夜明の直前が、いちばん暗い。

黎闇、輪郭―side story「陽はまた昇る」
5時半のアラームで英二は目を覚ました。
カーテンを開けると、稜線は闇の底へ沈んでいる。
今日は岩崎と、大岳山の巡回へ行く。その前に御岳山の巡回を済ませるつもりだった。
食堂へ行くと、今日は週休の国村がもう座っていた。
「やけに早いな、」
お互い同時に言って、笑ってしまった。
大岳の前に御岳の巡回へ行くと話すと、国村が感心してくれた。
「宮田くんも、タフになったよね」
そういう国村は常に、息切れする姿を見せたことがない。
つい昨日も二人で行った、ボルダリングの自主トレでもそうだった。
英二が1/3も登らないうちに、もう頂上から飄々と見下ろしてくる。
このひとサルなのかなと、英二は心中呟く時がある。
本気を出せばファイナリストになれる。
そう後藤副隊長に言わせる程の実力を、国村は持っている。
けれど国村の素顔は、祖父母と共に梅林と蕎麦畑を営む、兼業農家の警察官だった。
たぶん週休の今日は、実家で農業青年になるか、山に登るかのどちらかだろう。
「国村さん、今日は山?それとも畑?」
「どっちとも言える」
笑って国村が答えてくれた。
「あのね、柿もぎなんだよ」
「柿?」
そうだよと笑いながら、国村は教えてくれた。
「ツキノワグマが奥多摩には多いだろ。それがね、庭木や畑の柿を食べにくる」
ああと英二が頷くと、国村がわかっただろと目で笑った。
後藤副隊長も、その話をしていた。
奥多摩には数十頭のツキノワグマが生息していると言われている。
奥多摩にある東京都所有の水源林。そこにはブナやミズナラといった広葉樹林が多い。
そこがツキノワグマの生息地になっている。
そして、最近のクマは人を恐れなくなった。けれど、クマが人家近くに来れば、人身事故の可能性も高くなる。
「柿や栗を採らない家が、最近は多いだろ。事故予防のために、青年団で採りに行くんだよ」
それで今日は俺も当番なんだ。そういって国村は卵焼きを口に放り込んだ。
そういえば秀介の家にも柿の木があった。
田中の遺作にも、柿の実の写真がある。朝陽にすける朱色が、美しかった。
朱色と言うと、英二は懐かしい姿を想いだしてしまう。
その色に、すぐ首筋や頬を染める、あの隣。誕生日は夕方と夜と、きれいで幸せだった。
今夜は関根達との飲み会で会える。でもその前に少しでも、あの隣を独占めする時間をとりたい。
そんなことを考えていたら、国村が唇の端をあげて笑った。
「宮田くん、顔、エロくなってる」
いつもながら国村は鋭い。この男はこう、どうして鋭いのだろう。
でも指摘は本当の事、別に嫌じゃない。きれいに笑って英二は答えた。
「そう?まあ俺、エロいから」
笑ったまま英二は、茄子炒めを口に放り込んだ。
あははと笑って、国村は茶を啜ってから口を開いた。
「こういう話でも爽やかだね。そういうとこいいよな、宮田くん」
雲取山の訓練で国村は、携帯の繋がる場所を教えてくれた。
そして、ついこの間の夕食時。藤岡が言ったことから、たぶん気づかれている。
けれど国村は厭味にならない、飄々とした明るさがいい。
そのうち話す事もあるのかな。そう思いながら2杯目の丼飯を平らげた。
いつもより早い時刻の御岳山は、やわらかな曙光に眠っていた。
今日は急がないといけない、早いペースで歩きだす。
天狗岩まで登った時、東から太陽が射しこんだ。
きれいだなと光の線を辿ると、青い花が一群、咲いている。
見覚えのある姿に、英二は片膝を付いた。
田中の最後の一葉、氷雨に咲くりんどう。
あの隣の姿を重ねた花は今、朝陽の温かさに凛と穏やかに咲いている。
こんなふうに周太にも、今日の一日を穏やかに過ごして欲しい。
ここからも遠く望める市街地へと、そっと英二は祈った。
御岳駐在所を7時半前、岩崎の運転するミニパトカーに乗った。
昼過ぎには戻りの予定で、岩崎の妻に留守番を頼んでいく。
「お腹ふさぎにね、」
そう言って、握飯を持たせてくれた。
こういう細やかさが、駐在所夫人の適性なのかもしれない。
岩崎夫婦は寄り添う姿が温かで、いいなと思える。
自分と周太は、どんなふうに見えるのだろう。
普通の夫婦とは違うけれど、温かい姿であったらいい。
岩崎と話しながら、そんなことを英二は考えていた。
登計峠に8時前に着いた。
鋸尾根から鋸山頂と大岳山頂を通り、芥場峠までを往復する。
「普段の巡回は鋸山頂から御岳山までだが、鋸尾根は知っておくほうがいいだろう」
鋸尾根には大きな岩場がある。迂回ルートなどもあるが、滑落事故が多い。
田中が亡くなった氷雨の日、昼間に岩崎から教えられた事だった。
足許をきちんと固めること。
それは登山の基本だが、それを怠る登山客も奥多摩には多い。
「登山靴の紐を確認しておけ」
「はい、」
きちんと硬く結ばれている。
もうじき1ヶ月半、随分この靴も馴染んだ。
こういうのは、なんだか嬉しい。そう思いながら英二は、腕時計の高度メモリーをセットした。
奥多摩への卒業配置希望を出した時、英二は時計を買換えた。
卒配希望が通るか解らなかった。けれどその時から、クライマー仕様の腕時計をずっとしている。
方位計測に気圧・温度計測、高度計測。
高機能になると高くて、本命は買えなかった。けれど、これも気に入っている。
最近は、文字盤フレームの濃紺が、りんどうの色と似て良いなと思っている。
そして1ヶ月以上をこの時計と過ごしてきた。
高度メモリーは特に、今の自分にとって心強い。
地図の等高線と照らし合わせて使用することで、登下降した高度の確認ができる。
また、1時間ごとに高度差表示をリセットすれば、1時間で登れるペース把握もできる。
そうした記録は、無理のない登山計画を立てることにも役立つ。
歩きだして直ぐの天聖神社付近で、急坂になった。
足運びは速いが、口調はゆったりと岩崎が教えてくれた。
「登山口に近いからな、下りだと気の緩む場所になって、スリップも多い」
こういうポイントは、雨天や降雪時は特に、スリップの危険度が増す。
その後も鉄梯子が数か所、鎖場と、危険個所が続いた。
これから迎える冬山シーズンのために、岩崎はこのルートを選んだのだろう。
鋸山頂に着いた。ここは大岳山と御前山への分岐になる。
英二は腕時計の高度メモリーを、ここでまたセットした。
登りルートでは、尾根の分岐点などの重要ポイントの標高を、任意に記録していく。
そして下りの時には、この記録ポイントの標高を確認しながら下る。
そうすることで、ルートを外れて下り過ぎることを防ぐ。
今日は岩崎がいるが、いずれは単独で巡回する。
奥多摩の山は、仕事道や巡視路が縦横に走っている。そうした道の錯綜が、道迷いを生じやすい。
ポイント記録は捜索の時にも役立つだろう。そんな理由で、今歩く道もデータにしておきたかった。
そんな英二の様子を、岩崎は微笑んで眺めながら声をかけた。
「よし、宮田、いくぞ」
「はい、」
岩崎の笑顔はいつも頼もしい。
自分もこんなふうに、少しでも早く一人前の山ヤの警察官になりたい。
ひとくち給水をしてから、また大岳山へと歩き出した。
前を歩く岩崎の背中が、大きい。
身長178cmだと言っていた、182cmの英二より少し低い。けれど岩崎の背中はずっと大きく見える。
岩崎は御岳駐在所長に赴任前、山岳救助レンジャーとして第七機動隊に在籍していた。
逮捕術の特別訓練員でもあったと聞いている。
2つの訓練と、救助レンジャーの任務で鍛えられた体躯。ちょっと憧れるなと、眺めながら英二は歩いていた。
警察学校時代、英二は、逮捕術は元々苦手だった。
けれど学内警邏の時に、高校生のケンカ仲裁が出来なくて、悔し泣いた事がある。
それがきっかけで、中の上くらいになった。周太に練習の相手をしてもらったお蔭だ。
藤岡も言うように、周太は武道も強い。
自分よりだいぶ小柄な周太に、いつも投げ飛ばされていた。
今思うと、ちょっとみっともないと思う。
今もきっと武道は敵わない。けれど力なら絶対に負けない。
在学中の山岳訓練では、周太を背負い続けられなかった。けれど今はもう、軽々と抱えられる。
あの頃は、心ごと背負わせてほしいと思っていた。
もう今はきっと、背負わせてもらえている。
―困難に打ち勝つ、それが周太の花言葉
先週は周太の誕生日だった。
その日、周太の母から、花言葉と一緒に合鍵を贈られた。
贈ってくれた彼女の言葉は、ひとつひとつが、きれいだった。
―何があっても受けとめて、決してあの子を独りにしないで
あの子の純粋で潔癖で、優しい繊細な心。それを見つめ続けて欲しい
本当は、罵られても文句は言えないと思っていた。
男同士で警察官、普通じゃない関係だと解っている。
大切なひとり息子を、そこへ引き擦り込んだのは自分だから。
―あなたなら、息子と同じ男で、同じ警察官のあなたなら
きっと息子の世界に入って寄り添って、息子を救う事が出来る
本当は普通の幸せを、彼女も願いたかっただろう。
けれど彼女は、そう祈らざるを得ない現実に生きている。
それが切なくて、悲しい。
それでも自分は、あの隣を離さない権利を得られて、喜んでいる。
そういう自分は狡くて、独占欲が強すぎる。
それでも、隣への想いは手離せない。ほんの少しの後悔すら、自分は出来ない。
そして、そういう自分を、彼女は解って受け入れてくれた。
―そして我儘を言わせて欲しい、どうか息子より先に死なないで
そして今度、またここへ帰って来て。約束よ。お帰りなさいって言わせて
母親としての愛情、人としての美しさ。
彼女は息子だけではなく、自分にもそれを向けてくれる。
そういう彼女の想いに、全て自分は応えていくだろう。
過去も現実も、それからこれからも。
周太を、周太の背負うものを、周太の家も、全てを受けとめていく。
それが自分の罪滅ぼし、そして、与えられた権利だと思う。
豊かに枝交す梢から、午前中の陽光が清々しい。
秋涼にも瑞々しい笹藪を、左右に見ながら道を辿る。
こんなふうに山を歩いていると、いつも考えが廻りだす。
そしていつも必ず、周太のことを想ってしまう。
周太の誕生日、周太の部屋で抱きしめた。陽光あたたかな時と、月のしずむ時。
どちらの時も、周太はきれいで、いとしくて、止められなかった。
別れ際の夜明け、庭先で周太は見送ってくれた。
きっと周太の体は辛かった。見送らなくていいと言いたかった。
それでも、一瞬でも多く顔を見ていたくて、断り切れなかった。
暁に白く明るい山茶花の下で、周太の笑顔はきれいだった。
本当はあのまま、浚って連れて来たかった。
右掌で救助服の胸元にそっとふれた。
グローブ越しに、固い感触がかすかに触れる。
細いけれど頑丈な革紐で、あの鍵を通して首にかけてある。
ちいさな鍵。けれど英二には、得難い大切な鍵だった。
岩場混じりの急坂を登ると、大岳山頂に着いた。
標高1,262m、開けた展望をそのまま通り抜けて、芥場峠へと向かう。
時計は11時前を指している。良いペースかなと、岩崎が笑ってくれた。
危険個所には鎖場が設けられている。急斜面のトラバースも交えながら進む。
ゆっくり歩けば問題ないだろうが、凍結の始まる季節はもう近い。
このポイントもまた、帰ったらメモしておこう。
そう心に留めながら英二は、確実に素早く足を運んだ。
芥場峠から下の斜面を下ると、御岳のロックガーデンになる。
今日はここから往路へと引き返す。
登りと下りの感覚差と、道確認をするためだった。
大岳山頂に戻ると11時半過ぎだった。
昼にするかと岩崎が言い、二人で岩場に座る。
開いた英二の包みには、大きな握飯が5個並んでいた。
あたたかな岩崎の笑顔が、楽しげになった。
「最近、宮田も食うからなあ」
「はい、」
この1ヶ月ちょっとで、英二は食事の量が増えた。
相変わらず細身だが、体重が増えて体脂肪率は減っている。
筋肉質になったせいだろう、体を動かすと余計食べるようになった。
そのあたりも、岩崎の妻は気遣ってくれる。
そういうのは嬉しい、ありがたく英二は頬張った。
富士山が美しかった。
すこしかすんだ青い姿は、優美で雄大に裾引いている。
奥多摩は富士山の眺望が美しい。
眺めながらいつも、周太に見せたいと思ってしまう。
食べ終わって水を一口飲んだ時、無線が受信になった。
岩崎の無線も受信になっている。
ほぼ同時の受信、おそらく遭難事故の発生連絡だろう。
「起きたかな、」
呟いて岩崎が無線をとった。英二も岩崎に倣う。
奥多摩交番の畠中が、英二にはかけてくれていた。
「海沢のネジレの滝下流で滑落だ。沢を渡ろうと落ちたらしい」
海沢探勝路はこの大岳山の裾野になる。
ここからなら急行出来る。そう考える横で、急行と無線に答える岩崎の声が聞こえた。
空いている方の手でザックをまとめながら、無線へと英二も応えた。
「了解。現在は大岳山頂です。ここから急行します」
「あ、今日は宮田くん、岩崎さんと大岳の巡回練習か」
急に無線の向こうが和やかになり、ちょっと可笑しかった。
そうですと英二が答えると、畠中がすこし安堵の声で話す。
「遭難者は足を怪我して動けないらしい。あの救急用具は今あるか?」
「はい、」
よかったと畠中が笑う気配がして、無線を受け渡すような音が聞こえる。
誰かと無線を替ったらしい。なんだろうと思いながら立ち上がると、後藤の声が聞こえた。
「宮田くん、怪我の手当ては慣れてるな」
「はい、」
岩崎と目で合図しあって歩きはじめる。
その耳に、後藤の楽しそうな声が言ってくれた。
「遭難者はすこしパニックを起こしている。足と一緒に、気持ちも手当てしてやってくれ」
後藤らしい。ふっと心が和まされる。
こういう後藤が英二は好きだ、やっぱり尊敬してしまう。
そういう後藤に、こんなふうに言ってもらえて、嬉しかった。
きれいに英二は笑った。
「了解。副隊長、ありがとうございます」
「おう、頼んだよ。俺ももう出るから」
無線を切ると岩崎が笑いかけてくれた。
「後藤さん、俺と話していたのに、宮田だって言って、切っちゃったんだよ」
「そうなんですか?」
そうだよと笑ってくれる。
後藤は、一流の山ヤで最高の山岳救助員だけれど、そういう軽やかさがある。
そういう所も英二は好きだ。
このあいだ後藤さんと飲んだんだけど、と岩崎が続けた。
「宮田は息子みたいで、かわいいってさ」
「副隊長が?」
ああと言って岩崎が笑う。
歩きながら大きな掌で、英二の肩をぽんと軽く叩いてくれた。
「俺もさ、弟みたいで、かわいいよ」
あたたかい岩崎の笑顔が、英二は好きだった。頼もしい背中は、超えたいと思わされる。
後藤は一流の山ヤで山岳救助員で、ブナの木を自分に譲ってくれた。
そういう人達に、こんなふうに自分が思ってもらえる。
自分は身勝手で直情的で、思ったことしか言えなくて出来ない。
その果てに、実の母親に拒絶されてしまった。
あの隣の為に選んだ結果だから、後悔なんか少しも出来ない。
それでも、実の母親を悲しませた自分は、罪深いと解っている。
それなのに、こんなふうに言ってもらえる。そのことが嬉しくて、きれいに英二は笑った。
「嬉しいです。でも、似ていないですよ」
「なんだ、お前。まあ確かに、俺は美形じゃないよ」
素直な英二の言葉に、岩崎が笑って冗談を返してくれる。
人の温かさが嬉しい、素直にありがたいと思う。笑う英二の、切長い目の底が熱くなった。
海沢探勝路の遭難者は50代女性、左足首捻挫と擦傷だった。
岩崎と二人で安全な場所へ移し、全身と意識の観察をする。
怪我は深刻ではないけれど、顔色が悪い。
履いているのは、気軽なウォーキングシューズだった。
軽装からして気楽な気分だったのだろう、それが事故になって動揺している。
微笑んで英二は、彼女の顔を覗きこんだ。
「大丈夫です、これくらい大したことじゃないです」
「…でも、こんなに騒ぎになって、…夫に叱られるかも」
涙眼で彼女は訴えてくる。
自分の母親と同年輩の女性に、どうかな。
そんな事を思いながらも、胸ポケットからオレンジ色のパッケージを出した。
片手では吉村医師から譲られた救急道具を準備しながら、右手だけで一粒とりだす。
「掌を出して下さい、」
言いながら、そっと彼女の掌をとって飴を乗せてやった。
それから彼女の目を見て、英二は微笑んだ。
「私にとって、元気になる飴なんです。お恥ずかしいですけど、良かったら召しあがって下さい」
「…まあ、」
すこし目を見張って、英二を見つめてくる。
そのまま見つめ返しながら、英二は笑った。
「こんな大の男が飴なんて、おかしいでしょう?どうぞ笑って下さい、そして少し元気になって下さい」
いいながら英二は、擦傷の手当てを始めた。
それから固定包帯をとりだして、腫れあがった足首の処置をする。
手際良く動く、英二の長い指を見ながら、彼女は飴を含んだ。
「…おいしい」
ほっと彼女が笑ってくれた。瞳が随分と落着いている。
良かった。これで落着いて、彼女は下山できるだろう。
包帯の巻き終わりを整えながら、英二はきれいに笑った。
「やっぱり笑顔の方が素敵です。だから笑って山を降りましょう」
「…はい、」
はにかんだ様子で、けれど元気そうに笑ってくれた。
海沢駐在所の田辺も駆けつけ、対応してくれる。
すっかり落着いた彼女は、無事に下山して市立病院へと搬送された。
別れ際に礼を述べてくれた彼女に、微笑んで英二は言った。
「どうぞお大事に。次に奥多摩へ来る時は、ぜひ登山靴でいらしてください」
「はい、登山靴で、また来ます」
素直に頷いて彼女は笑ってくれた。
良かったなと見送って、気が付いたら田辺と岩崎が笑っている。
なんだろうなと思っていると、トンと岩崎に指で額を押された。
「宮田はさ。適性あるよな、ホント」
「そうですか?」
真面目に答えたのに、また二人に笑われる。なんだか腑に落ちない。
そんな英二の顔を見て、田辺が可笑しそうに答えてくれた。
「遭難者はまず落着かせて、元気にさせるのがいいだろ?」
「はい、」
「宮田くんはさ、女性受けがいいだろう?だからな、女性遭難者には、特に効果的にってこと」
なるほどと英二は思った。
確かに自分はこんな風貌だから、女性に受けることは知っている。
けれどそれが、仕事にも役立つとは思わなかった。
それは嬉しいことかもしれない、英二は笑って頭を下げた。
「なんでも適性があるなら嬉しいです、」
「そうだな、」
岩崎が笑いながら、軽く肩を叩いてくれる。
こういう雰囲気が、ここはいいなと思える。
こんなふうに1ヶ月と少しで、自分を成長させて、今の自分にしてくれた。
今夜また話す事が出来たな、思いながら英二は微笑んだ。
新宿で20時からの約束になっていた。
定時に駐在所を出て寮へ戻ると、ざっと汗を流して私服に着替えた。
それから青梅線に乗って、周太へとメールした。
今日の周太は日勤で、午前中は術科センターでの訓練に行くと言っていた。
そのことが気になる。
先週の全国警察けん銃射撃競技大会。
あの時に周太を見ていた男が2人いた。
50代刑事風の男と、40代半ばで小柄だけれど闘士型体型の男。
40代の男はたぶん、SAT幹部だろう。
彼が実際に動くなら、本配属が決まる時になる。
術科センターに様子を伺いには来るかもしれないが、今はそこまでだろう。
けれどもうひとりの男。
年恰好から周太の父の同期ではないかと、英二は考えている。
周太の父が殺害された事件。それを彼が知っている可能性がある。
たぶん彼は、犯人の居場所を知っているだろう。
13年前の事件を、英二は自分でも調べている。
過去の事件ファイルから、周太の父の殉職事件をトレースした。
刑事課のファイルを見たかったけれど、自分の権限では難しい。
けれど英二は、青梅署刑事課の澤野に協力を願って、情報を手に入れた。
澤野は、縊死自殺の死体検分の時、英二に立ちあった刑事だった。
その縁で英二は、澤野とは親しくしている。
現時点での英二の知人で、刑事課所属は澤野しかいなかった。
13年前の事件に関連するファイルを見たい。
申し出ると英二は、澤野に目的を訊かれた。
「13年前の事件の為に、悲しい人生を増やしたくありません。目的はそれだけです」
思っている事をそのまま、率直に英二は答えた。
訊いた澤野は黙って頷くと、ファイル閲覧のPCを開いてくれた。
一緒に検索してメモをとり終わると、澤野は英二の目を見て言った。
「宮田の目は、きれいで真直ぐだな」
「そうですか?」
微笑んで英二が答えると、澤野が笑ってくれた。
「また、きれいな笑顔だな。こんな俺でも信用したくなる」
こんなふうに、信じてもらえることが、心からありがたい。
自分はまだ卒配から1ヶ月と1週間しか経っていない。本当に小さな存在だと解っている。
こういう協力がなければ、周太を守ることは難しいだろう。
だから信用が、ほんとうに嬉しい。
「ありがとうございます、」
英二は心から頭を下げた。
そして真直ぐ澤野を見て、きれいに笑った。
車窓には、夜に沈む奥多摩が流れていた。
視線だけ外へ向けながら、澤野の協力で得た情報を、頭の中で眺めていく。
50代のあの男と照合できる名前が、一つだけある。
彼は周太の父と同期で、刑事で、当時は新宿署勤務だった。
そして犯人の今の居場所も、おおよその見当がついていた。
この間の競技大会で彼は、周太に気がついた。
そして、周太と犯人が接触する可能性に気付いただろう。
その事を恐れて、なるべく早く彼は周太に接触する。
きっと彼は、犯人の居場所を周太には、隠そうとするだろう。
けれどそれは逆に、周太に気付かせる事になる。
周太は自分でも事件を調べている、あと少しのヒントで犯人に辿りつくだろう。
それを彼は、解っていない。
競技大会が終わって一週間、今のところ周太の様子に変化はない。
けれど今日は、競技大会後では最初の、周太の訓練日だった。
接触するなら今日以降の可能性が高い。
そのことが気になって今日は、少しでも早く会いたかった。
飲み会いつにすると、関根に訊かれた時。そんな理由で、今日にしてもらった。
周太は「約束」をとても大切にする。
飲み会の約束があれば、何があっても周太は、他の場所へはいけないだろう。
もし今日に彼と接触しても、約束が周太を引き留める。
本当は自分では、手に負えないことなのかもしれない。
けれど自分は諦めが悪くて、独占欲も強くて、身勝手だから。
だから、こんなことで、失うつもりなんか少しも無い。
直情的な自分は、思ったことしか言えない。
けれど、それが逆に人を惹きつけて、思うように動いてくれる。
要領よく生きる事はやめた。けれど、能力は相変わらず要領が良い。
それに自分は結構図太くて、そして狡い。
だからきっと、あの隣との約束を守りきれる。そんなふうに英二は、自分を信じていた。
握ったままの携帯が振動して、英二は開いた。
待っていた名前が、受信されている。
そっと開いた文面に、英二は微笑んだ。
南口改札の向こうに、懐かしい姿が佇んでいる。
フード付のニットカルゼGジャンが思った通り、かわいかった。
長い手足を捌いて、さっさと英二は周太の目の前に立った。
「おつかれさま、」
「ん、おつかれ」
笑って見あげてくれた周太の、瞳がすこし寂しげだった。
何かあった。
すぐに勘付いたけれど、あえて英二は、今は訊かない。
そうして微笑んで、周太に言った。
「俺さ、急な遭難救助で、腹減っているんだ。いま軽く食いたいな」
「ん、いいよ」
黒目がちの瞳が微笑んで、頷いてくれる。
頷いた襟足が、シャツのあわいブルーに惹き立ってきれいだった。
いつもならそこで眺めるけれど、英二は周太の瞳を見つめて訊いた。
「何食いたい?」
「…サンドイッチ、かな」
間があって周太が答えた。
けれど英二は、周太の瞳を見つめたまま、笑って言った。
「俺、ラーメン食いたい。いつもの店に行こうよ」
「…っ」
軽く息を呑んだのを、英二は見ていた。
けれど微笑んだまま、周太の腕をかるく掴んで歩き始めた。
「…あ、あのさ」
視線が横顔にささる。
どうしたと、いつも通りに振り向いた。
「あの店、今日は、休みらしいんだ」
「へえ、なんで周太、知っているんだ?」
「昼間に行ったら、休みだった」
ふうんと軽くうなずいて、英二は言った。
「あの店うまいのに、食えなくて残念だったね、その人」
「ん、」
頷いて、周太がはっと息を呑んだ。
黒目がちの瞳が俯いていく。
英二は長い指の掌で、周太の右腕を強く掴んだ。
「おいで、」
呟くように英二は言って、東口方面へと歩き始めた。
周太の腕を掴んだまま、英二は歩いていく。
掴んだ腕が、かすかに震えている。
それでも英二は気づかない顔で、書店のビルへと入っていった。
エレベーターを4階で降りる。
医書センターのカウンターに真直ぐ向かって、英二はメモを取りだした。
借りた専門書を返しにいった昨夕、吉村医師が書いてくれたメモだった。
すみませんと微笑んで、カウンターの中へと声をかける。
「この本を頂きたいのですが」
「はい、少々お待ち頂けますか」
店員は眺めて、手早く検索してくれる。
5分後には、目的の書籍を数冊、紙袋へと入れてくれた。
書店にいる間、英二は周太に何も話しかけなかった。
ただ黙って微笑んで、腕を掴んだまま離さないでいた。
店を出て時計を見ると、19時半前だった。
周太の右腕を掴んだまま、英二は歩きだす。
俯く隣の歩調がだんだん遅くなる、それでも英二は黙っていた。
南口のテラスエリアまで戻って、そのまま歩く。
そこのコーヒーショップの扉を英二は開けた。
書籍の紙袋を肩にかけながら、カウンターへと英二は微笑んだ。
「オレンジラテと今日のお勧めをブラックで。テイクアウトにして下さい」
やっと隣が見上げてくれた。
無言のまま微笑みかけた英二に、すこし微笑んでくれる。
片手でコーヒーを2つとも受取って、英二は外へ出た。
一番隅のベンチに座って、片方を周太に渡す。
「…ありがとう」
ちいさく言って、紙カップに口をつけてくれた。
ふっとオレンジの香りが、夜闇にただよう。
掴んだままの右腕の、震えがすこし治まってきた。
英二もブラックコーヒーを啜った。
ちょっと遅刻するだろうな。
そんなことを思いながら英二は、眼下を走る列車の明りを見つめていた。
このベンチは見晴らしがいい、周りには人が隠れる場所も無い。
そして人通りも少なくて、静かだった。
コーヒーが1/5ほど減った頃、ふっと隣の空気が穏やかに変わった。
そろそろ話してくれるかな。ゆっくりと英二は隣を振り向いた。
「…父の、同期だって言う人に会ったんだ」
ことんと英二に確信が落ちた。
やっぱり今日だった。もう言われなくても、何があったのかが解る。
けれど英二は、静かに頷いた。
「…うん、」
「術科センターで、訓練が終わった時、その人が来た。安本だと名乗った」
穏やかに英二は隣を見つめた。
掴んでいる右腕から、強張りが抜けていく。
「昼を食べながら、話そうと誘われて。でも俺、今日は日勤だからって言った」
「うん、」
「じゃあ新宿で飯食おう、そう言われて…あの店しか俺、知らないから」
周太は店をあまり知らない。
何回か行って知っているのは、あのラーメン屋だけだろう。
そういうところが、かわいいな。
こんな時なのに、そんなことを考える自分が、英二は可笑しかった。
「そうだな、」
少し笑って言った英二に、周太も少し笑ってくれた。
それでねと周太は続けた。
「で、行ったら、臨時休業だったんだ。そうしたらなんか、知っている店だったみたいで」
「安本さんが、知っていたってこと?」
「ん、新宿署に居たから、知っているって」
そうなんだと相槌を打ちながら、英二は内心舌打ちをした。
新宿署に居たことを、自分から安本はバラしてくれた。
こんなヒントを易々と、周太に与えてしまうなんて。
そういう人の良さは、職務質問や取り調べには向いている。
けれど今この件では、はっきり言って迷惑だ。
安本のフルネームは、安本正明。
13年前のデータから、その名前はもう知っている。
けれどまだ、そこまで周太は気がついていない。
けれどすぐに気付くだろう、明日か明後日には。
周太は純粋で本質は人を疑わない。だからこそ、立籠り事件でも安西を信用してしまった。
けれど周太は、聡明で、怜悧だ。
「あと、ここは前に食中毒出したよ、とか言われて」
「ふうん、そうか」
微笑んで答えながら、英二は安本を嘲笑したい気持になった。
あのラーメン屋には、幼い頃から英二は通っている。
英二の父が常連だったから、そのまま英二も常連になった。
父が通い始めたのは、学生時代だから30年以上になる。
新宿署に安本が赴任する以前から、父は通っている事になる。
けれど、そんな話は、聞いた事がない。
そして記憶がひとつ、引き出される。
あの店の主人は代替わりをした、それは何年前だったろう?
たぶん、自分の推測は正解だろう。
飲み会の合間にでも、姉に電話で訊けば、正解だと確定する。
こんなことになるとはね―英二は少し笑った。
運命というものに少し呆れ、そして感謝できる。
そして確信が出来る、やっぱり自分はこの隣を、救うことが出来るだろう。
そうでなければこんなふうに、自分に有利に事は、運ばない。
「…あのさ、みやた」
隣がぽつんと呟いて、英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
物言いたげで、困った顔をしている。
かわいいな。そう思った時には、そっと唇を重ねていた。
すぐに離れて、英二は微笑んだ。
「よく話せたな、周太。話してくれて、嬉しかった」
「…ん、あの、おこってないのか」
なんで?と目だけで訊いてみる。
自分が怒るとしたら、理由は二つ考えられる。
けれど周太の口から訊いてみたかった。
言いにくそうに、けれど素直に周太は口を開いた。
「その、他の人とあの店、行ったし…父の同期と会ったことも、隠そうとして」
両方言ってくれた。
でも先に「他の人と」が来るところが、かわいくて可笑しかった。
きれいに笑って、英二は周太の前髪に指を絡めた。
「もう怒ってない。ちゃんと話してくれたから、許す」
「…ほんとか?」
この隣はたぶん、英二は本気で怒ったと思っただろう。
そう思わせようと、わざと英二はそういう態度をとった。
周太は遠慮して、ひとりで抱え込もうとする癖がある。
けれど、英二に本気で怒られたら、きっと不安が勝って口を開く。
訊かされたことは全部、自分が先に解っている事だと知っていた。
それでも周太に、自分から話させたかった。
そうして話す事で、周太の信頼と安心を引きだしてやりたかった。
周太は、まだ不安のままでいる。
こういう時は、笑わせて信じさせようかな。
英二は目を細めながら、言ってみた。
「じゃあさ、怒っているなら、どうしてくれるわけ?」
言われた途端に、黒目がちの瞳が悲しそうになる。
こんな顔させるんじゃなかった、少しだけ英二は後悔した。
けれど周太が呟くように言った。
「…何でもする…だから許して」
こんな顔させても、こういう事を聴けるなら嬉しい。
かわいくて、可笑しくて、つい英二は意地悪を言った。
「じゃあさ、関根と瀬尾の前でキスしていい?」
みるまに隣が真っ赤になる。
どうしてこうも、初々しいのだろう。
かわいくて、嬉しくて、英二はそのまま唇をよせた。
約束の時間に20分ほど遅れた。
関根と瀬尾は先に呑んでくれていて、ちょっと英二は安心した。
「おう、久しぶり」
相変わらず快活に笑いながら、関根が瀬尾の隣へと移動してくれる。
英二は周太を奥へと座らせて、その隣に自分が座った。
相変わらずの優しい笑顔で、瀬尾が話しかけてくれた。
「相変わらず仲良しだね、宮田くんと湯原くん」
きれいに笑って、英二は答えた。
「ああ。卒業前より仲良いよ」
たぶん今、隣は赤くなっている。
それが解るのが、なんだか嬉しい。
飲む合間、英二はさり気なく外へ出た。
姉の番号を呼び出して、携帯を耳に当てる。
3コールで直ぐに出て、ひさしぶりと笑ってくれた。
ひさしぶりと微笑んで、英二は訊きたいんだけどと切りだした。
「あのラーメン屋。主人が変わったの、いつか覚えてる?」
お父さんが常連の店だよねと確認してから、姉が答えた。
「1年前かな?おやじさん亡くなって、弟子の人になったよね」
「その弟子って、いつから働いてたっけ?」
そうだなあと考える間があって、姉は言った。
「私が初めて見たの、たぶん3年前かな。大学のゼミが始まった時だから」
犯人は態度良好で刑期切り上げになっている。
切り上げ期間は3年。
そしてもとの懲役期間は、13年だった。
「そっか、」
切長い目が細くなる。
安本はもう、ミスをしてくれた。
けれど、まだ周太は気づいていない。
けれど、安本はもう、こんな簡単なミスをしてくれた。
きっとまた、隠そうとして逆に、ミステイクをするだろう。
競技大会の日、見かけた安本は人が好さそうだった。
たぶん嘘など、苦手なタイプ。
嘘をついてもどこからか、綻びが出てしまう。
だからもうこんなふうに自分には、安本のミスが解ってしまう。
周太は純粋で、本来の性質は人を疑わない。
安本が、周太の父の同期なことは本当だ。
安本が、周太を心配している善意も本物だろう。
だからまだきっと周太は、安本のミスにも気づいていない。
けれど周太は聡明で怜悧だ。
安本のミステイクがヒントになって、周太に気づかせてしまう。
たぶん今頃は、古巣の新宿署で、安本は根回しをしている。
それが逆に、周太にヒントを与えてしまうだろう。
きっと近々、周太は気づくだろう。
早ければ明日にでも。
明日は周太は当番勤務、明後日は非番になっている。
明後日は非番だけれど、午前中は訓練で、周太は術科センターへ行く。
明後日、周太には、射撃の特別訓練員として、拳銃使用許可がおりる。
blogramランキング参加中!




たった1ヶ月ちょいでこの成長ぶり、惚れ惚れします。
女性ウケする部分(それも対若い女性でないところがミソ)、仲間との飲み会、どれも読んでみたかった場面です。
けど一番はやはり、湯原のために全神経を張り巡らしてるあたりでしょうか。
安本より一枚上手感を滲ませていますが、ベテランが一筋縄でいくのか。期待が高まります。
また勘づいた湯原の言動も見逃せませんね。
宮田の湯原いじりがツボの私は、どうも宮田目線で展開にはまっている模様。
湯原を大切に思い、彼をどう支え、どう癒し、どう応えていくかに同調しっぱなしで、
作中宮田同様、湯原の出方にハラハラしています。
湯原がもっとぼんやりしてる男だったら良かったのに。
けど、本質は純粋で人を疑わず、
そして、聡明で、怜悧…この諸刃な感じが、これまた宮田を惹きつけるのかも。あれ?それは私だけ?(笑
この二人には、こうした波をいくつも乗り越えていって欲しいです。
青梅署管轄は手記を拝見すると本当に厳しい地域です。卒配での赴任はかなり高難度。
そういうところに一途な人間が放りこまれたら、こうなるかなあと。
読んでみたかった場面で、光栄です。
飲み会はこの後UPのanotherで詳細が描かれます。
安本と宮田は方向性が違う二人です。この二人の対峙も今週中には描かれます。
湯原いじり。笑 ツボ押せて嬉しいです。自分は国村のいじりも好きです。
湯原の魅力はアンビバレンツ。深春さんも宮田も惹かれるように。笑 彼もまた魅力的な男です。
たくさんの波がこれから現れます。