Of coming ills. To piir me is allow’d
第85話 暮春 act.27-side story「陽はまた昇る」
まだ花は咲かない、奥多摩の森は。
「…は、」
息そっと白く煙る。
靄ゆるやかな森の底、雪さざめく葉擦れの音。
さらそら、ぱさん、結晶こぼれる冷気が頬に甘い。
「冬だな…、」
ほろ苦い甘い水融け匂う、細雪ふる音の香る。
昨日もいた雪懐、けれど昨日と今日は違う空。
それとも同じだろうか?ひとり英二は微笑んだ。
「…24時間も経ってないのにな?」
昨日の朝ここにいた、正確にはあの嶺の向こう。
峠ひとつ超えたら昨日がある、その感覚なにげなく仰ぐ。
―夜明は月だったのに今は雪か、風が動いてる…昨日の低気圧に今日の、
頬なぶる冷気の礫、ゆるやかに刺す点の零度。
肌ふれる湿度の凍える点描、めぐる銀嶺にジャケット脱ぐ。
Tシャツの肌すらり零度が立つ、正午の山気に登山ジャケットはおった。
ジャッ、
ファスナー噛む音に雪匂う。
あわい甘い冷気に運転席のドア鍵かけて、金属音かすかに響く。
雪やわらかな無音の世界、軽量ザック背負って不慣れ微笑んだ。
―プライベートで軽いとかないもんな、いつも重装備で、
休日なら高峰へ、より難易度を高く登りたい。
そんな願い駈けた時間が沁みる背中、昨日と違う荷重なんだか可笑しい。
微笑んでアイゼン履く手元やわらかな結晶ふる、この雪は君に降るのだろうか?
『この手紙に美代ちゃんはね、英二と幸せになることだねって周太くんに笑ったのよ?』
高速道路の涯の海、祖母が言ったこと。
あの声が告げたのは真実だろうか?
『斗貴子さんみたいにはできない私だけど、あなたを愛してる、』
それなら祖母は、どうして自分から君を取りあげる?
『英二も周太くんの道を肯定できるわ、愛しているなら、彼の自由も愛せる、』
祖母の声がめぐる、ちいさな雪が頬ふれる。
零度しずかに肌を冷ます、このまま脳を醒ましてほしい。
「…わからないよ、周太?」
唇こぼれる名前、君だ。
こんなにも呼びたくて、逢いたい。
君の行先たぶん一つだけ、けれど今ここでアイゼンを履いている。
『今日、午前中になんとかして周太を捉まえな?でなきゃ一生後悔するだろね、』
ザイルパートナーが教えてくれた、でも午前が終わる。
もう刻限は過ぎてゆく、それでも君に逢えるだろうか?
―光一はなにか知ってる、言ってくれないけど、
アイゼンのベルト締上げて、左掌にぶく痛い。
巻かれた包帯に声が映る、あの眼は信じていい?
『それでも英二、俺はおまえと山に登るよ?』
山に生きてくれる、自分と。
そう告げた眼は底抜けに明るい、声も澄んでいた。
いつも明朗なザイルパートナー、あの笑顔も今この山里どこかにいる。
その場所たぶん解っていて、その意味が怖くてどうしようもなくてアイゼンを履く。けれど、
『おまえの理想や夢で煮詰めるんじゃない、そのまんまをキッチリ見て聴くんだよ?』
まっすぐ見つめて言ってくれた、あの眼が声が真実なら?
それなら、そのままに祖母の言葉を見て聴くとき解るだろうか。
それから、あの花屋の女主人。
『尋ね人を探すなら、そのひとが帰る場所、』
静かに澄んだ涼やかな瞳、おだやかに澄んだ静かな声。
たいして知らない相手、そのくせ懐かしいような惹きこむ眼。
『あなたが帰る場所は、あるの?』
あの眼に声に、自分は逃げた。
そうして君の記憶の海へ、それでも逢えなくて森にいる。
「周太…俺、どうしたらいい?」
逢いたい、
あいたい逢いたい、君の眼を見たい。
君を見つめて告げたい、あふれて想い迸る。
そうしてほら、ザイルパートナーの声が響く。
『悲劇のヒーローぶってんの?ブッサイクだねえ、』
ああ光一、そのとおりだ?
『ソンナに悲劇のヒーローしたいならボロクズになっちまえよ?』
そのとおりだ光一、それどころかボロクズ以下だ。
それなのに光一?どうしてあんなこと言ったんだ?
“それでも英二、俺はおまえと山に登るよ”
あの言葉もし本当なら、すこし息つける。
「…俺でも必要なら、さ?」
想い零れて一歩、アイゼンが雪を嚙む。
歩きだす白銀の森、ゲイターざくり埋もれる。
零度じわり辿らす三月の森、また言われて響く。
『おまえも電話すりゃイイね、藤岡に教えてもらったんだろ?』
そのとおりだ、でも怖い。
―怖いんだ俺は、架けて出てもらえなかったらって、
怖い、君の拒絶が怖い。
それでも踏みだせずいられないだろう、だって後悔する。
どうしても怖い、それでも逢いたくて、どこより大切な場所へ今、帰る。
(to be continued)
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英二24歳3月下旬
第85話 暮春 act.27-side story「陽はまた昇る」
まだ花は咲かない、奥多摩の森は。
「…は、」
息そっと白く煙る。
靄ゆるやかな森の底、雪さざめく葉擦れの音。
さらそら、ぱさん、結晶こぼれる冷気が頬に甘い。
「冬だな…、」
ほろ苦い甘い水融け匂う、細雪ふる音の香る。
昨日もいた雪懐、けれど昨日と今日は違う空。
それとも同じだろうか?ひとり英二は微笑んだ。
「…24時間も経ってないのにな?」
昨日の朝ここにいた、正確にはあの嶺の向こう。
峠ひとつ超えたら昨日がある、その感覚なにげなく仰ぐ。
―夜明は月だったのに今は雪か、風が動いてる…昨日の低気圧に今日の、
頬なぶる冷気の礫、ゆるやかに刺す点の零度。
肌ふれる湿度の凍える点描、めぐる銀嶺にジャケット脱ぐ。
Tシャツの肌すらり零度が立つ、正午の山気に登山ジャケットはおった。
ジャッ、
ファスナー噛む音に雪匂う。
あわい甘い冷気に運転席のドア鍵かけて、金属音かすかに響く。
雪やわらかな無音の世界、軽量ザック背負って不慣れ微笑んだ。
―プライベートで軽いとかないもんな、いつも重装備で、
休日なら高峰へ、より難易度を高く登りたい。
そんな願い駈けた時間が沁みる背中、昨日と違う荷重なんだか可笑しい。
微笑んでアイゼン履く手元やわらかな結晶ふる、この雪は君に降るのだろうか?
『この手紙に美代ちゃんはね、英二と幸せになることだねって周太くんに笑ったのよ?』
高速道路の涯の海、祖母が言ったこと。
あの声が告げたのは真実だろうか?
『斗貴子さんみたいにはできない私だけど、あなたを愛してる、』
それなら祖母は、どうして自分から君を取りあげる?
『英二も周太くんの道を肯定できるわ、愛しているなら、彼の自由も愛せる、』
祖母の声がめぐる、ちいさな雪が頬ふれる。
零度しずかに肌を冷ます、このまま脳を醒ましてほしい。
「…わからないよ、周太?」
唇こぼれる名前、君だ。
こんなにも呼びたくて、逢いたい。
君の行先たぶん一つだけ、けれど今ここでアイゼンを履いている。
『今日、午前中になんとかして周太を捉まえな?でなきゃ一生後悔するだろね、』
ザイルパートナーが教えてくれた、でも午前が終わる。
もう刻限は過ぎてゆく、それでも君に逢えるだろうか?
―光一はなにか知ってる、言ってくれないけど、
アイゼンのベルト締上げて、左掌にぶく痛い。
巻かれた包帯に声が映る、あの眼は信じていい?
『それでも英二、俺はおまえと山に登るよ?』
山に生きてくれる、自分と。
そう告げた眼は底抜けに明るい、声も澄んでいた。
いつも明朗なザイルパートナー、あの笑顔も今この山里どこかにいる。
その場所たぶん解っていて、その意味が怖くてどうしようもなくてアイゼンを履く。けれど、
『おまえの理想や夢で煮詰めるんじゃない、そのまんまをキッチリ見て聴くんだよ?』
まっすぐ見つめて言ってくれた、あの眼が声が真実なら?
それなら、そのままに祖母の言葉を見て聴くとき解るだろうか。
それから、あの花屋の女主人。
『尋ね人を探すなら、そのひとが帰る場所、』
静かに澄んだ涼やかな瞳、おだやかに澄んだ静かな声。
たいして知らない相手、そのくせ懐かしいような惹きこむ眼。
『あなたが帰る場所は、あるの?』
あの眼に声に、自分は逃げた。
そうして君の記憶の海へ、それでも逢えなくて森にいる。
「周太…俺、どうしたらいい?」
逢いたい、
あいたい逢いたい、君の眼を見たい。
君を見つめて告げたい、あふれて想い迸る。
そうしてほら、ザイルパートナーの声が響く。
『悲劇のヒーローぶってんの?ブッサイクだねえ、』
ああ光一、そのとおりだ?
『ソンナに悲劇のヒーローしたいならボロクズになっちまえよ?』
そのとおりだ光一、それどころかボロクズ以下だ。
それなのに光一?どうしてあんなこと言ったんだ?
“それでも英二、俺はおまえと山に登るよ”
あの言葉もし本当なら、すこし息つける。
「…俺でも必要なら、さ?」
想い零れて一歩、アイゼンが雪を嚙む。
歩きだす白銀の森、ゲイターざくり埋もれる。
零度じわり辿らす三月の森、また言われて響く。
『おまえも電話すりゃイイね、藤岡に教えてもらったんだろ?』
そのとおりだ、でも怖い。
―怖いんだ俺は、架けて出てもらえなかったらって、
怖い、君の拒絶が怖い。
それでも踏みだせずいられないだろう、だって後悔する。
どうしても怖い、それでも逢いたくて、どこより大切な場所へ今、帰る。
(to be continued)
【引用詩文:John Donne「HOLY SONNETS:DIVINE MEDITATIONS」】
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