涯の約束を結んでもう逃げない。
― きみを愛している 幸せは、きみと一緒にしか見つけられない
そっと静かに熱い唇が離れていく。
離れていく熱、残される花の香。そして心刻まれた「決意」に静かに周太は微笑んだ。
静かに離れると熱のこされた周太の顔を見つめて、きれいに英二は微笑んだ。
「きれいだね、周太は」
もし自分が、きれいなら。それはいま、この瞬間に心刻まれた1つの決意のため。
そんな想いに微笑んで、でも気恥ずかしさに周太は顔赤らめて応えた。
「…はずかしい、…でも、ありがとう」
ほんとうに「息をするごとに」自分は変わっていく。
この隣への想い1つに、1つの勇気を抱いて1つの決意を刻んだ。
そうして少しでも多く幸せな笑顔で充たしたい、この隣が幸せだと心から、きれいな笑顔でいるように。
今日の実家は静かな雪の梢に佇んでいた。
どの木の枝も雪に折れていないらしい、ほっとして周太は微笑んだ。
この間すこし剪定しておいて良かった、もし雪の重みで折れたら可哀そうだった。
みまわす庭の花たちも雪に傷められてはいない、冷たい雪に冬の花は凛々しい立姿を見せてくれる。
…自分もあんなふうに、立っていたい
そっと微笑んで周太は踏んでいく飛び石へと目を移した。
庭をぬけ玄関へ続く飛び石は雪を掃き清めてある、母は朝忙しいだろうに気遣ってくれた。
そんな母の想いに周太はそっと感謝に微笑んだ。
そうして玄関の前に立つと、なつかしそうに微笑んで英二は周太に訊いてくれた。
「ね、周太?俺が鍵を開けてもいい?」
訊きながら英二は喉元にふれた、その指先には黒い革紐がふれている。
その紐の先には元は父が使っていた合鍵が結ばれている、きっと遣ってもらえたら父も喜ぶだろう。
周太は微笑んで穏やかにうなずいた。
「ん。…英二が開けてあげて?…きっとね、喜ぶから」
「じゃあ、周太?『初めて』をこれからするよ、」
きれいに笑って英二は、革紐を首から外すと合鍵を持った。
ちいさな普通の合鍵、けれど英二は宝物にしてくれる父の遺品の合鍵。
すこし見つめてから英二は鍵穴へ静かに鍵をさしこんだ、そして扉はかちりと微かな音と一緒に開かれた。
「ほら、ちゃんと開けれたね。周太?」
うれしそうに英二が笑ってくれる、その笑顔が嬉しくて周太は静かに微笑んだ。
だって父の合鍵がまた再び遣われた、この合鍵は13年以上の時を経てまた役目を果たした。
どうが英二がこの合鍵で、ずっと無事に帰ってきてくれますように。そんな願いと一緒に周太は玄関をのぞきこんだ。
その玄関にはまだ母の靴はなかった。
…お母さん、やっぱり帰っていなかった、な
きっとまだ仕事が終わらないのだろう、スーパー経営会社の営業部門だから年末この時期の母は忙しい。
でも今日は旅行もあるし午前中に帰るって言っていたのにな。すこし周太は寂しく玄関先を見つめていた。
そんな周太の視界へ軽やかに英二が玄関へ踏み込んだ。
「周太、」
玄関の中から振り向いて、英二は周太に向き合った。
そして周太の瞳を見て英二は、きれいに笑って周太を迎えこんだ。
「おかえりなさい、周太」
ずっと自分は孤独だった。
いつも誰もいない家に帰って、そして母を迎えるために家事をする。
そうして少しでも多く母と話す時間を作りたくて、自分は家事を身につけた。
そんなふうに母を援けて、いつも自分が母を迎えて安らがせたかった。
だって警察官になったらもう、いつ再び一緒に暮らせるか解らなかったから。
けれど本当はいつも、誰かに笑って迎えてほしいと願って、心で泣いていた。
そして今、きれいな笑顔が玄関から自分を迎えてくれる。
「おかえり、周太?」
もういちど呼びかけられて、心に想いが熱を持っていく。
そんな心から想いあふれて瞳から涙が生まれてしまう。
…ね、英二?どうしていつも、わかるの?
そんなふうに微笑んだ周太の瞳から、ゆるやかに涙がおちた。
どうしていつもこんなふうに、幸せをくれるのだろう?
そんな想いに伝う温かな涙が唇こぼれて、そっと周太は微笑んだ。
「ん、…ただいま、英二」
きれいに笑って周太は「ただいま」を言った。
その言葉に微笑んで長い腕をのばすと、英二は周太を抱きしめて瞳覗き込んだ。
「ね、周太?」
名前を呼ばれて周太は英二を見上げた。
見上げた想いの先で、うれしそうに英二は笑って周太の唇へとキスをした。
「周太は俺の帰りを信じて、待っていてくれるだろ?
俺だってね、周太の帰る場所でいたいんだ。だから俺はね、ずっと周太を迎えて『おかえりなさい』って言いたいよ」
ずっと迎えてくれるの?
ほんとうに俺でいいの?ずっと迎えてくれるの?
そう出来たらほんとうに、どんなに幸せでうれしいだろう?
そんな願いが叶うならいい、いまも幸せが温かくて素直に周太は微笑んだ。
「…ん、ただいまも、言わせて?…いま俺ね、すごく幸せなんだ。…ありがとう、英二」
「周太が幸せだと俺、ほんと嬉しい。ね、周太?もうひとつの周太の部屋に入れてよ」
きれいな笑顔でねだってくれる、そのひとの想いがうれしくて幸せになる。
自分のもうひとつの部屋、自分には宝箱のような小部屋。そして父の記憶と想いが温い大切な小部屋。
あの部屋に英二の想いと記憶も温めたい、そして愛するひとの名残も宝箱の小部屋に納めたい。
そんな想いに周太は微笑んで英二にお願いをした。
「ん、入って?…英二にはね、…俺の部屋にね、座ってほしい」
磨きこまれた深い木肌の階段をあがって、周太は自室の扉を開いた。
その扉のむこうで頑丈な木梯子が、重厚な木造りの襖戸から階段状にきちんと架けられている。
その梯子を英二が見つめてくれる、周太は微笑んで話しかけた。
「それはね、…父がね、作ってくれたんだ」
「周太の父さんが?へえ、すごいな。こういうことも出来るんだ」
素直に褒めて笑ってくれる、本当に率直できれいな英二。
こんなふうに英二はいつも父のことを、真直ぐに見つめて憧れてくれる。
それが本当に嬉しくて、警察学校の寮で屋上でときおり父の話を英二だけにはした。
そのたびいつも素直に褒めてくれて「殉職した警察官」という枠には英二だけは執われないでいてくれた。
そんな英二の率直さが自分の心を開いて、隣にいることが自然になっていった。
だからいまも、この部屋に英二は入ってほしい。父の想いと記憶ごと自分を受けとめてほしい。
そして抱いている想いのままに、この部屋に英二の気配を残して見つめられるようにしたい。
そうしたら英二が最高峰に立つときも自分はこの部屋で待てるから。
そんな想いに周太は英二に微笑んだ。
「登って?英二、」
そう言って周太は鞄を置いて父の梯子を登った。
登った部屋は今日も明るい太陽に満ちている、穏やかな静謐が陽の光と佇んで温かい。
そっと立った窓辺からは雪の庭が見える、それから雪つもる屋根の白銀と青い空。
きれいだなと眺めた背中に、無垢材の床を踏む静かな音が聞こえて、ゆっくり周太は振り返った。
自分の宝箱の部屋に英二が立っている。
白い漆喰塗の天井と壁に木製のやさしい家具たち、そんな4畳半くらいの白とベージュの空間。
そこに愛するひとが佇んで、ゆっくり切長い目を動かして部屋を見てくれる。
その目をふっと天窓にとめ、それから周太を振り向いて英二は微笑んだ。
「周太?俺、この部屋がね、大好きだ」
天窓からは冬の陽光と空の青があざやかだった。
きっと英二も天窓の空を特に気に入ってくれた、そんな様子に周太は微笑んだ。
あの天窓は周太も好きだった、好きなものを同じように好んでくれる、それが幸せでうれしい。
そんな周太の隣へ英二は歩みよると、瞳を覗き込んで笑いかけてくれた。
「ね、周太。この部屋にあるんだろ?周太の採集帳」
「…ん、そう。見てくれるの?」
「周太がよかったら、見せてよ?」
ほら、ほんとうに自分の好きなものに興味を示してくれる。
うれしくて微笑んで周太は古い木製のトランクの前に座った。かちんと音をたて鍵をあけると、ゆっくり開いていく。
このトランクは周太の宝箱だった、中には幼いころの採集帳たちと2つの小さな宝物いれの木箱を納めてある。
周太の隣からトランクの中を見て、やさしく英二は微笑んだ。
「見ていい?」
「ん、」
周太がうなずくと英二は丁寧に採集帳を手にとってくれた。
長い指で開いてくれるページには、幼い頃から父と集めた葉や花たちがページに納まっている。
草花に添えたラベルには自分と父の筆跡、父はラテン語で学術名を書いてくれた。
そのラベルを見つめた切長い目が心から賞賛して、きれいに英二が微笑んだ。
「周太の父さん、すごく字がうまいな」
ほら、また父を褒めてくれる。
大好きな父を心から褒めて尊敬してくれる、うれしくて周太は微笑んだ。
またすこし父のことを話したいな、少し首傾げながら周太は英二に教えた。
「ん、…父はね、英文学科だったらしい。それでね、ラテン語とか得意だったみたい」
「ふうん、ほんとに博学なんだろうな。やっぱり周太の父さんって、かっこいいな」
「ん。父はね、かっこいいよ?」
ほら。いつものように父の話を聞いて、憧れが英二の目に見える。
こんな率直に父を見てもらえて嬉しい。そしてまた英二を好きになってしまう、こんな率直さが素敵だから。
こういう英二をずっと見ていたい、こうして隣で笑っていてほしい。
でもそろそろ昼ごはんの支度をしないといけない、そっと周太が立ち上がると英二が見上げてくれる。
そんな英二に微笑んで周太は、窓辺のロッキングチェアーを指さした。
「俺ね、昼ごはんの支度するね?…よかったら英二、あの椅子に座って、ゆっくりしていて?」
「周太、この椅子も周太の父さんが作った?」
そう、父が作ったもの。
ずいぶん昔に作られたらしいのに、今も頑丈できれいな木製のロッキングチェアー。
この椅子は自分のお気に入り、英二も気に入ってくれるだろうか?
「ん、そう…祖父の為にね、学生の頃に作ったらしい」
「おじいさんの為に?」
「ん、…この屋根裏部屋はね、元は祖父の書斎だったらしい。そのトランクも祖父のなんだ…あ、本棚もね、父が作ったらしい」
「へえ、すごいな周太の父さん、」
椅子、本棚、梯子、どれも頑丈だけれど繊細な雰囲気が周太は好きだ。
父はこういう手仕事が上手で庭のベンチも作った、そんなふうに家のあちこちに父の作品は佇んでいる。
この部屋の家具たちを見る英二の率直な想いがうれしい、そんな幸せに微笑んで周太は梯子へと歩きかけた。
「じゃあ、英二?ゆっくりしていてね、…あ、よかったら、父の書斎の本とか、読んで?」
そう背を向けかけた周太の後ろで、英二の気配が立ちあがった。
どうしたのかな?そう振り返りかけた周太を、そっと英二が背中から抱きしめてくれる。
その腕がほんの一瞬ふるえて、でも温かく力強く周太を抱き籠めていく。
「…あ、…英二?」
肩越しに見つめた英二の目が真直ぐ周太の瞳を見つめる。だから解ってしまった、きっと大切な話をする。ね、英二?
ほんとうはもう解っていた、この部屋でも英二は「決意」を話すだろうと。
そのために冬至の日、自分はこの部屋の掃除をして心の整理をした。あの日はそうして覚悟をして。
そんな想いに見つめる英二は、静かに周太へと訊いてくれた。
「周太、あらためて訊くよ?…俺は、最高峰へ登ってもいいかな?
最高のクライマーの最高のレスキューを務めて、最高峰から笑って周太に想いを告げたい。
そんなふうにさ、ずっと国村のね、生涯のアイザイレンパートナーを俺、やってもいいかな?」
ほらやっぱり、話してくれた。
そして本音がもう瞳からこぼれてしまう、だってここは宝箱の部屋だから素顔になってしまう。
そんな素顔の自分は涙が止められない。
だって本音は ― 離れたくない、独りは嫌、ずっと傍にいて?
けれどこれも本当の気持ち ― 想いのまま生きて輝いて幸せでいて、きれいな笑顔を見せてほしい
そして自分の心からの願いは、ずっと幸せに生きて、きれいな笑顔で笑っていて?
ぽとんと涙ひとつ、愛するひとの腕にこぼれおちた。
そんな自分の瞳を愛するひとが覗き込んでくれる、やさしい穏やかな意志の強い目で。
そんな優しい目で見つめられたら、素直になって涙を止められないのに?
「…英二、…帰って、きてくれるんでしょ…必ず、俺のとなりに…いつだって、どこからだって…だから、…信じてる」
ふるえる唇から想いがこぼれてしまう、想いに本音と決意と勇気がとけあっていく。
そしてこの美しいひとを愛する想いがまた深くなって、ひとつの勇気が強くなる。
ほんとうは不安で心配で怖い、そんな想いが尚更に自分に気づかせてしまう。
―もし運命があるなら、この美しいひとが「運命」
そんな静かな確信と決意に想う「運命なら従えばいい」そして真直ぐ見つめればいい。
このひとの想いだけを、自分の唯ひとつ愛する想いを見つめていればいい。
こんなに美しい夢と想いを伝えてくれるひと、自分こそが守りたい、どんな痛みがあったとしても逃げたくない。
もう自分は初雪の夜に、愛するひとの幸せの為だけに生きると決めている。
だからこの愛するひとの望みをただ、静かに受け留める1つの決意を抱けばいい
「うん、周太。絶対に俺は帰るよ、だから俺を信じて。そして…ありがとう、周太」
ほんとうに、信じさせて ― 抱きしめてくれるひとに周太は静かに向き合った。
そう見つめる想いのひとは真直ぐに瞳を見つめてくれる。
そして端正な口をほころばせて真直ぐな瞳のまま、想いの真中を周太に告げてくれた。
「愛してる、周太」
いちばん告げられたい想いを周太は告げられた。そして瞳を瞳で繋がれて、唇に唇でふれられた。
見つめる瞳が明るくて、ふれる唇が熱くて、抱かれる腕が力強い。
このひとの想いを自分は受け留めたい、そして自分がこの美しいひとを守りたい。
自分はまだ危険に生きていて、女性でもなくて、このひとに何も与えられないかもしれない。
それでも想いは真実で「いつか」このひとの幸せの為に全てを懸けて生きるから。
だからどうか許してください、このひとを隣に迎え帰る場所になることを。
そして抱いた1つの勇気のままに告げさせて?
この愛するひとの時間を受けとる願いを告げて、共に生きる生涯の約束を結ばせて?
そんな想いをこめて周太は英二の「約束のキス」を受けとめた。
そうして穏やかな温もりの静謐に、ふたつの想いは静かに佇んだ。
(to be continued)
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第30話 誓暁act.3―another,side story「陽はまた昇る」
ゆっくり歩きだした足元の雪がすこしゆるんでいる。
ふる太陽の暖かさが緩やかに雪を溶かしていた、明日まで雪は残るだろうか?
もし雪が残ったら今日ここで願った想いも残れる?
そっと想いながら周太は、ときおり零れる滴の光を見ながら歩いていた。
「周太、お母さんは何時に家を出るって?」
「ん、お昼食べたらすぐって…なんかね、夕焼けを見ながら、温泉で呑むって企画?らしい」
「楽しそうだな。ね、周太?周太が温泉で呑んだらさ、どのくらい真赤になるかな。きっと可愛いだろな、試してみたいよ?」
どうしてすぐそういうこというの?
ほんとうに恥ずかしくて困るのに、けれど本当に試させてあげたら…喜んでくれる?
そう考えかけて周太は余計に恥ずかしくなった。
「…だからね英二、そういうはなしはちょっとそとではこまるから…いま真赤になっちゃうから…ね?」
「ほんとだね、周太。真赤で可愛い、こういう初々しい周太がね、俺すごく好きなんだ。ね、試させて?」
「…だめです…今はちょっと、ダメ…」
そんなふうに真赤になっていると、見慣れた一軒のショップの扉を英二は開いた。
そこは前に周太の服を買ってくれたショップだった。
もしかして英二はまた買ってくれるつもりだろうか?でももう貰い過ぎている。
そう周太が困っているうちに、気がついたらもうダッフルコートを試着させられていた。
「英二?これ、あの、」
ブルーがかったライトグレーのヘリンボーン生地が暖かい。
そんなダッフルコート姿の周太に、英二が満足げに微笑んでくれる。
「じゃ、次はこれな?…うん、かわいい周太」
途惑ってしまう周太に気づかぬふうで、英二は冬物のニットを周太に充てていく。
そうして3点きれいな色のニットを選ぶと、ダッフルコートとまとめて英二は抱えこんだ。
「はい、周太、行こう?」
困った顔の周太の手を、そっと英二は掴んでくれる。
そして周太が着ていたショートコートも一緒に持って、そのまま英二は1階のレジへと出した。
「すぐ着たいので、タグなど外していただけますか?」
「はい、ではこちらのコートはニットと一緒にパッキングですね?」
手際よく店員は対応してくれる。
あざやかなパッキングをつい眺めている周太に、英二はダッフルコートを着せかけてくれた。
どうしよう?また貰い過ぎてしまう。そう困っている周太に英二は言う隙も与えないでいる。
そして出来あがった紙袋を受け取って通りへ出ると、周太は遠慮がちに口を開いた。
「…あの、英二?コートとか、…さすがに悪いよ?」
「悪くないよ、周太?似合ってる、かわいいよ。それ温かいだろ?」
「ん、…温かいよ、でも…俺、貰いすぎてるよ、ね?」
あんまり貰うの悪くて申し訳なくて、周太は困った顔になってしまう。
そう見上げる先で、貰いすぎてほしいのに?そんなふうに英二は首傾げて微笑んだ。
「俺が選んだ服を着るとき、周太は俺を想いだしてくれてる。そうだろ?周太」
「…ん、そう、だね…」
ほんとうにその通り。
いつもそうやって自分は英二を想って、英二の選んでくれた服を着る。
そうして選んでくれた長い指の手の温もりをなぞってしまう、それが周太は気恥ずかしい。
「俺ね?たくさん周太にさ、俺を想ってほしいんだ。だから服を贈りたくなるよ?
それにね、周太。クリスマスには俺ね、コートを贈りたかったんだ。
それと11月に訊いたよね?『周太が欲しいもの』とさ、2つ贈るつもりでいたんだけど。欲しいもの、教えてよ?」
「欲しいもの」言われて周太の心が大きくノックされた。
昨夜も当番勤務の合間に休憩室でちいさく練習していたこと、けれどまだ今は言えない。
なんだか気恥ずかしくて周太は顔を俯けてしまった。
でも何か言わないと、なんとか周太は唇を動かして声を押し出した。
「…あの、コートとか、うれしい。ありがとう、」
それだけ言うと周太はなんとか微笑んだ。
けれど英二はすこし不思議そうな目で周太を見ている。
やっぱり苦し紛れだって英二には解るよね?けれどちょっと今はダメなんだ。
そんな想いで見上げる英二は、やさしく微笑んで周太のマフラーを巻き直し始めた。
「よかった、受取ってもらえて。いま周太が風邪ひいたらさ、きっと俺にも伝染っちゃうしね。温かくしてて」
「ね、英二?…どうして俺が風邪ひくと、英二にも伝染るの?」
何気なく周太は英二に質問をした。
だって英二は毎日のように勤務前の早朝から雪山へ登るほど元気だ。
そして朝晩の巡回で登山道を登って巡り、休憩時間には岩場でクライミングをする。
そんな健康で逞しい英二が、自分から風邪を伝染されるなんて無いだろう。
不思議なことを言うんだね、英二?そう見上げた隣から英二は微笑で、少し顔を近寄せて周太に答えた。
「だって周太『絶対の約束』だからね、今夜は俺の好きにさせてもらうだろ?そしたらさ、風邪も伝染っちゃうよ」
言われて周太の瞳が大きくなる。
風邪がうつるのは「今夜は俺の好きにさせてもらう」から、って?
そして田中の四十九日に電話で英二が言った言葉が、はっきり思い出されてしまった。
―だからね、俺が服を脱がせたいのは周太だけだよ?だから周太には俺、服をプレゼントしたくなる
だから今日も服を贈ってくれたの?
そういえば「初めてのあの夜」卒業式の夜に着ていたのも、最初に贈られた白いシャツだった。
だから、そういうことだから…いつも服を贈ってくれる、の?
そんな想いに紅潮が昇って治まりかけた赤みが戻ってしまう、それでも周太はなんとか口をきいた。
「…あ、の…まだ、俺…いいとかなにもいってないしそんなかってにきめないで…よ」
いつものように口調が途惑ってしまう、そんな周太に英二はやさしく笑っている。
そしてマフラーを巻き終わった長い人さし指で、そっと周太の唇をふさいだ。
唇ふれる指に想いをのんだ周太に、きれいに笑って英二が静かに告げた。
「だめだよ、周太。『絶対の約束』なんだからね。言うことをさ、きいてよ」
そう言って微笑んで英二は周太の右掌を長い指の左掌に繋ぐと、またコートのポケットにしまいこんだ。
こんな不意打ちづくしもう何も言えない、途惑いと幸せで周太は真っ赤に困ってしまった。
どうしたらこの赤み治まってくれるの?すっかり困りながら顔を伏せ気味に歩いていると、ふっと英二が立ち止まった。
「すみません、クリスマスの花束をお願いできますか?」
英二の声に顔を上げると、いつもの可愛い花屋に立っていた。
この駅近い花屋は今日も明るくて、たくさんの花々がクリスマスの雰囲気にディスプレイされている。
きれいだなと見ている周太の隣で、英二は前にもお願いした売子と花を選び始めた。
「またお越しいただいて、ありがとうございます。今日はどんな方へ?」
「ありがとう。先月と同じです、瞳がきれいな、ね」
「その方なら、あわいお色がよろしいですね?」
そんなふうに微笑みながら彼女は、パステルトーンの花を選んでくれる。
紅あわい冬ばら、ばらの赤い実、白いクリスマスローズ、雪柳。きれいにまとめて、リボンをかけてくれる。
優しい雰囲気のクリスマスの花束、きっと母は喜ぶだろう。うれしく眺めて、ふと周太は気がついた。
手際よく花をまとめていく彼女の目線が、ときおり英二へ密やかに向けられている。
そんな彼女の微笑は微かな艶をふくんできれいだった。
…あ、
きりっと周太の胸が痛んだ。
その艶の意味が今の自分にはもう解るから。
英二を想う自分の顔が窓や鏡に映るとき、いつも同じような艶を自分の瞳に見つめているから。
…きっと英二を、見惚れている、よね
そっと心つぶやいた言葉の、痛いような熱いような感覚に迫り上げられて周太はちいさな吐息をついた。
ほんとうは少しだけ彼女が羨ましいから、自分の心の言葉に傷ついた。
だってほんとうは、すごく哀しいけれど本当は…もし自分が女性だったら?そう考えたこと本当はあるから。
もし女性だったら英二の子供を産んであげられる、そして温かい家庭を贈ってあげられる。
そんな「普通の幸せ」で英二を温めてあげられる。
けれど自分は英二と同じ男で、それは出来ない望みだった。
このことを想うとき、いつも哀しくなる。だって自分は英二の「普通の幸せ」の為に何をしてあげられるの?
…でも、離れるなんて出来ない
もう愛してしまった、自分の全てを懸けて。
だから今更もう離れるなんてできない、だって自分の全てを英二に渡してしまったから。
きっと離れたら自分は立っていられない、それに覚悟だってとっくにしてしまっている。
あの「初めての夜」卒業式の夜と、初雪の夜と2度の覚悟で自分も選んだ。
そのほかの瞬間も何度も望まれて自分も選んで、自分の隣に英二が立つことを許してしまった、だから自分も逃げたくない。
けれどいま「わがまま」を告げることには迷いを抱いている―自分から望むことは許されるのだろうか?
「お待たせ、周太」
名前を呼ばれて目を上げると、きれいな笑顔の英二が花束と佇んでいた。
薄紅と白と、霜まとうような緑の葉が美しい花々を抱えて、おだやかに英二は微笑んでくれる。
そうして花を抱いて立つ端正な長身の姿は、やさしくて華やかで明るくきれいで。
そんな英二に色んな視線の賞賛がふるのが自分にはわかる、心惹きつける輝きは隠れないから。
英二は生来の美貌だけでも人を惹きつける。
そして今の英二は素直な自身のままに、山に生きる想いに輝いている。
だってもう英二は憧れ努力し掴んだ、山ヤの誇らかな自由に生き始めているから。
そんな誇らかな自由のまばゆさが端正な美貌を明るませて、どうしたって心惹いてしまう。
…きれいなひと、
そんなひとをこの自分が、自分の隣に求めて繋ぎとめて良いの?
そんなふうに立ち止まってしまう、こんなふうに衆目ふる英二を見ていると。
だって自分は危険を選ぶ道にいる、そして男で、子供も家庭も贈れない。
それなのに、こんな美しいひとの幸せのために何が自分にできるというの?
こんな自分に、このひとを繋ぎとめる資格なんてあるの?
そんな哀しい自責が心を痛ませる、今だって本当は涙を心と瞳の深くに止めている。
もう2度も覚悟した、それでも哀しい自責は止んではくれない。
きっと愛するからこそ、想いが深まるからこそ哀しみも深くなる。
だって愛するほどに唯ひとつの願いが強くなる、
―このひとに本当に幸せになってほしい
そんな想いに幸せを贈りたくて何かする、そのたびに喜ばれて幸せな笑顔を見せてくれる。
そんな笑顔がうれしくて、温かな幸せに自分もくるまれて、見つめていたいと願ってしまう。
そうして見つめるたびにまた、このひとの幸せを祈るなか哀しい自責も痛みだす。
いつもそう、温かな幸せと哀しい自責が織り合わさって心を深く涙がわきおこる。それが苦しくて、痛い。
それでも離れられなくて、きれいな笑顔を見つめていたくて、この隣に佇んでしまう。
けれど英二は衆目なんて気にしない。
いつもそう、雲取山でも新宿でも変わらずに、ただ自分だけを見つめてくれる。
「これさ、お母さん喜んでくれるかな?」
この花束どう思う?そんなふうに英二は目で訊いてくれる。
ほらこんなふうに、英二は自分を想って母まで大切にしてくれる。
こんなに想ってくれる英二を自分は、拒絶することなんて出来ない。こんな一途な想いを自分は壊せない。
どんなに何度も心を深く涙がわきおこるとしても、苦しくて痛くても。
だって知っている。美しい心も体も時間も全てかけて、英二は自分だけを見つめてくれること。
どんなに逃げても強く掴まれて、いつも離れられなかった。
だから本当は知っている、あの美しい最高のクライマーですら英二の想いは掴めない。
それくらい英二は全てを懸けて自分だけを見つめ続けてくれる。だから自分は想いに応えたい。
そして本当は知っている、どうしたら想いに応えられるか?
さあ瞳、この幸せな想いに微笑んで?
さあ唇、くれる温もり幸せに想いを言葉にして?
この心に抱いた1つの勇気よ、想いを伝える強さを自分に与えて?
「ん、…母にまで、ありがとう…すごくね、うれしい」
ほら、告げられた。
告げて見上げる英二が幸せそうに、きれいに笑ってくれる。
きれいに微笑んで右掌を長い指の左掌に繋いで、コートのポケットに仕舞ってくれた。
そのままコンコースの片隅へと周太を連れて英二は微笑んだ。
「おいで、周太」
きれいに笑って英二は、抱えた花束の隣に周太を惹きこんだ。
花の香が周太の頬を撫でる、花束と一緒に抱えられて周太は英二を見上げた。
どうしたの、英二?そう目だけで訊いた唇に、そっと熱い唇が重ねあわされる。
ふっと花の香が唇に誘われて周太の唇へふれはいった。
― 逢いたかった、
花の香と想いが重ねた唇から忍び込む。
おだやかで清楚な冬ばらの香、ふれる熱い唇の想い、抱きしめてくれる腕の力。
その全てから英二の想いがあふれて周太の心を浚いこんだ。
― 逢いたかった、
ずっと逢いたかった、ずっと一緒にいたいんだ
ふれたかった抱きしめたかった、もっと温もりを通わせたい
恋しかった募る想い苦しかった、いつも想ってる愛しているんだ
ほんとうに?英二…そんな小さな想いが重なる唇へ昇りそうになる。
ほんとうに自分のことを求めているの?どうしてそんなに自分なの?
いまこうして伝わる英二の想いが苦しい、しあわせな想い誘われる分だけ痛くなる。
だって幸せな分だけ自分は自責に苦しくなる、英二の隣でいる幸せと自責の狭間が本当はもう辛いから。
―だからもっと愛してよ?俺をもっと想ってよ、もっと俺のこと掴んで愛して
もうそんなに求めないで?
もう苦しい、愛する分だけ強くなる自責に壊れてしまうから。
愛するほど願う「英二の幸せ」それを壊すのが自分の存在だと思いしらされてしまうから。
けれど拒絶もできない傷つけたくなくて。でも苦しい、これ以上もっと想うなんて出来ない。
…もう無理かもしれない
そんな想いに周太は少し英二の体から離れようとした。
けれど長い指が髪をからめて惹きよせて、周太を深く抱きこんだ。
そして重ねた唇のはざまで、微かな音無い声に英二が「想い」を囁いてくれた。
「― 幸せは「あなたの隣」だけだから…ずっと俺だけのものになって俺の帰る場所でいて?―」
幸せはあなたの隣だけ― ふれる唇から、強い腕から、抱きとめる胸の鼓動から、長い指から。
ひとつひとつから想いが伝わって、心を深くわきおこる涙へと英二の想いが融けていく。
そして英二の想いが周太の心響かせていく、ただ一途きれいな想いが届いてしまう。
ほんとうに?そんなふうに訊くことすらもう出来ない、きれいな一途な英二の想い。
…この想いを拒めない、
きれいな一途な英二の想いに涙ひとすじ、周太の瞳からこぼれた。
…この想い全て、守って応えてしまいたい
ほんとうはすこし迷っていた。
自分がクライマーウォッチを英二に渡すこと、そして英二の時計を自分が贈られ嵌めること。
クライマーウォッチなら英二は常に身に着けて最高峰にだって連れて行く。
そして時間も高度も方位も全てをその時計で見る、そうして見るたび自分を想い出させてしまいたい。
そんなふうに英二のこれからの時間全てを、自分への想いで埋めさせて、英二の時間全てを独り占めしたい。
そして。
いま英二が嵌めているクライマーウォッチは、英二の人生で大切な時間と想いを刻んだ時計。
それを自分が腕に嵌めて英二の大切な時間と想いを、自分が独り占めして見つめたい。
この父の時計を外して英二の時計をしたい。そして英二に一緒に父の想いを抱き留めてほしい
そんな意味を持ってしまう「クライマーウォッチの交換」これを自分が望んでいいのか?
そうして自分が英二の過去と未来と、すべての時間と想いを独り占めしていいのか?
そんなふうに迷っていた。
だって英二は本当に美しくなってしまった、この逢えなかった1ヶ月と少しの間なおさらに。
大人の男として山ヤとして美しくなった、山岳救助に立つ警察官の日々と「山」に生きる想いが英二を輝かせた。
そして英二は選ばれた、あの美しい最高のクライマーと最高峰へ立つ山ヤの美しい夢に望まれてしまった。
だから自分は迷い始めてしまった。
そんな美しい英二には、自分の隣よりもっと相応しい場所があるかもしれない?
そんな迷いと悲しみが心のどこか痛み始めていた。
本当に愛する唯ひとり、だからこそ本当に幸せになってほしくて、迷っていた。
…でも、もう、迷ってはいけない、ね?
もう今このときに、英二の想いを自分はしってしまった。
この想いの全てに応えられるのは自分だけ。
この花の香と強い腕に抱かれて今、熱い唇の想いに知らされた。
―もし運命があるなら、この美しいひとが「運命」
そんな静かな確信と決意が、心の深くわきおこる涙すら呑みこんでいく。
だから想う「運命なら従えばいい」そして唯まっすぐ見つめればいい、このひとの想いだけを。
花の香の翳、重ねられた熱い唇の想い。こんなに美しい想いを伝えてくれるひと、自分こそが守りたい。
たとえ誰に謗られても悲しませても、この想いのひとを守りたい。
きっとこれからも自責は痛み自分は苦しむだろう、それでも求めに応えたい。
もう自分は初雪の夜に、この美しい隣の幸せの為だけに生きると決めている。
そして抱いた1つの勇気のままに告げればいい。
だから今日は自分から想いを告げる。
この隣の時間を受けとる願いを告げて、生涯の約束を結んでもう逃げない。
― きみを愛している 幸せは、きみと一緒にしか見つけられない
そっと静かに熱い唇が離れていく。
離れていく熱、残される花の香。そして心刻まれた「決意」に静かに周太は微笑んだ。
静かに離れると熱のこされた周太の顔を見つめて、きれいに英二は微笑んだ。
「きれいだね、周太は」
もし自分が、きれいなら。それはいま、この瞬間に心刻まれた1つの決意のため。
そんな想いに微笑んで、でも気恥ずかしさに周太は顔赤らめて応えた。
「…はずかしい、…でも、ありがとう」
ほんとうに「息をするごとに」自分は変わっていく。
この隣への想い1つに、1つの勇気を抱いて1つの決意を刻んだ。
そうして少しでも多く幸せな笑顔で充たしたい、この隣が幸せだと心から、きれいな笑顔でいるように。
今日の実家は静かな雪の梢に佇んでいた。
どの木の枝も雪に折れていないらしい、ほっとして周太は微笑んだ。
この間すこし剪定しておいて良かった、もし雪の重みで折れたら可哀そうだった。
みまわす庭の花たちも雪に傷められてはいない、冷たい雪に冬の花は凛々しい立姿を見せてくれる。
…自分もあんなふうに、立っていたい
そっと微笑んで周太は踏んでいく飛び石へと目を移した。
庭をぬけ玄関へ続く飛び石は雪を掃き清めてある、母は朝忙しいだろうに気遣ってくれた。
そんな母の想いに周太はそっと感謝に微笑んだ。
そうして玄関の前に立つと、なつかしそうに微笑んで英二は周太に訊いてくれた。
「ね、周太?俺が鍵を開けてもいい?」
訊きながら英二は喉元にふれた、その指先には黒い革紐がふれている。
その紐の先には元は父が使っていた合鍵が結ばれている、きっと遣ってもらえたら父も喜ぶだろう。
周太は微笑んで穏やかにうなずいた。
「ん。…英二が開けてあげて?…きっとね、喜ぶから」
「じゃあ、周太?『初めて』をこれからするよ、」
きれいに笑って英二は、革紐を首から外すと合鍵を持った。
ちいさな普通の合鍵、けれど英二は宝物にしてくれる父の遺品の合鍵。
すこし見つめてから英二は鍵穴へ静かに鍵をさしこんだ、そして扉はかちりと微かな音と一緒に開かれた。
「ほら、ちゃんと開けれたね。周太?」
うれしそうに英二が笑ってくれる、その笑顔が嬉しくて周太は静かに微笑んだ。
だって父の合鍵がまた再び遣われた、この合鍵は13年以上の時を経てまた役目を果たした。
どうが英二がこの合鍵で、ずっと無事に帰ってきてくれますように。そんな願いと一緒に周太は玄関をのぞきこんだ。
その玄関にはまだ母の靴はなかった。
…お母さん、やっぱり帰っていなかった、な
きっとまだ仕事が終わらないのだろう、スーパー経営会社の営業部門だから年末この時期の母は忙しい。
でも今日は旅行もあるし午前中に帰るって言っていたのにな。すこし周太は寂しく玄関先を見つめていた。
そんな周太の視界へ軽やかに英二が玄関へ踏み込んだ。
「周太、」
玄関の中から振り向いて、英二は周太に向き合った。
そして周太の瞳を見て英二は、きれいに笑って周太を迎えこんだ。
「おかえりなさい、周太」
ずっと自分は孤独だった。
いつも誰もいない家に帰って、そして母を迎えるために家事をする。
そうして少しでも多く母と話す時間を作りたくて、自分は家事を身につけた。
そんなふうに母を援けて、いつも自分が母を迎えて安らがせたかった。
だって警察官になったらもう、いつ再び一緒に暮らせるか解らなかったから。
けれど本当はいつも、誰かに笑って迎えてほしいと願って、心で泣いていた。
そして今、きれいな笑顔が玄関から自分を迎えてくれる。
「おかえり、周太?」
もういちど呼びかけられて、心に想いが熱を持っていく。
そんな心から想いあふれて瞳から涙が生まれてしまう。
…ね、英二?どうしていつも、わかるの?
そんなふうに微笑んだ周太の瞳から、ゆるやかに涙がおちた。
どうしていつもこんなふうに、幸せをくれるのだろう?
そんな想いに伝う温かな涙が唇こぼれて、そっと周太は微笑んだ。
「ん、…ただいま、英二」
きれいに笑って周太は「ただいま」を言った。
その言葉に微笑んで長い腕をのばすと、英二は周太を抱きしめて瞳覗き込んだ。
「ね、周太?」
名前を呼ばれて周太は英二を見上げた。
見上げた想いの先で、うれしそうに英二は笑って周太の唇へとキスをした。
「周太は俺の帰りを信じて、待っていてくれるだろ?
俺だってね、周太の帰る場所でいたいんだ。だから俺はね、ずっと周太を迎えて『おかえりなさい』って言いたいよ」
ずっと迎えてくれるの?
ほんとうに俺でいいの?ずっと迎えてくれるの?
そう出来たらほんとうに、どんなに幸せでうれしいだろう?
そんな願いが叶うならいい、いまも幸せが温かくて素直に周太は微笑んだ。
「…ん、ただいまも、言わせて?…いま俺ね、すごく幸せなんだ。…ありがとう、英二」
「周太が幸せだと俺、ほんと嬉しい。ね、周太?もうひとつの周太の部屋に入れてよ」
きれいな笑顔でねだってくれる、そのひとの想いがうれしくて幸せになる。
自分のもうひとつの部屋、自分には宝箱のような小部屋。そして父の記憶と想いが温い大切な小部屋。
あの部屋に英二の想いと記憶も温めたい、そして愛するひとの名残も宝箱の小部屋に納めたい。
そんな想いに周太は微笑んで英二にお願いをした。
「ん、入って?…英二にはね、…俺の部屋にね、座ってほしい」
磨きこまれた深い木肌の階段をあがって、周太は自室の扉を開いた。
その扉のむこうで頑丈な木梯子が、重厚な木造りの襖戸から階段状にきちんと架けられている。
その梯子を英二が見つめてくれる、周太は微笑んで話しかけた。
「それはね、…父がね、作ってくれたんだ」
「周太の父さんが?へえ、すごいな。こういうことも出来るんだ」
素直に褒めて笑ってくれる、本当に率直できれいな英二。
こんなふうに英二はいつも父のことを、真直ぐに見つめて憧れてくれる。
それが本当に嬉しくて、警察学校の寮で屋上でときおり父の話を英二だけにはした。
そのたびいつも素直に褒めてくれて「殉職した警察官」という枠には英二だけは執われないでいてくれた。
そんな英二の率直さが自分の心を開いて、隣にいることが自然になっていった。
だからいまも、この部屋に英二は入ってほしい。父の想いと記憶ごと自分を受けとめてほしい。
そして抱いている想いのままに、この部屋に英二の気配を残して見つめられるようにしたい。
そうしたら英二が最高峰に立つときも自分はこの部屋で待てるから。
そんな想いに周太は英二に微笑んだ。
「登って?英二、」
そう言って周太は鞄を置いて父の梯子を登った。
登った部屋は今日も明るい太陽に満ちている、穏やかな静謐が陽の光と佇んで温かい。
そっと立った窓辺からは雪の庭が見える、それから雪つもる屋根の白銀と青い空。
きれいだなと眺めた背中に、無垢材の床を踏む静かな音が聞こえて、ゆっくり周太は振り返った。
自分の宝箱の部屋に英二が立っている。
白い漆喰塗の天井と壁に木製のやさしい家具たち、そんな4畳半くらいの白とベージュの空間。
そこに愛するひとが佇んで、ゆっくり切長い目を動かして部屋を見てくれる。
その目をふっと天窓にとめ、それから周太を振り向いて英二は微笑んだ。
「周太?俺、この部屋がね、大好きだ」
天窓からは冬の陽光と空の青があざやかだった。
きっと英二も天窓の空を特に気に入ってくれた、そんな様子に周太は微笑んだ。
あの天窓は周太も好きだった、好きなものを同じように好んでくれる、それが幸せでうれしい。
そんな周太の隣へ英二は歩みよると、瞳を覗き込んで笑いかけてくれた。
「ね、周太。この部屋にあるんだろ?周太の採集帳」
「…ん、そう。見てくれるの?」
「周太がよかったら、見せてよ?」
ほら、ほんとうに自分の好きなものに興味を示してくれる。
うれしくて微笑んで周太は古い木製のトランクの前に座った。かちんと音をたて鍵をあけると、ゆっくり開いていく。
このトランクは周太の宝箱だった、中には幼いころの採集帳たちと2つの小さな宝物いれの木箱を納めてある。
周太の隣からトランクの中を見て、やさしく英二は微笑んだ。
「見ていい?」
「ん、」
周太がうなずくと英二は丁寧に採集帳を手にとってくれた。
長い指で開いてくれるページには、幼い頃から父と集めた葉や花たちがページに納まっている。
草花に添えたラベルには自分と父の筆跡、父はラテン語で学術名を書いてくれた。
そのラベルを見つめた切長い目が心から賞賛して、きれいに英二が微笑んだ。
「周太の父さん、すごく字がうまいな」
ほら、また父を褒めてくれる。
大好きな父を心から褒めて尊敬してくれる、うれしくて周太は微笑んだ。
またすこし父のことを話したいな、少し首傾げながら周太は英二に教えた。
「ん、…父はね、英文学科だったらしい。それでね、ラテン語とか得意だったみたい」
「ふうん、ほんとに博学なんだろうな。やっぱり周太の父さんって、かっこいいな」
「ん。父はね、かっこいいよ?」
ほら。いつものように父の話を聞いて、憧れが英二の目に見える。
こんな率直に父を見てもらえて嬉しい。そしてまた英二を好きになってしまう、こんな率直さが素敵だから。
こういう英二をずっと見ていたい、こうして隣で笑っていてほしい。
でもそろそろ昼ごはんの支度をしないといけない、そっと周太が立ち上がると英二が見上げてくれる。
そんな英二に微笑んで周太は、窓辺のロッキングチェアーを指さした。
「俺ね、昼ごはんの支度するね?…よかったら英二、あの椅子に座って、ゆっくりしていて?」
「周太、この椅子も周太の父さんが作った?」
そう、父が作ったもの。
ずいぶん昔に作られたらしいのに、今も頑丈できれいな木製のロッキングチェアー。
この椅子は自分のお気に入り、英二も気に入ってくれるだろうか?
「ん、そう…祖父の為にね、学生の頃に作ったらしい」
「おじいさんの為に?」
「ん、…この屋根裏部屋はね、元は祖父の書斎だったらしい。そのトランクも祖父のなんだ…あ、本棚もね、父が作ったらしい」
「へえ、すごいな周太の父さん、」
椅子、本棚、梯子、どれも頑丈だけれど繊細な雰囲気が周太は好きだ。
父はこういう手仕事が上手で庭のベンチも作った、そんなふうに家のあちこちに父の作品は佇んでいる。
この部屋の家具たちを見る英二の率直な想いがうれしい、そんな幸せに微笑んで周太は梯子へと歩きかけた。
「じゃあ、英二?ゆっくりしていてね、…あ、よかったら、父の書斎の本とか、読んで?」
そう背を向けかけた周太の後ろで、英二の気配が立ちあがった。
どうしたのかな?そう振り返りかけた周太を、そっと英二が背中から抱きしめてくれる。
その腕がほんの一瞬ふるえて、でも温かく力強く周太を抱き籠めていく。
「…あ、…英二?」
肩越しに見つめた英二の目が真直ぐ周太の瞳を見つめる。だから解ってしまった、きっと大切な話をする。ね、英二?
ほんとうはもう解っていた、この部屋でも英二は「決意」を話すだろうと。
そのために冬至の日、自分はこの部屋の掃除をして心の整理をした。あの日はそうして覚悟をして。
そんな想いに見つめる英二は、静かに周太へと訊いてくれた。
「周太、あらためて訊くよ?…俺は、最高峰へ登ってもいいかな?
最高のクライマーの最高のレスキューを務めて、最高峰から笑って周太に想いを告げたい。
そんなふうにさ、ずっと国村のね、生涯のアイザイレンパートナーを俺、やってもいいかな?」
ほらやっぱり、話してくれた。
そして本音がもう瞳からこぼれてしまう、だってここは宝箱の部屋だから素顔になってしまう。
そんな素顔の自分は涙が止められない。
だって本音は ― 離れたくない、独りは嫌、ずっと傍にいて?
けれどこれも本当の気持ち ― 想いのまま生きて輝いて幸せでいて、きれいな笑顔を見せてほしい
そして自分の心からの願いは、ずっと幸せに生きて、きれいな笑顔で笑っていて?
ぽとんと涙ひとつ、愛するひとの腕にこぼれおちた。
そんな自分の瞳を愛するひとが覗き込んでくれる、やさしい穏やかな意志の強い目で。
そんな優しい目で見つめられたら、素直になって涙を止められないのに?
「…英二、…帰って、きてくれるんでしょ…必ず、俺のとなりに…いつだって、どこからだって…だから、…信じてる」
ふるえる唇から想いがこぼれてしまう、想いに本音と決意と勇気がとけあっていく。
そしてこの美しいひとを愛する想いがまた深くなって、ひとつの勇気が強くなる。
ほんとうは不安で心配で怖い、そんな想いが尚更に自分に気づかせてしまう。
―もし運命があるなら、この美しいひとが「運命」
そんな静かな確信と決意に想う「運命なら従えばいい」そして真直ぐ見つめればいい。
このひとの想いだけを、自分の唯ひとつ愛する想いを見つめていればいい。
こんなに美しい夢と想いを伝えてくれるひと、自分こそが守りたい、どんな痛みがあったとしても逃げたくない。
もう自分は初雪の夜に、愛するひとの幸せの為だけに生きると決めている。
だからこの愛するひとの望みをただ、静かに受け留める1つの決意を抱けばいい
「うん、周太。絶対に俺は帰るよ、だから俺を信じて。そして…ありがとう、周太」
ほんとうに、信じさせて ― 抱きしめてくれるひとに周太は静かに向き合った。
そう見つめる想いのひとは真直ぐに瞳を見つめてくれる。
そして端正な口をほころばせて真直ぐな瞳のまま、想いの真中を周太に告げてくれた。
「愛してる、周太」
いちばん告げられたい想いを周太は告げられた。そして瞳を瞳で繋がれて、唇に唇でふれられた。
見つめる瞳が明るくて、ふれる唇が熱くて、抱かれる腕が力強い。
このひとの想いを自分は受け留めたい、そして自分がこの美しいひとを守りたい。
自分はまだ危険に生きていて、女性でもなくて、このひとに何も与えられないかもしれない。
それでも想いは真実で「いつか」このひとの幸せの為に全てを懸けて生きるから。
だからどうか許してください、このひとを隣に迎え帰る場所になることを。
そして抱いた1つの勇気のままに告げさせて?
この愛するひとの時間を受けとる願いを告げて、共に生きる生涯の約束を結ばせて?
そんな想いをこめて周太は英二の「約束のキス」を受けとめた。
そうして穏やかな温もりの静謐に、ふたつの想いは静かに佇んだ。
(to be continued)
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