「開」 晨に立って今、
第59話 初嵐 side K2 act.6
深い眠りの森から意識が浮上する。
ゆるやかに披かれる視界に天井が映りだす。
薄明が灰色の闇を白く変えていく、もう夜が明けていく。
いま太陽が呼びだす今日に微笑んで、煙草の吐息と森の香から静かに脱け出した。
「…英二、ありがとね?」
そっと呼びかけ笑いかける、その想いの真中に白皙の貌は瞳を瞑る。
濃やかな睫に陰翳は鎮まり、あざやかな眉にダークブラウンの髪が艶めく。
この寝顔をずっと見ていたいとグリンデルワルトでも願った、そして今も本当は願いたい。
けれどもう今日が来た、今現れる刻限に笑ってベッドから脱け出して、けれど右手首を温もりが掴んだ。
「光一、約束違反だよ?」
綺麗な低い声の微笑みが、心臓ごと心を掴む。
いま言われた約束にアイガー北壁の暁が蘇える、あの白いベッドで告げた言葉が自分に刺さる。
それでも呼吸ひとつに微笑んで、シャツの肩越しにアンザイレンパートナーへと笑いかけた。
「ちゃんと俺は声掛けたね、でもオマエが起きなかったんだよ?」
「あんな小さい声で起こすつもりだった?」
低く艶ある声が笑って、右手離さずに体を起こし隣に座る。
ふれそうな肩に温もりが透かす、その体温に微笑んで見つめ返した。
「寮の壁は薄いからね、ご近所迷惑はダメだろ?」
「じゃあキスは良い?」
願いに微笑んだ切長い目が、穏やかに瞳を覗きこむ。
いまキスをして良いのか解らない、だって今日は七機で周太と会うのに?
「前に言ったよね?周太の気配があるとこじゃ、俺たちは恋人じゃないって。今日はもう会うんだしさ、」
「ここは奥多摩だよ、」
綺麗な低い声が遮って、掴まれた右手首が動けない。
力強い長い指の掌、その感触に昨夜を泣いた現実と、諦めた夢がまた惑いそうになる。
雅樹も指が長い綺麗な手だった、その手とよく似た温もりが手首から心を滲ませて、ふっと瞳から熱こぼれた。
「あ…」
頬伝う熱に声おちる、こんなことだけで自分が泣くなんて?
いま手首を掴みキスねだる人は俤が似て、けれど全く違う香が白皙の肌くゆらせる。
この現実と夢のはざま竦んでしまう心、その鎖を絶つように綺麗な深い声が問いかけた。
「光一、どうして昨夜はそのシャツ着てきたんだ?それ、俺がアイガーであげたヤツだよな、」
指摘の言葉に、左手が衿元そっと掴んでしまう。
このシャツをなぜ昨夜も着てきたのか?そんな問いは雅樹なら言わなくても解かるはず。
こんなにも「違う」と昨夜から英二の全てが自己主張する、それが安堵になって光一は微笑んだ。
「おまえの匂い、少しでもつけたくってさ。なんか落着けて好きなんだよね、森みたいな匂いでさ、」
正直な想い告げて笑いかける、その隣から腕が伸ばされ抱きしめてくれる。
深い森の香くるまれていく肩、頬、視界、そして煙草の吐息が静かに微笑んだ。
「そういうの、ちゃんと言ってくれよ?俺じゃ気づけないこと一杯あるけど、ひとつでも多く叶えてやりたいって想ってるよ?」
「うん、ありがとね、」
素直に笑って衿元から左手を離し、カットソーの背中へ腕を回す。
ふれていく胸から鼓動が鼓動に響く、その共鳴に時と世界を同じに出来ると喜びが微笑む。
嬉しいまま顔を載せた肩は強く頼もしい、ほっと息を吐いた感覚に右手首は解放されて英二が笑ってくれた。
「光一、ごめんな?俺は雅樹さんみたいには出来ないよ、でも本気で大切に想ってる。だから言葉にして言ってほしいよ、」
雅樹のようには出来ない、そんな言葉に心透かされたよう。
けれど英二ならこんなことは当然気づくだろう、こんなに傍に居て気付かないほど鈍くない。
この言葉を英二が告げてくれる想いが心軋ませる、けれど雅樹を想うことを止めるなんて出来るはずもない。
その想い正直に微笑んで、真直ぐアンザイレンパートナーの瞳を見つめ光一は綺麗に笑った。
「ありがとね、英二。でも俺、今までもカナリ遠慮なくぶっちゃけてるけど、」
「もっと遠慮なくしてよ、北壁でも言ったよな?」
綺麗な笑顔ほころばせ、そっと体を離していく。
ベッドの上に座り向かい合って、実直な眼差しに光一を映しながら笑ってくれた。
「俺は周太を一番に考えてる、でも俺が生きる世界の全ては光一だ。だから山でも警察でもパートナーだろ?もうずっと一緒に生きるんだ、
だから我儘も何だって俺には言ってほしい、雅樹さんみたいに出来ないけど、俺が出来る精一杯で応えるから。信じて、何でも言ってくれ、」
こんなにも真直ぐ告げてくれる、だから自分はこの男を信じた。
甘ったるい同調を言わないでくれる、ただ真意だけを真直ぐ自分に言ってくれる。
だからこそアンザイレンパートナーに望んでしまう、それでも自分は秘密と嘘を抱え続けていく。
―ごめんね、英二。おまえに言えないこと多いんだよ…雅樹さんとのこと言えないんだ、だから周太との本当も言えない、
英二は、この世界では自分の唯ひとり。
英二は共に命を生きてくれる唯一のパートナー、けれど自分は真実に黙秘する。
今、生きる人間の中で誰より大切になる相手、きっと祖父母より後藤より離れたくない人になる。
そんな相手にすら自分は嘘つきになれる、雅樹の真実を護るためなら裏切りも何でも出来てしまう。
この想いは英二も周太に対して抱いている、そう互いに解る自分たちは互いに赦すのだろう。
―英二、おまえも周太の為には俺を裏切るね?だから遠慮なく俺は嘘吐きでいるよ、これが俺の我儘だ、
心の想いだけで呼びかけ、声にしない約束を問いかける。
この真実を護らす裏切りを信じて、唯ひとりのパートナーへ綺麗に笑った。
「うん、信じてるよ?だから一ヶ月後に追っかけて来てね、俺の別嬪パートナー?」
信じてる、自分の後を追って来てくれること。
自分たちの間には嘘がたくさん挟まっていく、けれど全てが真実の為と赦してほしい。
この赦しが自分の最大の甘え、どうか嘘にある真実を信じて全てを受けとめ傍に居て?
そう願い微笑んでベッドから立ちあがる、その手を掴まないで綺麗な低い声は微笑んだ。
「追いかけるよ、今までと同じにずっと。だから安心して七機で待ってろよ?」
笑いかけてくれる切長い目は深く、きらめく華が熱い。
こんな直情的な熱は「英二」だ、そう認めるまま素直に笑って光一は扉を開いた。
かたん…
静かに閉じる音が響いて、ほっと溜息こぼれおちる。
そのまま歩きだす廊下、窓から暁の光は射して行く先を明るます。
まだ静謐にある朝を歩きながら、すこし前の時間に信頼が微笑んだ。
―英二、キスしないでくれたね
キスを拒んだのは、今が2度目だ。
1度目は7月初めに英二のベッドでだった、あのとき初めて告白された。
そんな想い出たちが10ヶ月間に英二と幾つ生まれたろう?
―数えきれないね、ほんとに…ありがとね、英二?
微笑んで朝陽を透りぬけ廊下を歩いて行く。
そのまま洗面室へと入ると冷水に顔を洗い、意識をクリアに覚ましていく。
頬と額の冷えた感覚に蛇口を止めて、濡れた顔のまま踵返した回廊の暁に自室の扉が見える。
―この部屋を開くの、あと2回だね?
いま開いたらあと2回、朝食の後と挨拶回りの後だけだ。
もう何度も開錠した扉とも今日で別れる、その惜別に笑って扉を開いた。
静かに鍵掛けるとタオルで顔拭って息を吐き、この身を英二のシャツから脱いだ。
素肌に朝の冷気ふれさせながらハンガーを外し、ダークスーツの姿へと変えていく。
ネクタイを締め、ワックスを手に軽く髪をセットしていく鏡の中、自分の貌は変化する。
「もう職務中は、ずっとこの貌だね?」
鏡の自分に愉快を笑って、脱いだ服たちを手早く荷物にまとめる。
全てをトランクに納めこんで今、4年半の部屋は全て空っぽになった。
ここで山ヤの警察官に自分はなった、その感謝が空間を見つめて綺麗に笑った。
「ホント世話になったね、ありがとう、」
この場所で幾度、泣いて笑って時間と想いに向きあったろう?
その記憶全てへの感謝に微笑んで、スーツ姿で扉を開いた。
手続きの全てが終わり、登山ザックとトランクひとつ携え廊下を行く。
午前中の明るい窓には見慣れた風景が映る、この全てが午後にはもう遠い。
今こうして歩く瞬間すら懐かしむ時が来るだろうか?そんな想い笑って診察室をノックした。
「先生、失礼します。英二お待たせ、アレ?」
「おう、待っとったぞ、」
入った白い部屋、二人の白衣姿の前から救助隊服姿が振向いてくれる。
その深い眼差しの笑顔が嬉しくて、荷物を置きながら光一は笑った。
「なんですか、副隊長?ココでサボりってコト?」
「おまえさんを待っとったんだよ、吉村の呼び出しついでだがなあ、」
昔馴染みの笑顔ほころばせ迎えてくれる、その隣で白皙の貌が穏やかに微笑む。
長い指のマグカップをテーブルに置くと、長身の白衣姿は立ちあがってくれた。
「光一、コーヒー飲んでくだろ?」
「うん、ありがとね、」
座りながら笑いかけた先、切長い目は穏やかに微笑んでくれる。
いつものよう流し台へ立った白衣の後姿に、やっぱり泣けない涙が心に笑った。
―白衣なんか着ちゃうと余計、似てるよね…後姿の雰囲気とか、ほんとに
あの背中が懐かしい、幼い日の幸福だったクリスマスイヴの記憶を見てしまう。
あのとき初めて見た白衣姿の雅樹はまぶしくて、本当に天使のよう明るく輝いて見えた。
もう17年過ぎてしまった時間の姿、それなのに今も笑顔は綺麗なままに心で咲いてくれる。
「似てるでしょう?雅樹と、」
静かな声に鼓動が撃たれ、光一は振向いた。
その視線をロマンスグレーは受けとめて、涼やかな切長の目が微笑んだ。
「ここで手伝って頂く時はね、きちんとした格好でいつも来てくれるんです。だから服を汚したらいけないと思って白衣を用意しました。
だけど、あの姿を見ていると不思議な気分になります。こんなこと失礼かなって想うんですけど、本当に雅樹が一緒に仕事してると感じて、」
静かな言葉は今、初めて吉村の口から聞く。
ずっと雅樹の話題を光一にはしないでくれた、けれど今、最後の日に話してくれる。
この惜別への感謝に笑って、デスクに佇んだ写真立ての笑顔を見つめ応えた。
「ホントに雅樹さん、ここにも居るんじゃないですか?奥多摩で開業医になってね、嘱託の警察医もするって言ってましたから、」
幸福だった7歳のクリスマス、あの数日後に雅樹はそう話してくれた。
青梅署の警察医が輪番制だった当時は不備も多かった、この問題に雅樹は率先しようとしていた。
そうした夢を雅樹の父と兄が叶えてくれた、その感謝に笑った先でロマンスグレーの瞳が微笑んだ。
「そうでしたか、雅樹、光一くんには話してたんですね?…良かったのかな、私は、」
ひとりごとのよう想いを言葉に、医師はデスクを振り向いた。
写真立てには蒼い登山ウェア姿で雅樹は笑う、どこまでも明るく穏やかな笑顔に後藤が笑ってくれた。
「ああ、雅樹くんの夢を父親が叶えたんだ、きっと喜んでるだろうよ?でも光一の話を聴くと写真、白衣姿の方が良いかい?」
「どんな格好でも大丈夫だね。いつでも雅樹さんは山ヤの医者だから、服装は関係ありませんよ、」
笑って答えた前に、熱い芳香がテーブルに置かれる。
目で「どうぞ?」と勧めて英二は踵を返し、パソコンデスクの前に座った。
たぶん後藤と吉村と話す時間を気遣ってくれた、嬉しく微笑んだ前を昇らす湯気にふと連想して大先輩に質問をした。
「副隊長。吉村先生の呼びだしって、もしかして禁煙命令ですか?」
「お、言う前にバレちゃったなあ?」
困ったよう笑って、節くれた手はマグカップを抱え込む。
その手に皺の刻みを見て後藤の年齢に気付かされる、この年齢が光一とのアンザイレンも阻んだ。
もう何を言われても仕方のない年齢を後藤は迎える、その現実ほろ苦い向こうから警視庁山岳会のトップは低く笑った。
「俺は肺をやっちまったらしいよ?齢だから仕方ないがね、三大北壁はもう無理だろうよ。冬富士も厳しいんだろ?」
最後の問いかけに深い目は吉村を見、その視線に切長い目が頷いた。
もう後藤がビッグウォールの登攀が出来ない?この事実が信じられずに光一は口を開いた。
「嘘だよね?」
嘘に決まっている、そんなこと。
確かに後藤は50歳も半ば過ぎる、それでも体力と技術に衰えなんて見えない。
それなのに冬富士にもアタックできない筈がない、そう思うままに光一は続けた。
「北壁無理って、冬富士もダメって、それじゃあ6千峰も無理ってコトだろ?最強の山ヤの警察官がソンナの、嘘だね?」
日本で最強の山岳警察は富山県警と言われている、けれど後藤が最高だと誰もが認めている。
トップクライマーだった父もザイルを組んだ蒔田をパートナーにする、国内最高の山の警察官。
アルパインクライミングでは国内ファイナリストを謳われてきた、そんな後藤がもう6千峰にも登れない?
「嘘だよね、吉村先生?今日が俺、最終日だからって二人で悪戯の仕返しなんだろ?ね、そうだよね、」
職場なのに敬語も忘れて訴えてしまう、こんなこと信じたくない。
けれど篤実な医師は光一を見つめ、そして静かに首を振った。
「本当です、全て。後藤さんには来月、入院して再検査を受けてもらう予定です。今日はそのお話に来ていただきました、」
現実が、大きく鼓動を撃つ。
後藤が検査入院をする、それが自分の進路に及ぼす影響を知っている。
もう警察学校に入る時から覚悟している「明日」に、呼吸ひとつで光一は微笑んだ。
「解りました、このこと宮田は知っていますか?」
「きちんとは話していません、でもカルテ整理の時に気づいてはいるようです、」
穏やかな声が微笑んで、切長い目が部屋の奥を見る。
そこでは白衣の広い背中がパソコンに向かい、資料と画面に集中して佇む。
元から集中力の高い英二は今、会話など聴こえていないだろう。そんな背中に後藤も笑って静かに言った。
「だから俺は急いでるよ、おまえさんを早いとこ山岳会長にしたいんだ。ビッグウォールも登れない会長じゃあ納得できない奴もいるぞ?
今回の異動はおまえさんたちの希望からだった、でもな、急に決められた事情はこういうことなんだよ。世代交代を早める必要があるよ、
で、おまえさんなら山の実力は抜群だ、カリスマ性ってヤツも充分ある、あとは信望を勝ちとれるかだ。これは努力次第だろうって思うよ?」
ゆっくり肚を鎮めていく心へと、透る塩辛声が温かに響く。
自分を三大北壁に初めて登らせた後藤が、最高の山ヤの警察官がもうビッグウォールに登れない。
そんな現実を信じたくなくて泣きたい、けれど今は自分に課される義務と権利を見つめて、静かに微笑んだ。
「この1ヶ月で、アウェーの第2小隊を完全掌握しろ。そういうことだね、後藤さん?」
「ああ、その通りだ、」
頷いて笑ってくれる、その眼差しが悪戯っ子に笑う。
この笑顔が自分を「山の警察官」へと導いた、それはトップの孤独に生きる切符でいる。
その全てを自分は理解してここに今、座っている。いま不安も孤独も怖いけれど、それも全て解ってここに来た。
「その課題、満点合格すりゃ良いんでしょう?ご期待に添いますよ、俺は、」
勝利宣言を予告する、これは自分の為だけじゃない。
もし1ヶ月間で自分が「曲者揃い」の第2小隊を纏められたなら1ヶ月後、英二の着任は万全に望める。
まだ任官2年目にすぎず、山の経験すら1年に満たない男を自分の補佐官に迎えるには、それなりの努力は当然だろう。
そんな理解に笑ってマグカップに口付けた先、父の親友で自分の上官である男は愉快に笑ってくれた。
「よし、山っ子らしい宣言だな?お手並み拝見させてもらおうじゃないか、」
「キッチリ見て、ゾンブンに楽しんじゃって下さいね、」
笑って新しい場所と時間を展望する。
それは決して楽な道じゃない、そう解るからこそ愉しみになる。
故郷も山も森も無い場所、雅樹から遠い世界、それが不安じゃないと言えば嘘だ。
それでも、全く違う世界で見つける新しい全ては、きっと自分に必要だから出会う。
―そういうので成長したらさ、雅樹さんも喜んでくれるよね?だから支えてよ、俺のこと、
心ねだって警察医のデスクを見る、そこに雅樹は笑ってくれる。
雅樹が嘱託警察医の話をしてくれた記憶が今、ここに自分を座らせる道を選ばせた1つ。
こんなふう雅樹は体を消しても人生に寄添ってくれる、その幸せに笑ってコーヒーを飲み干した。
「そろそろ行きますね?」
「おう、もう時間だな、」
笑ってくれる後藤の貌は寂しげで、けれど送りだす明るさが温かい。
その笑顔と並んだ吉村も穏やかに笑ってくれる、そして向うには写真から雅樹が微笑む。
ずっと自分を見守ってくれた3つの笑顔へと、感謝の想いに立ち上がると光一は端正に礼をした。
「吉村先生、後藤副隊長、本当にお世話になりました、異動してもよろしくお願いします、」
いま、全ての想い籠めて区切りをつけたい。
この場所から発っていく門出を、人間の現実に生きていく時間へ踏み出したい。
ずっと山と森の世界に護られてきた自分、けれど今は「人間」と向合う自分を見つけに行く。
もうそれが自分は出来るはず、そんな想いと笑いかけた先で後藤の瞳から涙こぼれおちた。
「おう、異動しても同じ山岳救助レンジャーだしな?よろしく頼むよ、」
「はい、」
素直に頷いた前、節くれた手が涙拭いながら笑ってくれる。
笑って立ち上がってくれる隣、白衣姿も立って右手を差し出してくれた。
「こちらこそ本当にお世話になりました、いつでも帰ってきてくださいね?ここにも、あの森にも、」
「ありがとうございます、」
吉村医師の右手をとり握手する、その感触に心が微笑んだ。
肌の色は違う、けれど長い指の掌は繊細で温かく懐かしくて、大好きな形見がそこにある。
―ね、雅樹さん?先生の中にも雅樹さんは、ちゃんと生きてるんだね、
もう雅樹の体はどこにもない、雪空色の墓石に眠る遺骨だけになった。
けれど雅樹の心は自分にも吉村医師にも生きる、あの森に山桜に雅樹の息吹は微笑んでくれる。
そしてもう1人、雅樹の意志も心も抱いている男が今日も、自分を新しい場所へと連れ出してくれる。
その男の気配が立ち上がり、傍らから静かに光一のマグカップをとると流しで洗い始めた。
「ああ、宮田くん。すみません、出がけなのに、」
「いいえ、これくらいすぐ終わりますから、」
穏やかな声と低く透る声が笑いあい、吉村医師も流しに立って行った。
その背中は寂しさと安堵に明るんで、容は全く違うのに懐かしい気配が温かい。
天才医師と謂われながら奥多摩の厳しさを選んだ吉村、それは息子の死が選ばせた運命だった。
そんなふうに雅樹は何人の運命を分岐に立たせ、新しい生き方と夢を抱かせたのだろう?
―俺が知らないトコでもだね?雅樹さんの学校の人とか、俺の知らない世界で雅樹さんに会った人たちもさ?
その人達にも、いつか自分はめぐり会うのだろうか?
この世界に今も生きて雅樹を想う人々、その未知な心にいつか自分は向かいあう?
そのとき自分はどんな雅樹の貌を見つけ何を想うだろう?そんな想い見つめた二つの白衣姿に後藤が笑った。
「宮田、白衣が似合うよなあ?だからな、七機に異動したらさせたいことがあるんだ、」
後藤が異動後の英二にさせたい「白衣が似合う」こと。
それは雅樹と同じ道だろう、そうつけた見当に笑いかけた。
「救命士取るとかですか、」
「そうだ、2年夜学に行ってもらいたいんだ。いいコースの大学が都心にあってな、」
さらり部下の進路を告げた深い目が、明るく微笑んだ。
その計画は英二にとって良い影響がある、そう想うまま光一は笑った。
「いい考えだね?警察オフィシャルの救命士資格保持者ってさ、良い箔がつきます。アイツなら遣り遂げますよ、」
雅樹も医学部に通いながら夜学とダブルスクールを遂げて、学生時代に救急救命士の資格を持った。
それと同じ道を英二も望む、この確信に笑った隣で後藤も嬉しそうに頷いた。
「よし、おまえさんが了解なら話は進めるよ、直属上司だからな?」
「はい、よろしくお願いします、」
自分のパートナーの進路に、上司として責任ある立場になった。
そんな今日からの現実に笑った向こうから、白衣を脱いだネクタイ姿の長身が笑いかけてくれた。
「お待たせしました、国村さん。行きましょう、」
「なに、もう敬語かよ?」
つい笑ってしまう、こんな会話はアイガーの時にもしたけれど馴れない。
きっと自分は今まで通りに話してしまう、そう予想した前でトランク携えて英二が笑った。
「今から練習しようって思ったんだよ、でもフライングかな、」
「オマエなら練習ナシで平気だろ、七機でも敬語遣う機会なんざ少ないかもしんないしさ、」
笑いながら登山ザックを持ち、扉を開く。
一緒に吉村医師と後藤も来てくれる、そんな日常も今が最後になるだろう。
こうした時間が自分は好きだったと、離れる切なさに懐かしい時間たちが廊下の靴音に響く。
―さよならだね、青梅署?また戻ってくるけどさ、
また自分はここに戻るだろう、警視庁山岳レスキューの最前線に立つため警察官になった自分だから。
こんど戻る日は指揮官としてここに立つ、その瞬間は早まると数分前に伝えられた。
きっと思うより早く帰って来られる、そう未来予測が笑ったロビーに拍手が起きた。
「え、」
予想外の拍手と、並んだ顔達に足が留められる。
いま午前の巡回が終わるころの時間、それなのに山ヤの警察官は半数がここに居る。
奥多摩交番の畠山もいる、御岳駐在の岩崎もいる、鳩ノ巣駐在の藤岡も笑っている。
他部署でも親しかった顔も一緒に拍手する、その輪の中から畠山が笑顔で一歩前に出た。
「国村、4年半ありがとうな。あのころから一緒のおまえが居なくなるの、本当は寂しいんだぞ?」
青梅署に卒業配置された当時、同時期に畠山も第七機動隊から異動してきた。
自分より齢も年次も上の先輩、けれど奥多摩の知識は自分が畠山に大半を教えた。
あのころより精悍になった笑顔へと、右手差し出して光一は綺麗に笑いかけた。
「また合同訓練とか休みの日は帰ってきます、そしたら悪戯の実験台にまたなってくれますか?」
「あははっ、単身寮の時はよくやられたよなあ、俺、」
懐かしい日々に笑って握手してくれる、その分厚い手の甲には傷が一筋ある。
4年前の冬、凍結する滝から遭難者を救助したときの裂傷は辛い記憶、けれど今は懐かしい。
今はもう結婚して娘がいる畠山、どうか現場にも無事に立ち続けていてほしい。そんな祈りと握手を解いた。
その手の前にこんどは人の好い笑顔が立って、握手すると大きな目が明るく笑った。
「なに、国村って畠山さんにも悪戯してたんだ?」
「悪戯されてない人、ココにいるメンツにはいないね、」
笑って握手する藤岡の手は、小さめでも厚くがっしりと温かい。
幾らか堅い掌は山と農業をする証、そんな藤岡の生立ちは自分と似て話しやすかった。
同年で農家に育った山ヤという共通点が気楽な、どこまでも明るくて強靭な性格が好きだ。
きっと現場に誇りを持って立ち続けていく、そう信頼できる友人の手を離すと光一は皆に笑った。
「悪戯っ子の追い出しってトコですね?本当に最後までお世話かけます、ありがとうございました、」
言葉にロビーが笑いだす、そんな空気が温かい。
この温もりがある職場が好きだった、厳しい現場に立っても笑いあえる絆が誇りだった。
父の旧友が示してくれた「山ヤの警察官」という道、この現場で自分は愛する山を護る誇りを知った。
それは雅樹が医学で山を護ろうとした意志と重ならす、だから尚更に誇らしく強く今を生きて立っている。
そんな自分を4年半に育んでくれた青梅署山岳救助隊、この場所から発っていく自分への励ましが嬉しい。
「元気でいろよ!悪戯しすぎるんじゃないぞ、」
「合同訓練の時はよろしくな、自主トレに来たら寄ってくれよ?」
「飲み会、また声かけるよ!」
「射撃大会に出るんなら教えろよ、応援してやるからな、」
たくさんの声が輪から起きていく、その全てが嬉しく誇らしい。
この声ひとつずつが自分を立たせ、今日の扉を開かせ明日へ繋がっていく。
いつか自分はこの男達のトップに立ち護っていく男になる、その未来を誰もが知って今、笑ってくれる。
―こんな俺でも必要としてくれるんだね、雅樹さん…もうちょっと生きてなきゃいけないってコトかな?
『生きよう?ずっと僕は一緒にいるよ、』
そう綺麗な深い声が記憶から笑ってくれる、この言葉を大切な夜明に告げてくれた。
あの言葉が無意識から自分を支えて今日まで生かす、アイガーでもピアノで自死を止めてくれた。
そして今、山ヤの警察官たちが笑って「明日」の自分を言祝ぎ、たくさんの約束で未来を呼んでくれる。
―ありがとう、
感謝を心に抱きしめ端正に礼をする、その俯けた微笑から涙ひとつ足もとに笑って落ちた。
(to be continued)
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第59話 初嵐 side K2 act.6
深い眠りの森から意識が浮上する。
ゆるやかに披かれる視界に天井が映りだす。
薄明が灰色の闇を白く変えていく、もう夜が明けていく。
いま太陽が呼びだす今日に微笑んで、煙草の吐息と森の香から静かに脱け出した。
「…英二、ありがとね?」
そっと呼びかけ笑いかける、その想いの真中に白皙の貌は瞳を瞑る。
濃やかな睫に陰翳は鎮まり、あざやかな眉にダークブラウンの髪が艶めく。
この寝顔をずっと見ていたいとグリンデルワルトでも願った、そして今も本当は願いたい。
けれどもう今日が来た、今現れる刻限に笑ってベッドから脱け出して、けれど右手首を温もりが掴んだ。
「光一、約束違反だよ?」
綺麗な低い声の微笑みが、心臓ごと心を掴む。
いま言われた約束にアイガー北壁の暁が蘇える、あの白いベッドで告げた言葉が自分に刺さる。
それでも呼吸ひとつに微笑んで、シャツの肩越しにアンザイレンパートナーへと笑いかけた。
「ちゃんと俺は声掛けたね、でもオマエが起きなかったんだよ?」
「あんな小さい声で起こすつもりだった?」
低く艶ある声が笑って、右手離さずに体を起こし隣に座る。
ふれそうな肩に温もりが透かす、その体温に微笑んで見つめ返した。
「寮の壁は薄いからね、ご近所迷惑はダメだろ?」
「じゃあキスは良い?」
願いに微笑んだ切長い目が、穏やかに瞳を覗きこむ。
いまキスをして良いのか解らない、だって今日は七機で周太と会うのに?
「前に言ったよね?周太の気配があるとこじゃ、俺たちは恋人じゃないって。今日はもう会うんだしさ、」
「ここは奥多摩だよ、」
綺麗な低い声が遮って、掴まれた右手首が動けない。
力強い長い指の掌、その感触に昨夜を泣いた現実と、諦めた夢がまた惑いそうになる。
雅樹も指が長い綺麗な手だった、その手とよく似た温もりが手首から心を滲ませて、ふっと瞳から熱こぼれた。
「あ…」
頬伝う熱に声おちる、こんなことだけで自分が泣くなんて?
いま手首を掴みキスねだる人は俤が似て、けれど全く違う香が白皙の肌くゆらせる。
この現実と夢のはざま竦んでしまう心、その鎖を絶つように綺麗な深い声が問いかけた。
「光一、どうして昨夜はそのシャツ着てきたんだ?それ、俺がアイガーであげたヤツだよな、」
指摘の言葉に、左手が衿元そっと掴んでしまう。
このシャツをなぜ昨夜も着てきたのか?そんな問いは雅樹なら言わなくても解かるはず。
こんなにも「違う」と昨夜から英二の全てが自己主張する、それが安堵になって光一は微笑んだ。
「おまえの匂い、少しでもつけたくってさ。なんか落着けて好きなんだよね、森みたいな匂いでさ、」
正直な想い告げて笑いかける、その隣から腕が伸ばされ抱きしめてくれる。
深い森の香くるまれていく肩、頬、視界、そして煙草の吐息が静かに微笑んだ。
「そういうの、ちゃんと言ってくれよ?俺じゃ気づけないこと一杯あるけど、ひとつでも多く叶えてやりたいって想ってるよ?」
「うん、ありがとね、」
素直に笑って衿元から左手を離し、カットソーの背中へ腕を回す。
ふれていく胸から鼓動が鼓動に響く、その共鳴に時と世界を同じに出来ると喜びが微笑む。
嬉しいまま顔を載せた肩は強く頼もしい、ほっと息を吐いた感覚に右手首は解放されて英二が笑ってくれた。
「光一、ごめんな?俺は雅樹さんみたいには出来ないよ、でも本気で大切に想ってる。だから言葉にして言ってほしいよ、」
雅樹のようには出来ない、そんな言葉に心透かされたよう。
けれど英二ならこんなことは当然気づくだろう、こんなに傍に居て気付かないほど鈍くない。
この言葉を英二が告げてくれる想いが心軋ませる、けれど雅樹を想うことを止めるなんて出来るはずもない。
その想い正直に微笑んで、真直ぐアンザイレンパートナーの瞳を見つめ光一は綺麗に笑った。
「ありがとね、英二。でも俺、今までもカナリ遠慮なくぶっちゃけてるけど、」
「もっと遠慮なくしてよ、北壁でも言ったよな?」
綺麗な笑顔ほころばせ、そっと体を離していく。
ベッドの上に座り向かい合って、実直な眼差しに光一を映しながら笑ってくれた。
「俺は周太を一番に考えてる、でも俺が生きる世界の全ては光一だ。だから山でも警察でもパートナーだろ?もうずっと一緒に生きるんだ、
だから我儘も何だって俺には言ってほしい、雅樹さんみたいに出来ないけど、俺が出来る精一杯で応えるから。信じて、何でも言ってくれ、」
こんなにも真直ぐ告げてくれる、だから自分はこの男を信じた。
甘ったるい同調を言わないでくれる、ただ真意だけを真直ぐ自分に言ってくれる。
だからこそアンザイレンパートナーに望んでしまう、それでも自分は秘密と嘘を抱え続けていく。
―ごめんね、英二。おまえに言えないこと多いんだよ…雅樹さんとのこと言えないんだ、だから周太との本当も言えない、
英二は、この世界では自分の唯ひとり。
英二は共に命を生きてくれる唯一のパートナー、けれど自分は真実に黙秘する。
今、生きる人間の中で誰より大切になる相手、きっと祖父母より後藤より離れたくない人になる。
そんな相手にすら自分は嘘つきになれる、雅樹の真実を護るためなら裏切りも何でも出来てしまう。
この想いは英二も周太に対して抱いている、そう互いに解る自分たちは互いに赦すのだろう。
―英二、おまえも周太の為には俺を裏切るね?だから遠慮なく俺は嘘吐きでいるよ、これが俺の我儘だ、
心の想いだけで呼びかけ、声にしない約束を問いかける。
この真実を護らす裏切りを信じて、唯ひとりのパートナーへ綺麗に笑った。
「うん、信じてるよ?だから一ヶ月後に追っかけて来てね、俺の別嬪パートナー?」
信じてる、自分の後を追って来てくれること。
自分たちの間には嘘がたくさん挟まっていく、けれど全てが真実の為と赦してほしい。
この赦しが自分の最大の甘え、どうか嘘にある真実を信じて全てを受けとめ傍に居て?
そう願い微笑んでベッドから立ちあがる、その手を掴まないで綺麗な低い声は微笑んだ。
「追いかけるよ、今までと同じにずっと。だから安心して七機で待ってろよ?」
笑いかけてくれる切長い目は深く、きらめく華が熱い。
こんな直情的な熱は「英二」だ、そう認めるまま素直に笑って光一は扉を開いた。
かたん…
静かに閉じる音が響いて、ほっと溜息こぼれおちる。
そのまま歩きだす廊下、窓から暁の光は射して行く先を明るます。
まだ静謐にある朝を歩きながら、すこし前の時間に信頼が微笑んだ。
―英二、キスしないでくれたね
キスを拒んだのは、今が2度目だ。
1度目は7月初めに英二のベッドでだった、あのとき初めて告白された。
そんな想い出たちが10ヶ月間に英二と幾つ生まれたろう?
―数えきれないね、ほんとに…ありがとね、英二?
微笑んで朝陽を透りぬけ廊下を歩いて行く。
そのまま洗面室へと入ると冷水に顔を洗い、意識をクリアに覚ましていく。
頬と額の冷えた感覚に蛇口を止めて、濡れた顔のまま踵返した回廊の暁に自室の扉が見える。
―この部屋を開くの、あと2回だね?
いま開いたらあと2回、朝食の後と挨拶回りの後だけだ。
もう何度も開錠した扉とも今日で別れる、その惜別に笑って扉を開いた。
静かに鍵掛けるとタオルで顔拭って息を吐き、この身を英二のシャツから脱いだ。
素肌に朝の冷気ふれさせながらハンガーを外し、ダークスーツの姿へと変えていく。
ネクタイを締め、ワックスを手に軽く髪をセットしていく鏡の中、自分の貌は変化する。
「もう職務中は、ずっとこの貌だね?」
鏡の自分に愉快を笑って、脱いだ服たちを手早く荷物にまとめる。
全てをトランクに納めこんで今、4年半の部屋は全て空っぽになった。
ここで山ヤの警察官に自分はなった、その感謝が空間を見つめて綺麗に笑った。
「ホント世話になったね、ありがとう、」
この場所で幾度、泣いて笑って時間と想いに向きあったろう?
その記憶全てへの感謝に微笑んで、スーツ姿で扉を開いた。
手続きの全てが終わり、登山ザックとトランクひとつ携え廊下を行く。
午前中の明るい窓には見慣れた風景が映る、この全てが午後にはもう遠い。
今こうして歩く瞬間すら懐かしむ時が来るだろうか?そんな想い笑って診察室をノックした。
「先生、失礼します。英二お待たせ、アレ?」
「おう、待っとったぞ、」
入った白い部屋、二人の白衣姿の前から救助隊服姿が振向いてくれる。
その深い眼差しの笑顔が嬉しくて、荷物を置きながら光一は笑った。
「なんですか、副隊長?ココでサボりってコト?」
「おまえさんを待っとったんだよ、吉村の呼び出しついでだがなあ、」
昔馴染みの笑顔ほころばせ迎えてくれる、その隣で白皙の貌が穏やかに微笑む。
長い指のマグカップをテーブルに置くと、長身の白衣姿は立ちあがってくれた。
「光一、コーヒー飲んでくだろ?」
「うん、ありがとね、」
座りながら笑いかけた先、切長い目は穏やかに微笑んでくれる。
いつものよう流し台へ立った白衣の後姿に、やっぱり泣けない涙が心に笑った。
―白衣なんか着ちゃうと余計、似てるよね…後姿の雰囲気とか、ほんとに
あの背中が懐かしい、幼い日の幸福だったクリスマスイヴの記憶を見てしまう。
あのとき初めて見た白衣姿の雅樹はまぶしくて、本当に天使のよう明るく輝いて見えた。
もう17年過ぎてしまった時間の姿、それなのに今も笑顔は綺麗なままに心で咲いてくれる。
「似てるでしょう?雅樹と、」
静かな声に鼓動が撃たれ、光一は振向いた。
その視線をロマンスグレーは受けとめて、涼やかな切長の目が微笑んだ。
「ここで手伝って頂く時はね、きちんとした格好でいつも来てくれるんです。だから服を汚したらいけないと思って白衣を用意しました。
だけど、あの姿を見ていると不思議な気分になります。こんなこと失礼かなって想うんですけど、本当に雅樹が一緒に仕事してると感じて、」
静かな言葉は今、初めて吉村の口から聞く。
ずっと雅樹の話題を光一にはしないでくれた、けれど今、最後の日に話してくれる。
この惜別への感謝に笑って、デスクに佇んだ写真立ての笑顔を見つめ応えた。
「ホントに雅樹さん、ここにも居るんじゃないですか?奥多摩で開業医になってね、嘱託の警察医もするって言ってましたから、」
幸福だった7歳のクリスマス、あの数日後に雅樹はそう話してくれた。
青梅署の警察医が輪番制だった当時は不備も多かった、この問題に雅樹は率先しようとしていた。
そうした夢を雅樹の父と兄が叶えてくれた、その感謝に笑った先でロマンスグレーの瞳が微笑んだ。
「そうでしたか、雅樹、光一くんには話してたんですね?…良かったのかな、私は、」
ひとりごとのよう想いを言葉に、医師はデスクを振り向いた。
写真立てには蒼い登山ウェア姿で雅樹は笑う、どこまでも明るく穏やかな笑顔に後藤が笑ってくれた。
「ああ、雅樹くんの夢を父親が叶えたんだ、きっと喜んでるだろうよ?でも光一の話を聴くと写真、白衣姿の方が良いかい?」
「どんな格好でも大丈夫だね。いつでも雅樹さんは山ヤの医者だから、服装は関係ありませんよ、」
笑って答えた前に、熱い芳香がテーブルに置かれる。
目で「どうぞ?」と勧めて英二は踵を返し、パソコンデスクの前に座った。
たぶん後藤と吉村と話す時間を気遣ってくれた、嬉しく微笑んだ前を昇らす湯気にふと連想して大先輩に質問をした。
「副隊長。吉村先生の呼びだしって、もしかして禁煙命令ですか?」
「お、言う前にバレちゃったなあ?」
困ったよう笑って、節くれた手はマグカップを抱え込む。
その手に皺の刻みを見て後藤の年齢に気付かされる、この年齢が光一とのアンザイレンも阻んだ。
もう何を言われても仕方のない年齢を後藤は迎える、その現実ほろ苦い向こうから警視庁山岳会のトップは低く笑った。
「俺は肺をやっちまったらしいよ?齢だから仕方ないがね、三大北壁はもう無理だろうよ。冬富士も厳しいんだろ?」
最後の問いかけに深い目は吉村を見、その視線に切長い目が頷いた。
もう後藤がビッグウォールの登攀が出来ない?この事実が信じられずに光一は口を開いた。
「嘘だよね?」
嘘に決まっている、そんなこと。
確かに後藤は50歳も半ば過ぎる、それでも体力と技術に衰えなんて見えない。
それなのに冬富士にもアタックできない筈がない、そう思うままに光一は続けた。
「北壁無理って、冬富士もダメって、それじゃあ6千峰も無理ってコトだろ?最強の山ヤの警察官がソンナの、嘘だね?」
日本で最強の山岳警察は富山県警と言われている、けれど後藤が最高だと誰もが認めている。
トップクライマーだった父もザイルを組んだ蒔田をパートナーにする、国内最高の山の警察官。
アルパインクライミングでは国内ファイナリストを謳われてきた、そんな後藤がもう6千峰にも登れない?
「嘘だよね、吉村先生?今日が俺、最終日だからって二人で悪戯の仕返しなんだろ?ね、そうだよね、」
職場なのに敬語も忘れて訴えてしまう、こんなこと信じたくない。
けれど篤実な医師は光一を見つめ、そして静かに首を振った。
「本当です、全て。後藤さんには来月、入院して再検査を受けてもらう予定です。今日はそのお話に来ていただきました、」
現実が、大きく鼓動を撃つ。
後藤が検査入院をする、それが自分の進路に及ぼす影響を知っている。
もう警察学校に入る時から覚悟している「明日」に、呼吸ひとつで光一は微笑んだ。
「解りました、このこと宮田は知っていますか?」
「きちんとは話していません、でもカルテ整理の時に気づいてはいるようです、」
穏やかな声が微笑んで、切長い目が部屋の奥を見る。
そこでは白衣の広い背中がパソコンに向かい、資料と画面に集中して佇む。
元から集中力の高い英二は今、会話など聴こえていないだろう。そんな背中に後藤も笑って静かに言った。
「だから俺は急いでるよ、おまえさんを早いとこ山岳会長にしたいんだ。ビッグウォールも登れない会長じゃあ納得できない奴もいるぞ?
今回の異動はおまえさんたちの希望からだった、でもな、急に決められた事情はこういうことなんだよ。世代交代を早める必要があるよ、
で、おまえさんなら山の実力は抜群だ、カリスマ性ってヤツも充分ある、あとは信望を勝ちとれるかだ。これは努力次第だろうって思うよ?」
ゆっくり肚を鎮めていく心へと、透る塩辛声が温かに響く。
自分を三大北壁に初めて登らせた後藤が、最高の山ヤの警察官がもうビッグウォールに登れない。
そんな現実を信じたくなくて泣きたい、けれど今は自分に課される義務と権利を見つめて、静かに微笑んだ。
「この1ヶ月で、アウェーの第2小隊を完全掌握しろ。そういうことだね、後藤さん?」
「ああ、その通りだ、」
頷いて笑ってくれる、その眼差しが悪戯っ子に笑う。
この笑顔が自分を「山の警察官」へと導いた、それはトップの孤独に生きる切符でいる。
その全てを自分は理解してここに今、座っている。いま不安も孤独も怖いけれど、それも全て解ってここに来た。
「その課題、満点合格すりゃ良いんでしょう?ご期待に添いますよ、俺は、」
勝利宣言を予告する、これは自分の為だけじゃない。
もし1ヶ月間で自分が「曲者揃い」の第2小隊を纏められたなら1ヶ月後、英二の着任は万全に望める。
まだ任官2年目にすぎず、山の経験すら1年に満たない男を自分の補佐官に迎えるには、それなりの努力は当然だろう。
そんな理解に笑ってマグカップに口付けた先、父の親友で自分の上官である男は愉快に笑ってくれた。
「よし、山っ子らしい宣言だな?お手並み拝見させてもらおうじゃないか、」
「キッチリ見て、ゾンブンに楽しんじゃって下さいね、」
笑って新しい場所と時間を展望する。
それは決して楽な道じゃない、そう解るからこそ愉しみになる。
故郷も山も森も無い場所、雅樹から遠い世界、それが不安じゃないと言えば嘘だ。
それでも、全く違う世界で見つける新しい全ては、きっと自分に必要だから出会う。
―そういうので成長したらさ、雅樹さんも喜んでくれるよね?だから支えてよ、俺のこと、
心ねだって警察医のデスクを見る、そこに雅樹は笑ってくれる。
雅樹が嘱託警察医の話をしてくれた記憶が今、ここに自分を座らせる道を選ばせた1つ。
こんなふう雅樹は体を消しても人生に寄添ってくれる、その幸せに笑ってコーヒーを飲み干した。
「そろそろ行きますね?」
「おう、もう時間だな、」
笑ってくれる後藤の貌は寂しげで、けれど送りだす明るさが温かい。
その笑顔と並んだ吉村も穏やかに笑ってくれる、そして向うには写真から雅樹が微笑む。
ずっと自分を見守ってくれた3つの笑顔へと、感謝の想いに立ち上がると光一は端正に礼をした。
「吉村先生、後藤副隊長、本当にお世話になりました、異動してもよろしくお願いします、」
いま、全ての想い籠めて区切りをつけたい。
この場所から発っていく門出を、人間の現実に生きていく時間へ踏み出したい。
ずっと山と森の世界に護られてきた自分、けれど今は「人間」と向合う自分を見つけに行く。
もうそれが自分は出来るはず、そんな想いと笑いかけた先で後藤の瞳から涙こぼれおちた。
「おう、異動しても同じ山岳救助レンジャーだしな?よろしく頼むよ、」
「はい、」
素直に頷いた前、節くれた手が涙拭いながら笑ってくれる。
笑って立ち上がってくれる隣、白衣姿も立って右手を差し出してくれた。
「こちらこそ本当にお世話になりました、いつでも帰ってきてくださいね?ここにも、あの森にも、」
「ありがとうございます、」
吉村医師の右手をとり握手する、その感触に心が微笑んだ。
肌の色は違う、けれど長い指の掌は繊細で温かく懐かしくて、大好きな形見がそこにある。
―ね、雅樹さん?先生の中にも雅樹さんは、ちゃんと生きてるんだね、
もう雅樹の体はどこにもない、雪空色の墓石に眠る遺骨だけになった。
けれど雅樹の心は自分にも吉村医師にも生きる、あの森に山桜に雅樹の息吹は微笑んでくれる。
そしてもう1人、雅樹の意志も心も抱いている男が今日も、自分を新しい場所へと連れ出してくれる。
その男の気配が立ち上がり、傍らから静かに光一のマグカップをとると流しで洗い始めた。
「ああ、宮田くん。すみません、出がけなのに、」
「いいえ、これくらいすぐ終わりますから、」
穏やかな声と低く透る声が笑いあい、吉村医師も流しに立って行った。
その背中は寂しさと安堵に明るんで、容は全く違うのに懐かしい気配が温かい。
天才医師と謂われながら奥多摩の厳しさを選んだ吉村、それは息子の死が選ばせた運命だった。
そんなふうに雅樹は何人の運命を分岐に立たせ、新しい生き方と夢を抱かせたのだろう?
―俺が知らないトコでもだね?雅樹さんの学校の人とか、俺の知らない世界で雅樹さんに会った人たちもさ?
その人達にも、いつか自分はめぐり会うのだろうか?
この世界に今も生きて雅樹を想う人々、その未知な心にいつか自分は向かいあう?
そのとき自分はどんな雅樹の貌を見つけ何を想うだろう?そんな想い見つめた二つの白衣姿に後藤が笑った。
「宮田、白衣が似合うよなあ?だからな、七機に異動したらさせたいことがあるんだ、」
後藤が異動後の英二にさせたい「白衣が似合う」こと。
それは雅樹と同じ道だろう、そうつけた見当に笑いかけた。
「救命士取るとかですか、」
「そうだ、2年夜学に行ってもらいたいんだ。いいコースの大学が都心にあってな、」
さらり部下の進路を告げた深い目が、明るく微笑んだ。
その計画は英二にとって良い影響がある、そう想うまま光一は笑った。
「いい考えだね?警察オフィシャルの救命士資格保持者ってさ、良い箔がつきます。アイツなら遣り遂げますよ、」
雅樹も医学部に通いながら夜学とダブルスクールを遂げて、学生時代に救急救命士の資格を持った。
それと同じ道を英二も望む、この確信に笑った隣で後藤も嬉しそうに頷いた。
「よし、おまえさんが了解なら話は進めるよ、直属上司だからな?」
「はい、よろしくお願いします、」
自分のパートナーの進路に、上司として責任ある立場になった。
そんな今日からの現実に笑った向こうから、白衣を脱いだネクタイ姿の長身が笑いかけてくれた。
「お待たせしました、国村さん。行きましょう、」
「なに、もう敬語かよ?」
つい笑ってしまう、こんな会話はアイガーの時にもしたけれど馴れない。
きっと自分は今まで通りに話してしまう、そう予想した前でトランク携えて英二が笑った。
「今から練習しようって思ったんだよ、でもフライングかな、」
「オマエなら練習ナシで平気だろ、七機でも敬語遣う機会なんざ少ないかもしんないしさ、」
笑いながら登山ザックを持ち、扉を開く。
一緒に吉村医師と後藤も来てくれる、そんな日常も今が最後になるだろう。
こうした時間が自分は好きだったと、離れる切なさに懐かしい時間たちが廊下の靴音に響く。
―さよならだね、青梅署?また戻ってくるけどさ、
また自分はここに戻るだろう、警視庁山岳レスキューの最前線に立つため警察官になった自分だから。
こんど戻る日は指揮官としてここに立つ、その瞬間は早まると数分前に伝えられた。
きっと思うより早く帰って来られる、そう未来予測が笑ったロビーに拍手が起きた。
「え、」
予想外の拍手と、並んだ顔達に足が留められる。
いま午前の巡回が終わるころの時間、それなのに山ヤの警察官は半数がここに居る。
奥多摩交番の畠山もいる、御岳駐在の岩崎もいる、鳩ノ巣駐在の藤岡も笑っている。
他部署でも親しかった顔も一緒に拍手する、その輪の中から畠山が笑顔で一歩前に出た。
「国村、4年半ありがとうな。あのころから一緒のおまえが居なくなるの、本当は寂しいんだぞ?」
青梅署に卒業配置された当時、同時期に畠山も第七機動隊から異動してきた。
自分より齢も年次も上の先輩、けれど奥多摩の知識は自分が畠山に大半を教えた。
あのころより精悍になった笑顔へと、右手差し出して光一は綺麗に笑いかけた。
「また合同訓練とか休みの日は帰ってきます、そしたら悪戯の実験台にまたなってくれますか?」
「あははっ、単身寮の時はよくやられたよなあ、俺、」
懐かしい日々に笑って握手してくれる、その分厚い手の甲には傷が一筋ある。
4年前の冬、凍結する滝から遭難者を救助したときの裂傷は辛い記憶、けれど今は懐かしい。
今はもう結婚して娘がいる畠山、どうか現場にも無事に立ち続けていてほしい。そんな祈りと握手を解いた。
その手の前にこんどは人の好い笑顔が立って、握手すると大きな目が明るく笑った。
「なに、国村って畠山さんにも悪戯してたんだ?」
「悪戯されてない人、ココにいるメンツにはいないね、」
笑って握手する藤岡の手は、小さめでも厚くがっしりと温かい。
幾らか堅い掌は山と農業をする証、そんな藤岡の生立ちは自分と似て話しやすかった。
同年で農家に育った山ヤという共通点が気楽な、どこまでも明るくて強靭な性格が好きだ。
きっと現場に誇りを持って立ち続けていく、そう信頼できる友人の手を離すと光一は皆に笑った。
「悪戯っ子の追い出しってトコですね?本当に最後までお世話かけます、ありがとうございました、」
言葉にロビーが笑いだす、そんな空気が温かい。
この温もりがある職場が好きだった、厳しい現場に立っても笑いあえる絆が誇りだった。
父の旧友が示してくれた「山ヤの警察官」という道、この現場で自分は愛する山を護る誇りを知った。
それは雅樹が医学で山を護ろうとした意志と重ならす、だから尚更に誇らしく強く今を生きて立っている。
そんな自分を4年半に育んでくれた青梅署山岳救助隊、この場所から発っていく自分への励ましが嬉しい。
「元気でいろよ!悪戯しすぎるんじゃないぞ、」
「合同訓練の時はよろしくな、自主トレに来たら寄ってくれよ?」
「飲み会、また声かけるよ!」
「射撃大会に出るんなら教えろよ、応援してやるからな、」
たくさんの声が輪から起きていく、その全てが嬉しく誇らしい。
この声ひとつずつが自分を立たせ、今日の扉を開かせ明日へ繋がっていく。
いつか自分はこの男達のトップに立ち護っていく男になる、その未来を誰もが知って今、笑ってくれる。
―こんな俺でも必要としてくれるんだね、雅樹さん…もうちょっと生きてなきゃいけないってコトかな?
『生きよう?ずっと僕は一緒にいるよ、』
そう綺麗な深い声が記憶から笑ってくれる、この言葉を大切な夜明に告げてくれた。
あの言葉が無意識から自分を支えて今日まで生かす、アイガーでもピアノで自死を止めてくれた。
そして今、山ヤの警察官たちが笑って「明日」の自分を言祝ぎ、たくさんの約束で未来を呼んでくれる。
―ありがとう、
感謝を心に抱きしめ端正に礼をする、その俯けた微笑から涙ひとつ足もとに笑って落ちた。
(to be continued)
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