※終盤1/4念の為R18(露骨な表現はありません)
花よせる想いは、
望見、花翳―another,side story「陽はまた昇る」
懐かしい家は、端正な静けさで迎えてくれた。
ゆっくりと年経た木肌の門を開けると、馴染んだ木々の風が迎えてくれる。
ふっとあの香りが頬を撫でた。今年も咲いてくれたのだろう、周太はそっと微笑んだ。
「庭を見ていい?」
そう言って宮田は、飛び石を逸れて、庭木の繁る方へ足を向けた。
門を閉じてから、周太も庭をのぞいた。
「…あ、」
宮田は、あの木を見あげていた。
常緑の梢に浮かんだ白い花。陽の光に透けながら、凛と佇んで咲いている。
今年もちゃんと咲いてくれている、嬉しくなって周太は微笑んだ。
「山茶花だよ。これは雪山っていう名前」
「雪山?」
宮田が花を見つめたまま微笑んで、木の名前を呼んでくれる。
なんだかそれが嬉しくて、気恥ずかしい。
「そう、」
この木の事を、話そうか。
なんだか、気恥ずかしい話だと思う。
それでも、この隣なら、知りたいかもしれない。
―大切な人のこと、何でも知りたいだろ?
昨日の競技大会前に、そんなふうに言ってくれた。
やっぱり言ってみよう。周太は口を開いた。
「俺の誕生花なんだ。生まれた時に両親が植えてくれた」
似合うなと呟いて、きれいに宮田が笑ってくれた。
「きれいな木だな、」
ふっと抜ける風に、白い花弁が一枚ずつ舞った。
幼いころから親しんできた香が、花弁と一緒に降ってくる。
この花は椿と似ているけれど、花弁が一枚ずつ舞うように散る。
急ぐことなく、風に手をとられるように、穏やかに花をふらして散っていく。
そういうところも、周太は好きだった。
視線を感じて、隣を見あげた。
すこし不思議な雰囲気で、宮田が周太を見つめてくれる。
こんなふうに、見つめてくれて嬉しい。嬉しくて、周太は微笑んだ。
微笑んだ頬に、そっと長い指の掌がふれた。
「好きだ、」
覗きこむ静かな笑顔が、すっと周太に近づいて、唇に唇がふれた。
どうしていつもこんなふうに、ふれてくれるのだろう。
いつも本当は途惑って、けれど、どうしても嬉しくて、こんなふうにされている。
昼前に、仕事から母は帰って来てくれた。
贈られた花束を抱えて、母は幸せそうに微笑んだ。
「秋明菊と、チョコレートコスモスが嬉しいな」
こういう母の笑顔は、久しぶりに見た。
宮田はいつもこんなふうに、母まで笑顔にしてくれる。
久しぶりの実家の台所は、相変わらず清潔で使いやすかった。
さっき庭から摘んできた野菜達も、きれいで瑞々しい。
母の好みの料理を作りながら、少し迷った。
宮田の好みの料理。この材料でも何か、作れるだろうか。
「周太、」
想っていた声に名前を呼ばれて、じゃがいもを落としてしまった。
ほらと拾ってくれて、宮田が笑いかけてくれる。
「お母さんに、庭を案内してもらっていい?」
「あ、ん。いろいろ、きれいだよ」
なぜだか宮田に笑われた。
たまにこんなふうに、宮田に笑われてしまう。
途惑うけれど、でもなんだか嬉しくて、悪くない。
リビングの窓ごしに、木蔭のベンチに座る二人が見える。
木洩日が二人の髪に揺れる、やわらかな秋の陽が穏やかだった。
並んで座る二人は、なんだか似合って、そして、きれいだった。
それが不思議で、けれどそんなに嫌じゃない。
前にアルバムを眺める二人を見た時は、すこしだけ妬いてしまって、なんだか悲しかった。
けれど今はもう、そんなふうには思わない。
なぜなのか、周太には不思議だった。
仕度がほとんど終わって、皿を選んでいたら母が来てくれた。
この皿かなと渡しながら、母が微笑んだ。
「周太が着ているの、宮田くんが選んだ服?」
見ればそれは解るだろうと思う。
きっと今日は訊かれる、そう思っていた。
けれどやっぱり、訊かれるのはなんだか恥ずかしい。
それでも、小さい声だけれど、周太は答えた。
「…ん、そう」
「よく似合ってる。ちゃんと周のこと見てくれている、それが解るな」
素敵ねと、笑った母の顔が明るい。こういう顔で笑う母は、随分と久しぶりだった。
それが嬉しくて、周太も微笑んだ。
「ありがとう」
こんなふうに話せるのは、嬉しい。
母が笑ってくれる、その笑顔が明るくなった。
宮田と母は庭で話した。きっとそのことが、こんなふうに母を明るくした。
母の目許が少し赤い。きっと母は、素直に涙を流せた。
そのことが嬉しい。
周太が母の涙を見たのは二度。
父が殉職した夜に一筋、自分が警察学校へ行くと告げた夜は幾筋も。
だからこれは、三度目の母の涙。
母は二度とも自分で涙を拭った。けれどきっと三度目は、宮田が拭ってくれただろう。
だって母は今、笑っている。
母は簡単には泣けない。そういう気高さは、周太が好きで悲しいところだった。
それでも母が涙を流すとき。それは心が壊されかけて、悲鳴が涙に変わる時だけ。
庭での会話で、母はきっと心の痛みを宮田に晒した。
そんなふうに誰かに、心開いて痛みを晒して、涙を流して頼る姿。
そんな母の姿は周太は知らない、息子の周太にすら母はそれが出来ないから。
だからそんなふうに、母が誰かに心を開くことは、13年絶えてなかった。
父が亡くなってから、母は書斎に籠る時間を持つようになった。
たぶんあの安楽椅子に座りこんで、そっと静かに泣いている。
遺された父の気配に抱かれて、かすかな父の残像にだけ心を開く。
たぶんきっとそんなふうに、13年過ごしていた。
父を失う前からもずっと、母は周太の大切な場所。
そして父を失ってからは、お互いだけしかいなかった。
ふたりだけで寄添う日々は、穏やかだけれど寂しくて。
相手の痛みが解るから、お互い涙を見せられない。そんなふうにお互いに、開けない心を持て余していた。
二人でいるのに本当は、孤独がふたつ並んでいるだけだった。
けれど今日、宮田が母を泣かせてくれた。
きっと静かに佇んで受けとめて、きれいに笑って涙を拭ってくれた。
あの隣の、きれいな笑顔。
いつも自分を受けとめてくれるように、今日、母を受けとめてくれた。
―大切な人のことは何でも知りたい。そして全部受け止めて、大切にしたいから
母の花束を携えて、宮田が言ってくれた言葉。
その言葉の通りに、母をも受けとめて、大切にしてくれた。
こんなふうに宮田は、言ったことは現実に叶えていく。
穏やかで静かな気配。きれいで優しい笑顔。健やかで素直な心。
それから端正な顔と。心に響く低い、きれいな声。
いつも力強い腕、無駄のない背中。
そういう全てを掛けて、自分の隣に寄り添ってくれている。
だから信じてしまう。この隣はきっと、どんな場所からも自分を救ってくれる。
そしてもう解っている、きっとずっと、隣にいてくれる。
今日は11月3日、自分の誕生日。
交番での夜明けは、現実の重みが悲しかった。けれどそれすらも、一通のメールで救ってくれる。
そうして今こんなふうに、母の笑顔を取り戻してくれた。
幸せで、嬉しくて、あたたかい。
きっと自分の顔は今、子供のころと同じ顔で笑っている。
肉ジャガだけで、宮田は3杯ごはんを食べた。
他の惣菜も食べながら、じきに6杯めを平らげそうだ。
「今まで食った中で、この肉ジャガが一番うまい」
そんなふうに健やかに笑って、母の笑顔までひきだしてしまう。
思いついて付足した料理、それなのに喜んでくれる。
なんだか少し申し訳なくて、そして、嬉しい。
それにしても、よく食べる。
健やかな食欲は、見ていて気持ちが良い。
警察学校時代は、こんなに食べていただろうか。
箸を動かす指は相変わらず、きれいで白く長い。
けれど、あわい紫のシャツの袖、すこし捲ってのぞく腕は、頼もしくなっている。
山ヤの警察官としての日々が、この隣を成長させている。
なんだか、眩しい。
そんなことを思いながら、つい見てしまう。
すこし周太が箸を止めた時、宮田が隣から笑いかけた。
「ごめん。飯、まだあるかな」
「ん、たくさんある」
5合炊いておいて良かった。でも次はもっと炊いたほうが良いのかも。
そんなふうに思いながら、おかわりの茶碗を受け取った。
食事の後で食べた、ケーキが懐かしかった。
幼い頃からよく、母が選んでくれる。オレンジの香りと軽い甘み、母も好みの味。
そして今日は、宮田も一緒に食べてくれている。
結構この隣も気に入っている。そんな様子が解るのが、周太は嬉しかった。
食器を洗っていると、母が声をかけてきた。
「じゃ、お母さん出かけるね」
「え、」
振り向いた母は楽しそうに笑っている。
一泊だけどねと、小さな荷物を見せられて言われた。
「職場のお友達とね、温泉に行く約束なのよ」
なんでもないふうに笑う。
でも今日明日と、せっかく母と過ごそうと思っていたのに。
そう言いかけた周太に、母は微笑んだ。
「ずっとこの家で、私は毎晩を過ごしてきたもの。
お父さんの気配も、周太の事も、一人にしたくなかったから。
でも、今日は大丈夫だろうから、他の場所の夜を見に行こうと思って」
たぶん母は、昨日この予定を決めた。
当番勤務前の電話で、宮田も一緒と聞いたから決めたのだろう。
他の場所の夜を見に行く。
そういう自由を持つ方が、母にはきっといい。
でもふたりきりでのこされるのもなんだか困る。
そんなふうに途惑ってしまう。
けれど宮田が母に、きれいに笑いかけて答えてくれた。
「明日は仕事です。だから、夜明けまでなら留守番ひきうけます」
「うれしいわ、お願いね」
父の殉職からずっと、遺された父の気配と共に夜を過ごしてきた。
周太自身、それが当然のようになっていた。たぶん母もそうだったろう。
けれど今日、ようやく母の中で何かが変わった。
今まで通りに穏やかな、けれど庭から戻った母の表情は、眩しくて明るい。
母の行動は今までにない事で、途惑う。
それにこんなふうに、ふたりのこされるのも、途惑う。
けれど、母を送出してあげたい。周太は頷いた。
「ん、わかった。楽しんできて」
楽しんでくるわと微笑んで、母がおねだりをしてくれた。
「でもお昼は家で食べたいな。たぶん、帰りはお昼過ぎ」
「ん、仕度しておく」
こんなふうに言ってもらえると、嬉しい。
宮田を母が頼るのは、仕方ないなと素直に認められる。
けれどやっぱり自分にも、少しは頼って甘えてほしい。
だって母が愛したひとの息子は、自分。
だからきっと、父が母を愛した想いのかけらが、自分の中に遺されている。
だからいつも思う。父の想いの為にも少しくらい、自分にも甘えてほしい。
そのためにこんなふうに、家事だって上手に自分はなったのだから。
母の荷物を持って、門まで宮田が見送ってくれた。
荷物を受け渡しながら、ふたりは何かをささやき合って、そっと笑う。
なんの話をしているのだろう。
良く解らないけれど、母の楽しそうな顔が、周太は嬉しかった。
それから母は顔をあげて、宮田へと笑いかけた。
「宮田くん、明日は行ってらっしゃい。そして今度、またここへ帰って来て」
父の殉職から誰も、この家に入れる事は無かった。
遺された父の気配を壊されたくなくて、誰へも門を閉ざしてきた。
けれど今、母は言ってくれた―またここへ帰って来て
こんなふうに、この家に、宮田の居場所を示してくれる。
卒業式の翌朝、宮田は母親に拒絶された。
それが自分の為だと言うことが、それが悲しくて苦しい。
それでも、この隣から離れる事が出来ない。そんな自分は狡いと思う。
自分の母親を捨てても宮田は、自分の隣に来てくれた。
だからこうして自分の母親が、この隣を受け入れてくれる事が、嬉しい。
母の心が開かれたのは、この隣の笑顔のため。
いつもこんなふうに、この隣は願いを叶えてくれる。
母の変化に途惑う、けれど、嬉しい。
隣を見あげると、きれいな笑顔が母へと笑いかけた。
「はい、必ず。ただいまって言わせて下さい」
「約束ね。お帰りなさいって言わせて」
そんなふうに明るく笑って、軽やかに母は行ってしまった。
母のこういう姿は嬉しい、けれど、やっぱり少し途惑う。
あんまり急で、頭は理解しても、心は途惑ってしまう。
門の前から母を見送って、周太は首を傾げた。
「急にどうしたのかな、お母さん」
隣を見あげると、きれいな切長い目を細めて、見つめてくれていた。
ただ微笑んで、隣に静かに佇んでいる。
父の書斎の窓を開ける。
山茶花の香が、ここにも流れこんで頬を撫でた。
重厚でかすかに甘い、父の遺した懐かしい香り。窓からの風と一緒に、そっと流れていく。
書斎机に活けられた、山茶花の白さがきれいだった。
白い花の翳から、父の笑顔が笑いかけてくれる。
その前に、宮田が一葉の写真を供えてくれた。
青空を梢に抱いた、大きなブナの木。
写真の中で、不思議な包容力と一緒に、きれいな姿で佇んでいる。
きっと話してくれた、あの木だろう。そう思って周太は訊いてみた。
「話してくれたブナの木?」
「ああ、」
きれいに宮田が笑いかけてくれる。
メールの写真ではなくて、実際に見せてあげたい。そう言ってくれている木。
けれど周太の父に見せたいと思ってくれたのだろう、そんな心遣いが嬉しかった。
そっと周太は微笑んだ。
「きれいだね、」
真直ぐに穏やかに佇む、ブナの木。
山の水を抱いて立つ木なのだと、このあいだ教えてくれた。
真直ぐで穏やかで、抱きとめる包容力。
写真を撮った、この隣の心が映っている。そんなふうに思えた。
木枠にはめこまれた、昔のガラス窓からの光は、やわらかくて好きだ。
久しぶりの部屋は、馴染んだ空気が居心地いい。
けれど、こんなふうに居心地いいのは、たぶん隣のせいだろう。
窓辺に凭れながら他愛ない話をしていたら、ポケットの携帯が3秒振動した。
なにげなく開いてみたら、関根からだった。
From :関根
subject:誕生日おめでとう
本 文 :近々飲みいこう、瀬尾も誘ってさ。宮田は来られる?
こういうのは嬉しいと、素直に思える。
よく誕生日なんて覚えている、関根はこういう優しさがある。
久しぶりに会えたらいい。
けれど、ちょっとひっかかる。
どうして宮田のつごうを俺にきくのだろう?
これじゃあまるで一緒にいるのを知っているみたい。
「お、関根じゃん」
隣から覗きこんで、笑って携帯を取られてしまった。
どうするのと訊く間もなく、さっさと返信メールをされた。
どうしていつも、こう素早いのだろう。
「はい、どうぞ」
隣は涼しい顔で、返信したメールを見せてくれる。
To :関根
subject:Re:誕生日おめでとう
本 文 :行く。周太の隣は俺の指定席
どういうこと、だろう。
隣を見あげると、楽しそうに笑っている。
「俺もさ、関根とは電話したりするから」
「…どういうこと?」
きれいな唇の端をあげて、悪戯な目の宮田が言った。
「今日は周太とあうよ。昨夜電話で、そう言っただけ」
「…あのさ、もしかして、一言一句、」
きれいに笑って宮田が答えた。
「そのまま俺は言ったけど?もちろん『周太』って呼んでるし」
宮田の率直さは好きだ。
田中の葬儀でも、秀介に堂々と言ってくれて嬉しかった。
でもちょっと待ってほしい、なんだか同期に知られるのは恥ずかしい。
でも、呼び名と、今日の予定を話したくらいなら、何でも無いことだろう。
そうは思ったけれど、一応やっぱり訊いておきたい。
すこし覚悟しながら周太は訊いた。
「…あの、なんて関根には話しているんだ?」
きれいな切長い目が、嬉しそうに細められる。
そしてきれいな端正な口許を綻ばせた。
「一番大切だから、いつも周太と一緒にいる。それだけだけど?」
なんで隠す必要があるんだと、きれいな顔が笑っている。
こういう顔はちょっと狡い。
こんなに恥ずかしい想いをさせられたのに、許してしまいたくなる。
こういう健やかな素直さが、本当に好きだ。
こんなふうにいつも、胸張っていいんだと伝えてくれる。
でも、恥ずかしくて、しばらくは関根には電話できない。
だから一言くらい文句言いたい、小さい声で周太は言った。
「やっぱりみやたは馬鹿なんだ」
「どうせ馬鹿ですけど?」
ほら、またこんなふうに。軽々と笑ってくれる。
たまに憎たらしいけれど、でも、本当は、どれも全てが、嬉しい。
明るい陽射がふるベッドで、ふたり並んで本を読み始めた。
ほんのすこしだけ凭れた、隣の肩があたたかい。
気持よくて眠りかけた視界に、隣が開いたページが映る。
なんだか覚えのある内容に、ふっと周太は気がついた。
「宮田の本、題名なに?」
「はい、」
表紙を見せられて、周太は笑った。
「俺のと同じ」
周太は原文で宮田は日本語訳だけれど、同じ著者の同じ本だった。
お互いの感想を少し話してみると、周太の方が先まで読んでいた。
「先はまだ言うなよ、」
宮田に言われて少しだけ、周太は意地悪をしたくなった。
「それで登山家はね、チベットの国境で」
構わずに話そうとして、見上げた宮田の瞳にすこし途惑った。
なんだか不思議な雰囲気で、惹きこまれるような、きれいな瞳。
いつもと違う。
きれいだけれど、途惑ってしまう。
黙っているのがなんだか苦しい、こんなこと、この隣では今まで無かった。
「…あのさ、み」
言いかけて、そのまま周太は抱きしめられた。
体が動かない。
力強い腕に体を絡め取られて、身動きが出来ない。
埋められた白いシーツが、陽光にまぶしくて瞳を閉じる。
閉じた瞼にそっと、やわらかく唇でふれられた。
ゆるく見開いて、見上げた切長い目は、やっぱり不思議で、きれいなままでいる。
「…みやた、」
呟こうとした唇を、そっと唇でふさがれた。
ふれられた熱が、熱い。
熱くて、なんだか何も考えられなくなっていく。
どうしてしまったのだろう。
ついさっきまで、本の話で笑っていた。つい5秒前のこと。
それなのに、こんなことになっている。
そっと唇が離れて、瞳を覗きこまれる。
瞳の奥まで曝そうと、見つめられる瞳が熱い。
どうしていいのか解らない、こんなことは慣れていない。
けれどもう、なんとなく解る。
なんとなくじゃない、きっと、そうだと、ほんとうは知っている。
きっと、これから、この隣に浚われる。
見上げる瞳に、本当は声をかけたい。けれどもう、声が出なくなっている。
抱きしめる腕に、少しでも拒みたい。けれどもう、力がなぜか入らない。
こんなふうに、なってしまったら、きっと、
孤独に生きるのだと、ずっと思って生きて来た。
自分の背負う痛みは、誰に背負えるものじゃない。
だからずっと自分はひとり、孤独の中で生きるだろう。そんなふうに思っていた。
けれど気がついた時には、この隣が佇んでいた。
気がついた時にはもう、そっと心を開かれて、隣を受け入れていた。
そして卒業式の夜、声も体も変えられて、心まで変えられていた。
それから奥多摩の氷雨の夜、不安に揺すぶられて、心は素直なままに曝された。
もう孤独へなんて戻れない。
瞳の底まで見つめてくれる、きれいな切長い瞳。けれど視線が熱くて、怖い。
穏やかで静かな、やさしい隣。けれど今は、抱きしめられる全てが熱い。
長い指の掌が、自分の服へとかけられる。
何か言わなくては、少しでも拒まなくては。そう思うのにもう、動けない。
呼吸が止まる、それなのに。
見つめられた瞳を、ただ閉じる事すらできない。
「…っ」
かすかな声が、ようやく漏れる。
それでももう、隣へは届かない。
長い指がただ、着ている服も心ごと、絡め取って奪っていく。
心ごと素肌を露わにされて、明るい陽の光へと曝される。
どうしてこんなふうに、求められていくのだろう。
心ごと体も何もかも、求めて抱かれて奪われてしまう。
右腕の赤い痣への視線が熱い。もう、なにをされるのか、解ってしまう。
腰にまわされる腕が、熱い。重ねられていく肌が、熱い。
右腕の痣、強く吸われて、刻まれる。この隣の想いが、深く刻まれる。
刻みこまれる熱が痛い、噛まれて歯がふれる肌、深く刻まれる心。
もうきっと、この痣は消えてはくれない。
本当はこんなふうに、刻まれることは、怖い。
だって、もしも、ひとりにされたら。刻まれた数と深さだけきっと、絶望する。
けれど、今、この見つめてくれる瞳。
きれいで熱い瞳、こうする間中、ずっと語りかけてくれる。
絶対に離さない、孤独になんか戻さない、自分だけ見つめていればいい―
こんなふうに見つめられて、どうして拒むことができるだろう。
声なんてもう、出ない。
この体も動けない、ただ思うがままにされていく。
この隣の想いのたけを、好きなだけ刻まれて、身動きできない。
ただ見開いた瞳の先で、赤い痣が肌に散らされていく。
きっとどれも全て、明日の夜までには消えるだろう。
けれど、あの、右腕の痣。あれだけは消えてくれない。
それから、それから、いま、ふれられる肩。
ようやく消えかけていた痣が、いままた深く刻まれていく。
こんなふうにいつも、逃げようと、消そうとしても、無駄なこと。
こんなふうに、必ず掴まれて、離してなんて貰えない。
そしてそんなふうに、ずっと離されたくないと、願ってしまう自分がいる。
ゆっくり瞠いた視界は、静かな夜になっていた。
透明な夜闇の真中に、きれいな切長い瞳が映る。
この瞳はさっき熱くて。その熱に、瞳の底まで灼かれて、とかされた。
でも今は、ただ穏やかで静かに、そっと微笑んで見つけめてくれる。
「大好きだ、」
きれいな低い声が、そっと告げてくれる。
そんなふうに想われて、嬉しい。自分も応えたくて、周太は微笑んだ。
「…ん、うれしい。お…」
言いかけて、急に恥ずかしくなった。
おれもだいすき。そんなふうに言えたら。でもどうしても、なんだか今は言葉が出ない。
だってこんな。まだ明るいうちに、あんなふうにされて。
きっと何もかも、体も心も、見られてしまった。
ずっと孤独に生きようと隠していた、自分の全て。
それを見られた事が恥ずかしくて、でも嬉しくて、どうしていいのか解らない。
けれど隣は、微笑んで言ってくれる。
「うん、知ってるから」
ゆるやかに力をこめられて、隣が抱きしめてくれる。
きっと本当に、この隣は知っている。
だってもう、陽の光の中で、全て見られてしまった。
そっと見つめてくれる瞳が、夜の底でも明るい。
こんなふうに見つめられる事、こんなに幸せだなんて知らなかった。
この隣にこうして教えられた、あの夜までは知らなかった。
卒業式の夜と今日と。隣にいるのは同じ、けれど、今日はただ幸せが温かい。
これだけなら作れるんだ。
そう言って作ってくれた、クラブハウスサンドがおいしい。
でもこんなふうに、自分のベッドで食べるだなんて。
このシャツすら、着せてもらった。
本当は、夕食も作ってあげたかったのに、気怠さに動けない。
前より痛くは無い、その分なんだか、力が抜けている。
ほんとうにどうしてしまったのだろう。
あんまり恥ずかしすぎて、なんだかもう、頭なんか動かない。
きっと今は、想ったことが、そのまま口に出てしまう。
「ほら周太、ここついてる」
きれいな長い指が、そっと口許を拭ってくれる。
その仕草が優しくて、こんなふうに触れられることが嬉しい。
嬉しくて、きっと顔が笑ってる、そして言葉が出てしまう。
「ありがとう。嬉しい、…もっと触れて、」
隣の切長い瞳が大きくなる。きっと、すごく驚いて困っている。
でも仕方ない、だっていまは頭が動かない。
それに仕方ない、だってこうしたのは、この隣なのだから。
それでも隣は笑って、そっと前髪に指を絡めてくれた。
きれいに笑いながら、きれいな低い声が訊く。
「どういう罰ゲーム?」
「…ばつ、げーむ?」
よく解らなくて訊き返したのに、隣は笑う。
笑ってそのまま、穏やかに唇を重ねてくれた。
そっとまたシーツへ沈められる。
抱えてくれる温もりが、やさしくて嬉しい。なんだか幸せで、周太は微笑んだ。
「あのさ、…訊きたい事あった」
穏やかに微笑んで、なに?と目だけで宮田が訊いてくれる。
見つめられて嬉しくて、微笑んで周太は訊いた。
「どうして、あの木を…見つめていたんだ」
「周太の山茶花のことか、」
そうと周太が頷くと、きれいな笑顔で答えてくれる。
「香に惹かれたんだ。それで見上げて、もっと惹かれた」
「そう…なのか、」
そうだよと微笑んで、きれいな切長い目が見つめてくれた。
「凛としてきれいで、惹かれる香りに佇んで、周太に似ている」
「そう、かな…」
あの木は自分も好きだから、そんなふうに言われると嬉しい。
ただ微笑んでしまう周太に、そっと宮田が教えてくれた。
「困難に打ち勝つ、それが周太の花言葉。ほんと似合ってる」
「ありがとう…でもよく知ってるな、花言葉なんて」
宮田は美形で、こういう台詞は似合うと思う。
けれど性格は物堅くて実直だから、花言葉を知っているのは意外だった。
そうしたら、種明かしだよと宮田が笑って言った。
「お母さんがさ、周太の言葉だからって贈ってくれたんだ。これと一緒にね」
はいと見せられたのは、鍵だった。
どこの鍵だろう。
そう思って見たキーウェイの、刻み方になんだか見覚えがある。
「この家の合鍵だよ、」
嬉しそうな声と、きれいな笑顔。
笑いながら、やさしく抱きしめて、静かに見つめて言ってくれる。
「この鍵は、ずっと大切にする。だから隣にずっといさせて」
今日は11月3日、自分の誕生日。
今日は母が13年ぶりに、心を開いた日。
そしてこの隣が、この家の鍵を受け取った日。
自分だけじゃなくて、この家ごと、この隣は背負ってしまった。
父の真実も辛い現実も、母の痛みも喜びも、そして自分の背負うもの。
すべて抱きとめて軽々と、こんなふうに笑って背負ってくれる。
この隣の、きれいな笑顔。
どうかずっとこのままで、きれいな笑顔のままで、隣にいてほしい。
その為にならきっと、自分だって何でも出来る。そんなふうに思えてしまう。
きれいに笑って周太は、穏やかに隣へ告げた。
「ずっと約束して、ずっと隣で大切にしていて」
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本当にすごい速さでかっこいい男になったんだなと実感です。
もう、何が起ころうとも湯原には宮田がいれば大丈夫なんだと思いました。
そう言ってもらえて大喜びです。笑
山岳と青梅署管轄の、厳しい現実の中で宮田は生きています。素直な心の宮田だからこそ、与えられる分だけ成長も速く大きいです。