第58話「双壁6」の幕間、ブライトンホルンの翌日です
恩寵、故郷の最高峰から

secret talk11 建申月act.2―dead of night
青い湖面に、氷食鋭鋒の影が映る。
ローデンボーデンの駅を背に歩く向こう、リッフェルゼーの水は青い。
透明な大気に水鏡は輝き、標高4,478mを明瞭に描いて閉じこめる。
きらめく漣に山は揺れる、黒く白い山影は逆さでも雄渾に大きい。
その姿を眺めながら歩く隣、テノールが笑っている。
「Oui, c'etait un ciel bleu.」
「Tu es chanceux.Tu as encore ete beni avec le ciel bleu.Pourquoi est-ce que tu es si chanceux?」
同行のガイドもフランス語で答え、光一に笑いかける。
その明るい笑顔へと、明朗なテノールが笑った。
「C'est parce que je suis amoureux de la montagne.」
「Surement c'est affection réciproque.Tu es aime par les Alpes.」
ガイドの楽しげな笑顔には、光一に対する素直な賞賛が見える。
会話の細かい意味は解らない、けれど「montagne」が山を意味すると知っている。
あとは「amour」が「愛」だから「amoureux」はそういう関係の言葉だろう。
―山に恋しているって光一、言ったのかな?
なんとなくの見当を付けながら、フランス語の会話を聴く。
ここスイスでは英語よりもドイツ語やフランス語が通用しやすい。
ドイツ語は大学の単位で少し勉強したけれど、ヒアリングが全く追いつかないでいる。
また勉強し直そうかな?そんな考えと歩いていく隣から、テノールの声が笑いかけてくれた。
「あれがリッフェルホルンだね、イイ感じだろ?」
声に顔をあげ、前を見る。
その視界、真青の好天に灰色が聳え、岩石は壁を成した。
リッフェルホルン、標高2,927m、高低差200m。
いま望む岩峰は、隆起する黒とグレーが繰り返す。
ゴルナー氷河の白と青を従えた岩の山、それは巨人が寛ぎ座る姿を思わせる。
今まで登ってきた岩場とまた違う、この未知に英二は綺麗に笑った。
「うん、良い感じだな。日本の岩と違って楽しいな、」
「だろ?初めてのをヤるって、愉しいよね、」
底抜けに明るい目が愉快に笑う、その笑顔は透けるほど明朗でいる。
いつもの明るい光一の笑顔、そんな光一にガイドの男も笑顔がこぼれた。
「Tu sembles heureux vraiment.」
「Oui, je suis vraiment heureux.Parce que j'embrasse la montagne a partir de maintenant.」
答えるテノールはいつものよう明るい。
その答えに、ガイドの野太い声が愉快に笑った。
「Tu es un amant de montagne.」
たぶん「Tu」は「君」という意味だろうか?
考えながら英二はいつものよう明るい笑顔へと訊いてみた。
「光一、今の会話の意味ってなに?」
「うん。まずね、幸せそうだな、って言ってくれたんだよね、」
答えてくれる底抜けに明るい目が、本当に幸せそうでいる。
いつも山へ登るとき魅せる貌、その貌のまま愉しげなテノールが教えてくれた。
「だから俺はね?幸せだよ、今から山にキスするんだからね、って答えたんだよ。そうしたら俺のこと、山の恋人だって言ってくれたよ」
教えてくれながら透明な瞳が笑っている。
その瞳は誇らかな自由が明るい、本当に「山の恋人」という言葉が似合う。
こういうパートナーが嬉しい、微笑んで英二は想ったままを口にした。
「似合うな、山の恋人って。光一にぴったりだ、」
「だろ?」
さらり肯定して、光一は朗らかに笑った。
笑いながら白い指が英二の頬をそっと小突く、そして山っ子は言ってくれた。
「おまえは最高峰の竜の恋人だね、」
小突かれた所には、あわく細やかな傷痕がある。
普段は見えないけれど発熱の紅潮には現われる痕、それは冬富士で刻まれた。
冬富士が吼えた雪崩は白銀の竜、その爪痕がこの傷痕なのだと光一は言ってくれる。
そしてもう一人、傷痕に祈りをこめてくれる大切なひとがいる。
―…最高峰の竜の爪痕だね?…無事に帰ってくるって約束して?必ず俺の隣に帰ってきて、ずっと待ってる
きっと、待たされる方が、本当は苦しい。
それでも周太は待ってくれている、いつも無事を祈ってくれる。
信じて待って、引留めないで笑って送りだしてくれる。その想いが愛しい。
―必ず帰るよ、周太
記憶から愛する笑顔を見つめて、ウェアの胸ポケットにふれる。
ここに今日も赤い守袋を入れきた、あの優しい掌が縫い目に籠めた祈りが、温かい。
そんな想い佇んで歩く隣、フランス語の会話が笑い合ってガイドが英二を見た。
「Le pouvoir a ete donne a toi par le dieu de la montagne du pays natal.」
大らかな笑顔が言ってくれる言葉が明るい。
なんて言ってくれたのかな?すこし首傾げた英二に笑って光一は教えてくれた。
「傷痕のこと話したんだよ、そしたらね?故郷の山の神から力を贈られたんだなって、おまえのことを言ってくれたんだよ」
故郷の山の神から、力を贈られた。
この言葉が素直に嬉しい、そして言ってくれる人の想いが嬉しい。
ガイドは「山」のベテランでいる、そういう人に言われることが有り難い。
嬉しい想い素直に英二は、山の先達へと綺麗に笑いかけた。
「Thank you. I use the power precisely.」
precisely、正確に。
正確に力を使っていくこと、それが山を登る自由を守る。
そうして守る自由がきっと、自分の夢を掴ませてくれる。
その夢がまた自分に力を与え、護るべきものを護らせる。
―周太、必ず護るよ?そして、いつかきっと
夢を掴み、力を掴み、護りぬいていく。
そうして追い続ける夢の先には、自分を信じて待ってくれる人の自由が、きっとある。
いつか掴みとる自由の瞬間、その時には、きっと。
(to be continued)
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