萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第30話 誓夜act.1―side story「陽はまた昇る」

2011-12-21 21:39:05 | 陽はまた昇るside story
いつも想いを、




第30話 誓夜act.1―side story「陽はまた昇る」

ときおり雪が、おだやかに頬を撫でる。
明日はホワイト・クリスマスになるかな。白く雪ふる夜空を見上げて英二は微笑んだ。
山の冷気は凍てついて、けれど顔を照らす焚火は温かい。のんびり雪染まる河原を眺めながら英二は酒を啜った。

「ほら、宮田。焼けたよ、腹減ってるだろ?食いなよ」

雪を眺めていた視界に、串うった鶏肉が差し出された。鶏に塗られた柚子味噌の焼かれた香が芳ばしい。
串を持つ白い手を振り向くと、細い目が愉しげに笑っていた。
そのもう一方の手には酒のコップを持って、国村はご機嫌でいる。
ほんと酒で山ならご機嫌だな、英二は笑って串を受取った。

「うん、ありがとう。でもさ、国村?ほんと、大丈夫なのかよ?」
「なにが?」

英二の問いかけに訊き返しながら、国村は焚火の具合を見ている。
そんな様子を眺めながら、ちょっと呆れて英二は尋ねた。

「あのさ、国村?今日はクリスマス・イヴで土曜日だ。
 そして今日は国村も美代さんも休みだろ?それなのにさ、俺達と河原でいつも通りにこんな、呑んでていいの?」

クリスマス・イヴで土曜日、だから美代と国村は一緒にいる。
元々は今日の英二が非番で国村が日勤だった、それを英二が周太の休みに合わせたくてシフト交換した。
そして藤岡も勤務日だった、だから普通に夕飯を寮で英二と藤岡は食べるつもりでいた。
けれど勤務を終えて吉村医師とコーヒーを淹れていたら、国村が掴まえた藤岡と一緒に現れた。

「あ、宮田。コーヒー3人前追加ね?」
「…国村、おまえ、クリスマス・イヴに休みの癖に、なにやってんの?」

そう呆れかえった英二の前に、きれいな明るい瞳で美代が「こんばんわ」と診察室の入口から微笑んだ。
それから5人でコーヒーを飲むと、いつもの河原に藤岡も英二も拉致されて飲み会が始まった。

そんなわけで英二は今、焚火の前に座っている。
ほんとに大丈夫か?そう首傾げる英二に、国村は底抜けに明るい目で笑った。

「うん、楽しいだろ?美代もさ、楽しい方が好きなんだよね」

相変わらず国村は、機嫌良く酒を飲みながら料理の具合を見ている。
ちょっとため息ついて英二は、河原のむこうを振り返った。
その河原縁で藤岡と美代が雪合戦に喜んでいる。そんな様子は可愛らしく無邪気で、楽しげな良い光景だと思う。
でも美代は本当に良いのだろうか?女性と付き合った数だけは多い英二としては、ちょっと心配になってしまう。
そんな英二の横で国村は、焚火で炙った鶏肉と野菜の串を確認して笑った。

「うん、焼けてるな、どれも。宮田、ちょっと2人呼んできてよ?飯出来たよってさ」
「あ、?うん」

言われて英二は串を地面に挿しコップを地面に置いて立ちあがった。
いくらか積った夜の雪の中で、藤岡と美代は頬赤くして笑っている。本当に楽しそうだな、微笑んで英二は声をかけた。

「飯が出来たって、国村が呼んでるよ?」
「お、うれしいな。俺さ、腹減ったなって思ってたんだ」

からっと笑って藤岡は、器用に雪を踏んで走っていってしまった。
藤岡は宮城出身で雪馴れしているから、いつも雪山でも上手に走るように歩く。
そういうとき英二はすこし羨ましい。いいなと眺めていると、美代が笑いかけてくれた。

「宮田くん、今夜もちゃんと楽しい?」
「うん、楽しいよ。でも俺はね、周太がいないとさ、やっぱ寂しい」

素直に答えて英二は微笑んだ。
美代も素直に頷いて、笑って言ってくれた。

「そうだね、湯原くんも一緒なら良かったのにね。私も会いたかったな?」
「うん、ありがとう。周太もね、美代さんには会いたいと思うよ?話すの楽しいって言っていたから」
「そう?…うん、うれしいな。私もね、湯原くんと話すの好きよ」

ゆっくり歩きながら、きれいな明るい瞳で美代が笑ってくれる。
その瞳を見ながら英二は、すこし遠慮がちに訊いてみた。

「今日はクリスマス・イヴだよね、恋人同士で過ごす人が多い。でも美代さんは今日、こんなで良かったの?」

訊かれて美代が可笑しそうに笑った。
そして英二の腕をそっと掴むと、背伸びするように英二にささやいた。

「あのね、光ちゃんと毎年こんな感じでイヴしているの。でもね、二人でちょっと寂しかったのよ?」
「どうして寂しいの?」

微笑んで英二は美代に尋ねた。
それを見上げる明るい瞳がすこし寂しげに微笑んで、美代はそっと口を開いた。

「うん…本当はずっとね、光ちゃんのお父さんとお母さんが、私達にこうしてクリスマス・イヴを楽しませてくれたのよ。
 だから亡くなってからはね、光ちゃんと私は、ずっと2人だけでしてきたの。それってやっぱりね、ちょっと寂しかった」

そう言って美代は、きれいに温かく笑ってくれた。
その笑顔と国村の想いが英二の心にふれて、切なくてどこか温かい。おだやかに微笑んで、英二は訊いてみた。

「国村のご両親だと、楽しかったろうな」
「うん、すごくね楽しかった。いつも毎年ね、楽しみだったの私。私ね、おじさんも、おばさんも、大好きなの」

懐かしげに微笑んで、きれいな瞳が温かい。
この娘は本当に国村と似合っているな、なんだか嬉しくて英二は微笑んだ。

「そんな大切な想い出の夜にさ、俺と藤岡が加わって大丈夫なの?」
「あのね、一緒できて本当に楽しいよ?私はね、うれしい。こういうのって良いね?」

明るい瞳が本当にうれしげに笑ってくれる。
こんな純粋な笑顔の女性は今時少ないだろう、こんなひとが自分の大切なパートナーの相手でいる。
きっと本当に国村と美代は運命の相手なのだろう、微笑んで英二は相槌を打った。

「そう?」
「うん、そう。だってね、光ちゃんがね、こんなに寛いで友達と話すのって、見たこと無いから」

すこし意外で英二は、美代の顔を見つめた。
いつも国村は朗らかで愉快で楽しい。だから山岳救助隊でも寮でも警察署でも、奥多摩の街でも人に囲まれている。
つい3日前だって、英二の雪山装備を選んだアウトドア用品店の主人たちと楽しげに話していた。
その様子は寛いでいないようには見えない。どういうことだろう?英二は美代に訊いてみた。

「あいつ、いつも、こんなじゃないの?」
「うん、ちょっと違うよ?たぶん宮田くんと一緒だと、どこでもこんなだと思うけど」

英二を見上げて美代は微笑んでいる。
その話を訊きたいな?そんなふうに英二が見つめると、美代は軽く頷いた。

「光ちゃんはね、友達たくさんいるのよ。でもね、ちょっと一線を引いているなって。
 光ちゃんは生まれつき山ヤでしょう?だから山ヤの気持ちが解らない相手だと、本当には話せないんだと思う」

「うん。…それって、なんか俺もわかるな」

山ヤには山ヤのルールがある、そして山ヤ同士の紐帯がある。
それはたとえ未知の相手でも山ヤが遭難すれば、近くにいる山ヤはすぐ救助に向かう。
そんな生命を懸けた連携が山ヤにはある。
そうした山ヤの想いが解らないと国村には難しいだろう。英二が頷くと美代も頷いた。

「でしょう?だからね、高校も山岳部は入らなかったの。
 同じ山好きだからこそ逆に自分とのペースの違いが解るみたい。
 それに光ちゃん生まれつき『山づくし』で生粋の山ヤでしょ?そんな人自体少ないし、高校生なら余計に、ね?」

「うん、そうだね」

国村は田中の四十九日の夜に「自分の山のペースを乱されたくないだろ?俺は我儘だからさ」と言っている。
そして国村は高校1年の夏にマッターホルン北壁を踏破した。
そういう国村が、普通の高校生レベルに合わせる事は難しいだろう。
加えて生粋の山ヤだからルールブックも「山の掟」が基盤でいる。
そんな国村が「山」を話題に本当に話せるのは、大人の山ヤだけだったろう。
なるほどなと納得していると、微笑んで美代が続けた。

「それにね、光ちゃんて律儀に年の差とか気にするところがあるの。
 国村の家は古い家だから、昔ながらの年齢の序列とか大事にするから、かな?
 だから、本音は同じ年じゃないと話し難いみたい。
 それでね、山岳救助隊で山ヤの先輩はたくさんできたけど、本当に遠慮なく話せる相手は見つからなかったの」

同じ年だからタメぐちで。そう言って国村は、英二と藤岡と話すようになった。
そんな国村は高卒任官だから英二達の4年先輩になる。
だから序列の厳しい警察世界では、当然敬語を遣う相手だった。
けれど国村は冗談じゃないねと笑い飛ばすと、タメぐちで話せと断言した。そうして話して親しくなる基礎が積まれている。
そうだったなと思いだしながら、英二は頷いた。

「ああ、国村はそうだね。だから俺や藤岡とは仲良くしやすかったかな」
「うん。同じ年で山ヤだから、ね?だから、光ちゃんにそういう友達が出来てね、私うれしかったの」

河原の雪と雪明りの御岳山を眺めながら、美代は微笑んだ。
美代はずっと国村と一緒に育っている、そんな彼女には国村の気持ちがよく解るのだろう。
こういう存在は国村にとって大切で宝物だろうな、英二は美代に微笑みかけた。
そんな美代は英二の目に笑いかけてくれる、そして口を開いた。

「でも宮田くんはね、やっぱりきっと特別よ。生涯のアイザイレンパートナーだから、ね?」

生涯のアイザイレンパートナー、それは山ヤとして大切な意味がある。
生涯をザイルで結びあい、生命を互いに預け合う。そしてどんな過酷な状況でも、お互いだけは見捨てない。
そんなふうに互いの運命と生命を結んで、責任と義務と権利を背負い合うことになる。

美代は「生涯のアイザイレンパートナー」として英二が現れたことを、どう受けとめているのだろう?
それを訊いてみたいと英二は想っていた。美代は国村の運命の相手で、そして美代と周太はどこか似ている。
きっと美代と周太の想いは重なるものがあるだろう、そんな彼女の想いを英二は聴きたい。
すこし微笑んで英二は美代に訊いた。

「美代さん、俺のこと聴いたとき、どんなふうに想った?」
「うん?宮田くんが光ちゃんの生涯のアイザイレンパートナーだってこと?」
「そう、」

頷いて英二は目だけで訊いた、あなたに俺の存在はどう映るの?
そんな英二の目を真直ぐ見つめて美代は、きれいに笑って言った。

「やっと出会えたのね?よかった、本当におめでとう。って想ったよ?」

明るい瞳が心の底から幸せそうに笑ってくれる。
わたしにとっても、あなたの存在がうれしいのよ?そんな目で美代は英二を見つめてくれている。
こんなふうに見つめて笑ってくれて、英二は嬉しかった。うれしくて微笑んで、英二は訊いてみた。

「美代さんも、俺のこと待っててくれたの?」
「うん、そうよ?」

きれいに笑って美代は頷いた。
そして英二を見つめたまま、言葉をゆっくりと続けてくれた。

「光ちゃんにアイザイレンパートナーが居てくれたら、光ちゃんは山でも1人じゃないでしょう?
 2人なら援け合える、そして光ちゃんが望むままに高い高い山にも登って行ける。
 そうして光ちゃんの夢をね、叶えて欲しい。
 それは若いうちから始めないと難しい夢でしょう?だからね、そういうひとに早く現れてほしいって想っていたの」

真直ぐな実直な目が英二を見つめてくれる。
そしてきれいな明るい目が笑って、英二に言った。

「でも光ちゃんって気難しいから、なかなか心を開かないでしょ?
 そんな光ちゃんはアイザイレンパートナーには、体格や技術だけじゃなくて『ホントの友達』まで求めていたのね。
 ほんとに信頼して寛げる相手じゃないと、自分が望むような過酷な山ではザイルを繋げない。そう想っていたのかな?」

田中の四十九日の夜に国村が言っていたこと。

 ―俺のペースに合わせられて、しかも俺と体格が同じ奴じゃないとね、俺はパートナーにしたくなかったんだ
  アイザイレンパートナーは一緒にいて楽なやつが良い。だって過酷な状況下で一蓮托生やらなきゃないからね

それと同じことを美代は言っている。そして心から国村の無事と夢を祈って、英二の存在を喜んでくれている。
けれど英二には抱えるものが多い、それも美代は大丈夫なのだろうか。思ったままに英二は訊いた。

「美代さん、俺はね?…周太を愛しているよ。そして周太の事情も全部背負っている、それは危険も多い事情なんだ」

きれいな瞳が、話す英二を静かに見つめてくれる。
やっぱりどこか美代は周太と似ている、そんな想いに微笑んで英二は続けた。

「それでも国村はね、俺を生涯のアイザイレンパートナーに選んだんだ。あいつね、こう言ったよ、
 『最高峰ほど危険な場所が世界のどこにある?
 そんな最高の危険へと俺は、アイザイレンパートナーとして宮田を惹きこんだ。
 これからの人生をより危険に惹きこんでいくのは俺の方だ。だから宮田の危険に俺が巻き込まれるくらいで調度いい』
 そんなふうに国村はね、俺を選んでくれたんだ。
 だからね、美代さん。俺はね、あいつにリスクを背負わせて、あいつの生涯のアイザイレンパートナーになったんだ」

それでもいいの?
そんなふうに英二は目だけで、きれいな瞳へと訊いた。
きれいな瞳は静かに英二を見上げてくれている。それは真直ぐに穏やかで静かな眼差しだった。
どこかそれは周太によく似ていて、英二は美代の瞳に周太の黒目がちの瞳を見つめていた。

「うん。大丈夫よ、宮田くん?」

美代の瞳が微笑んだ。
そして美代は、きれいな明るい瞳のままで英二に言った。

「光ちゃんの言う通りだと、私も想うな?
 だって光ちゃんの夢って、ほんとうに危険よね?だから光ちゃんが言う通り、それで調度いいのよ、きっと」

受けとめてくれた。
うれしくて申し訳なくて、そして幸せで英二は微笑んだ。

「うん…ありがとう、美代さん」
「ううん、こっちこそよ?光ちゃんの相手を一生するなんて、きっと大変ね?がんばってね、宮田くん」

軽やかに笑って美代が言ってくれる。
このひとは本当に国村に似合っているんだ、それが英二には国村の為に嬉しかった。
そしてもう一つ訊きたくて、英二は口を開いた。

「美代さんはね、そんな危険に国村が立つことは大丈夫なの?」
「そうね、ほんとうに危険よね?だって8,000mの高さから落っこちたら、ほんと大変だもの、」

からり明るい調子で美代が微笑んだ。なんだか少し国村にも似た口調に、可笑しくて英二は少し笑った。
きっとずっと一緒に育ったから話すトーンも似てしまったのだろう。そんな2人の繋がりが少し英二は羨ましい。
いいなと見つめる英二に、続けて美代は話してくれた。

「でもね、最高峰に立つことは、ほんとうに楽しいって想うの。
 だって世界でいちばん高いところから、世界を見渡すのでしょう?
 そこに自分の大好きな人が立って、自分を想ってくれる。それってきっと、世界一に愉快なことよ、でしょう?」

「うん、そうだな。世界一だね、」

頷いて英二は微笑んだ。
自分がいつも想うこと「最高峰から周太に想いを届けたい」
それと同じように国村も、美代に話してきたのだろう。きっと小さい頃からずっと。
この2人には幸せになってほしい、そんな想いが英二の心に温かい。そんな想いのままに英二は言った。

「美代さん。俺はね、国村の生涯のアイザイレンパートナーだ。だから約束するよ、あいつを必ず支えて守ってみせる。
 どんな最高峰に立った時でも、ザイルで繋いで守るよ。そして世界一に愉快なことを、あいつに一生ね、させるよ」

きれいな瞳が花咲くように笑ってくれた。
ときおりふる雪の中で美代は、きれいな明るい笑顔で静かに頷いた。

「うん、約束ね?ありがとう、そしてよろしくね」

自分の愛するひとに似た、きれいな瞳のひと。
そのひとの願いも背負ったな、そんな責任感と温かな想いが英二はうれしかった。
こうして背負うごとにきっと自分は強くなれる、賢く深くなっていける。
そうして周太の背負う哀しい運命だって、自分は明るい方へと変えてみせるだろう。
なぜなら背負う責任が、また誰かに援けてもらえる権利も与えてくれると知っている。

「こちらこそ、よろしくね、美代さん」

きれいに笑って英二は頷いた。
頷いていま背負ったのは、最高のクライマーの運命とその相手の想い。
それは大きな責任がある「最高のクライマー」は世界中の山ヤの夢で、そして自分の夢だから。
けれど、こんな大きな責任を背負った自分は、きっと大きな権利も得ただろう。
そう既に最高のクライマー自身が自分に言ってくれている、だから周太の運命すらも自分は変えられる。

だって最高のクライマーはきっと、世界最高の危険地帯から愛される運命の男。
そんな世界最高の危険にすら愛される男から、自分は望まれてその運命の横に並んだ。
そんな世界最高の危険の前では、きっと警察機構の危険など小さく儚いもの。
だからもう、自分はきっと周太の危険を越えられる。そう信じて越えていくだろう。

…周太、俺はね、最高の危険地帯に立つことをさ、選んだよ?

そんな想いに英二は空を見上げた。
ふる雪を生む雲がゆるやかに透明な紺青をながれていく。
その合間からふる星の輝きは、高く遠いけれど明りは静かに山へとふっていた。

「いま、湯原くんのことを想ってる?」

美代の声に英二はゆっくり横へと視線をおろした。
おろした視線のなかで美代は微笑んだ。そして、きれいな封筒を美代は差出してくれた。

「宮田くん。あのね、これを湯原くんに渡してくれる?明日は会うのでしょ?」
「うん、そうなんだ。明日はね、やっと周太に逢えるんだ」

そう、やっと逢える。
微笑んで英二は、登山ジャケットの胸ポケットから手帳を出してはさみこんだ。
そんな英二を見て美代は、微笑んで教えてくれた。

「あのね、先月に会った時の約束なの。味噌のレシピよ?あと、季節のお便り」
「あ、味噌ね?周太も言っていたよ。ありがとう、きっと喜ぶよ」

そんなふうに話しながら歩いて焚火へ戻ると、一升瓶はもう半分ほど空いていた。
その瓶から酒を注がれる藤岡が、いつも以上に笑い転げている。
それを見て美代が国村の隣に立った。

「光ちゃん?すごい呑ませちゃったんでしょ、藤岡くんちょっとハイテンション過ぎだよ」
「うん?そうだったかな。でも俺、無理強いなんかしてないけど?」

飄々と国村が笑っている。
その前では藤岡が人の好い顔のままで、真赤な顔をほころばせていた。
だいじょうぶかな?英二は藤岡の顔を覗きこんだ。

「藤岡、だいじょうぶ?おまえ、何杯呑んだんだよ?」

訊かれた藤岡は相変わらず笑っている。
もとが良い酒だから楽しげだけれど、まだ飲み会は始まって1時間程度だった。
そんな短時間で藤岡がこうも酔うなんて、どれだけハイペースなのだろう?
すこし心配になる英二に、機嫌よく赤い顔の藤岡が言った。

「えっと?そうだなぁ、2杯かなぁ?うん、そうそう、2杯だよ」
「2杯?」

それはおかしい、英二は不審に思った。
藤岡は笑い上戸で赤くなりやすい、けれど東北人らしく酒は強い。
そしていつもの飲み会でも、日本酒2杯程度でこうはならない。一升瓶の2/3位は軽いはずだ。
なにかおかしいな?英二は国村の方を見、その足許に目がとまった。

「国村。その瓶ってさ、中身なに?」

訊かれた国村の細い目が、愉快げに細められた。
流木に座っている国村の足許には、1本の五合瓶が置かれている。
それを見る美代の瞳が少し大きくなった。

「光ちゃん、それって自分で作ったお酒でしょ?」
「うん、そうだよ?」

得意気に細い目が笑っている。
そんな国村を見て、美代が呆れたように笑った。

「それ飲ましちゃったんだ、藤岡くんに?じゃあ酔っ払っちゃうわよね」
「うん、藤岡が呑んでみたいって言うからさ、ご馳走しただけだけど?」

自分で酒まで作るんだ?でも酒造法とかあるだろうに。法学部出身の英二は少し心配になった。
けれど国村は農業高校の出身で農家、学校や家で習ったのだろう。それに酒造法には例外がある。
ちょっとおもしろそうで英二は訊いてみた。

「おまえさ、その酒はお神酒用なんだろ?」
「そ。収穫祭用のさ、濁酒の余りだよ。俺ん家の米で造ったんだ」

収穫された米を神に捧げるとき、濁酒を作って供えて翌年の豊穣を祈願する伝統がある。
そうした宗教的行事における濁酒の製造と飲用は、濁酒の製造免許を受ければ製造可能とされていた。
その場合は境内など神社の一定の敷地内で飲用が許可されている。
そして神社の濁酒など販売を目的とせず、伝統文化的価値の大きいものは酒税法の適用外もある。
たぶんそういう事なのだろうな、英二は訊いてみた。

「じゃあさ、この河原って神社の敷地なんだ?」
「そうだよ。ウチの氏神様の境内地なんだよね、俺、ちゃんと濁酒の製造免許も持ってるしさ。だから合法、だろ?」

やっぱり免許持ってるんだな。予想通りが可笑しくて英二は笑った。
きっと酒好きな国村だから、農業高校の授業でも熱心に勉強したのだろう。
そんな国村は突き詰めるタイプだから、免許取得まで考えて当然だった。
ちょっと興味のままに英二は質問した。

「濁酒製造免許の取得はさ、たしか農業と民宿や農家レストランとかの兼業だよな?」
「そ。ウチはさ、ばあちゃんが週末は農家レストランやってるんだよね。それで俺、免許を取れたんだ」

国村の祖母の手料理は、飲み会の差入れで英二も何度かご馳走になっている。
素朴な食材だけれど味がいいなといつも思っていた。

「そっか。おばあさんの差入れ、いつも旨いけどプロなんだ」
「だろ?ばあちゃんは料理名人なんだよね。それでさ。JAとかに提案されてね、店始めたんだ」

なるほどねと英二は頷いた、けれど疑問が残ってしまう。
濁酒のアルコール度数は普通の清酒と同程度14~17%になる。
それなのに2杯で藤岡は出来あがってしまった。どういうことだろう?英二は首を傾げた。

「なあ、国村?普通の濁酒のアルコール度数はさ、いつもの酒と変わらないはずだろ?
 それなのに2杯で藤岡が酔っぱらうなんて変だ。おまえの濁酒って、度数いくつなんだよ?」

言われて国村の細い目が、すっと細まった。その目がさも愉快げに笑っている。
その隣で美代が「仕方ないね?」と少し困った顔で微笑みかけくれた。

「光ちゃんって、研究とかも器用なのよね。それで農業高校の時にちょっと工夫を、ね?」
「なんか、聴くのが怖くなってくるね?」

英二は笑った。きっと、とんでもない度数の酒を合法的に醸造しているのだろう。
そしてなんだか可笑しかった。だって今日はクリスマス・イヴだ、世間はシャンパンで華やかなことだろう。
けれど自分は河原で、友人が作った濁酒の話に笑っている。それが英二はなんだか愉快で楽しかった。

12月24日クリスマス・イヴの夜。毎年ずっと女の人と過ごしていた、そして毎年違う人だった。
それなりに楽しくて、それなりにいつも傷ついていた。いつも自分は作り笑いばかりだったから。
でも今年はこんなふうに、大好きな友人や仲間と心から笑っている。そして明日は心から愛するひとに逢える。
そんな今が幸せで英二は嬉しかった。
うれしくて微笑む英二に、クライマーウォッチを示して国村が笑った。

「ほら宮田、21時前だよ?」
「うん、ありがとう。じゃあ、ちょっとごめんな?」

立ち上がると英二は携帯を開いて、電波状況が良い場所まで歩いた。
いつも英二は周太に21時に電話する、そして周太が当番勤務のときは周太から架ける。
今日の周太は当番勤務、けれど今夜はクリスマス・イヴだから英二から架けたかった。
アンテナ3本が立つ場所に来ると、英二は発信履歴から電話を繋いだ。

「…はい、」

コール0ですぐ繋がってくれる、きっと待っていてくれた。
雪ゆるやかに舞う中で、きれいに英二は笑った。

「周太、待っててくれた?」

すこし気恥ずかしげな気配。
きっと自分が架ける当番勤務だけれど、今日は英二から架けてほしかったのだろう。
きっと華やかなクリスマスの街で、すこし周太は寂しくイルミネーションを見つめていた。
だから自分を待ってくれていた、そんな想いが気恥ずかしげな気配に伝わってしまう。

「…ん、待ってた。今夜はね、英二から声、かけてほしかった。…わがまま、かな?」

ほら、やっぱりそうだ。
こんな遠慮がちで初々しい、そんな自分の運命のひと。

「わがまま、うれしいよ?」
「そう、なの?」

落ち着いた声、ゆるやかな独特のトーン。
このトーンは素顔の周太でいる時だけだと知っている。
そんな1つずつがうれしい、微笑んで英二は答えた。

「そうだよ周太?俺はね、周太の我儘たくさん聴きたい。ね、周太?もっとさ、我儘いっぱい言ってよ?」
「…ん、…わがままって、なんて言ったらいいの?」

英二は笑ってしまった。
こんなふうに周太は、自分の我儘すらも思いつけない。
そんな奥ゆかしさが可愛くて、そんな不器用さが寂しかった生立ちを偲ばせ切なくて。
だから余計に幸せにしたくなる、きれいに笑って英二は言った。

「周太がね、俺にして欲しいこと。全部そのまま言ってくれたら良い。
 そして少しはさ、周太のお願いで俺を困らせてよ?そういう周太の『おねだり』俺は聴きたいな」

「…おねだり、って…」

そう、たくさんお願いしてほしい。
困らせられるほどの『おねだり』で自分を繋ぎとめて欲しい。
そうして周太からだって、自分を独占してくれたらいいのに。
そんな想いに英二は、そっと周太に訊いた。

「ね、周太。俺にね、少しでも早く、あいたい?」

繋いだ電話の向こう、微笑みの気配が伝わってくる。
そして幸せそうな想いがそっと、微かな吐息で英二の耳に返響した。

「ん、…早くね、あいたい」

さあ、この『おねだり』は、どんなふうに叶えよう?




(to be continued)


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第29話 雪暁―side story「陽はまた昇る」

2011-12-20 22:25:32 | 陽はまた昇るside story
ひとつの意思、




第29話 雪暁―side story「陽はまた昇る」

気配に英二は瞠いた、そしてすぐ眉を顰めた。その切長い目の視界に不法侵入者が映りこんだから。
その不法侵入者は笑いながら、ベッドの英二を蹴飛ばした。

「ほらっ、起きろよ宮田っ、早く着替えな」

まだ暗い窓、きっと4時くらい。
そしてたぶん雪が積もっている、そんな予想に英二は笑って起きあがった。

「なんだよ国村、どうやって入った?」
「これくらいの鍵、簡単だよね。ほら、」

言いながら国村は1本の針金を示して笑った。
よく見ると巧妙な鉤型に細工が施されている、いつもながら器用な国村の手技だろう。
こいつ警察官じゃなかったら何になっただろう?すこし呆れて英二は友人の細い目を見つめた。

「おまえって、こんな事まで器用なんだな」
「まあね。お仕置きで蔵とかに閉じ込められた時にさ、便利だったよ。うん、いまも便利だな。ねえ?」

さらっと言って国村は飄々と笑っている。
こんな23歳になっても国村は、子供のまま悪戯っ子でいる。
きっと子供の頃はさぞ悪餓鬼だったろう、可笑しくて英二は立ち上がりながら笑った。

「どうせ悪戯が過ぎたんだろ?」
「さあね?ま、ウチの祖父さんは血圧ちょっと高めかな。ほら、早く着替えろって宮田。新雪だってば、急げよ」

言いながら国村は勝手にクロゼットを開けると、取出したTシャツと靴下を英二に放り投げた。
投げられた2つを受とめて英二は笑ってしまった、さっさと着替えろとこんなにも急かしている。
きっと国村は今日も、新雪に最初に足跡をつけたくて仕方ないのだろう。
急いでやらないとね、思いながら英二は白いシャツをさっと脱いだ。
手早くTシャツに着替えて、壁に吊るしたハンガーから救助隊服を外しながら、英二は国村に訊いた。

「どこに登りに行く?俺、日勤だから駐在所に8時前には入りたいな」
「うん、日の出山に行こうかな。梅野木峠まで林道を車で入ればさ、すぐ山頂だよ」

答えながら国村は、デスクのファイルを引っ張りだして眺めている。
どうも救急法のファイルを見ているらしい、ときおり「へえ、」など呟いている。
それを聴きながら英二は救助隊服に袖を通した。

「梅野木峠の林道ってさ、岨端沢林道だろ?一般車は通行止めだよな」
「そうだよ?でも俺はね、林業従事者でもあるからさ。いろいろ利便が良いんだよね」

国村は御岳が地元で代々の山林と農地を持つ兼業農家の警察官でいる。そんな国村はJA関係でも顔が広い。
そういった自分の特権を国村は、最大限生かして山に遊んでいるのだろう。
そうした国村の存在は、奥多摩では新参者の英二には有難い。そんな感謝に英二は国村へと笑いかけた。

「なるほどね。俺、国村の友達でよかったな」
「だろ?だから宮田はさ、俺をもっと崇めなよね」

笑って答えながら国村は、救急法ファイルのページを繰っている。
そんな姿を横目で見ながら英二は救助隊服の袖を留めた。
上からスカイブルーのアウターシェル隊服を着ると、雪用登山ブーツを履いてゲイターを装着する。
そしてピッケルとヘルメットを引掛けた登山ザックを持つと、片手で救助隊制帽を被りながらデスクの横顔に微笑んだ。

「お待たせ、行こっか?」

そっと扉を開けて、靴音に気をつけながら寮の廊下に出た。
個室のエリアを過ぎると、低めた声で国村が訊いてくれる。

「そういえばお前さ、雪山の重装備は私服ではまだ揃えていないよな?」
「そうなんだよね、年明けに富士山だろ?それまでに慣らしたいんだけど」
「だね。じゃあ今日の業務後にさ、ちょっと見に行こう。定時になったら駐在所まで迎え行くよ」

小声で話しながら静かな廊下を歩いていく。歩く廊下の窓ガラスが曇って白い、その縁には薄く雪が張られている。
きっと積雪があるなと思いながら通用口から出ると、夜の底が白くなっていた。

「…わ、」

ほっと吐いた息が真白な靄になって、山の冷気にとけ込んでいく。
さくりと踏みだした足許は雪に埋められてしまう、15cmくらいだろうか。
見上げた山嶺は、雪と星明で浮かびあがって見える。
いま雪山で生きているんだな、息の白い靄の影から英二は微笑んだ。

「ほら、宮田。こんなさ、警察署の裏でまでボケっとなるなよ?『きれいだなぁ』はさ、山にとっときな」
「あ、うん。でもさ、きれいだよな」

また小突かれながら英二は笑った。こうして話す声も雪に吸われて、山麓の街は冬夜の静寂に眠っている。
ふと英二は警察署を振り返った、その視線の先の窓はまだ暗い。それは青梅警察署診察室の窓だった。
駐車場へ歩きながらも、英二は診察室が気になってしまう。そんな横顔を英二は、また国村に小突かれた。

「ほら、言いたいこと言えって」
「あ、うん…あのさ、今日これから山行ったら、俺って駐在所に直行だよな?」

朝の診察室セッティング準備を英二は、毎朝手伝っている。
その診察室の主である吉村医師は、青梅署の嘱託警察医として全てを1人で担当している。
それに加え吉村医師は開業医としての往診がある。そのうえ元ER担当教授だった吉村は、救急法講習の依頼も多い。
また法医学教室に在籍した経験を活かし、警察医の技術講習まで吉村は買って出ている。
そんな多忙な吉村医師の手助けにと英二は朝晩を手伝う。その手伝いの合間に英二は、救急法や鑑識を教わっていた。
けれど今朝は手伝いが出来ない、それが気にかかってしまう。そう言おうとした英二に、さらっと国村が笑って言った。

「ああ、じゃあ俺が代りに手伝っとく。それでいいだろ?」
「言わないでも、解るんだ?」
「吉村先生の手伝いだろ?おまえがさ、朝の直行を気にするならね、そんなとこだろ」

英二は「直行」としか言っていない。それでも国村は察して申し出てくれた。
うれしくて英二は微笑んで、並んで歩く友人に軽く頭を下げた。

「うん、当たり。よろしくな、国村」
「おう、任せてよ。さっき宮田のファイル見てさ、俺も質問したいなって思ったしね。ついでに宮田の分の菓子も食っとくな」

楽しげに国村が「菓子」と言って笑っている。
いつも吉村医師は地元の旨い菓子をストックしている。それを吉村はいつも英二が朝夕に淹れるコーヒーに添えて出す。
その菓子も楽しみに国村は、毎夕のコーヒー時にふらり診察室へやってくる。それを今日は朝も狙うつもりだろう。
なんだか本当に国村は子供みたいだ、英二は静かに笑った。

「なんだ、吉村先生のお茶菓子が目的かよ?」
「だって旨いだろ?先生はさ、菓子の趣味も良いんだよね。この時期だと柚子の菓子だよな、今日は何かな」

機嫌よく話しながら国村は、四駆の運転席に乗り込んだ。そのタイヤにはきっちりチェーンが装着されてある。
どうやら今日は新雪とみて昨夜準備したのだろう。ほんとうに察しも準備も良い、英二は訊いてみた。

「やっぱり昨日にはさ、今朝の雪は予想できたんだ?」
「うん、夕風が冷たくて湿気ていた。天気予報でも言っていたしさ、これは来るって解るよね」

かるく笑いながら国村はハンドルを捌いている。
地元っ子の国村は雪道も馴れているのだろう、危なげない運転で林道も進んでいく。
その車窓にうつる梢が夜闇にも白く凍てついている。その根元の雪は進むにつれて深まっていく。
ほどなくして梅野木峠に着くと、クライマーウォッチは5時を示した。
いつものようにペースチェックと位置確認データの為に、英二は時計のセッティングをする。
それからヘッドランプを点けアイゼンを履くと、並んで歩きだした。

「目標タイムは、まあ雪もあるから6時前かな」
「うん、ペース配分よろしくな」

登山道が通っていく樹林帯は、雪氷の薄衣をまとって沈黙していた。
そんな風景は、子供のころに読んだ「雪の女王」の挿絵に似ている。
遠い世界と思った場所に自分が入りこんでいく、そんな感覚に英二は微笑んだ。

「なんかさ、暗い雪の樹林帯って不思議な感じする」
「うん、そうだな。まあ、俺は小さい頃から見ているけどさ。でも何だか謎めいているよな」
「あ、国村もそう思うんだ?」
「まあね、何か隠されてそうだろ?まあ、クマの冬眠が隠れてはいるよな」

いつものように笑いながら、足許に気を配って登っていく。
ハイペースで樹林帯を抜けて、山頂直下にくると見上げる感じになる。
ここから少し急登が始まる、ふと国村が英二に促した。

「ここさ、ほんとは石段だろ?アイゼンの刃をね、削られないように気をつけなよ」
「うん、ありがとう」

5:40山頂に着くとまだ真っ暗だった。
けれど雪雲が晴れた夜空は、冬の透明な大気に星明りが明るい。山頂の雪はあわい白銀に鎮まっている。
さくさく雪を踏みしめて進むと、国村は頂上を示す三角点の前に立った。
小さく四角い石造りの三角点は、雪に埋もれながらも場所がわかる。
その石を見おろしながら左手のグローブを外すと、国村は三角点に積る雪にさくりと掌を押しこんだ。

「よし、俺が一番乗り」

笑いながら掌を上げると三角点の雪に手形がつけられていた。
やや大きめの掌だから三角点の雪からはみ出て、手の平と第3関節までの手形になっている。
それでも満足気に細い目で眺めて、うれしげに国村は笑った。

「ほら、宮田もやれよ」
「え、でも国村の手形をさ、消しちゃうかもよ?」
「なに言ってるのさ、ほら、やれよ」

ヘッドランプと星明りの下で、底抜けに明るい目が笑う。
笑いながら国村は英二の左腕を掴むと、その左手からグローブを外した。

「ほらっ、いくよ」

笑って国村は、英二の左掌を三角点の雪に押し当てた。
ふたつの掌の跡が重なって、真白な雪にくっきり現れる。それを見てまた国村が楽しげに言った。

「うん、おまえがさ、二番乗りだよ」

ちょっと得意気な細い目が笑う。
自分の一番乗りを譲るつもりは無い、けれど一緒に楽しもうよ。
そんな想いが愉快げで機嫌よく笑っている、なんだか楽しくて英二も笑った。


「ははっ、そうだな。うん、俺は二番で充分だよ」
「へえ、二番で良いんだ?ほんと宮田ってさ、欲が無いよね。まあ、そこが良いとこだけどさ」
「うん、俺はね、欲は少ないな。周太のこと以外はね」
「だな、」

そんな会話をしながら、星明りの山頂を見渡した。
しんと静かな雪山のむこう、連なる山嶺も夜空に白く浮かびあがっている。
どこからかブナの木が風になる音が、黎明時の静寂に谺しては鎮まっていく。
きれいだなと眺める英二の横で、楽しげに国村が頷いた。

「やっぱさ、新雪はいいよな」
「うん、いいよな…雪山はさ、なんだろう?なんか惹かれるな」

笑って英二が相槌をうつと、ご機嫌で国村は頷いた。
その細い目が底抜けに明るく陽気でいる、楽しげな口調で短く国村は言った。

「だろ?」

ほんとうに新雪が好きなんだな、そんな友人の目が英二はなんだか嬉しい。
うれしいなと眺めていると、国村は東屋を指さして歩き始めた。
そして東屋のベンチに陣取ると、クッカーをザックから出してセッティングしている。
なにが始まるのかな、東屋のテーブルをはさんで立つと英二は訊いてみた。

「なんか作るのか?」
「うん、腹減っただろ?1個わけてやるよ」

言いながら国村は、ザックからカップヌードルを2つ取出した。
つい先週の田中の四十九日でも、御岳駐在所で国村は作っている。
たぶん好きなのだろう、でも「おやつ」と言っていつも国村は啜りこむ。
そして国村も英二と同じ位によく食べる。きっと1個じゃ足りないだろう、思って英二は遠慮した。

「それ、国村のおやつだろ?この間も俺、もらったから悪いよ」
「そ、これだけじゃ足りないね。だから下りたらさ、なんか食い行くだろ?そのとき奢ってよ」

言って国村は唇の端を上げた。カップ麺1個をエビにして鯛を釣るつもりなのだろう。
こんな悪戯っ気が国村は楽しい、可笑しくて英二は笑った。

「うん、奢るのは良いよ?でもさ、こんな朝早いと店は開いていないだろ?」
「あ、そうだな。じゃあ奢るのは今度でいいよ。ま、とにかく今はこれ食いな」

答えながら国村は、ぱりんとカップ麺のビニールを外してくれる。
じゃあ甘えようかなと英二が考えていると、国村が手招きをした。
招かれるまま英二が横に行くと、がっちり英二の左手首を国村は掴んだ。
なんだろう?ちょっと驚いて英二は国村を覗きこんだ。

「ん、なに?」
「ちょっとね。ほら動くなよ、危ないだろ?」

そう笑って国村は空いている片手で、カップ麺にクッカーの湯を注いでいく。
ゆるやかに湯気を昇らせる蓋を閉めて割り箸を乗せると、国村は唇の端を上げた。

「ほら宮田、3分経ったら教えろよ?」
「え、?」

言われて英二は左手首のクライマーウォッチを見た、けれど国村が握りこんで画面が見えない。
自分の腕をがっちり掴む横を見ると、さも愉快げに細い目が笑っている。
どうやら勘で3分を当てろと云うことらしい、可笑しくて英二は笑ってしまった。

「なに、国村。俺が、3分を勘で当てるってこと?」
「そ。この間もさ、駐在所でおまえ『あと3分待って』って言ってマジ3分で仕事済ませたろ?だから今日もよろしくね」

田中の四十九日法要の後、英二は駐在所に戻って仕事をしていた。
それを迎えに来た国村は英二に『3分』と言われて、カップヌードルを砂時計代わりに3分計測をした。
そして英二はきっかり3分で仕事を済ませている、それが国村には面白かったのだろう。
いまも英二の手首を掴んだまま、楽しげに国村は笑っている。

「ほら、宮田。もし外したらさ、俺の分まで麺が延びちゃうな。責任重大だよ、ねえ?」
「もし延びたらさ、どんなペナルティ?」

ほんとこいつおもしろいな、可笑しくて笑って英二は訊いてみた。
ペナルティかとちょっと考える細い目が、ご機嫌に笑っている。
そしてすぐ細い目をすっと細めると、唇の端を上げて国村は言った。

「うん、そうだな。湯原くんをね、1日だけ俺に貸してよ?」

それは嫌だ。
そんなのは誰が相手でもNGだ、絶対に許可なんかするもんか。
そう思いながらも英二は気になった、国村はその「1日」をどうするつもりだろう?
きっと国村だから意外なことを考えている、訊いてみたくて英二は口を開いた。

「1日どうする気だよ?」

さあ何て答えるのかな?
ちょっと楽しみに細い目を見ていると、国村の唇の端が上がった。

「1日は24時間だろ?それだけあればさ『イイコト』いろいろ出来るよな。ねえ?」
「いいこと?」

何気なく訊き返した英二に、細い目が愉快げに笑う。
なにおまえ解らないの?そんなふうに細い目で言いながら国村は言った。

「24時間あればさ『夜』もあるってコト。だろ?」
「うん、夜があるのは解るけど?」

悪いけど解らないよ。そんなふうに英二は首を傾げながら、感覚の片隅で3分間を計っていた。
たぶんまだ1分40秒くらい?国村の顔を眺めながら英二は、なんとなく感じていく。
そんな英二の顔を見て、国村が呆れたように教えてくれた。

「だからさ宮田?『夜にやるイイコト』って言ったらね、決まってるだろ?」

なんだって?
英二の切長い目が大きくなった。そのままの目で英二は、思った通りを口にした。

「…国村。おまえって、バイなのか?」
「いや、どうなのかな?試したことはさ、まだないけどね」

飄々と笑って国村は答えた。
こんなこと言うなんて、何考えているんだろう?英二は微かに眉顰めて考えこんだ。
その感覚の片隅では計測が続いていく、たぶん2分5秒?
そんな英二の顔を見て、国村が愉快そうに笑いだした。

「だってさ。おまえって毎朝、いっつもエロ顔するだろ?で、湯原くん想像してるよな。
 その顔がさ、ほんと幸せでエロいんだよね。だからさ、そんなに良いもんなのかって興味もでるよ、ねえ?」

「…国村ってさ、心底エロオヤジ?」

呆れて英二は横に並ぶ友人の顔を覗きこんだ。
覗いた色白の顔は上品に整って、冷気に紅潮した頬がきれいな彩をそえている。
そんなきれいな顔をして、けれど言ってくる台詞は結構えげつない。
自分も外見と内面のギャップが大きいけれど、こいつだって相当だ。そんなふうに覗きこむ英二に、国村が笑った。

「うん、俺もエロいんじゃない?だってエロい宮田のアイザイレンパートナーだしさ。仕方ないよ、ねえ?」

からっと笑って国村は、英二の額を小突いた。
結局は俺の所為にされるんだな、そう思いながら英二は口を開いた。

「はい、3分」

自由な右手でカップ麺の蓋を外すと、ちょうどいい具合になっている。
よかった、うれしくて英二は笑った。だって外していたら、国村に周太が何をされるか解らない。
うれしくて笑いながら横を見ると、さっさと国村は割り箸を割っていた。

「お前ってさ、ほんと真面目で正確だよな。うん、ちょうど良い具合だね。早く食いなよ、宮田」
「あ、うん。じゃあ遠慮なく食うよ?」

いただきますと手を合わせてから、英二も割り箸を割った。
ひとくち啜りこむと熱くて旨い。山と雪の冷気の中で、熱い汁ものは体を芯から温めてくれる。
この温もりだけでも充分ご馳走だな、楽しくて英二は微笑んだ。

「こういうのってさ、旨いし楽しいな」
「だろ?雪山って熱いもんがマジ旨いんだよね。またやろうな」
「うん。あ、でも周太を賭けるのはね、もう嫌だよ?周太は俺だけのなんだから」

笑いながらも真剣に英二が答えると、ちらっと細い目が英二に笑いかけた。
そのまま国村はカップを片手で掴んで、スープも飲み干すと口を開いた。

「ふうん、独占欲丸出しだね、おまえ。他のことは淡泊なのにな」
「そうだよ国村。俺はね、周太だけは別。絶対に他の誰にも譲らない、触らせないよ?だって俺だけの周太だからね」

きれいに笑って言うと、英二もカップ麺を飲みほした。
そんな英二を見る細い目が、温かく笑んで言ってくれた。

「そういうのってさ、幸せだよね」
「うん、…俺ってさ、ほんと幸せだよ?だからさ、周太だけは何があっても守りたいんだ」

そう、守りたい。
だから自分はずっと周太の父の過去を調べている。そして事実の全てを知って尚更、守ろうと決意した。
それはあまりに危険な事実だった。だから本当は周太のすぐ傍で支えたかった、同じ部署を望みたかった。
けれど体格と適性が違いすぎて、同じ部署への配属は望めなかった。
それでも守りたくて諦められなくて、周太をサポートできる部署を英二は調べた。

そして見つけたのが警視庁山岳救助隊員―スカイブルーのウィンドブレーカー姿だった。

その姿になることを英二は、周太の為だけに決めた。
そして向き合ったその道は、本物の憧れへと変わっていった。そして適性も英二には全てが揃っていた。
けれど山岳救助隊が駐在する奥多摩の実情は、警視庁管内で最も厳しい配属先になる。
だから山岳経験者のみが配属される、そして卒業配置での配属は難しく稀なことだった。

それでも英二は望んだ、どうしても諦めたくなかったから。
だってもう既に一度は諦めさせられている、周太と同じ進路選択は諦めざるを得なかったから。
だからもう諦めることは出来なくて、考えつく限りの努力を重ねた。
そして山岳救助隊実務に関わる学科と術科で高成績を納め、高得点で検定合格もした。
そんな姿勢に遠野教官が後藤副隊長へ推薦をしてくれた、そして英二は不可能に思えた奥多摩配属を掴んだ。

だから今ここで自分は、国村と並んで座ることが出来ている。
そして国村に示された夢を共に歩みはじめている。それは本当に過分な望みで幸せなことだ。
ふっと微笑んで英二は、国村の細い目を見た。

「俺、国村のアイザイレンパートナーをさ、一生やるんだよな」
「うん?そうだよ、決まっているだろ?」

底抜けに明るい目が笑ってくれる。
なんの底意もなく真直ぐで、純粋無垢な山ヤの魂が明るい目。
こんな目の男と一緒に山ヤの人生を送りたい、英二はもう心底そう想っている。

けれど自分には守る人がいる、その為に自分はどんな事にも手を染めるだろう。
それくらい大切で失いたくなくて。あの笑顔を守れるなら自分は全てを捨てて迷わない。
そんな自分を解っている、直情的すぎる自分は「いちばん大切な存在」を離さない為なら何でもしてしまう。

だからあの「誓約」からずっと疑念と迷いが心に蹲ってしまっている。
こんな自分が、この最高のクライマーと並ぶことは許されるだろうか?
こんな自分のせいで、この最高峰に立つ運命のクライマーの人生を狂わせたら?

「生涯のアイザイレンパートナーってさ、お互いの生命と山ヤとしての運命を繋ぐんだよな?」

微笑んで英二は横に並んだ友人に訊いた。
その友人は最高峰の運命に立つクライマー、その細い目を英二は見つめた。
その目は底抜けに明るく笑って、さらっと答えてくれる。

「うん、そうだな。一蓮托生ってやつをさ、おまえと俺はやってくことになるな」

もう自分は山ヤとして生き始めた。だからこそ解ってしまう、この並んだ男は最高の山ヤの姿。
ただ純粋無垢な山への想いに生き、どこまでも自由な誇り高らかな心で生きている。
そしてその想いを踏破するに相応しい、必要な能力全てを持って生まれた男。
だから国村はきっと最高のクライマーになっていく、それが国村の運命だから。

「俺と、国村がさ、一蓮托生をやるのか」
「だね、」

だから迷う、このまま本当に自分が国村のパートナーになっていいのか?
だから哀しみがある、こんな自分の為に最高のクライマーを傷つけることになったら?

今日もまた国村は自分を雪山に誘ってくれた、ちょっと不法侵入だったけれど。
そして一緒に三角点の雪に手形を押して、心底から愉快に笑ってくれた。
こんなふうに国村は真直ぐに、そして本気で、自分をアイザイレンパートナーとして扱っている。

「それってさ、一生ずっと一蓮托生。って事にさ…なるのかな?」

訊く声がすこしだけ震えた。
だってほんとうは望んでいる、この友人とアイザイレンパートナーとして山ヤの生涯を生きること。
それでも自分は危険を承知で周太を守りたい、そして山ヤとして国村とも生きたい想いも本音の願いで。
でも現実問題がある。

『周太を守る自分の生き方は、この国村を友人を、最高のクライマーを傷つけるかもしれない』

どちらかを選ぶなら?
答えなんかとっくに決まっている。だって自分は周太の為にこの道に立ったのだから。
けれど直情的で身勝手な自分は、欲しいものを掴みたくて仕方ない。
だからほんとうは掴んで離したくない。国村のアイザイレンパートナーとして、最高の山ヤの生涯を生きる道も。

どうしたらいいのだろう?
そんな想いに並んだ友人は、からっと笑って答えてくれた。

「そうだな。宮田と俺はさ、生涯のアイザイレンパートナーだからね。
まあ、山以外でもさ、援け合う事になるよな。でなきゃね、一生ずっと一緒に山登れないだろ?」

底抜けに明るい目が英二を見つめて笑う。
その無垢な目を見つめ返して、英二は思わず言葉が唇から零れた。

「山以外でも…」

この友人が大切で、ひとりの山ヤとしても大切で。だから国村を少しだって傷つけたくは無い。
けれど周太と生きる自分を国村が援けるなら、いつか危険に巻き込むかもしれない。
それくらい周太が警察官の世界に立つことは、警察暗部の困難と危険に充ちている。
確かに13年前の周太の父が殉職した事件には終止符が打たれかけているだろう。
けれど本当の困難と危険は、まだ何も終わっていない。

「うん、山以外でもね。だってね宮田、山ヤはさ、山以外にいる時でも山ヤだろ?だからさ、一蓮托生だよね」

英二の言葉に答えて国村が笑ってくれた。
そんな国村の目は真直ぐに見つめている― 俺はお前と一生山ヤをやるよ? そんな決意が軽やかに笑っている。
そんな友人の目に映る自分の目が、自分を見つめ返している。
もう自分は話さなくてはいけないだろう? ― そんなふうに自分の目はもう決めている。
すこしだけ唇を噛んで開くと、英二は言葉を押し出した。

「国村、俺、おまえにさ、話したいこと…あるんだ」
「うん、きちんと言いな」

何でも無いことのよう笑って、国村はクッカーで沸かした湯を空になったカップに注いだ。
そのカップの底にはさっき、インスタントコーヒーを入れてある。
ゆるやかな湯気が芳ばしい香にくゆって、冷えた雪山の大気を温めていく。
それを見つめながら英二は、そっと口を開いた。

「国村。俺はね、おまえに重たい運命をさ…背負わせる事になるかもしれないんだ」

英二の切長い目を、細い目が真直ぐに見つめてくれる。
見つめながら国村はカップのコーヒーを啜りこんだ。
ほっと温かな息をつくと、いつものように底抜けに明るく笑った。

「うん、湯原くんの事情だろ?別に構わないよ」

からっと笑って国村はコーヒーをまた啜りこんだ。
いつもの「あの山に登るんだろ?」そんな軽やかな気負いない調子。
そんな同僚で友人を見つめたまま、英二は訊いた。

「国村、…言わないでも、解るんだ?」
「まあね、アイザイレンパートナーですから?」

なんでもないことだよ?そんな軽やかな笑いで、細い目が温かく英二を見ている。
こんなふうに国村は怜悧で察しが良い、そして決断力と行動力は豪胆で山ヤらしい。

あの日、周太の父殺害犯と対峙した日も、国村は察して英二をパトカーで新宿へ送ってくれた。
そのとき国村は英二になんの事情も聴かなかった。ただ「緊急事態だろ?」とパトカーを利用して時間を縮めてみせた。
その短縮された時間のお蔭で英二は、周太が犯人を狙撃することを止められた。
そして周太は犯人が今抱く「父の想い」を見つめて、13年間の孤独を認めることが出来た。

いまの周太が穏やかに微笑めるのは、国村の存在が無かったら不可能なことだった。
そのことを英二はまだ国村に告げていない。「周太の真実」を知ることが国村を巻き込むから。
けれど国村が自分をアイザイレンパートナーとして望み、生涯を生きると決めたなら。
静かに英二は真直ぐに、国村の目を見つめた。

「国村、周太の父さんは殉職したんだ、13年前の春に」
「うん、知ってるよ」

見つめ返して国村が微笑んだ。
そして細い目を温かく笑ませて、国村は口を開いた。

「13年前からね、俺は聴いて知ってるよ。あの事件当日の夜にさ、後藤のおじさんから聴いたんだ」
「…知っていたのか、国村?」
「まあね。名字も珍しいし、同じ射撃特練だしさ。息子かなって、すぐ気づいたけど?」

驚いて訊き返した英二に、なんでもないふうに国村は頷いた。
国村はカップのコーヒーを啜りこむと話し始めた。

「湯原くんのオヤジさんはさ、警視庁山岳会にも所属していたんだ。で、会長は後藤のおじさんだろ?
 でさ、ウチのじいさんもクマ撃ちだけど射撃の名手だ。それでじいさん名前は知ってるんだよ、すごい選手だってね。
 だから亡くなった夜は俺ん家で、じいさんと後藤のおじさんが話していたんだよね。
 俺と同じ年の息子がいるのにって後藤のおじさんが哀しんでた。それが印象的だからかな、俺も覚えていたんだ」

驚きながらも英二は、納得できるなと思った。
周太の父は奥多摩にも何度か登りに来ている、きっと奥多摩交番で登山計画書を提出しただろう。
そこで後藤が受け付けて、そして同じ警視庁勤務だと話題にもなったかもしれない。
そんなことに気づかなかった、自分の迂闊さを英二は思った。

けれど、周太の進路にある困難は「殉職」だけの問題ではない。
でも国村ならもう解っているのかな?すこしだけ微笑んで英二は訊いてみた。

「周太の父さんの所属部署。それもさ、知ってる?」
「うん、『言っちゃいけない』とこだろ?ああいうのって嫌だよなあ」

軽やかに答えて「あ」に不満を告げると、国村は笑った。
やっぱり怜悧な国村は気がついている、英二は重ねて訊いてみた。

「どうしてそこだって思った?」
「うん?だって湯原くんの体格と適性を見ればさ、すぐ解るだろ?まあオヤジさんの方が背が高かったらしいけどね」
「後藤副隊長から聴いたんだ?」
「そうだよ。後藤のおじさんもさ、すぐ気がついたみたいだね。あの湯原の息子かなってさ」

―きれいな瞳の通りに、純粋なのだな 大切にするといい、あの場所も、彼も

後藤が周太を見て言った言葉を、英二は想いだした。
あのとき後藤も、何も言わずにただ微笑んで頷いてくれた。
そして周太と自分の関係を、大らかに受けとめて言葉を遣わずに肯定してくれた。

こんなふうに自分は、知らずに援けられて生かされている。
そんな想いが心に温かい、そんな熱が昇って目の奥を迫あげていく。
ひとつ涙を飲みこんでから、静かに微笑んで英二は訊いた。

「周太はさ、その父さんと同じ道を辿ろうとしている。それは危険な生き方だ。
 それでも俺はね、なにをしても周太を守りたい。
 だから俺はね、…その為だけに、周太の為だけに最初は、山岳救助隊を目指したんだ」

「うん、それは正しい選択だよな。山岳救助レンジャーならさ、あの部署との連携もあるもんな」

いつもどおりに冷静沈着な分析で、笑って国村が相槌をうってくれる。
こういう明るさが良いな、そんな友人の優しさに微笑んで英二は続けた。

「だからさ、国村。俺はね、周太の為ならさ、…命も惜しくないって思ってる。だからあの日もだよ、」

あの日、周太が父殺害犯と対峙した日。
あの日の周太は衝動にゆすぶられて、犯人を射殺するつもりでいた。
けれどそんな事は周太の繊細で優しい心に耐えられるわけがない。
だから自分は止めたくて。それでも周太が殺すと願うなら―そんな覚悟で英二は新宿に向かった。

「うん、宮田はさ、湯原くんの代わりに狙撃するつもりだったろ?」

ちゃんと気づいてるよ?そう細い目が笑ってくれる。
いつも真直ぐに物事をみつめる国村、だから気づいても当然なのだろう。

「うん…そうだよ、おまえの言う通りだ。俺、そういうつもりだった」
「おまえ、射撃も結構上手いからね。そのために練習したんだろ?いつかに備えて、一生懸命にさ」
「ああ、その通りだよ、国村」

気づいてもただ静かに、温かく見守る大らかな優しさ。そんな純粋無垢な山ヤの心が英二は嬉しかった。
嬉しくて目の底に熱が起きあがってくる、そんな涙の気配を英二は飲みこんだ。
そして英二は真直ぐ国村の目を見て言った。

「なあ、国村。俺はね、いつでも周太の身代わりになるよ?
 今までと同じように、これからもずっと、生きている限り。何したって俺は、周太を守りたいから。 
 だから国村、俺がお前のアイザイレンパートナーになったら。
 俺の危険にね、お前のこと巻き込むかもしれない、傷つけるかもしれない…それが俺は嫌なんだ、」

そうなんだ、巻き込みたくないんだ。
そんな想いで細い目を見つめながら、英二は言った。

「俺はね、国村のことがさ、友達として山ヤとして大切だ。だから俺は国村を傷つけたくない…だから俺、出来ない」

そう、出来ないんだ。
巻き込みたくないから、だからやっぱり出来ない。
ほんとうは諦めたくなんか無い、国村のアイザイレンパートナーとして生きること。
けれど自分のために、この純粋無垢な山ヤを傷つけるなんて嫌だ。
だって自分はこの友人のことだって守りたい。それくらい友人として山ヤとして国村が好きだ。
だから傷つけるくらいなら自分の夢を捨てて良い、そして許されるなら国村の夢が叶うことを祈ってやりたい。
そんな決意で言った英二に、底抜けに明るい目で国村が微笑んで訊いた。

「うん?何が出来ないんだ、宮田」

ほら、言ってみろよ。
いつもの調子で国村は訊いてくれる、微笑んで英二は言った。

「俺と生きたらさ、きっと危険に巻き込んで傷つける。だから国村の生涯のアイザイレンパートナーは、出来ない」

言った瞬間、切長い目から涙ひとすじ零れおちた。
それでも英二は真直ぐに並んだ友人を見つめた、これで山ヤとしては別れかもしれない。
そんな想いが哀しくて英二は涙を飲みこんだ。
けれど見つめる細い目は、いつものように底抜けに明るく笑った。

「なに言ってるのさ、宮田。そんなことはね、おまえが決められる事じゃないよ」

国村の細い目は穏やかな自信に満ちて笑っている。
それでもと英二は言った。

「でも、」
「でも、じゃないね」

明快な声が英二の声を遮った。

「ずっと一緒に山ヤをやっていくよ、俺たちはね。そう決まっているんだ、きっと生まれた時からね。言っただろ?」

生まれた時から。
そう田中の四十九日に国村は言ってくれた。それが自分も嬉しかった。
けれどこの一週間に向き合う時間のなかで、国村を自分の運命に巻き込むことが怖くなった。

「でも国村。俺の危険には、おまえを巻き込みたくないんだ」
「なに言ってるのさ宮田、馬鹿を言ってるんじゃないよ、」

英二の言葉にも国村は軽く笑っている。
そうして笑いながら国村は言ってくれた。

「あのな、最高峰よりも危険な場所が世界のどこにある?そこに立つ以上にさ、危険なことなんかあるのかよ?」

よく考えてみろよ。そう言って細い目が可笑しそうに笑っている。
確かに国村が言う通りだ、ちょっと可笑しくて英二は笑った。
そんな英二に国村は答えを促してくる。

「ほら宮田、答えろよ?最高峰を踏破するより危険なことがさ、あるんなら言ってみな?」
「うん、…無いな」

微笑んで英二は答えた。
その答えに満足気に頷いて、国村は口を開いた。

「その最高に危険な場所に立つことが、俺の運命だ。
 そんな最高の危険へと俺は、アイザイレンパートナーとして宮田を惹きこんだよ。
 だからね宮田、これからの人生をさ。より危険に惹きこんでいくのは、お前じゃなくて、どう考えても俺の方だろ」

「うん、そうか、な?」

ゆっくり頷きながら英二は微笑んだ。
そうだと国村も頷いて、底抜けに明るく笑って言った。

「だからさ、おまえの危険に俺が巻き込まれるくらいでさ、調度いいんじゃないの?」
 
やっぱりこの友人が好きだ、可笑しくて英二は笑ってしまった。
もう本当は決めている、この友人とも離れるなんて出来ないだろう。
いつもこんなふうに前向きに、何でも明るく笑って受けとめてしまう大らかな心。
そんな心は純粋無垢な山ヤの魂がまぶしくて、そんな山ヤに自分は憧れ離れたくない。
笑いながら英二は訊いた。

「じゃあさ、国村?遠慮なく俺はさ、おまえのこと巻き込むよ?それで後悔しないよな」
「おう、望むところだね。俺、あんまり動じないからさ、ちょっと刺激がある方がいいね」

確かに国村は動じない。
欧州三大北壁を前にしても「山に登るだけだろ?」と日常の反応になってしまう。
そんな国村はきっと大らかすぎて、何でもフラットに受けとめているから。
こんな大らかな冷静さだって、最高のクライマーである山ヤの輝きなのだろう。
こんな男に望まれて生涯をアイザイレンパートナーに生きる。それ以上の、山ヤの幸せがあるのだろうか?

まだ周太に許しの言葉を貰ったわけじゃない。
でもなんだか確信している、きっと周太は許してくれること。
あの初雪の夜、その翌朝に目覚めてからの周太は別人でいるから。
目覚めた黒目がちの瞳に見つめた、深い愛情と、強く端正な勇気ひとつ。
その瞳を思いながら電話で繋いだ1ヶ月が、周太への深い信頼になって心につもって温かい。

あの隣を信じている、そして愛している。
だから今ここで自分は「誓約」しよう、英二は並んだ細い目を真直ぐ見つめた。
そして英二は、きれいに微笑んで言った。

「じゃあさ、国村?俺のこともさ、世界最高の危険へと巻き込んでくれ。生涯のアイザイレンパートナーとしてね」

底抜けに明るい目が、うれしげに底から陽気に笑った。

「当たり前だろ?おまえと俺は、生涯のアイザイレンパートナーだ。
 とっくにね、生まれた時にそう決まっている。だから遠慮なく、俺は宮田を最高峰へと惹きこむよ」

笑ってくれる山ヤの純粋無垢な想い、それをパートナーとして見つめられるのは幸せだ。
そんな幸せに見つめる英二に、ひとつの想いと決意が体をひたしていく。
ゆるやかに心から全身へとすわって満たされる。覚悟と決意、そして強い「意思」が誇らかに起きあがる。

そんな想いに座る頬を、ふっと暁の風が撫でていった。
もうじき夜が明ける。そんな感覚に英二は空を見上げた。その横で国村も空を見上げ笑っている。

「うん、夜が明けるな?だろ、宮田?」
「そうだな、もうじきだ」

話しながら立ち上がると、新雪へと一緒に踏み出した。
そして山頂の三角点の傍に並んで立つと、国村が底抜けに明るく笑った。

「今日は冬至だ、いちばん夜が長い。けれど冬至はね、太陽が新しく生まれる日だ」

言いながら国村は、登山グローブの指で東を指し示した。
その方角から明るまれていく空は、紺青透明な夜を払い朱色へと姿を変えていく。
登山グローブの指で一点を指し示したまま、明るく透る声で国村が言った。

「ほら、宮田。太陽が生まれるよ」

その指先から真赤な太陽が、山嶺の彼方から姿を現した。

「…きれいだな、」

きれいに英二は笑った。

ほんとうに美しい、この山の世界は。
そしてこの横に並んでいる山ヤ、純粋無垢な誇らかな最高のクライマー。
どちらの「山」も美しくて、厳しいけれど自分を惹きつけてやまない。

昇る太陽の曙光は足許の雪まで照らしだす。
あわく朱に紅にそまる白銀の輝きは、見はるかす山嶺へも満ちていく。
その彼方に灯る街の明りたちの1つは、自分が愛する人の場所。こうしてここからも、あの隣の場所は見つめられる。
こんなふうに世界中の最高峰からも、あの隣へ想いを届けて生きられたら。

「ほら、写メール撮りなよ。おくってやるんだろ?おまえの運命のひとにさ」

いつものように横から国村が小突いて笑う。
小突かれながら微笑んで、英二は携帯を取り出した。そしてシャッターを切って保存する。
そんな手元を眺める国村に、きれいに笑いかけて英二は言った。

「国村。おまえもさ、俺の運命の相手だよ?生涯のアイザイレンパートナーとしてね」

細い目が底抜けに明るく笑って、答えた。

「だね、俺たちは運命のパートナーだ。そしてお互い大切な想いの相手もいる。
 で、最高の危険地帯に立って笑う運命だ。なんだか俺たちは随分とさ、贅沢な人生だよね?」

「うん、贅沢な人生だな」

そう答えて英二は、きれいに笑った。

そう、贅沢な人生。
こんな自分を1年前には誰が想像できたろう?
そしてこの人生に惹きこんでくれたのは、あの隣あの愛するひと。

‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning
 I want to stand with you on a mountain’

‘君への想いはきっと、新しい始まり、生きる理由、より深い意味 そう充たす引き金となる
 君と一緒に、山の上に立ちたい’

眠る周太を新宿から浚った日。
自分の部屋で周太は過ごしてくれた。
そして置き忘れたiPodから周太はこの曲を聴いてくれた。
この曲の歌詞は自分の想いの言葉、そして今また結んだ「誓約」によせる想い。

その「想い」は ―A reason for living I want to stand with you on a mountain
そしてこのフレーズに加わるべき単語がある。

‘the highest peak’

周太、聴いてほしいよ?
これはほんとうの俺の気持ち、俺の想いの真実なんだ。

周太への愛する想いだけが、俺の人生の幕を開けてくれた。
だから周太は俺が生きる意味の全てなんだ。
だから俺は周太への想いを抱いて、この世界の最高峰へと登りたい。
そして最高峰から世界を見つめたい、そして周太のことを最高峰で想いたい、 

生涯ずっと最高峰から告げるよ? ― 君を愛している ―




【歌詞引用:savage garden「Truly, madly, deeply」】


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第29話 小春―another,side story「陽はまた昇る」

2011-12-19 23:56:40 | 陽はまた昇るanother,side story
その想いのままに、




第29話 小春―another,side story「陽はまた昇る」

鎧戸を開くと、よく晴れた冬の青空が温かい。
掃除日和だな。うれしくて周太は微笑んで、部屋へと振り向いた。
白い漆喰塗の壁と天井、無垢材の床と窓枠、木製の家具たち。白と木肌の空間は小春日和に温かく佇んでいる。
周太は壁際に置かれた頑丈な木箱を、天窓の下へ置くとハタキをかけた。
そして全体の天井から壁を廻って、書棚から全部の埃を落としていく。

「…こほっ」

ちいさく咽て周太は、胸ポケットからオレンジのパッケージを取出した。
一粒、オレンジ色の飴を取出し口に含むと、胸ポケットのiPodからイヤホンをセットしてスイッチを押した。

‘I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy 
 I'll be your hope I'll be your love Be everything that you need.…‘

iPodのイヤホンから穏やかな曲が流れだした。英二専用の携帯着信音も、この曲になっている。
なんだかこの曲の歌詞は、あの隣を想いださせる。たぶんきっと歌詞にこもる意味が、あの隣と似ているから。

‘僕は君が見ている夢になろう 僕は君の抱く祈りになろう 君が諦めた願いにも僕はなれる
 僕は君の希望になる、僕は君の愛になっていく 君が必要とするもの、全てに僕はなる’

「…ん、ほんとに、そう」

歌詞に微笑んで、周太は拭き掃除を始めた。
ぞうきんを絞るバケツの水が冷たい、時はもう冬を迎えている。
そんな今朝の奥多摩は雪がまた降った、その写メールを今朝も早い時間に英二は送ってくれている。
きっと今頃は日勤の駐在所で、雪の森と御岳山を眺めながら登山計画書を整理しているだろう。

‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning
 I want to stand with you on a mountain’

‘君への想いはきっと、新しい始まり、生きる理由、より深い意味 そう充たす引き金となる
 君と一緒に、山の上に立ちたい’

この歌詞は英二、そんなふうに想えてしまう。
あの雲取山に登ったとき、この歌にこめて英二は想いを告げてくれた。
そしてこの歌詞はきっと、英二がいま自分に伝えたい「想い」でもある。
だってもう、ほんとうは気がついている。毎日を繋いでくれる電話とメールに「想い」はあふれて届くから。

その「想い」はきっと、―A reason for living  I want to stand with you on a mountain

おしまいに窓ガラスの空拭をすると、周太は掃除道具を片付けた。
これで今日は家じゅうの掃除が出来た、うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、よかった」

この年の瀬は警邏の任務続きで周太は実家に戻れない。だから週休の今日を大掃除にしようと朝早くに帰ってきた。
おかげでまだ午前11時、外の陽も高く温かい。こんどは庭へ出ると周太は、剪定ばさみと梯子を持ち出した。
軍手をはめながら見上げる梢はいくらか伸びている。

「あの枝と、…こっち、かな?」

つぶやいて梯子をセットすると、かるく庭木の剪定を始めた。
30分程度ですぐ済んで用具をしまうと、落とした枝をきちんと縛って置き場所にまとめ置いた。
軍手を外しながら庭を見渡して、満足して周太は微笑んだ。これでもう家は庭も中も整っている。

この正月は当番勤務と警邏で周太は帰れない、だから母は1人で年越しになってしまう。
その母のためにも家をきれいにしておきたかった、母が1人の正月に寂しい想いをしないで済むように。
それに3日後には、英二が帰ってくる。
3日後は12月25日クリスマス、英二はこの家に父の合鍵と一緒に帰ってくる。

「…やっと、逢えるね。英二」

ちいさく呟いて周太は微笑んだ。
この家に英二が父の合鍵と帰るのは、こんどが初めてになる。
そのことはきっと母にも大切な意味がある、だからこそ母は英二に父の遺品の鍵を贈った。

―宮田くん、明日は行ってらっしゃい。そして今度、またここへ帰って来て―

そう言って周太の誕生日の午後、母は旅行へと出かけてしまった。その母の顔は晴れやかに楽しげだった。
そして翌日もどった母の瞳には、微笑みが明るくきれいだった。
そんな母はクリスマスもまた、午後から温泉に出かけていく。
こんどはどんな瞳になって、母は帰ってきてくれるのだろう?

「…ん、きっと良い顔になってくる、ね」

こういうことは本当にうれしい、周太は微笑んだ。
こんなふうに母を自由に外泊させられること、それが良かったと思える。
元々は母は旅行が好きだった、けれど周太が生まれてからは家族旅行ばかりだった。
そして周太も10歳になるからと久しぶりに友人と旅行にいく、その直前の夜に父は拳銃に斃れ殉職した。

―13年前の約束の旅行だったのよ

周太の誕生日の翌朝、帰ってきた母はそう告げて微笑んだ。
その友人と母はクリスマスにまた温泉へ行く。
きっと楽しんでくるだろう、その母の顔をまた見られる事が周太は楽しみだった。

さっとシャワーを浴びて着替えると、周太は掃除用の服とエプロンもまとめて洗濯機をまわした。
時計は12時になる、台所に立つと昼食の支度を周太は始めた。
今日は久しぶりに射撃特練の練習も無い、おかげで早く実家に帰って家事が出来ている。
こんなふうに警察の世界から離れて、一日を家事に遣うのは久しぶりのこと。なんだか幸せで周太は微笑んだ。

「…こういうの、いいな」

そっと呟きながら根菜入れの木箱から取出した南瓜を、器用に周太は切っていく。
今日は冬至だから南瓜を食べたいな。そんなメールを母は今朝くれた。だから南瓜の献立を考えてある。
周太は切り分けた半分を鍋にいれると、かるく塩をふって蓋をした。これは夕食用にあとで煮物にする。
こうして塩をふって出る水分で煮ると、ほっくりとした食感が出やすい。
残りは煮つぶしてマッシュ状にしていく、これは昼食のサラダとパスタソースに使う。
フォークに押されて滑らかになっていく南瓜の、オレンジの色合いが温かい。

「ん、きれいだな」

こういう手仕事は好きだ。
元々は父の死で働きに出た母の、手助けをしたくて周太は家事を身につけた。
もう周太には母しか居なかった、だから母の負担を少しでも減らして母には元気でいてほしい。
そんな想いで一生懸命に周太は、家事の本を読みながら1つずつ覚えた。おかげで今は何でも出来るようになっている。
そしてそんな周太の手料理を英二は「世界でいちばん好き」と言ってくれる。ふっと周太は幸せに微笑んだ。

「ん、…うれしかったよ、英二?」

そう、ほんとうに嬉しかった。
あの大好きな笑顔が「世界でいちばん好きだ」と言って笑ってくれた。
その笑顔を見た瞬間、いままでの自分の痛みも孤独も全て、温かい想いに変えられた。

周太の家事その一つずつは、周太の孤独と痛みの記憶が伴ってしまう。
それは周太が家事を覚えたきっかけが、父の殉職から生まれた孤独の賜物でいる為だった。
父の殉職で母は、専業主婦からキャリアウーマンに復職した。
それからはいつも、学校から帰った家はしんと静かで寂しかった。
父の生前はいつも母が迎えてくれた、けれどその温もりはもう2度と戻らない。
そんな哀しみが日々、周太の孤独を深めていった。
そしてそれ以上は孤独になりたくなくて、唯一人の家族である母を守りたいと思った。
だから周太は家事を覚えて母の負担を減らすことにした。そして帰ってきた母と話す時間を作りたかった。

父の殉職で周太は、学校でも近所でも居場所を消してしまった。
オリンピック射撃代表で有能な警察官だった父、そのことを周囲は誰もが知っていた。
だから父の殉職も誰もが知っていた、そして周太に誰もが訊きたがり慰めたがった。
「お父様、残念だったわね」「父さん銃で撃たれたんだろ?」「お母さん寂しいわね、再婚もいいことよ?」
そんなふうに寄せられる無神経な善意が、いつも苛々と苦しくて哀しくて。
そして傷ついてく心が悲鳴をあげて毎晩ひとり吐いて泣いて苦しんで。それでも頼れるのは自分だけしかいなかった。

そんな自分の我慢が切れたらきっと、酷く周りを傷つけてしまう。そんな自分の弱さも哀しくて。
だからもう誰も寄せつけたくなかった、そんな想いに周太は父の蔵書をランドセルに入れた。
そして学校の休み時間でもずっと、父の本の影に埋もれて過ごすようになった。
そうして話しかける人は誰もいなくなった。

だから周太にとって話せる相手も、母しかいなくなった。
そして父が亡くなった周太には、血縁者も母しかいなかった。
周太の両親どちらも一人っ子で、祖父母は周太が生まれる前に亡くなっていたから。
だから周太には、本当にもう母しかいなかった。そんな孤独が周太を家事の習得に向かわせた。

そんな哀しみから身に付けた家事すらも、ただ喜んで微笑んでくれる、あのひと。
そして自分のそんな手仕事に、幸せだと心から笑って「ありがとう」と言ってくれる、あの隣。

―今まで食った中で、周太の肉じゃがが一番うまい

ありあわせの材料で作った惣菜だった。それでも英二は幸せそうに食べてくれる。
そうしてご飯をいっぱい食べて、元気に微笑んで周太を抱きしめてくれた。
そんなふうに抱きしめられて幸せで、向けられる笑顔が幸せで。ほんとうに英二を好きだと想ってしまった。
だから雲取山に登る前夜も何か作りたくて、出来る限りだけれど簡単な夕食を仕度した。

―周太が作ったものがさ、俺、いちばん好きだから。だから嬉しい、ほんとだよ
 俺ね、今、すごい幸せだ

あんな簡単な料理でも、それでも英二は幸せに笑ってくれた。
そして周太を大切に抱きしめて、宝物のように求めて甘やかし眠りに沈めてくれた。
そんなひとつずつが本当にうれしくて、どの瞬間もいつも幸せが温かくて。
だから自分は心から感謝出来てしまう「家事が身についていて良かった」そんな感謝が今は心に温かい。
そうして13年間の孤独すら、この幸せの為だったと認められる。

だからもう、自分はきっと孤独には戻らない。
そしてもう信じている、この幸せに佇む唯ひとり愛する人は、きっとずっと共に生きていく。
だから自分の心には今、ひとつ勇気を抱いて温められている。あの初雪の夜に結ばれた「絶対の約束」その想いの為に。
そんな想いは温かい、幸せに周太は微笑んでガスの火を止めた。

「ん、これでいい、かな」

食事の準備も済ませると、周太は父の書斎の扉を開けた。
さっき掃除したばかりの、ダークブラウン落着く部屋は窓の風に清らかだった。
静かに窓を閉めると周太は、書棚の前に立って背表紙を見つめていく。そして目当ての本を見つけて周太は微笑んだ。

「…ん、これ、」

そっと本を取出すと書斎の扉を開いて、自室へと周太は戻った。
穏やかな小春日和に温かい屋根裏の、ちいさな部屋のロッキングチェアーに周太は座りこんだ。
きっ、と微かな軋みが漆喰の壁に響いて、ゆったり揺らいで椅子は周太を受けとめてくれる。

この椅子は父が若い頃に作ったもの、頑丈でけれど繊細なラインがきれいな椅子。
幼い頃からこうして座るのが周太は好きだった。
こんなに好きな椅子なのに、13年間を座らないで過ごしてきた。
その時間の分だけこれから、この椅子を大切に出来たら良い。

「…大切にするね、お父さん?」

微笑んで周太はiPodをセットすると、携帯をポケットから取り出した。
そっと開いて受信メールボックスから、1通のメールを探し出す。

From  :宮田英二
Subject:東京の最高峰から
添 付 :雲取山の雪景色と夜明けの空、遠望する新宿の灯
本 文 :おはよう周太、ここは新雪が積もってる。
     今、新宿が見えるよ。東京の最高峰からね、周太を見つめてる、そして周太のこと想ってる。
     最高峰から告げるよ?ずっと俺は、周太を愛してる。

1週間前、田中の四十九日を英二は国村と雲取山から送りだした。
それは奥多摩の雪ふる真白な夜だった、そして翌朝は新雪の山頂に英二は初めて佇んだ。
その新雪の山頂から夜明けに、英二が送ってくれた写メール。
うす赤くそまる白銀の新雪と、その向こうに新宿の夜明けが曙光に浮かんでいる。
その山頂から告げられた想いと一緒に、きれいだなと見惚れてしまう。

「きれいだね、英二」

小春日和の陽だまりで、揺椅子から周太は微笑んだ。
ほんとうに微笑んでしまう、だってこのメールには英二の「想い」が籠められているから。
ほんとうは逢って話そうと英二は想ってくれていること、けれど自分には解ってしまう。
そんな想いに微笑みながら周太は、メール本文をそっと声にした。

「…最高峰からね、見つめてる、そして想ってる…最高峰から告げるよ?ずっと俺は、愛してる」

‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning
 I want to stand with you on a mountain’

‘君への想いはきっと、新しい始まり、生きる理由、より深い意味 そう充たす引き金となる
 君と一緒に、山の上に立ちたい’

いま聴いている歌詞と重なっていく英二のメール。
この歌詞がうたいあげる愛する想い、そして英二が自分によせてくれる愛する想い。
それが伝えてくれること、そして英二が逢って話したい大切な「想い」その意味。
ほんとうはもう自分は気づいている、だって自分はずっと英二を見つめて生きているから。
いつも英二が繋いでくれる想い、刻々と見つめ続ける想いに抱かれている自分。そんな自分には解ってしまう。

その「想い」はきっと ―A reason for living I want to stand with you on a mountain

そしてこのフレーズに加わるべき単語がある。
その単語はこの英二のメールにもう書いてある。
だから解ってしまうよ、英二?―そんな想いに微笑んで、周太は唇を開いた

「the highest peak…だね、英二?」

― 最高峰から見つめてる、そして想ってる 最高峰から告げるよ?ずっと

そんなふうに英二は生きる意味を見つけた。
たぶんきっと、その最高峰へ誘ったのは「最高峰に登る運命の人」― あの国村が誘った。
だって国村は英二をアイザイレンパートナーに選んでいる、それはきっと最高峰へ登るときだって同じこと。
そして国村は自分が望んだ以上、必ず英二をパートナーとして生涯ずっと掴み続けるだろう。

―湯原くんと俺はさ、宮田のことでもライバルになっちゃうかもよ?

田中の四十九日の夜、国村はそんなふうに電話で告げてくれた。
それはたぶん「山ヤの生涯をずっと、宮田と共にするからね?」そういう意味だった。
そんなふうに国村は、そっと周太に覚悟を促してくれた。

国村と英二は相似形、よく似ていてけれど対になっている。
そして共通する性質は「直情的で思ったことしか言わない出来ない、欲しいものは絶対掴んで離さない」
だからもう国村は英二を、アイザイレンパートナーとして生涯ずっと離さない。
そしてきっと。その求めに英二も応じて、自ら望んで国村と立つ生涯を選んでいる。

そう。きっともう、ふたりは決めている。

― 生涯アイザイレンパートナーとして共に世界中の最高峰に立つ

たぶんそう誓って、ふたりは決めてしまった。
だからこそ田中の四十九日を2人は、東京の、奥多摩の最高峰に立ったのだろう。
その田中は2人が山ヤとして敬愛する先輩で師、そして田中も山ヤとしてトップクライマーの夢を抱いていた。
その田中を送るとき2人は最高峰から誓っただろう、2人で共に最高峰を踏破して田中の夢をもかなえると。
だから国村は英二を雲取山へ連れて行った、そして英二も望んで共に山頂に立った。奥多摩最高峰の山頂に。

「ね、英二…そう、決めているね?」

そうだよ英二?自分には解ってしまう。
だって英二が帰ってくる隣は自分、いちばん近くで見つめているのは自分。だから解ってしまう。
そして警察学校の日々が自分にはある、その日々にいつも資料室で英二が見つめていた写真を覚えているから。

白銀の世界に立つスカイブルーのウィンドブレーカー。
警視庁青梅署山岳救助隊の遭難救助の現場写真、そんな山ヤの警察官の背中は、誇らかな自由がまぶしかった。
それから、
日本の雪山と世界の雪山、そして世界中の最高峰たちの美しい姿の写真たち。
その最高峰に立つトップクライマーの、誇り高い自由と頼もしい背中。

そうした写真をいつも英二は見つめていた。見つめる時いつも切長い目は輝いて美しくて。
そんなふうに見つめながら、隣から覗きこむ自分に笑いかけてくれた。
真直ぐ自分の瞳を見つめて言っていた「自分もこうなりたい、できるかな?」そんなふうに笑って教えてくれた。
その笑顔がきれいで見惚れて。だから自分は答えてしまった「きっとね、できるよ」そう微笑んでしまった。
そして英二は卒業配置の第一希望に奥多摩地域「青梅警察署」と記した。

けれど奥多摩は警視庁管内で最も厳しい配属先になる。だから山岳経験者のみが配属される地域だった。
そして卒業配置でストレートに配属されることは難しく稀な配属先だった、それでも英二は望んだ。
その望みのまま諦めずに努力を重ねて、山岳救助隊実務に関わる科目で高成績を納め、検定も高得点で合格した。
そんなふうに遠野教官の信頼を勝ち取って、英二は不可能に思えた奥多摩配属を掴んだ。

こんなふうに英二はいつも、欲しいものは絶対に掴んでいく。そんな努力とそれだけの能力を英二は持っている。
そして掴んでしまったらもう2度と離さない、そんな性質はきっと国村も全く同じでいる。
だから2人で決めた望み「想い」なら、必ず2人は叶えていくのだろう。

そしてその「想い」を告げるため、英二は3日後にこの部屋を訪れる。
そんな覚悟も抱いて今日は、この家の全てを整えた。
だってきっと英二は、この家で「想い」を告げてくれるだろう、この家は周太の父が「想い」を遺す場所だから。
そのことだって自分は解る、穏やかに微笑んで周太はささやいた。

「…ん、俺にはね、わかるんだよ、英二?…それにね、信じてる」

信じている、唯ひとつの想いに。
だって約束を必ず守ってくれる、愛するあの人は。
だからきっと最高峰からだって、英二は必ず自分の隣に帰ってきてくれる。

 どんな時どんな場所からも、絶対に周太の隣に帰ること
 いつか絶対に一緒に暮らすこと、ずっと毎日を一緒に見つめること

そんな2つの「絶対の約束」を自分は全てを懸けて英二と結んだ。
英二は必ず約束を守る、だから「絶対の約束」があればきっと無事に帰って来る。
そうして帰る生命の無事を祈りたくて、この想いごと心も体も全てを懸けて約束を結んだ。
あの初雪の夜に、その翌夜新宿の街路樹に、心ごと繋いで結んだ約束。
だから自分は信じている、そのための勇気をもう自分は抱いている。

最高峰に立つこと、それは世界最高の危険地帯に立つこと。
それでも英二は必ず帰ってくる、あの隣には山が想いをかけてくれるから。
あの隣のアイザイレンパートナーは、最高峰に生を受けた山の申し子。
その山の申し子に選ばれた英二なら、峻厳な山の掟すらきっと愛して生かしてくれる。

それに自分は知っている、あの隣が山ではどんなに輝くか。
共に過ごした雲取山で見た英二は、山ヤの誇り高らかな自由と頼もしさが眩しかった。
それは素直なままの英二の姿だった、そしてその姿を見たいと自分こそが願っていた。

あなたの真実の姿、実直で温かい、やさしい穏やかな静謐。
あなたの真実の姿、そのままで、生きていて?
そのままの姿で、率直に素直に生きるなら。あなたなら、きっと見つめられる、見つけられる。
生きる意味、生きる誇り。それからあなたに、必要な全て。

ずっとそう願ってきた。
そしていま英二が見つめはじめた「想い」はその願い叶えられること。
その予感と期待がうれしい、そして英二が輝く姿を隣から見つめたい

それでも、ほんとうは怖い、
あの隣、愛する人が世界最高の危険地帯に立つことは。
いま自分たちが生きる警察官の危険、それより遥かに厳然とした危険に立つことだから。

それでも自分は信じる。
だから愛する人の想いのままに、自分は信じて微笑めばいい。
だってもう自分だって決めている、愛する人の為に自分が生きていくこと。
だから信じて待っている。この愛する人を守る、その一つの為になら自分は勇気が持てるから。

ここに今あることが、誇らしい。
この隣を英二を愛する自分が誇らしい。
そしてこの想いの為になら、どんな事も出来る勇気が誇らしい
だからもう、自分は信じて待つことが出来る。

そして「想い」を話してくれることを待っている。
そして願っている。自分が受入れると、英二が信じてくれることを。



【歌詞引用:savage garden「Truly, madly, deeply」】


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第28話 送花―another,side story「陽はまた昇る」

2011-12-18 23:56:20 | 陽はまた昇るside story
花によせる想い




第28話 送花―another,side story「陽はまた昇る」

ぱちん、
静かな庭に花切ばさみの音が響いた。
凛然と咲く真白な山茶花の下で、つぼみの一枝が梢から離れていく。その花枝を周太はそっと掌へと受けとめた。
濃緑の葉5枚に真白い丸みが愛らしい、微笑んで周太はそっと山茶花「雪山」の幹を撫でた。

…分けてくれて、ありがとう。大切にするね

そんな想いに微笑んで、周太は花枝と一緒に家に入った。
切った花枝を用意しておいた小瓶に活け、階段を上がっていく。
自室への扉を開き花の小瓶をデスクに置くと、すこし揺れたつぼみは部屋に静謐と香をもたらした。
広がっていく花の香が懐かしい、そっと周太は微笑んだ。
この花を新宿の自室に持ち帰りたくて今日は、術科センターの訓練後ひとときだけど実家の門を潜った。

明日は御岳を愛した山ヤ、田中の四十九日を迎える。面識は無いけれど、田中の生き方は憧れ温かい。
だから田中に敬意を表したくて、周太は花を切りに今日は実家に帰ってきた。
この花は周太の誕生花、そして亡くなった父が遺してくれた花。その父も山を愛し奥多摩を歩いていた。
そんな父が田中を迎えたら、きっと仲良くなるだろうな。そんな想いの花に周太は微笑んだ。

「…ん、きれいだな」

この山茶花「雪山」と同じ花木が、御岳山にも梢を広げている。
その御岳山を愛した田中のために、周太はこの花を捧げたかった。
明日は四十九日、田中はこの世に別れを告げて逝く。
明日は田中がこの世を見つめる最後の時、せめて御岳にも咲くこの花で周太は送りたかった。

「ん、」

眺める花から顔をあげると、周太は木造りの襖扉から伸びた木梯子に足を掛けた。
もう古い木梯子はまだ頑丈なままでいる。この梯子も周太の父が造ってくれた。
梯子をあがりきると天窓から光が温かい。周太は壁際の窓を開くと鎧戸を開けた。

ゆるやかな小春日和が屋根裏部屋へと風にながれこむ。
ふっと懐かしい花の香が頬を撫でて、しずかに部屋を香にひたした。
見おろす庭の門には、南天の赤が陽だまりに温かい。家に帰ってきているな、そんな想いに周太は微笑んだ。

しばらく窓辺の陽射に目を細めてから、周太は無垢材の本棚に向き合った。
幼い頃から親しんだ本達が並んで迎えてくれる、その中から植物図鑑を一冊抜き取った。
窓へ向かうロッキングチェアーに座りこんで、ポケットのiPodをセットしてゆっくりページを繰っていく。
ちょうど初冬の今を描いた巻、きれいな挿絵と写真にわかりやすく草木の特徴が書かれている。

そこには奥多摩の山でみた草木の冬姿も佇んでいた。3週間と少し前にふれた草木達が、今は本の中で息づいている。
なつかしいな、そんな想いで眺めていくページに、周太の瞳がふっと止まった。
そこは木洩陽あざやかな落葉松の、黄葉の情景が満ちる光まぶしいページだった。

When,in a blessed season
With those two dear ones-to my heart so dear-
And on the melancholy beacon,fell The spirit of pleasure and youth's golden gleam
祝福された季節に、
愛しい私の想いの人と、ふたり連れだって…
そして切なき山頂の道しるべ、その上に。あふれる喜びの心と、若き黄金の輝きとがふり注いだ。

あの雲取山。落葉松の森で見つめた隣、唯ひとつの想いに見つめるひと。
あの日あのひとは、金色の木洩陽に照らされ深紅あざやかなウェア姿がきれいで。
その白皙の貌にふる光に端正な深みの表情、黄金の森ゆるやかに陽光透ける髪。

「…ね、英二。いま、駐在所で笑っている?」

ながめる落葉松のページに、大切な記憶を重ねて周太は微笑んだ。
もう1ヶ月近く逢っていない、けれど姿も表情も心あざやかなまでいてくれる。
おだやかで温かい静謐、きれいな低い声、深い落ち着いた香。

「逢いたいね、英二…」

ふっと慕わしさに呟いて、周太は微笑んで落葉松を見つめた。
ゆるやかな初冬の陽だまりが揺椅子を温めていく。
ゆったり図鑑を眺めながら、周太は穏やかな眠りに包まれていった。


新宿署独身寮の自室で、風呂も済ませた周太はデスクライトを点けた。
あわいブルーの光の下で、つぼみの山茶花は真白に輝いている。
つややかな常緑の葉に灯りが弾けるのを眺めながら、周太は手帳を開いた。
開いたページには、りんどうの青い凛とした姿が一葉、きれいにはさまれている。
それは、田中が最期に写した御岳の花の写真だった。

冷たい氷雨を花に戴きながらも、ひとすじの陽光に輝く青い花。
どんな境遇にも微笑んで立つ、そんな強い意思と温もりが感じられてくる。
この写真を雨中に撮った為に田中は、冷たい氷雨にうたれ山に抱かれる眠りについた
それでも。山の氷雨に抱かれても、花の生命と山への想いを写したかった。
そんな田中の山を愛する想いが、青い凛とした花から匂いたってくる。

―褒めてくれて、嬉しかった。じいちゃんならきっと、あげたよ

この写真を周太は、田中の葬儀で出会った孫の秀介から受けとった。
あの小さな掌を通して山の美しさを語りかけてくれた田中。ほんとうに会ってみたかった。
けれどきっと明日の夜を越えて、田中は周太の父と会うだろう。
そしてきっと奥多摩や他の、山の美しさを話して楽しんでくれる。

…ふたりで山の話を、ゆっくり楽しんでくださいね

この青い花に顕れた山の生命の姿。
写しとられた花の姿も、写した人の心も。それを渡してくれた心も、全てがいとしい。
いつか自分も田中のように、おだやかな瞳で山と草木を愛して生きて、そして静かに眠りを迎えられたら―
そんなふうに自分も生きられたら―そんな憧れは心に温かい。

それまでには父の軌跡を追う日々が横たわる、それは辛く冷たい現実に向きあう道になるだろう。
けれど「いつか」を信じられるなら、きっと自分は越えて行かれる。
だってもう自分は決めている、その「いつか」をあの唯ひとり愛するひとに捧げて生きること。
だからきっと自分は信じて越えていくだろう、それを父だってきっと見つめてくれている。
そしてきっと田中も父と見てくれる、だってこの大切な花の姿を贈って励ましてくれたひとだから。

「…どうか、見守ってください」

ぽつんと呟いて周太は、そっと写真を白い花の許へと並べた。
必ずまた奥多摩に山に、自分も花や木に会いに行こう。青い花の姿を見つめながら、周太は静かに微笑んだ。
その視界の端で携帯に、ふっと着信ランプが灯った。

「…あ、」

おだやかな曲が流れだす。
ほんの1秒聴いて周太は携帯を開いた。

「周太、考えごとしてた?」

きれいな低い声が訊いてくれる。
大好きな声が今夜も聴けて嬉しい、周太はそっと微笑んだ。

「…ん、りんどうのね、写真を見ていた」
「うん…そっか、周太も見ていたんだ」

きれいな低い声が少し寂し気でいる。
きっと逝った人を偲んでいるのだろう。おだやかに周太は訊いてみた。

「ん、英二も見ていたね?」
「うん。懐かしくってさ、田中さんと話したこと。それが今夜はね、周太。なんだか全部が蘇ってくるんだ」

ふっと懐旧と寂寞が電話の向こうに漂ってくる。
英二の想いに寄り添いたい、そんな想いに周太は口を開いた。

「それはね、英二。きっと明日が四十九日だから、かな?」
「うん、周太?四十九日だと、なのか?」
「ん、そう。四十九日はね、英二。亡くなったひとがね、この世に別れを告げる日なんだよ」

四十九日はこの世から別れる日。そんなふうに周太も母に教わった
13年前の初夏の日、父の四十九日の夜。母は「お父さんはね、きっと今夜に旅立つの」そう寂しげに微笑んだ。
けれど翌朝になっても、父の気配は書斎に遺されたままだった。
母は四十九日に父は去ると言っていた、けれど父はきっと書斎に座っている。それが周太にはうれしいと思えてしまった。
そのままを周太は母に告げると、母は内緒話のように、そして寂しげに微笑んだ。

―お母さんがね、お父さんを引き留めてしまった。そんな気がする、な―

そして母はそれ以降、夜は家を無人にする事を避けるようになった。
そうして母は旅行にも行かず、13年間をずっとあの家で過ごし続けている。
だから周太の誕生日に母が急に旅行へ行ったのは、周太には驚きと、そして安堵が温かかった。
そんな母の変化には、このいま話している隣が影響している。その影響は温かく母を笑いへと誘っていく。
ほんとうに自分たち母子は、どれだけ英二に救われているのだろう?そして自分はどれだけ想ってしまうのだろう?

「四十九日って、そういう日なんだな。じゃあさ、周太。だから国村は明日、雲取山に登りたいのかな」
「ん、…奥多摩の最高峰からね、田中さんを見送りたいのかも、ね?」

田中は奥多摩の御岳在住の山ヤだった。
そして国村にとって田中は親戚で、一流のクライマーになる基礎を教えてくれた人だと聴いている。
だから国村だったら自分の山の師である田中を、奥多摩の最高峰から送りたいと思うだろう。

「うん、きっと周太の言う通りだな。
 …うん、俺もそうやって見送れるのはさ、うれしいな。俺にとってもさ、田中さんは御岳と山の先生だったから」
「ん、…そうだね、英二?」
「うん、」

頷いた英二の、すこし笑った気配が感じられる。
そんな微笑みが動いて、英二が話し始めた。

「卒業配置で着任したばかりだった俺にさ、田中さんは御岳の写真を見せてくれたんだ。
 そしてね周太、田中さんが歩いてきた山の話をしてくれたよ。どの話も、田中さんの山へよせる想いが温かかった」
「…ん、」

しずかに周太は頷いた。
きっと英二はいま、四十九日の意味を知って惜別の想いにいる。
いまはただ愛するひとの想いを聴かせて欲しい、そっと周太はベッドへと座りこんだ。

「そんなふうにね、周太。田中さんは『山ヤ』の素直な姿を、俺に学ばせてくれたよ。
 田中さんとは3週間くらいのつきあいだった、けれどその3週間はね、…周太、
 きっと、山ヤとして俺がね、…生きていくためにはさ…大切な時間だった。そんなふうに思うんだ」

話してくれる英二の言葉に、かすかな吐息がまじっていく。
きっと哀しみと衝撃の記憶がいま、英二に蘇っているのだろう。
あの氷雨の夜に田中が息を引き取ったのは、捜索に出た英二の背中だった。それでも英二は涙を流さずに飲みこんだ。

「ん、…そうだね、英二。大切なね、時間が嬉しかったね?」
「うん、…ほんとうにそうだよ、周太。俺ね、うれしかった。
 田中さんは温かくって、ほんと頼もしい山ヤの先輩だったんだ。
 新人で経験も少ない俺をね、励ましてくれて…だから俺、駐在所に田中さんが尋ねて来てくれるの、うれしかった」

あの夜。息を引き取った田中を、国村が背負い英二が付添って下山した。
そして山ヤの警察官の誇りに微笑んで、遺族の悲しみを英二は受けとめた。

「…ん、素敵な先輩だね、田中さん」
「うん、そうなんだ周太…俺ね、ああいう温かいさ、山を真直ぐ愛するようにね…なりたいんだ」
「ん、英二ならね、きっとなれる。俺はね、そう信じてる」
「…うれしいな、周太。周太がね、信じて…くれるなら俺はさ。絶対だいじょうぶ…って想える」

いつもにない英二の言葉の硲にゆれるもの、それが涙飲む瞬間だと自分には解る。
きっと明日の四十九日も英二は自分の涙は飲みこむ、そして田中の遺族の哀しみに静かに微笑んで立ち会うのだろう。
どこまでも実直で温かい英二、やさしい穏やかな静謐で哀しみを受けとめて、きっと明日も微笑むだろう。
きっと秀介を抱きとめて、そして国村さえも英二は抱きとめるだろう。
だから今このとき自分こそが英二の涙を受けとめたい、周太はそっと英二に告げた。

「英二?今夜はね、電話は繋げたままでいて?」

しずかに告げた言葉に、そっと電話の向こうが揺れた。
きっといま英二の、きれいな切れ長い目から涙がこぼれる―そう周太には感じられてしまう。
ほら、きっとすこしだけ。答える声はもう、すなおにふるえるでしょう?
ふっと周太は微笑んだ。

「ね、英二?俺にはね、そのままで良い…思ったまま感じたままをね、いつも伝えて?」
「…周太、…っ」

繋げた電話の向こう、涙をこぼす気配がきこえる。
ねえ素直でいて?そして名前を呼んで、俺を頼って?

「英二、俺はね…英二を愛してる。唯ひとりだけ愛している、俺には英二だけ。…だから英二、俺にだけは甘えて?」
「…うん、…っ周太、」

もう涙は素直に出ているね?
そう、それでいい。俺には素直なままでいて?
電話で繋げた想いに、おだやかに周太は微笑んで唇を開いた。

「俺はね、英二を守りたい。愛するひとをね、…俺こそが守りたいんだ。
 だからね、英二?俺を頼って、俺の名前を呼んで。…そして俺の前でだけはね、素直に涙も見せて?」
「…ん、周太にはね、俺…そのまんまだ、よ…っ…」

涙ふるえる心が繋げた電話ふるわせていく。
ほんとうは今だって抱きしめたい、この愛するひとを涙ごと肩を抱いて泣かせたい。
けれど今は警察官の立場と任務に縛られて、自分は傍にいてやれない。

「ん、英二。いま一緒にいれなくて、ごめんね。ほんとはね、抱きしめたいんだ、…英二のこと」
「うん、…うれしい、よ…俺こそね、時間ずっと、ごめん…でも、俺、…周太のこと、…ほんと愛してる」

だからせめて心だけは、繋いだ電話で抱きしめていたい。
だから想いを伝えて?いつも深く収めた想いすら、いまは言葉にしてほしい。
そうして泣いて俺を頼って?いつも援けてくれる英二、いまこそ甘えて泣いてほしい。

「ん、愛してる、英二。だからね、繋いだ電話でね、心だけでも抱きしめさせて?
 だから英二、我慢しないでほしい。言いたいこと、想っていること、全部をね、言ってほしい」
「全部、…いいの?周太、」

そう、全てを言ってほしい。
だって言ってくれたでしょう?この自分の隣だけが、あなたが帰ってくる場所だって。
だから言ってくれたままで、今このときも帰ってきて?
そんな想いに周太は、きれいに微笑んで言った。

「だってね、英二が言ったんだ。英二の帰ってくる場所は俺の隣だけ、だからね英二、俺だけには素直な想いを言って?」
「…うん、周太だけ、…だよ俺は、さ」

そう、自分だけ。
そう言われた時どんなに誇らしかっただろう。
だから言ってほしい、頼ってほしい。あなたの唯ひとつ帰ってくる場所だから。
きれいに笑って周太は愛する隣に教えた。

「だって英二はね、そのままの姿でね、ほんとうに…素敵だよ。
 だから、素直な想いを言ってほしい、そのままの英二をね、俺は愛している」

そう、愛している。
そのままの姿で愛している、もうずっとそう。
初めてその切長い目を見つめて、そこに真直ぐな想いを見つめてしまった。あの初めて出会った瞬間から、ずっと。
あの瞬間に見つめてしまった、真実の姿と心と想いに自分は惹かれ、そして愛してしまったから。

「そのままの、俺を、…愛してくれる?」

ふるえる涙の硲から、きれいな低い声が訊いてくれる。
そんなこと決まっている、どれも愛している。いま聴くこの声も大好きで、ふるえる想いすら愛している。
こんなふうに自分はもう、この隣の全てを受入れ始めている。だから離れている今だって全て受けいれてしまう。
そんな自分だから話してほしい、そっと周太は答えた。

「ん、英二…いつだって、どこでだって、そのままの英二をね、俺は愛している」

電話の向こうに温かな心が微笑んだ。
そう、微笑んでほしい。だって愛している、笑っていてほしい。
いま隣は涙にしずんでも自分こそが寄り添いたい。そして涙を流した隣の記憶すら、温もりの記憶に変えていたい。

「今夜はね、電話を繋いだままでいる。だからね、英二?いま想うこと、そのまま全部話して?」

想いを、告げられた。
そう、いま自分こそ、きちんと想いを伝えられた。
前はきっと言えなかった、こんな素直に思ったままは。
けれど今はもう抱いている、ひとつの勇気が奮って、もう自分を籠らせない。

さあ英二?俺はもう勇気があるんだ。
だからね英二?我儘だって受けとめたい、だから話して聴かせて?
そんな想いの周太の心へと、英二の温かな涙がこぼれるように電話で繋げられていく。
そうして周太へと、きれいな低い声が泣きながら言ってくれた。

「…っ、周太、あいたい…ほんとは今日だって、俺、…あいたくて…でも、今日も俺、時間なくて…でも、っ」

雲取山に登って新宿でわかれて、もうじき1ヶ月。
その1ヶ月の英二は、山ヤの警察官として生きていた。
とくに12月を迎えて後の2週間は、ほんとうに全て懸け切って。

日勤と当番の日には山岳救助隊員として駐在員として駆けだしていく。
非番の日には射撃訓練と山岳訓練に明け暮れて一日を終える。
週休の日には山岳技術の個人指導を受ける、それから遭難現場と救命救急の知識と技術を磨く。

ずっと全ての時間を「山ヤの警察官」として英二は使った。
余暇をも全て遣いきって、そうして全力で英二は自分の成長に懸けた。
その真剣な姿勢をつき動かしていく、なにか強く願う「想い」がきっとある。それが周太には解ってしまう。
それをいつか話してくれることを、しずかに信じて周太は待っている。

「…ん、俺もね、あいたいな。でも英二?だいじょうぶ。いつだって繋がっている、そうだよね?」
「うん、…っ、繋がってる。俺はね、周太。いつだって、周太ばっかり見てる…だから俺、この1ヶ月…がんばれた」
「ん、知ってるよ?いつもね、英二は見てくれる。俺もね、英二を見てるから…だから大丈夫」

明日は田中の四十九日。
そのための涙から英二は口を開いてくれた、けれど今ほんとうに英二の心に懸るのは?
きっとこの1ヶ月を2週間を、真摯に時間を遣いきらせた「想い」のこと。
そのことにもう自分はずっと気づいている。
そしていま英二はその「想い」を告げたくて泣いている。

「…っ、でも、…いますぐだって逢いたいんだ…あってね、周太に伝えたいこと、いっぱいある、んだ」

告げたい「想い」告げられない。
それは「逢って伝えたい」そういうことが理由。
だから解ってしまう、きっと大切な「想い」を告げてくれること。
そしてその「想い」はきっと決断が必要なこと、だから英二は逢って伝えたい。

「…ん、きっとね、逢えるよ、英二?そして伝えられる、」

きっと自分にとっても決断が必要なこと、そんなふうに解ってしまう。
だって自分だってもう、ずっとこの隣を見つめているから。
だからいま懸けるべき言葉、それを見つめて告げてあげたい。おだやかに周太は唇をほころばせた。

「きっと英二が伝えてくれること、俺はね、…信じて待っている。だからね、きっと逢える。ね、英二?」

そう、信じている。
だって自分がいま一番に出来ることは、愛する隣を信じていること。
だから信じている、愛しているから信じられる。だって約束は必ず守るひとだから。
だから自分のことも信じてほしい、あなたを受入れるってこと。
そんな想いの周太へと、電話の向こうから英二は告げてくれた。

「うん、逢えるな…きっと俺、時間作るから。周太、俺を待っていて?」

告げる声が笑ってくれる。きっと今は英二は笑っている。
そう、きちんと泣いて?そして笑って?
心から願っている、笑ってほしい。あなたの笑顔はほんとうに、自分にとって喜びだから。
英二の笑顔がうれしくて、きれいに笑って周太は答えた。

「ん、ずっと信じて、俺はね、英二を待っている」


翌朝の目覚めはさわやかだった。握りしめたままの携帯を、見つめるよう周太の瞳は披いた。
ゆっくり瞳を動かして見た窓は、まだ暗い夜へと沈みこんでいる。
ずっと握りしめる携帯に時間表示を出すと、AM5:00と画面に灯った。
そのまま耳元に受話口をあてると、穏やかな寝息が聴こえている。
きっと涙の跡がついたまま、けれど微笑んで英二は眠りまどろんでいるだろう。
その顔を想って微笑んで、そっと周太は携帯を閉じた。

「…ん、」

まだ早い時間、それでも周太は起きあがった。
しずかに窓を開けると夜明け前の冷気が頬を撫でる。その空気にはどこか湿気が感じられた。
もしかしたら今夜は雪が降るのだろうか?そんな想いがひやりと周太の心を撫でた。
だって今日は田中の四十九日。その夜を送るために英二は、国村と雲取山へ登る。
でもきっと大丈夫、ベテランの国村も一緒だから。

「ん、…だいじょうぶ」

だいじょうぶ、だって信じると昨日も告げてしまった。だから信じて今日を、自分も笑って過ごせばいい。
いつでもあの隣が、この自分を頼って甘えられるように。そのために自分は今日も不安に負けないで笑っていたい。
そんな想いにきれいに笑って、周太は窓を閉めた。


一日の業務を終えて、周太は東口交番から新宿署への帰路についた。
平日の真中の今日は道案内がすこしだけ。だから資料整理がずいぶん片付いた。
よかったなと思いながら歩く視界の端に、ふっと光のいろが掠めこんだ。
その光に誘われるよう振り向くと、周太の瞳にイルミネーションの輝きが映った。

あわいオレンジ色、あわいブルー。それから白い雪のイメージ。
あの1ヶ月ほど前。英二と歩いた光の通り道の入口だった。
あの夜はイルミネーションの白さが、ホワイトクリスマスの雪だと辛く感じて。

けれど今はもう、雪だって良いと思える。
だってゆうべの電話で英二は言っていた「新雪の雪山をね、俺も見てみたいんだ」そんな山ヤの願い。
だから今はすこし願ってしまう、どうか今夜の雲取山へ新雪がふり積もりますように。
そうして愛するあの隣へと、その美しい姿を見せて心から笑わせてほしい。

けれど雪山お願いがある、どうぞあの隣を無事に返してください。
どんなにあの隣が雪山を愛しても、冷たいその懐には抱きとらないでいて。
どんなにあの隣が山ヤの「本望」その生きざまに憧れても、どうか自分の隣に帰してほしい。

そんな願いのなか歩いて、周太は新宿署併設寮に近い街路樹の下に立った。
すこし奥まった樹影へと静かに周太は入ると、そっと梢を見上げてみる。
常緑の梢ゆたかに繁らせて、寒い夜空にも穏やかに木は佇んでいた。
この場所で英二は1ヶ月程前に、周太と絶対の約束を結んで微笑んだ。

―だって俺の帰る場所は、周太だけ。俺はね、周太ばっかり見つめて愛している
 だから周太、いつか必ず、俺と一緒に暮らして? その絶対の約束がね、俺、今この時にほしい

それは「絶対の約束」そして2つめ。
1つめは「絶対に周太の隣に英二は帰る」そんな温かい約束。
そしてきっと次に逢う時は3つめを約束して繋いで結ぶ。そんな確信がどこか周太には座っていた。

いつものように21時に携帯の着信ランプが灯る。
資料を眺めるデスクライトの下で、白い花の隣に置いた携帯に掌を重ねて握る。
そっと開いて耳に受話口を当てると、すぐ周太は話しかけられた。

「湯原くん?こんばんは」

英二の声じゃ、ない。

いったいどういうこと?
どうして英二の着信音で、違う人の声が聴こえてくるの?
すこし混乱に驚く周太の耳に、愉しげな声が話しかけてくる。

「湯原くん、俺、国村だけど?」
「あ、…はい、あの…?」

今夜は英二は、国村と雲取山避難小屋に泊まる。
山岳経験の少ない英二のために、雪山でのビバーク訓練と避難小屋の遣い方を教える予定。
そして田中の四十九日を、奥多摩最高峰の雲取山で送っていく。だから英二と国村は一緒に今いるだろう。
けれどどうして国村が、英二の携帯から電話してくるのだろう?

「ひさしぶりだね、湯原くん?なんかさ、射撃大会では俺、ライバルになっちゃったね」
「あ、ん。それはね、英二にも聴いたけれど…あの、なぜ、英二の携帯なの?」

なぜ英二の携帯で?一番に気になることを周太は訊いてみた。
この国村の声のトーンは愉快げでいる、だから英二が事故に遭ったわけではない。
そのことが解るから周太は落ち着いている、けれど気になってしまう。
なぜ国村が英二の携帯で?そんな疑問に首傾げる周太に、さらっと国村は言った。

「ちょっと借りたんだよ。でね、湯原くんと俺はさ、宮田のことでもライバルになっちゃうかもよ?」
「ん、…どういうこと?」

英二のことでもライバル?
よく解らなくて訊き返す周太に、愉しげな声が答えた。

「俺もね、宮田に抱かれちゃったよ」

まっしろになった。

黒目がちの瞳を大きくしたまま周太は固まった。
だってなにをいっているの?言われたことが理解できない、なんていったのだろう?
混乱する心へと携帯から声が笑いかける。

「ずっと逢っていないんだろ?だから欲求不満なんだよね、最近の宮田って。
 しかも山は人気が無いからさ、宮田も『あのとき』になりやすかったみたい。
 で。俺、抱かれちゃったんだ。そんなわけでさ、湯原くん。ちょっと借りちゃったから」

あのとき?
よっきゅうふまん?
人気が無いから?それで?…抱かれちゃった?借りちゃった?…
なにをいわれているの?どういうことなの?そんな言われる単語に心迫あげた瞳が潤んでいく。
それでも周太は唇を開くと、つまりそうな質問を押し出した。

「あ、の、…借りちゃったって、…英二を?」

こんな混乱の質問に動いた声は、もうきっと涙声になっている。
そんな質問に携帯の向こうが笑って、いつもの明るい調子で答えた。

「うん、そうなんだよね。ちょっと借りちゃった、居心地良かったよ。ごめんね湯原くん?」

居心地良かった。そんなの、

「…っ、」

どうして?
きのう傍に行けなかったから?
それともずっと逢えていないから?いったいどうして?どういうことなの?
だって昨日も言ってくれていた、時間を作るって待っていてって言ってくれた。
それなのにどうして?そんな混乱と哀しみに、周太の視界に水の紗が降りはじめた。

でも、今日のメール。
12月25,26に逢える、そんな約束のメール。
あのメールを見た時に思えた、きっと25日には自分は英二の「想い」を聴くことになる。
そんな確信がそっとすわってから、勇気が心をおだやかに仕度し始めた。

「…ん、」


その勇気が今だって温かい。
だから思える、この混乱はきっと嘘。きっとまた国村に転がされているだけ。
だって信じている愛している、もう離れることなんて出来ない。だから信じて待つしかない。
そうもう自分はとっくに覚悟している。それでも驚いたショックの涙声のまま周太は訊いた。

「…あ、の…そこに、英二、も…いるよ、ね?…声、きかせて?」

こんな質問は未練がましい?でも訊いてしまう、だって信じているから。
だって英二だから、きっと約束は全力で守ってくれる。だって信じている愛している、だから声で自分には解る。
なにが真実なのか?想いはどこにあるのか?それが全て声を聴けば解るから。
そんな願いの底で、携帯から明るい声が周太に言った。

「じゃ、電話変わるからさ。またね、湯原くん」

そう言って気配が離れた。
そしてすぐに気配が電話の向こうに現れる。
この気配を自分はとても知っている、そして本当は今日もずっと繋ぎたかった気配。
そんな想いの中心で、おだやかな気配が笑ってくれた。

「国村がさ、号泣したのを抱きとめたんだよ。周太?」

ほら、やっぱりそうだった。やっぱり転がされただけ。自分が信じた通りだった。
よかった、うれしくて周太は微笑んだ。
それでも今は英二から訊きたくて、そっと周太は訊き返した。

「…え?」

短い質問に、電話の向こうが微笑んでくれる。
そしていつものように、きれいな低い声で教えてくれた。

「ずっと国村はね、泣けないでいたんだ。田中さんが国村の唯一の泣き場所だったから。
 だから俺が肩貸して泣かせたんだよ?国村は俺のアイザイレンパートナーだから、泣けって言ったんだ」

よかった、信じていて。
そして英二らしい温かな、やさしい心の行動がうれしい。
うれしくて周太は、ほっとため息をついた。

「…そう、だったんだ」

繋いだ電話が温かい。
うれしくて微笑んだ周太に、可笑しそうに英二が訊いてくる。

「あいつさ、『俺も宮田に抱かれちゃったよ?』とでも言ったんだろ?」
「…ん、…」

そうその通り。
そんなふうに改めて言われると、途端に気恥ずかしくなる。
ほんの少しだけど、あらぬ想像をした自分が恥ずかしいから。
あんまり訊かないで欲しいな?そう思う周太に、けれど英二は訊いてきた。

「ね、周太?どんな想像してさ、嫉妬してくれた?」

どんな、って。

「…っ」

ますます気恥ずかしい。
だってほんとは少しだけ想像してしまったから。
だってちょとほんとは、妬いてしまった事がある。

自分が愛する英二は、ほんとうにきれいだ。
真直ぐで健やかな心、やさしい穏やかな静謐、実直で怜悧で賢明。
しなやかな大きな体は、すっきりと広やかな背中が頼もしい。
そしてそんな内面が現れた、端正な顔は本当に輝いて美しくて、いつも見惚れてしまう。

そして国村も本当は、きれいな人だと自分は思っている。
真直ぐで健やかな心は英二と似ている。そして純粋無垢な山ヤの誇らかな自由がまぶしい。
英二とよく似た美しい大きな体。それら内面が現れた秀麗な顔は、いつも明るくて愉しげでいる。
あんなふうに陽気で純粋で美しかったら、誰でも惹かれてしまうと思う。

そしてそんな英二と国村は、並んでいると似合ってしまう。
良く似た体格、同じように真直ぐで健やかな心。
そして対になったような美しい姿と、山ヤとしての想いの重ね合い。
そんなふたりは互いに友人でいる、そして山でもパートナーとしてアイザイレンを結んでしまう。

だから本当はすこし妬いている、だってアイザイレンパートナーの意味を知っているから。
アイザイレンはお互いの体を「命綱」になるザイルで結んで繋ぐこと。
そしてアイザイレンパートナーはお互いに、生命と山ヤとしての運命を繋いでいく。
片方の進歩が、もう片方の成長へと繋がる。そして片方の危険には、もう片方は命を懸けても救っていく。

だから国村にさっき言われたとき、どこかで頷いてしまった自分がいる。
どこかで国村の言葉に納得して、自分が退いてしまいそうでいた。そのことが後ろめたくて哀しい。
そんなふうに哀しんだ「言われたこと」そして「自分の想い」伝えてしまいたい。そっと周太は口を開いた。

「…ん、…山では人気ないから…英二がね、あのときになりやすいからって、…それで借りちゃったって…」
「それで周太、嫉妬してくれたんだ?」

きれいな低い声が訊いてくれる。
そう、その通り自分は嫉妬してしまった。そして哀しかった。
ほんとうに哀しかった。だって一瞬でも退いてしまった時、胸に抱いた勇気が悲鳴をあげた。
あの初雪の日に全てを懸けて「絶対の約束」を結んでしまったから、だから勇気をひとつ抱いている。
その勇気のまま今は素直に言えばいい、そっと周太は告げた

「…ん、…すごくね、かなしくなった、よ?」

素直に伝えてみた。
そうしたら携帯の向こうは微笑んで、うれしそうな声で言ってくれた。

「今すぐさ、周太を抱きしめたいよ。そんな哀しむ必要ない。だって俺は全部、周太のもの。
 だからね、俺が服を脱がせたいのは周太だけだよ?だから周太には俺、服をプレゼントしたくなる」

英二は全部、自分のもの。
そう約束してくれた、そしてその通りに英二は生きている。
それなのに自分はどうして、いつも自信を揺らがせる?そんな弱さは英二に失礼だろう。
そんな想いがうれしくて微笑んで、でもやはり気恥ずかしく周太は言った。

「…そんなふうにいわれるとほんと恥ずかしくてこまるから…でも、想ってくれて、うれしい、…ありがとう」
「うん、想ってるよ?だから俺ね、25日ほんと楽しみにしてるんだ。早く逢いたいな、新宿9時でいい?」

そう、今も「約束」をしたい。あと10日できっと逢える、そのための約束。
そして。その日にきっと英二は「想い」を話してくれる。きっととても大切な「想い」そして決断と覚悟が必要になる。
そんな大切ことを聴いてほしいと英二は求めてくれている。それは英二が自分を心から「隣」に選んでくれたから。
そんなふうに想われている幸せに微笑んで、周太は答えた。

「ん、9時で大丈夫。…朝ごはん一緒に食べてくれるよね?」



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第28話 送雪act.3―side,story「陽はまた昇る」

2011-12-17 23:58:40 | 陽はまた昇るside story
あたらしい雪に、




送雪act.3―side,story「陽はまた昇る」

がらり焚火が崩れる音が山の夜に響く。
その返響に呼応するように、ふっと白い冷たさが英二の頬を撫でた。
見上げると夜空はいつのまにか雲が現れている。
その雲間に星を輝かせながらも、白くふわり雪が降り始めた。

「雪だ、」

しずかな低い英二の声に、その肩から国村の顔が上げられた。
上げられた涙の頬にも雪は白く撫で、そっと涙と融けあっていく。
泣いて紅潮した頬のまま、おだやかに国村が笑った。

「うん…雪だ、…雪だな…ふってきたね、雪が、さ」

つうっと流れた涙に雪がふる。
ふる雪に涙がとけて零れて、雲取山頂の地面へと零れおちていく。
そしていく筋かの涙たちは、しずかに雪と融けあって山の土へと呑まれていった。
こぼれとけていく涙と雪を紅潮した頬に見つめながら、英二は静かに微笑んだ。

「国村が言った通り、明日は新雪かもしれないな」
「だね、うん。いいね、新雪」

雪と焚火に照らされる頬は、泣き腫らした痕が痛々しい。
けれど細い目は底抜けに明るく、快活に笑い始めている。きっと明日の新雪を想って、楽しい心が起きあがりだした。
もう存分に泣くのは終わるのだろう、次は笑うターンかな?英二は笑って言った。

「ほら、雪も降りだしたしさ。そろそろ抱いてやるの終わらしていい?ほんとは俺はね、周太専用なんだから」

言われて国村も笑った。
笑いながら英二の肩をぽんと叩くと、コップを拾い上げて座りなおした。
そのコップにひとひら雪がとけこんでいく。とける雪を満足気に見、国村は雪の酒を啜りこんだ。
ほっと息をつくと、悪戯っ子に細い目を笑ませながら英二に言った。

「ああ、借りて悪かったね?でもさ、これで良いカードが出来たよな。うん」

カードって何だろう?
英二もコップを掴むと、座り直しながら訊いた。

「良いカード?」
「うん、そうだよ宮田?」

涙の跡を焚火に温めながら、国村は酒を飲んだ。
そして唇の端をあげると、さぞ愉しげに英二に言った。

「俺も宮田に抱かれちゃったよ?そう湯原くんに言ったらさ。どんな顔してくれるかな、ねえ?」

どんな顔してくれるんだろう?思わず英二は考えこんでしまった。
すこしは嫉妬してくれるんだろうか?そうだと、ちょっと嬉しいかもしれない。
だっていつも自分ばかりが、周太のことで嫉妬している。そう想ったままに英二は答えた。

「うん、…嫉妬してくれればいいなあ、」
「ふうん、そっか。うん、どうだろうね?」

ちょっと可笑しそうに笑うと、国村は焚火にかざした串の様子を見始めた。
その白い手元をぼんやり眺めながら、軽いため息が英二にこみあげてしまう。
たとえば今だって。もう1ヶ月近く逢えないから、新宿署で同期の深堀のことすら嫉妬している。
たとえば新宿独身寮で周太と一緒に風呂入っている人間、もう全員がほんとは嫉妬の対象。
だって自分は警察学校を卒業してから、一緒に風呂入ったのなんか奥多摩に浚った日の朝くらいだ。
それだって周太が眠りこんでいる隙に、勝手に自分でやったこと。

そんな考えをめぐらしながら英二は酒を飲みこんだ。
その目の前に横から、厚切りベーコンや野菜を刺した串が差し出された。

「ほら、宮田。もう食えるよ?腹減っただろ、ほら」
「…あ、うん。ありがとう」

差し出した本人はもう頬張りながら、満足気に細い目を笑ませていく。
言われてみれば腹が減っている。空腹だと余計に嫉妬で苛つくかもしれない、英二も口を動かした。
焚火で炙った香が旨い、寒い中だと熱い温度と香がなおさらに旨く感じられる。
こういうの好きだな、なんだか楽しくて英二は微笑んだ。
そんなふうに微笑む英二に、ぽんと国村は言った。

「おまえさ、ほんと欲求不満だろ?」
「え、なに?」

口の中を飲みこんでから振り向くと、細い目がすっと細まっている。
そして呆れたように国村は口を開いた。

「嫉妬して欲しいとか言ってさ?どうせ新宿署のやつらはいいなあ、とか考えてるんだろ?」
「あ、わかる?」

わかるんだな、可笑しくて英二は笑った。
横で国村も笑って、そして言ってくれた。

「まあね、アイザイレンパートナーだから?」
「そっか、」

うなずきながら英二は嬉しかった。だって自分は本当にまだ初心者だ。
自分と同じ年でも、山のキャリアはどれだけ多くいるだろう?既に大学時代で6,000m峰を踏破した男だっている。
それでも国村は初心者の英二をパートナーに選んだ。これは本当に望外だといつも思う。
そんな国村自身は後藤と組んで、欧州三大北壁を踏破した経験があると救助隊の先輩から聴いている。

その北壁の話は国村自身から聴いたことは、まだ英二にはない。いつか聴きたいと思いながら何となく機会が無かった。
今この時は、国村に一流の山ヤになる基礎を与えた田中の四十九日の夜。
こういう話しをするには良い夜だろう、英二はおだやかに口を開いた。

「国村はさ、ヨーロッパの三大北壁もう登ったんだろ?」
「うん、登ったよ。高校の夏休みごとにさ、後藤のおじさんに連れて行かれたんだよね」

答えて国村は串焼のミニトマトに口を動かしている。
ひとくち酒を飲んで英二は訊いた。

「後藤副隊長、なんて言って連れて行ってくれた?」
「うん。警視庁任官前の実績作りだって言われた。もう高校に入る前から警視庁を勧めてくれたんだよね。
 で、山の実績が無いと山岳救助以外の部署に行かされるって言われてさ。そんなの俺は嫌だね、だから登ってきたよ」

たしかにそう言われたら、国村なら迷わずアタックの決意をするだろう。
後藤は国村の性格をよく把握している、さすがだなと思いながら英二は尋ね始めた。

「事前のトレーニングは?」
「元々、田中のじいさんがね、夏と冬の滝谷を何度もアタックさせてくれていたんだ。滝谷は中2が最初だったな。
それで高校入学の春休みにね、後藤のおじさんが一度いっしょに滝谷に行ってくれたんだ。宮田もそのうち行くからね」

滝谷は谷川岳一の倉沢と並ぶ有数の岩場で、穂高連峰の北穂高岳にある。
この滝谷か一の倉沢が世界のビッグウォールへの挑戦前の訓練に使われやすい。
そして滝谷は「岩の墓場」の呼名通り、急峻なだけでなく崩れやすい岩も多い。
ここを訓練場所に選ぶ意図を、英二は国村に確認してみた。

「夏の登攀は落石が怖いよな、それで崩れやすい滝谷を選んだ?」
「うん、そのとおりだよ。冬なら凍り付いて落ちてこない落石も、夏は怖いんだよね。
 まあ夏はさ、寒さや天候は有利だけど。山は季節で表情が違う注意点も違う。ほんと自然のルールはさ、偉大だね」

好きな酒を傾けながら、国村は笑っている。
その秀麗な顔には涙の痕がある、けれど笑顔は明るい。
好きな山の話に心が楽しみはじめた、そんな雰囲気に英二も笑った。

「国村さ、三大北壁の最初はどこにアタックした?その話を聞かせてよ」
「いいよ。最初は高校1年の夏休みだな、マッターホルンだった。ツェルマットって街が北壁の玄関なんだ、
 順化のために初日はシュヴァルツゼーからヘルンリ・ヒュッテを歩いたよ。
 シュヴァルツゼー・パラダイスの駅からはさ、眼前にマッターホルンが迫って見えるんだ。ちょっと感動するよ」

それは英二も何度か写真で見た光景だった。いつか自分も行けるかな、そんな想いで遠く憧れていた場所。
その憧れの地に、いま横にいるパートナーは実際に立っていた。
なんだか不思議で楽しい、英二は微笑んだ。

「うん、写真で俺も見た。あれ、生で見たらすげえだろうなって」

「マジすげえよ?絶対一緒に見に行くからね。で、駅からしばらく下ったところに山上湖のシュヴァルツゼーがある。
 水が深い藍色でね、湖畔の白い礼拝堂が山をバックに湖面に映されてきれいだった。
 ここは岩山に遮られてマッターホルンは見えない。でもブライトホルンやオーバーガーベルホルンが見えていいね」

「どっちも4千m級だよな、いいな、憧れるよ?」

ただ憧れていた場所が、いま横に座る友人の口から「現実」として訊かされる。
こうして聴いていると夢が現実になっていく可能性が思われた。
その夢をもう現実にしている横は、楽しげに話を続けた。

「だろ?で、シュヴァルツゼーからシュタッフェルアルプへ歩いたよ。夏だったから草原に花がいっぱい咲いていた。
 2kmくらいかな、マッターホーン・トレイルって道なんだ。そこから『マッターホルンの北壁』が間近に望める」

「見た時は、どんな気分だった?」
「うん?いつもと同じだよね、この山に登るんだな。それだけだよ?畑仕事がある訳じゃないからさ」

いつもと同じ調子で、さらっと国村は言った。
いつもの遭難救助や訓練や今日の「雲取に登るよ」のように気負いない空気。
きっと三大北壁も国村にとっては、どれも同じ「山」なのだろう。
そんな国村は山ヤとして男として良いな。そう想いながら英二は笑った。

「そっか。そうだな、登るだけだもんな」
「そうだよ?登るだけだろ。で、ヘルンリ・ヒュッテまでは2時間半くらいの登りだった。
標高差700mくらいの岩場を登るんだけどね、マッターホルン登頂の拠点がそこになるんだ。
標高3,260mだったかな?そんな感じで1日目と2日目は標高に慣らしたよ。俺も海外で登山は初だったしね」

気楽に心底楽しそうに国村は話してくれる。
ほんとうに単に「山に登りにいった」そんな楽しい空気が感じられた。
きっと国村にとっては山ならどこでも「山」なだけ。そうしたフラットさは国村が純粋無垢な山ヤだからだろう。
こんな男がパートナーに自分を選んでくれた。こんなことが自分に起きるなんて、1年前は誰が予想しただろう?
本当に人生は解らない。マッターホルン北壁の登攀を聴きながら英二は、自分の道の不思議さを想った。

「でさ、山頂近くのソルベイ小屋はね、ほんと崖っぷちに建ってるよ」
「あれってさ、どうやって建てたんだろな?あんな場所に」

食べ終えた串焼の串も焚火にくべながら、いつものように話が楽しい。
この雲取山頂は日本の首都の最高峰にあたる。その今は雪がゆるやかに降り積り始めていた。
そこで世界の高峰を会話するのは、何とも楽しい気分にしてくれる。
そんな時を過ごすうち、ふと国村がクライ―マーウォッチを英二に示した。

「宮田、21時だよ?」
「あ、」

英二は携帯を取り出した、けれど「圏外」になっている。
この雲取山では日原と雲取山荘のポイントでしか電波が入らない。だからきっと電話は出来ないと思っていた。
やっぱり仕方ないなと思いながらも、受信ボックスを開くと受信メールが2件入っていた。
きっとそうだと開いてみると待っていた名前が表示されている。うれしくて微笑んで英二はメールを開封した。
1件目は周太の母から「良かった!お願いします、よろしくね」のメール。もう1件は周太からだった。

From  :周太
Subject :Re:あえるね
本 文 :こんどの週休は実家へ帰って掃除しておく。俺の場所に入って?
     あと食べたいもの、3食分考えておいて。

昼と夜と朝と、それで3食分。全部を作ってくれると言ってくれている。
こんなこと言われたら大変うれしい、あんまり幸せで英二は微笑んだ。
そんな英二の手元に横から白い手が伸びて、不意に携帯が取上げられてしまった。
取上げた本人は勝手に画面を見ると、愉しげに細い目を笑ませている。

「ふうん、ほんと嫁さんみたいだね。かわいいな、湯原くん」
「そうだよ。周太はね、最高かわいいよ。ほら、国村?返してよ」

笑って取り返そうとする英二の長い指を、するり避けて国村は立ち上がってしまった。
そして英二の携帯を持ったまま東側へと歩いていく。
何する気だろう?怪訝に見つめる英二の視界で、国村が携帯を操作するのが見えた。
英二は見られたくないメールや写真は保護ロックを掛けてある。だから慌てる必要はない。
けれど国村は英二の携帯を、自分の耳に当てて話し始めた。

「…え、?」

ここは電波が入らないはず。
驚いて立ちあがると、英二は国村の傍へと歩いていった。
きっと国村のことだから電波が繋がるポイントを知っていたのだろう。
そしてたぶん架ける先は決まっている、英二はちょっと覚悟して国村の横に立った。

「うん、そうなんだよね。ちょっと借りちゃった、居心地良かったよ。ごめんね湯原くん?」

予想通り国村は周太に電話をかけているらしい。
いったい何を「借りた」話しだろう?怪訝に顔を覗きこむと、国村の唇の端が上がった。

「じゃ、電話変わるからさ。またね、湯原くん」

言って国村は英二に携帯を手渡してくる。
よかったと受取った英二に、細い目が悪戯っ子に笑った。

「ごめんね宮田?ちょっと涙声も好きなんだよね、俺ってさ」
「え?」

嫌な予感がする。
すぐに耳に当てた電話から、哀しげな沈黙が英二に伝わった。
きっとさっき国村が言っていた「良いカード」を切られたな。可笑しくて笑いながら英二は口を開いた。

「国村がさ、号泣したのを抱きとめたんだよ。周太?」
「…え?」

ちいさく返事が返ってくる。
これなら話を聴いてくれるな、英二は微笑んだ。

「ずっと国村はね、泣けないでいたんだ。田中さんが国村の唯一の泣き場所だったから。
 だから俺が肩貸して泣かせたんだよ?国村は俺のアイザイレンパートナーだから、泣けって言ったんだ」

「…そう、だったんだ」

ほっと穏やかな吐息が繋いだ電話に温かい。
どうも周太はまた、散々に国村に転がされたのだろう。
ほんの1,2分だったけれど質がかなり重かったな。可笑しくて英二は訊いてみた。

「あいつさ、『俺も宮田に抱かれちゃったよ?』とでも言ったんだろ?」
「…ん、…」

途端に気恥ずかしげな行間が伝わってくる。
きっと誤解にあらぬ想像をした自分が、恥ずかしくて困っている。
そんな様子が可愛くて、つい英二は言ってしまった、

「ね、周太?どんな想像してさ、嫉妬してくれた?」
「…っ」

ますます気恥ずかしい気配が可愛い、これでなにか言ってくれれば尚良いのに。
そんな願望にすこし黙っていると、そっと周太は口を開いてくれた。

「…ん、…山では人気ないから…英二がね、あのときになりやすいからって、…それで借りちゃったって…」

そこまでで言葉が消えてしまった。
何を言ったのかが想像つく、そして国村のことだから嘘はなく巧妙な言い回しをしたのだろう。
なんだか可笑しくて、そして周太の様子が可愛くて英二は訊いた。

「それで周太、嫉妬してくれたんだ?」

訊いた向こうで、かすかなため息が吐かれた。
そして想いだした哀しさを、そっと周太が告げてくれる。

「…ん、…すごくね、かなしくなった、よ?」

かわいい。
あんまり可愛くて今すぐに逢いたい。そんな想いのまま率直に英二は言った。

「今すぐさ、周太を抱きしめたいよ。そんな哀しむ必要ない。だって俺は全部、周太のもの。
 だからね、俺が服を脱がせたいのは周太だけだよ?だから周太には俺、服をプレゼントしたくなる」

「…そんなふうにいわれるとほんと恥ずかしくてこまるから…でも、想ってくれて、うれしい、…ありがとう」
「うん、想ってるよ?だから俺ね、25日ほんと楽しみにしてるんだ。早く逢いたいな、新宿9時でいい?」

そう、今も「約束」をしたい。あと10日できっと逢える、そのための約束。
そして。その日には国村との誓約を周太に話さないといけない。
どんな顔で周太は聴いてくれるのだろう?そして許してくれるのだろうか?

「ん、9時で大丈夫。…朝ごはん一緒に食べてくれるよね?」
「おう、もう寒いからカフェがいいかな?この間さ、本屋に行く途中の道にあったよな」
「ん、いいね」

そんなふうに暫らく話してから、切りたくないけれど携帯電話を閉じた。
焚火へと戻ると国村は、火の面倒を見ながら酒を飲んでいる。
英二に気がつくと悪戯っ子な細い目を向けてきた。

「湯原くん、すごい可愛くなってたでしょ?」
「うん、可愛かった。電話の場所、教えてくれてさ。ありがとな」
「どういたしまして。まあ、俺がね、湯原くん転がしたかったしな。楽しかったよ?」

笑って答えながら英二は並んで腰をおろした。
国村も電話したいだろう、かるく首傾げて英二は笑いかけた。

「国村もさ、美代さんに電話するんだろ?」
「うん?ああ、俺はね。今日は会ってきたからさ。それより湯原くん、どんな想像したのかな。ねえ?」
「それはさ、俺にも解らないよ」

笑いながらまた酒を飲む。その会話へと雪ゆるやかに降り積もっていく。
ふる雪に温かな炎を見つめながら、静かに国村が口を開いた。

「最高峰の踏破、」

一言だけ。それでも意味は大きい一言。
それは自分の人生を大きく変えていく一言。
この一言の為に英二は、この数週間でたくさんの決断と努力を見つめている。
その日々に肚は着実に固められていた。そっと英二は微笑んだ。

「うん、いいな。ここの次はどこ?」

英二の返事に国村が微笑んだ。
そして底抜けに明るい目で国村は言った。

「やっぱさ、富士山だろ?日本の最高峰でさ、年明けを始めよう」

年明け最初は日本の最高峰から。
なんだか大きくて良いな、楽しくて英二は笑った。

「うん、いいな。その次はどこに登る?」
「北岳。やっぱ富士の次は続く第2峰がいいよね。避難小屋で一泊するよ」
「上から順なんだ。俺、大丈夫かな?」
「うん。だって俺のマンツーマン指導だよ?たしかにさ、まだ宮田は3カ月だ。
 でも3カ月間ほとんど毎日を登っているんだ。しかも俺のペースに着いてきている。いけるんじゃない?」

あたり前と言う顔で国村は言ってのけた。
言われてみるとそうなのかな、首傾げながら英二は答えた。

「そっかな?国村が言うといけそうな気がするな」
「だろ?それで雪山ならやっぱ、剣岳、槍岳、谷川岳。この冬に出来たら踏破したいね。ラッセルの経験も積まないと」

雪ふる中で焚火を囲んで、雪山へ行く話を楽しむ。
なかなか贅沢だなと英二は楽しんでいた。
けれど現実的に考えるなら気懸りがある、英二はその疑問を口にした。

「でも俺達さ、同じ駐在所の所属だろ?同時に休暇申請できるのか?」

ふたりが所属する御岳駐在所は複数駐在所になる。
御岳駐在は御岳山・大岳山とふたつの登山コースを管轄に持つ。
その巡回業務が広範囲な為に複数人で勤務する必要があった。
いまは御岳駐在所長の岩崎が常駐勤務になり、英二と国村は交替制勤務で岩崎の補佐をする。
そのふたりが同時に休暇申請をしたら、きっと岩崎は忙しくなる。そんな心配をする英二に、国村はさらっと言った。

「大丈夫じゃない?御岳駐在は去年はね、岩崎さんと2人だけだったんだよ。けど俺、シーズンは休んだしね」
「そうなのか?」
「うん。田中のじいさんや後藤のおじさんとさ、槍や谷川に登ってたな」

それは本当のことだろう。
でも国村は元々が警視庁山岳会の期待を負って任官している、だから特例もあるだろう。
けれど英二は一般の新人警察官に過ぎない。そう想ったままを英二は言ってみた。

「でも国村?俺が増員されたって事はさ、人手が足りないからだろ?」
「うん、まあね。そうだろな、多分。で?」

それがなに?と細い目で言いながら国村は酒を啜っている。
きっと「山」至上主義の国村だから、山の為なら英二にも休暇許可が出て当然だと思っているのかもしれない。
でもたぶん難しいだろう、穏やかに笑って英二は言った。

「国村はさ、元からクライマーとして任官している。でも俺は普通の警察官なんだ。
 それにさ。俺は不足の補充人員な上に、まだ卒配期間だろ?だから一緒には休めないかもしれない」

だから約束出来ないかもしれない、そう目で言って英二は微笑んだ。
けれど国村は、飄々と笑って言ってのけた。

「なに言ってるのさ、あの条件があるだろ?『俺の射撃訓練と山岳訓練には宮田も付き合う』ってやつ」
「でも国村、あれって大会までだろう?それに休暇となるとまた話は違うんじゃないかな」

薪をくべながら微笑んで英二は説明した。
それを聴いて国村は笑うと、すっと唇の箸を上げてみせた。

「なに言ってるのさ宮田。俺の条件はね、いつも高いよ?そんな俺がさ、それっぽちの条件で嫌な事を引受けると思う?」

確かにそうだ。
このまえに後藤に聴かされた「国村が拳銃嫌いになった事情」
それは国村にとっては、山ヤの誇りを懸けての抵抗だった。そして誇りを守り抜いた。
そういう抵抗をするほど「嫌なこと」を国村は、何とか楽しんで取り組んでいる。
そんな国村の姿勢は、よくもまあ国村が頑張るなと皆も思うことだった。
これまでの疑問を考えながら英二は訊いてみた。

「そうだよな。じゃあ国村?あの条件は大会後も効力がある、そういうこと?」
「当たり前だろ?そう後藤副隊長にはね、俺は言ってあるよ。だから気にせず一緒に行くよ、雪山」

何でも無いことのように言って、楽しげに国村は酒を飲んでいる。
きっと英二とアイザイレンパートナーを組もうと本気で考えて、そんな配慮を国村はしてくれた。
そういう国村の気持ちは素直にうれしい、英二はこの友人に感謝を想ってしまう。
けれど英二は警察官としての気懸りも思うままに言った。

「うん、ありがとう国村。でもやっぱりさ、岩崎さんや後藤さんに悪いよな?」
「なに言ってるのさ、宮田?遠慮なんかいらないね」

すこし憮然とした顔になると、国村は英二に向き直った。
どうしたのかなと英二も向き直ると、悪戯っ子な目で国村は口を開いた。

「だって俺はさあ、青梅署の面子をかけて出場させられるんだよ?それくらい安いだろ?」

俺ほんとの理由は知ってるんだからね?そんなふうに細い目が笑っている。
その目を見て、やっぱりなと英二は納得してしまった。
この国村は大胆だけれど冷静沈着で怜悧、だから青梅署の意図を考えるのも当然だろう。
そうだよなと英二は微笑んだ。

「なんだ国村。気づいているんだ?」
「それくらい解るよ。だって俺に拳銃やらせるなんてさ、皆にとっても面倒だろ?
 この俺に嫌なことさせるのは厄介だって、皆が知っているんだからさ。
 それでも無理に出場させるなんてね、よっぽどの理由だろ?だからちょっと知りたくってね。すぐに解っちゃったよ」

なんのことは無いと国村は笑った。
いつも国村は真直ぐに物事を見つめている、だからそれくらい簡単に解っただろう。
ちょっと笑って英二は質問してみた。

「国村、署長のこと掴まえたい?」
「ははっ、他の理由ならたぶんね。こんな面倒な命令を俺にだすなんてさ、覚悟しろって思うよ?でもさ、」

ひとくち酒を飲みこんで国村が微笑んだ。
そして細い目をふっと細めると英二を真直ぐ見た。

「でも俺だってさ、警察官だろ?だから皆の気持ち解るよ。
 それにね、あんな条件を飲んでまで、俺に青梅署のプライドを懸けてくれたんだ。
 そこまでされたらね、さすがの俺でもさ。やっぱ応えたくなるよ?警察官として、山ヤとして男としてね」

国村は一流の純粋無垢な山ヤ、その心は広やかな自由が誇らかでいる。
それだけ誇り高い男が、自分の仲間たちごと馬鹿にされたら。それは見過ごしに出来ないだろう。
それでも、でもさあと国村は笑った。

「でもさあ、やっぱりさ、嫌なものは嫌だよね。
 でもまあ、本部特練の奴らをさ、またへコませてやれる良い機会かな。どう思う、宮田は?」

国村は警察学校時代に射撃の本部特練に抜擢されている。
けれど特別訓練員の態度も休暇が潰れる事も嫌で、特練から外されることに国村は成功した。
そのことを英二は後藤に聴かされている、それを国村は気がついているのだろう。
微笑んで英二は訊いてみた。

「その本部特練のこと、俺は知っているって思うんだ?」
「うん?だって後藤のおじさんだからね、宮田には話すに決まってるさ。だって宮田は俺のパートナーだからね」

至極当然に言って国村は笑った。
ほんとうに国村は、よく人のことを見つめている。
こういう国村だから英二のことも、英二と周太の事もフラットに見られるのだろう。
なんだか嬉しい、英二は笑って国村に頼んだ。

「大会当日はさ、他の的を撃ったりするなよ?きちんと規定通りにやってくれな」
「おう、任せな。まあ何とかなるよ。大会も雪山の休暇もね」

軽やかに笑って国村は空を見上げた。
一緒に英二も見上げると、雪のふりが少し多くなっている。
きっと朝には積るのだろう、そして国村が望む新雪の光景が奥多摩に姿を顕す。
この雪は田中から国村への贈り物なのかな。そんな気がして英二は微笑んだ。

「明日の朝はさ、きれいな新雪だよ。最初に足跡つけような、宮田」
「いいね、奥多摩最高峰の最初の足跡?」
「そ。日本の首都の最高峰にさ、最初に足跡つけるね」

今夜は田中の四十九日、今夜を最後に田中はこの世から別れを告げる。
その別れを奥多摩最高峰で送りたくて、国村は今日を雪中ビバーク訓練に選んだ。
そうやって国村はザイルパートナーの英二を同行に望んでくれた、しかも英二自身も田中を背中で看取っている。
そして田中にとって、自分の山ヤ技術を全て伝えた相手は国村だった。

たった12歳でクライマーの師でもある両親を亡くした国村は、親戚で同じ山ヤの田中には不憫でならなかったろう。
その国村に田中は自分の手で大切に、一流のクライマーとして必要な山ヤの基盤を教えた。
そうした薫陶があるからこそ、ずっと国村は純粋無垢な山ヤの心で生きている。
そんな国村は田中にとってきっと宝物だった、そんなふうに英二は思えてならない。

雪山に両親を亡くした国村。
それでも国村は新雪の雪山を愛してやまない。
そんな真直ぐな心も想いもきっと、田中が国村をこの場所で泣かせ笑わせたから。
そして田中が山を連れ歩いて山ヤに育て上げ、国村の純粋無垢な山ヤの魂を育てたから。
だから国村は雪山を愛し今こうして雪にも喜んで笑っている。

「そろそろだな」

左手首を見た国村が立ちあがる。かるく頷くと英二も立ち上がった。
英二の横で国村は雪を頬受けながら空を見上げている、すっとクライマーウォッチを空へかざすと国村が笑った。

「ほら、0時になる…じいさんがさ、旅立つよ?」

国村のクライマーウォッチの針がカタリと動く。
そして四十九日の夜と翌日の狭間に時が動いた、瞬間に大きな声で国村が叫んだ。

「ありがとおっ、じいさんっ…!」

叫んだ国村の顔は、晴れやかに底抜けの明るさで笑っていた。
その紅潮した頬を撫でる白い雪は、おだやかに雲取山の頂きへとふり積る。
ぱちり火の爆ぜる音が雪山に響いた、その音だけが雪山の静寂をふるわせていた。


午前0時を過ぎて片付けると、ふたり並んで避難小屋に寝転がった。
見上げる窓むこう、雪雲の合間から星が見つめるように瞬いている。
星と雪の静寂にくるまれて、ふっと国村が口を開いた。

「宮田さ。湯原くんにまだ、話していないんだろ?」

最高峰の踏破をすること、国村と一生アイザイレンパートナーを組むこと。
その誓約を英二と国村がこの雲取山で結んだのは、もう2週間以上前になる。
こんなに長い時間を、周太に言えないでいるのは初めてだった。すこしため息をついて英二は微笑んだ。

「…うん。まだ、話せていない」

微笑んで英二は国村の顔を見た。
カンテラの温もりに照らされる細い目が、英二の目を真直ぐ見返してくる。
その細い目が温かく笑んで国村が言ってくれた。

「うん、そうだね。会って話した方が、いいことだよ」

ちょっと英二は驚いた。
まだ英二は話せない理由を国村には言っていない。けれど「会って話した方が」と言ってくれる。
いつも周太とは言わないでも解り合える、そんなふうに国村も解ってくれた。
なんだか嬉しい、英二は笑った。

「言わないで解るんだ?」
「そりゃね。アイザイレンパートナーですから。ねえ?」

カンテラの灯りに国村が笑い返す。
こういうアイザイレンパートナーで友人が自分にいてくれる、これは幸せな事だろう。
うれしくて英二は微笑んだ、そして気になることを国村に訊いた。

「国村はさ、美代さんにどう話した?」

国村が幼い頃から望んでいる「最高峰の踏破」は、この世で最高の危険地帯に立つことを意味する。
そんな国村の幼馴染で恋人で、生まれながらに一緒にいる美代。
彼女はどう受けとめているのだろう?それが英二には気になってしまう。

なぜなら男と女では夢に掛ける価値観が違う。
男は命を掛けて掴みたい夢とも出会う、けれど女性でそれを理解することはごく珍しい。
それは英二が多くの女性と出会って気がついた事の1つだった。
女性は我が子以外のことで命懸になることは稀、そういう意味では国村の母は稀な女性といえる。
だから逆に子供のリスクになる道を、伴侶が辿ることを快く想わない女性も多いだろう。

けれど美代はきっと「ごく珍しい」タイプの女性だと思える、そしてどこか周太と美代は似ている。
だから彼女の反応や想いを英二は訊いてみたい。
そんな想いで見つめる英二に、さらっと国村は言った。

「ああ、俺はさ。生まれた時から最高峰に登るのは決まっているからさ。
 最高峰で生まれちゃったしね。だから最高峰に登るってことはさ、俺にとっては自然だろ?」

ほんとうにそうだ、英二は笑った。
だって国村はこの雲取山頂で生まれた、日本の首都東京の最高峰で。
そして日本最高峰の富士山を眺めて、首都を見おろして産湯に浸かった。

その場に居た多くのハイカーや奥多摩の山ヤ達に見守られ、この世に生まれた国村。
そんな国村はきっと、出生を見守った山ヤ達の祈りの中で生きる運命にいる。
その祈りはきっと「世界中の最高峰で山を想うこと」そんな想いに国村は生かされここにいる。
だから国村が最高峰に登ることは自然なのだろう、英二は横へと頷いた。

「うん、そうだな。それが自然だよな」
「だろ?だから美代もね、自然に覚悟してくれた。もう昔からね」

もう昔から美代は、ずっと国村の隣にいる。
それが自然な姿なのだろう、だから自然に覚悟もできてしまう。
そういう生き方は良いなと素直に思えて、そっと英二は微笑んだ。

「うん、…そっか。そういうのってさ、いいよな」
「だろ、」

カンテラの温かい光の許で、ふたり並んで笑った。
そんなふうに笑いながら、温かに笑んだ細い目が英二を真直ぐ見つめてくれる。
そして国村はごく普通の口調で言ってくれた。

「宮田もさ、同じだろ?」
「え?」

どういうことだろう?
目で訊き返した英二に、国村は笑って答えてくれた。

「きっと宮田もね、生まれた時から決まっている。お前もさ、最高峰に登ることがね、きっと自然だよ」
「…そうかな?」

横の細い目を見つめて、英二は静かに訊き返す。
訊かれて国村は、切長い目を見つめ返して笑った。

「そうだよ。だってね、俺のアイザイレンパートナーは宮田だけだ。
 で、最高峰を登るのが俺の自然だろ?そういう俺のパートナーなんだからさ、お前は。
 だから宮田にも自然なんだ。そしてきっと生まれた時から決まってるよ。俺が決まっていたのと同じようにね」

そんなふうに言ってもらえるのは、本当に嬉しい。
けれど、どうしてそんなに想ってくれるのだろう?ふっと英二は訊いてみた。

「あのさ、どうして国村はな、俺をアイザイレンパートナーに選んだ?」
「うん?ああ、そのことか」

あくび1つすると、国村の細い目が愉しげに笑んだ。
そして国村は口を開いてくれた。

「俺の身長は180cmは充分あるよ、そして細いけれど筋肉質で体重が重いんだ。しかも俺のペースは速いだろ?」
「うん、そうだな」

本人がいう通り国村は大柄だ。そして登攀も踏破もスピードが速い。
それは英二にも良く解ることだった。そう頷く英二を見ながら国村は続けた。

「で、アイザイレンパートナーを組むには、体格が同じ位の方が良い。支え合うにはそうじゃないと危険だ。
 けれどさ。日本人では俺と似た体格のヤツって、少ないんだよ。
 しかも俺としてはね、自分の山のペースを乱されたくないだろ?俺は我儘だからさ。
 だから俺のペースに合わせられて、しかも俺と体格が同じ位の奴じゃないとね、俺はパートナーにしたくなかったんだ」

すこし言葉を切って、細い目が英二に笑いかけた。
そしてまた国村は話し始めた。

「だから俺はね、パートナーがいなかったんだ。
 でもさ、俺と宮田は体格が似てるだろ?しかも宮田は初心者の癖にね、俺についてくる。
 それどころか俺と同じように歩いて登るだろ?たぶん体つきが俺たち、似ているから真似やすいんだけどさ」

体格がよく似ている。それは吉村医師にも後藤にも言われていることだった。
そして青梅署の皆や、御岳の人達にも最近は良く言われている。
なんだか面白いな、ちょっと笑って英二は訊いてみた。

「それで、俺を選んだ?」
「うん、そうだね、」

笑って国村は頷いた。
そしてまた口を開いて国村は楽しげに言った。

「それにさ、宮田は思った事しか言わないし出来ない。それは俺も同じだろ?だからさ、宮田といると楽なんだよね。
 そしてアイザイレンパートナーは一緒にいて楽なやつが良い。だって過酷な状況下で一蓮托生やらなきゃないからね」

そんなふうに見てくれていたんだな。
そんな真直ぐな国村の視点が、英二にはうれしかった。
この今の生き方を英二が選んだのは周太の為だけに始まっている。
そして周太と生きる事を色眼鏡で見られる事も解っている。
そんな自分を解っている英二には、国村の真直ぐな心が本当に嬉しい。
ありがとう、そんなふうに笑って英二は訊いた。

「国村はさ。俺となら一蓮托生出来る、って思ってくれたんだ?」
「うん、そうだよ。でなきゃ俺はさ、こんなこと言わないよね?解ってるだろ宮田なら」

ならんで寝ころびながら、可笑しげに国村が笑う。
そして英二の目を見ながら国村は言った。

「しかも転がした宮田って眼福だしさ、楽しめるのもいいよ。
 そんな感じで宮田はさ、俺にとったら良いパートナーなんだよね。
 だから俺がね、宮田をトップクライマーにしてやるよ。そして俺のアイザイレンパートナーをさ、一生やってもらう」

一生のアイザイレンパートナー。それは山ヤにとっては大切な事になる。
生涯をザイルで結びあい、生命を互いに預け合う。そしてどんな過酷な状況でも、お互いだけは見捨てない。
そんなふうに互いの運命と生命を結んで、責任と義務と権利を背負い合うことになる。
それを国村は英二に決めている、そして英二も国村に決めたいと思っている。
もうすでに英二はこの男とは、きっと親友になるだろうと予感している。

そして山の生涯を共にするならこういうヤツが良い。
この誇らかな自由が美しい純粋無垢な山ヤの魂に明るい男。
山ヤとして生きるなら、こんな男と組みたいと誰でも望むだろう。
そんな男へと、きれいに英二は微笑んだ。

「それってもう、決まりなんだ?」
「うん、もう決まっているんじゃない?たぶん生まれた時からね」

短く答えた細い目が、純粋無垢な山ヤの心のままで笑っている。
こういう目の男と生涯を山ヤとして生きる、良い生き方だとごく自然に英二は微笑んだ。

「うん、そうだな。国村、決まっているならさ、じゃあ大丈夫だよな」
「うん。湯原くんもね、美代みたいにさ。自然に覚悟するんじゃないの?」

また言わないでも解るらしい。
寝転がって向き合っている細い目に、英二は笑った。

「なんだ、やっぱり解っちゃうんだ?国村」
「うん?なんかね、解りやすいんだよな。
 でさ、宮田が決まっているんだからね。湯原君だって決まっているよ?だってお前らって運命なんだろ」

そう、きっと運命。
周太との出会いこそ自分の運命だろう。
だって周太と出会わなかったら、自分は警察官にならず山ヤの道も選べなかった。
そして生きる誇りも意味も解らないまま、臆病な要領の良さに閉じこもって生きていただろう。
この想いのままに英二は、向き合う友人に微笑んだ。

「うん、運命だ。…ほんとうにそうなんだ、国村。俺はね、周太と出会えなかったら、きっと人形のままでいた」
「人形?宮田が?」
「うん、この間もさ、河原でちょっと話した事だよ」

ランタンの明かりに微笑んで、英二は国村を見つめた。

「俺、こんな外見だろ?だから外見目的で近づかれる事が多かった。でもさ、性格と外見が俺って違うだろ?」
「うん、そうだね。お前ってさ、強情なほど率直で言葉に裏が無いよな。で、律儀で堅苦しいくらい地道な性格」
「あ、俺って堅苦しいかな、やっぱり?」
「うん。だって俺にさ、すぐ説教するだろ?ほんと真面目だよお前、でも外見は華やかだよな。
 だからさ。真面目なお蔭で転がしやすくて、外見いいから色っぽい。おかげで眼福が楽しくて俺はうれしいね」

可笑しそうに国村が笑う。
そっか、と頷きながら英二は嬉しかった。こんなふうに国村は「外見も内面も必要だ」と言ってくれる。
理解して受けとめてくれるのがうれしい。笑って英二は言葉を続けた。

「だから俺さ、ギャップで失望されるうちにね。
 求められる姿は『きれいな人形』なんだって思うようになってさ。
 そんな自分でいれば楽に生きられるって。それで、きれいな人形のふりしていた。でも周太が救ってくれた」

きっと求められる姿は「きれいな愛玩人形」そんな自分でいれば楽に生きられる。
そんなふうに諦めてしまえば、傷つくことも無かった。でもそれは悔しく辛いだけの寂しい生き方だった。
そういう英二を救った周太の存在に、英二は心からの感謝をしている。そしてどうしたって愛してしまう。

「宮田が人形だったらさ、マジ困るね俺は。だってアイザイレンパートナーがいなくなっちゃうだろ?」

そんなふうに横から国村も言った。
本当に自分はしあわせだな、この「今」に感謝しながら英二は笑った。

「うん、俺はね国村。人形じゃないよ。俺は周太の運命の相手でさ、お前のアイザイレンパートナーだ」

そんなふうに英二は、きれいに笑った。


ふっと頬に冷気を感じて英二は目を覚ました。
しずかに瞠らいた視界に、木造の天井と明け始めた窓の空が映り込む。
きっと今は6時半ごろだろう。クライマーウォッチを見ようと上げかけた腕を、突然掴まれた。

「宮田、起きろっ!新雪だよ。早くしな、ほらっ」
「あ、うん、国村?」

掴まれた腕で無理矢理に起こされて、英二は立ちあがった。
掴んだ腕を引っ張りながら、国村が笑っている。
その底抜けに明るい瞳がうれしげに笑う、よほど機嫌が良いのだろう。
よかったなと微笑んだ英二を、ほらっと国村が小屋の外へと押し出した。

「うわ…」

いっぱいの白銀と薄紅に明ける空が広がっていた。

「…きれいだな」
「うん、ラッキーだよな。ちょうど泊まった翌朝が新雪なんてね」

真白にふりつもった雪のむこう、紺青色の透明な夜空は中天へとあがっていく。
そして稜線のむこうから赤い太陽が生まれ、あわく金色の雲が薄紅色の空へと輝いていた。
その光にきらめいた雪が、あわく紅をふくんだ銀色にまばゆさを染めはじめる。

「宮田、ボケ顔になってるよ?ほら、写メール撮るんだろ?」
「あ、うん」

そんなふうに急かされて、英二は周太に雪の雲取山頂の写メールを送った。

T o  :周太
Subject:東京の最高峰から
添 付 :雲取山の雪景色と夜明けの空、遠望する新宿の灯
本 文 :おはよう周太、ここは新雪が積もってる。
     今、新宿が見えるよ。東京の最高峰からね、周太を見つめてる、そして周太のこと想ってる。
     最高峰から告げるよ?ずっと俺は、周太を愛してる。



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第28話 送雪act.2―side story「陽はまた昇る」

2011-12-16 23:56:25 | 陽はまた昇るside story
生まれ、わかれて




送雪act.2―side story「陽はまた昇る」

14時半、御岳駐在所の駐車場に四駆が停まった。
御岳山下山後に一旦、実家へ帰った国村が迎えに来たのだろう。
急がないとなと思いながら英二は、御岳山現況レポートの最後の一文を考えこんだ。
がらり駐在所の扉が開くと凍る林からの冷気が頬を撫でる。
頬が冷たいなと感じながら、あとすこしとパソコン画面を見つめる英二の首筋に冷たいものが触った。

「…っ冷てぇっ、なにすんだよ国村」

笑いながら振返ると、ブルーとモノトーンの登山ウェア姿で国村が笑っている。
その白い手には缶をぶら下げていた。この缶を英二の首筋に押し当てたのだろう

「ほら、宮田?もう14時半だよ、早く行こう」
「うん、…?」

国村の手の缶のデザインが気になる。
けれどここは駐在所で、国村自身も警察官だ。
まさかそれはないだろう、英二は念のために国村の顔を見つめながら、その手の缶を指さした。

「それ、ビールじゃないよな?」
「ああ、これ?ビールだけど」

さらっと答えられて、英二の白皙の額がなお白くなった。
だって国村の缶はプルリングが引かれている、それは「飲んだよ」ということだ。これでは飲酒運転になってしまう。
しかも警察官の自分に駐在所で「ビールだけど」なんて告白されたら、現行犯逮捕で免停にしなくてはいけない。
しかも国村はパトカー運転も業務で行うのに、いったいどうする気なんだろう?
そんな考えがぐるっと廻る英二に、飄々と国村は笑って缶を押しつけた。

「ほら、飲みなよ宮田?」
「なあ、国村。ビールなんて駄目だろ?俺は任務中で、しかもお前…っ?」

説教しようとした途端、笑って国村は英二を背後から椅子ごと締めた。
締めたままで国村の左手が英二の顎をかるく下げる、その動きに嫌な予感が英二を掠めた。

「ちょっ、だめだって、国む、」

言いかけた英二の唇に、缶の飲み口が押しあてられた。
これは国村は本気で飲ます気だろう、英二は慌てて口を閉じようとした。
けれど国村の指は英二の顎にかかって動かさない。
そんなもがく英二の肩越しから覗きこんで、ご機嫌の国村が笑った。

「なに、宮田。自分から口開くほど飲みたいんだね?ほら、」

楽しげに笑って国村は、英二の口にビールを流しこんだ。
すぐ吐き出そう。そう思った英二の背中がトンと1つ叩かれた。
その振動が英二の顎と喉を自然に上げてしまう。

「…っ」

ごくんと素直にビールが飲み下されてしまった。
そのまま喉を冷たい発砲性の液体が降りて胃に落ちる、同時に英二の心にも冷たいものが落ちた。
そんな感覚に英二の肩から力が抜けおちる。
いったい何が何でこうなったのだろう?そんな途惑える英二の体は、ようやく国村の腕から解放された。

「…くにむら、なにやってんの?」

さすがの英二も呆然として、この同じ年で同僚で友人の顔を見つめた。
けれど飄々と国村は笑って、缶を英二の目の前に押し付けた。
その唇の端が上がっている。

「ほら、よく見なよね?おまえも単純だな、ねえ?」

言われて英二は缶を受け取ると、きちんと眺めてみる。
そして表示を見て可笑しくなってしまった。

「なんだ、ノンアルコール・ビールかよ」
「うん?だって俺、アルコール入りビールですとは言ってないよ。ねえ?」

してやったり顔で細い目が笑っている。
またやられてしまったな、英二は我ながら可笑しくて笑った。
どうにも国村は悪戯っ子で、しかも怜悧だからすぐに悪戯を思いつく。
こんなふうに罠を張られては英二は困らされ、そして笑わせられている。

「おもしろかったよ、宮田。おまえったら本気で慌てちゃってさ。
 それから、さっきの恨みっぽい目がね、ちょっと中々に色っぽかったな。うん、眼福だったよ」

ご機嫌で国村が笑っている。
その細い目は底抜けに明るくて、純粋無垢な山ヤの快活さがまぶしい。
こんなふうに底意が全くない国村は、悪戯しても憎めない。
こんな自由な子供のままでいる国村が、英二は好きだった。仕方ないなと笑って英二はパソコンに向き直った。

「楽しんでもらえたなら良かったよ。あと3分だけ待ってて?これだけ片付けるからさ」
「うん、いいよ。3分だけな」

そう言って国村は給湯室へ行ってしまった。
これで集中して仕事できる、英二は少し考えてレポートの最後の一文を打ちこんだ。
終えてパソコンを閉じると岩崎の声が奥から聴こえてきた。

「お、国村。いいもん作ってるなあ、おやつか?」
「はい。これはまあ、砂時計代わりですけどね。でも今から食いますよ」

なんだろうと休憩室を覗きこんだ英二に、国村が手招きをした。
その国村の手にはカップヌードルを持っている。
招かれて隣に立った英二に、国村はカップのふたを開くと中身を示した。

「ほら、ちょうどいい具合だよな?きっちり3分だね、ほんと宮田は時間正確だよ。真面目だね、おまえってさ」

そう言って割り箸を割ると、国村は麺を啜りこんだ。
どうやら英二の「あと3分だけ待ってて」の計測をしながら、おやつを作っていたらしい。
きっと延びていたら笑いながら、散々文句を言うつもりだったのだろう。
ほんとに国村は面白い、英二は更衣室へと歩きながら笑いかけた。

「それ食ってる間にさ、仕度しろってことだろ?」
「うん、よく解ってるね宮田。ほら、さっさと仕度して来いよ。おまえの分が延びちゃうからさ」
「え、?」

国村の言葉に休憩室を覗き直すと、もう1つカップヌードルが置かれている。
どうみても湯を注いだ後の佇まいで、割り箸が載ったままだった。

「なに。それ、俺にくれるの?」
「そうだよ。精進落とし食ったの11時前だしさ、腹減っただろ?
 今から雲取に登るんだ、腹ごしらえしないとね。ほら急げよ、麺が増えすぎるよ?」

きっと国村は早く登りたくって仕方がないのだろう。
そんなわけで英二のことを、こんなやり方で急かすつもりらしい。
そしてもし英二が3分以上かかったら。
きっと英二に酷く延びたカップ麺を無理矢理に食べさせて、遅刻の仕返しをするつもりだったのだろう。
可笑しくて英二は笑いながら、活動服から急いで私服の登山ウェアに着替えた。

国村の四駆でまず奥多摩交番に向かうと、登山計画書を提出する。
ふたりを後藤副隊長が待ち受けていて、笑って計画書を受け付けてくれた。

「ふたりとも午前中は手伝い、ご苦労だったな」

労ってくれながら、後藤は紙を一枚渡してくれる。
なんだろうと見ると「ビバーク許可証」とパソコン作成されていた。
どうやら今夜の雲取山頂での焚火許可らしい、でもこんな用紙があったのだろうか?
そう英二が眺めていると、横から国村が取上げてしまった。

「ふうん。これ、副隊長がさっき作ったんですか?」
「ああ、そうだよ。だって今日はな、お前たち私服だろう?山中の焚火は緊急時だけだからな。
 一般の人間が簡単に焚火出来ると思われても困ってしまうだろ?だからもし誰かに訊かれたら、それを見せると良い」

「なるほどね、ふうん…便利ですね、これ?」

そういう国村の唇の端が上がっている。
そんな国村に後藤が、きっちりと釘を刺した。

「それな、俺の印章無しでは効力無しだからな?だから乱発行は出来んよ。そこ気を付けてくれな」
「へえ?ふうん、わかったよ。後藤のおじさん」

言われて国村は、山岳救助隊員から友人の子供に戻って答えた。その細い目は悪戯っ子に笑っている。
いまは私服だから上司でも部下でも無いね?そんなふうに陽気に細い目が笑う。
そんな国村の背中をバンと叩いて、後藤は笑った。

「おい、光一?また何か企んでいるだろう?あんまりなあ、宮田を困らすんじゃないよ?宮田は真面目な男なんだから」
「どうして宮田を困らすって思うの?俺、なんにも言っていないのにさ」
「だって光一な、今日も何かやっただろ?宮田の顔を見れば解るぞ、光一は毎日なにかしら宮田を転がしているな?」
「うん。楽しいんだよね、宮田の反応ってさ。しかも色っぽいから眼福だよ?」

また国村の「眼福」が出たな。その口癖のような言葉が可笑しくて、つい英二は笑ってしまう。
そんな英二に微笑むと後藤は、こんどはやれやれと言った口調で国村に言った。

「ああ、光一もな、昔はほんと可愛かったのになあ…まあ、生意気だし悪戯小僧だし、山ばっかりだったけどな」
「あれ?それじゃ俺、なんにも今と変わってないよね?」
「お、そうだな?」

そんなふたりの応酬を見ていて、英二は笑ってしまった。
後藤にとっての国村は親しい友人の遺児で、しかも出生の瞬間に立ち会った山の申し子だ。可愛くて仕方ないのだろう。
そして国村にとっても後藤は、両親を亡くした後を気に掛けてくれた父親代わりの存在だった。
そしてどちらも一流の山ヤ同士、なんだか解り合えるものがあるのだろう。
こういうのはいいな、思いながら英二は給湯室で茶を淹れた。


雪が降るだろう。
そう言う国村の言葉から、後藤は四駆を奥多摩交番に置くように勧めてくれた。
今日はプライベートの格好だが、新人訓練の一環として雪中ビバーク許可が降りている。
そんなわけでパトカーで後藤が唐松谷分岐手前まで見送ってくれた。

「雪質はザラメ状で10cm程度だ、アイゼンの刃を傷めないよう気をつけろよ」
「はい、気をつけます」
「あとな、火の始末はちゃんとしろな?山荘にも今日の訓練のことは伝えてあるよ」

後藤にとっては、可愛い国村が初めて新人指導で雪山登山をする。きっと心配なのだろう。
あれこれと国村に忠告する後藤が、なんだか微笑ましくて英二は嬉しかった。
後藤と別れると唐松谷分岐を右へ入り、野陣尾根を歩き始めた。

「さ、一挙に登るよ?」
「おう、この道は任せてよ」

そんなふうに笑いながら、野陣尾根の急登が始まる。
この道は英二が愛するブナの木への途路になる、だから英二は週一回は合間に歩いていた。
けれど今日は国村と一緒に山頂を真直ぐに目指す。今はもう15時過ぎでいる、日没まで1時間ほどだろう。
今回は訓練として夜間登山も兼ねている。それでも陽のあるうちに出来るだけ高度を稼いでいく。

「小雲取まで1時間半で登るよ?夕焼けの富士を俺は見たいね」
「うん。雪もこのあたりは無いから、いけるんじゃないかな」
「山頂にはさ、目標17時前ね。もう暗くなるけどさ、まあ、星明りがあるだろね」

会話しながら笑って、つづら折りの山腹道をハイピッチで登っていく。
登っていくゴアテックス素材の登山靴は、水気も冷気も通さない。
けれど足許で時折は、枯葉の奥に薄い氷が割れるのを感じる。
午後15時過ぎ、山の気温は下がり始めていく。早い夕闇が樹林帯に木下闇を作りはじめていた。
そんな木々に生まれだす闇を眺めながら、国村が楽しげに話しかけてくる。

「俺、もう腹減ってるんだよね。早く晩飯食いたいな」
「わかった、国村のペースで登ってよ。俺、ついていくから」
「マジ?すげえ速くなるけど、いいの?」

そう言いながら国村の足運びが変化した。足裏は地面と水平にしながら、無駄ない動きでスピードアップしていく。
その動きを英二は、真似るように歩き始めた。耳も澄ませ国村の呼吸に合わせてみると思いのほか楽になる。
ほんとうに国村は山の申し子なんだな、思いながら英二は国村の呼吸に合わせた。

小雲取山頂に16時半前に着くと、踏んだ足許に雪が残っている。
それでも開始から1時間半弱で到達できた。通常ペースの半分ほどと相当速いピッチになる。
ほっと息をついて英二は水筒から給水した。今日は一泊の装備で自炊もするから荷物も普通より重い。
けれど遭難救助で用具や機材を運ぶことを考えれば重くは無いだろう。

「ほら見なよ、宮田?富士山のシルエットがね、きれいだな」

指さす方には、あわく藤色のシルエットがすっくりと佇んでいた。
薄紅色の空のなか金色の雲を従えた富士山の姿は華麗で、冬の澄明な大気があざやかにその姿を見せてくれる。
その落日の残照が朱色の光をここにも伸ばし、横に立つ国村の白い顔を照らしていた。
その横顔はどこか寂し気で、いつもの陽気さと違っている。きっと今日だから、国村も違う心に佇むのだろう。
今日は御岳の山ヤ田中の四十九日。きっとそのために国村は、今日これから雲取山頂に立つ。

雲取山頂の避難小屋に着くと、誰もいなかった。
年の瀬12月の平日、そして雪の様子が不安定な時期になる。
こんなときは無人小屋よりも、小屋番のいる山荘の方が泊まりやすいだろう。
そして17時過ぎの今は凍結も始まる。少ないとはいえ雪残る山道を、この後に登る人間はまず無い。

「ふうん、貸し切りだね。よかったな、宮田」
「うん。これなら訓練の説明する必要もないな。よかったな」
「そうだね、これで今夜はさ、好き放題できるな」

機嫌よく笑って国村は、真っ暗な避難小屋に持ってきたカンテラを灯した。
その灯りに見回すと、ゆったり10人は寝れる板敷のスペースがある。
土間の部分は炊事場になるのだろう、そして高い棚には布団類が置かれている。
物珍しくて英二は頭を廻らして小屋の内部を眺めまわした。

「俺さ、こういう所に泊まるのは初めてなんだ」
「そっか、宮田はそうだよね。こんな空いているとさ、気楽でいいもんだよ」

そんなふうに話しながら、ふたり並んで寝床の準備をしていく。
マットを敷いてシュラフを広げると、ごろりと国村は横になった。どうやら寝心地の確認をしているらしい。
それで満足だったのか起きあがって英二の顔を覗きこんだ。

「ほら宮田、さっさとしなよね。晩飯にするよ」

言うとヘッドライトを点け、さっさと小屋の外へと国村は出た。
やっぱり野外の焚火が国村は良いのだろう。英二も仕度を終えるとザックを背負い、カンテラを持って外へ出た。
見ると国村はヘッドライトの下でもう薪を集めてある。
相変わらずやることが速いな。感心しながら英二も手伝って焚火を組んだ。
もう何度か英二も国村の地所の河原で焚火を作っている。だいぶ手慣れた手つきで火も起こせるようになっていた。

「こんな感じで大丈夫か?」
「うん、良い感じだね」

満足気に笑うと国村は、焚火に頬照らしながらザックを開いた。
実家で作って来たという小麦の生地を、削りたての木串に巻いていく。それを焚火へと翳すよう地面に国村は挿した。
焚火にあぶられた生地が芳ばしい香を立てはじめる。物珍しさに英二は訊いてみた。

「これ、パンなのか?」
「うん。フィンランドではね、ポピュラーなやり方なんだ」

答えながら国村は、燻製肉や野菜類も串にうっていく。英二も見ながら真似て手伝ってみた。
そうして二人でするとすぐ終わって、焚火の周りにはきれいに串が並んだ。
それを見てご機嫌に細い目を笑ませると、国村はザックに手を入れた。

「うん、いいね。じゃ次はこっちかな」

ザックから出した手に一升瓶を掴んでいる。
この一升瓶は昼間、御岳山で田中に捧げた酒の残りだった。それを見て英二は、ふっと微笑んだ。

「これを飲んで、田中さんを送るんだ?」
「うん、」

この場所で田中の愛した酒を飲んで、田中の四十九日を送りたい。
きっとそんな想いだろう?そんなふうに英二は、焚火の前に並んで座る友人の顔を見た。
そう見つめた英二の目へと、細い目を笑ませ国村は微笑んだ。

「そうだよ宮田。今日はさ、じいさんの四十九日だからね。
 ウチの両親の四十九日もさ、こうして田中のじいさんと焚火したんだ。今日みたいに、この避難小屋に泊まってね」

「そっか…奥多摩の最高峰で、送り火を焚いたんだ?」

微笑んで答えながら英二は、一升瓶を受取ると国村にコップを渡した。
そのコップに酒を静かに注いでいく。注がれていく酒が焚火に光るのを見ながら、国村は口を開いた。

「うん。そのとおりだよ、宮田。
 あのときは6月だったけどね、なごり雪が降った。こんな感じに雪が積もっていたな」

「…うん、」

静かにうなずく英二に、今度は国村が酒を注いでくれる。
注ぎながら国村はすこし微笑んで、また言葉を続けた。

「お前の両親は奥多摩のクライマーだ、だから奥多摩の最高峰から送ってやろう。
 そんなふうにね、じいさん言ってくれた。それで俺を連れて登ってさ、この場所から送火してくれたんだ」

10年前の春。中学1年生だった国村は、両親を一度に亡くした。
世界8位の高峰マナスルで両親は二人揃ってセラック崩壊に巻き込まれた。
そしてアイザイレンザイルを繋ぎ合ったまま、二人はともに雪山に抱かれて死んだ。
その両親の四十九日を田中は、ここで国村に見つめさせた。
その日の炎を見つめるように、国村は目の前の焚火に微笑んだ。

「じいさんの山ヤらしい温もりが俺、ほんとに嬉しかった。だから俺さ、今日はここで送火したかったんだ」

初夏6月の奥多摩、雲取山頂は寒い夜もある。
けれど12歳の国村にとっては、きっと温かい夜だったろう。
そしてその時の温もりは、10年を経た今でも国村に温かい。だから田中の四十九日の今夜、ここに国村は立った。
その日に田中に受取った温もりを返礼したい、きっとそんな想いで。
きっとそうだ、微笑んで英二は国村に言った。

「うん。やっぱりさ、かっこいいな。田中さんも、お前もさ」

言って英二は、やさしく国村に笑いかけた。
それを受けた細い目が「ありがとう」と微笑んでいる。けれど口はいつもの調子で陽気に言った。

「へえ、宮田がね、俺のこと褒めてくれるんだ?」
「うん?そんなに珍しいかな、駄目だった?」
「いいや、駄目じゃないね。足りないくらいかな。もっとさ、俺のこと崇めたら?」
「ははっ、そうだな。悪戯の才能はさ、マジ尊敬するよ」

そう笑い合うと、ふたりはコップをお互いにかざした。
今夜はなんてコップを合わせる?そんなふうに英二が目で言うと、国村がすこし笑った。
それから長い腕を伸ばすと国村はコップをぶつけ言った。

「山ヤの本望に、乾杯」

―山ヤが山で死ぬだけだ、それが山ヤの本望だ―
それは田中が10年前の春の日に、国村に言った言葉だった。
きっと今夜の乾杯にはふさわしい、そんな想いに微笑んで英二は酒をひとくち飲みこんだ。
横で国村も飲んで英二に笑いかけた。

「うん、うまいね。やっぱ山の冷気でさ、焚火を囲んだ酒は旨いよな」
「ああ、そうだな」

微笑む英二の横で、秀麗な顔は笑っている。
けれどその細い目の奥に英二は、深い悲哀の熱を見つめていた。
この四十九日間をずっと英二はその熱を見続けている。
きっと国村は田中の死から、一度も涙を流していない。そのことが英二には気になっていた。
たぶんそうだろう、思いながら静かに英二は口を開いた。

「国村、お前にとってはさ。田中さんは、泣ける相手だったんだよな」
「うん、…そうだな。俺、家でもさ、泣きにくいんだよね」

ゆっくり酒を啜ると、国村は微笑んだ。
そして細い目で英二を見、また口を開いた。

「俺の父親はさ、一人っ子長男だったんだよね。それで祖父母はショック大きくてさ。
 母親は弟がいるんだけどね。それでも逆縁なのは一緒だ、どっちの祖父母もそりゃ哀しんだよ」

「…うん、」

おだやかに頷いて英二は、静かに酒を啜りこんだ。
ただ国村の話を聴いてやりたい、そんな想いで横の友人を見つめていた。

「まあね。山ヤなんだからさ、祖父母たちも覚悟はしていた。でも二人ともね、まだ三十半ばで若かったんだ。
 そのうえ俺も一人っ子長男だろ?しかもまだ12歳だった。だからさ、祖父母たちが余計に不憫がって泣いたんだ」

まだ若い息子夫婦、そして幼さ残る孫。
その孫には頼るべき兄弟もいない、きっと国村の行く末を案じられて仕方なかったろう。
そんな状況で国村の性格だったら、涙を見せられるわけがない。そっと英二は頷いた。

「うん、…そういうのってさ、泣けなくなるな」
「だろ、」

すこし笑って国村は酒を飲んだ。
そしてまた口を開いて話し始めた。

「だからさ、俺は家でもどこでもずっと泣かなかった。
 でもな。田中のじいさんがさ、葬式の日に抱きしめて泣かせてくれたんだ。皆が帰った後の墓の前でね。
 そして四十九日この場所でさ、送火を見つめながら存分に泣けっていってくれた」

「…うん、」

ひっそり頷いて英二は、国村の細い目を見つめていた。
見つめる先で細い目の底から、ゆるやかな熱が起きあがってくる。
ゆっくり今夜はつきあってやりたい、そんな想いで英二は国村の言葉に寄り添っていた。
その横で微笑んで国村は言葉を続けた。

「ここは奥多摩の最高峰だ。そして母さんがお前をこの世に送りだしてくれた場所だ。
 お前はこの場所で山で、大声で泣いて生まれた。
 だから母さんの見送りも同じ位に泣け、この場所で山で大声で泣いてやれ。
 そうして存分に泣ききったら、こんどは大笑いしてやれ。しあわせに笑う姿を見せて安心させて送ってやるんだ。
 今日は四十九日だからお前の両親が旅立つ日だ。だから最後に存分に泣いてやれ、そして笑って見送ってやれ。
 そんなふうにね、じいさんは言ってくれたんだ。そうして俺を精一杯に泣かせて笑わせてくれた。この雲取山でね」

産声を上げた場所。
そこで国村は同じように泣き叫んで、両親の死を見送った。
その時の想いはどんなだろう?英二は山のパートナーで大切な友人にそっと訊いた。

「生まれたときと、同じ位に泣けた?」
「うん。俺さ、マジですごい声で泣いたんだ。だからね、奥多摩小屋の仙人も見にきたよ」

頷いて答える細い目は、底抜けに明るく透明だった。
きっと本当に向き合えたのだろう、その日の国村を想って英二は微笑んだ。
その明るい目の友人は、想いを続けて話しだした。

「そのお蔭で俺はね、両親との想い出も山も、心で整理が出来たんだな。だから俺はずっと山ヤでいられたよ。
 そして両親を死なせた雪山のことも、俺は嫌わずに済んでいる。むしろ雪山には想い入れが出来て好きになったね」

この雲取山頂、国村にとって出生の場所。
そこで母を想い父を想い泣かせ笑わせることは、きっと国村に両親への感謝を想わせた。
そして生まれたこと、命を与えられたことの喜びが生まれただろう。
そんなふうに泣かせた田中の賢明さに、英二は心から敬愛を想った。

そしてそんな存在を喪った国村の哀しみが、痛切に英二を心から軋みあげてくる。
いま国村は微笑んでいる、けれどその哀切は山の冷気に融けこんでしまう。
そんな山寒にひそむ哀切は、自分にも浸みいるよう英二には感じられてならない。
こんなふうに感じるのは山のパートナーだからかな、ふっと英二は微笑んで口を開いた。

「今って酒飲んでるからさ、俺たち警察官は休業中だよな?」
「うん、任務中は酒だめだって言ったのはね、宮田だろ?だから休業中だな」

可笑しそうに笑って答えながら、国村は旨そうに酒を啜っている。
そうだなと微笑んで英二もコップに口をつけた。
ひとくち飲みこんでから英二は穏やかに言った。

「俺はさ、国村のアイザイレンパートナーだよな?」
「うん、そうだね」

いつものように笑って国村が頷く。
その底抜けに明るい目は陽気で、深く哀切が見えている。
その目の底を見つめながら、英二は訊いた。

「アイザイレンパートナーはさ、命綱を繋ぎあうんだよな。
 それだけ信頼が必要なんだろ?だから国村はいつも俺に『言いたいこと言え』って言ってくれるんだよな」

「うん、そのとおりだね、」

うん、と酒を啜って国村は頷いた。その横で一緒に英二も酒を啜りこんだ。
そしてコップを静かに地面に置くと、すこし国村へと体を向き直らせた。
そんな英二を見、国村も顔をこちらにむける。
その細い目を真直ぐ見つめて、英二は微笑んだ。

「国村、俺はお前のアイザイレンパートナーだ。だから、泣きたい時は泣け」

見つめる細い目が微かに大きくなる。
その底ゆるやかに起き上がる熱が、透明な瞳の表面へと顕れだしていく。
そっと英二は長い指を伸ばすと国村の手からコップを取り上げた。
そのコップも静かに地面に置くと、微笑んだまま国村の目を覗きこんだ。

「今は警察官じゃない、ただの男で人間だろ?だから泣いていいんだ」

ほら我慢するなよ?
そんなふうに目で問いかけながら、きれいに微笑んで英二は言った。

「泣けよ、国村」

すっと細い目が笑んで、国村が笑った。
そして笑った口が言った。

「うん、…泣くよ?俺、」

いつもの落ち着いて明るい声に、英二は微笑んで頷いた。
そして底抜けに明るい目に涙があふれた。

「じいさん…っ」

大きな哭声が国村の白い喉から上がっていく。
その涙あふれる瞳は、底抜けに明るいままに泣いている。
そんなパートナーの肩へ英二は、長い腕を伸ばし静かに抱きしめた。

「…じい、さんっ…もっと、もっと俺、一緒にさあ…山にっ、いきたかったっ…」

いつも陽気に笑って軽やかに自由でいる国村。
明るく笑いながら、さり気なく援けてくれる大らかに優しい友人。
いつも悪戯は困らされるけれど、それも自分と一緒に英二を笑わせる為のもの。
どこまでも明るく透明で、純粋無垢な山ヤの魂が眩しい、英二のアイザイレンパートナー。
そんな純粋な魂のままに、産声のままで国村は泣き叫んだ。

「…っ、じいさあん!…トップクライマーに俺は…なるからっ…見てろよおっ、そっちでも、
 ちゃんとさあ…俺をさあっ…じいさんっ!…山をさ…っ俺にさ…ありがとうっ…さよ、ならあっ…じいさあん!」

涙の合間から想いがあふれていく。
あふれる想いごと英二は、大切な友人を抱きしめた。
ただ泣かせて受けとめてやりたい、英二は静かに国村の哀しみに佇んだ。



(to be continued)

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第28話 送雪act.1―side story「陽はまた昇る」

2011-12-15 23:50:56 | 陽はまた昇るside story
ねむりに旅立つ、




第28話 送雪act.1―side story「陽はまた昇る」

カーテンを開け放した窓の空は、星が無数に瞬いている。
まだ夜明けの1時間前、奥多摩の夜明けはこの時期ゆるやかだ。
星明りのなかで英二は、活動服に着替えた。そしていつものように、首に提げた鍵をそっと握りしめる。
これは周太の実家の合鍵、そして周太の父の遺品だった。

―おはようございます、今日も俺、制服を着ます

そう語りかけて英二は微笑んだ。
それから活動服のワイシャツに袖を通し、ネクタイをきちんと締める。
上着はハンガーに吊るしたままで、英二は登山ザックを持つとデスクライトを点けた。
きちんと中身の装備点検をし、救命救急用具の不足補充もチェックする。これは朝晩の英二の日課だった。
それが済んでから、ブラックスーツのケースを英二は開いた。一式が入っているか確認し、私服の登山ウェア一式も一緒に入れておく。

今日は業務の合間に、法事に英二は出席する。
今日は御岳を愛した山ヤ、田中の四十九日だった。


いつもより早めに御岳駐在所へ出勤すると、英二はロッカーに荷物一式をしまった。
そして朝の駐在所の準備をする。給湯室で電気ポットのセットをし、それから軽く掃除をした。
エアコンを入れてパソコンを立ち上げると、今日の資料整理を始める。今日の法事出席の為に、早めに今日の業務を済ませたかった。
ほぼ終わったところで岩崎も早めに現れた、英二は微笑んだ。

「おはようございます、岩崎さん」
「お、早いな宮田。なんだ、もうそれ済んだのか?」
「はい、あと少しだけで終わります。今、お茶淹れますね」

1分ほどキーボードを叩くと英二は立ち上がった。
それを英二が茶を淹れる間に、岩崎が資料チェックをしてくれる。
湯呑を2つ盆に載せて戻ると岩崎は、大丈夫だと笑って承認してくれた。

「お、今日も茶が旨いな。湯原くんの指導は大したもんだよな」
「ありがとうございます。周太はね、料理も旨いんですよ。掃除とか庭の手入れもね」

言われてつい英二は自慢した。
それは本当のこと、それに周太は英二にとって一番の自慢だから。
そんな英二の前で、可笑しそうに穏やかな笑顔で岩崎が答えてくれる。

「ほう、嫁さんにしたくなるタイプだな」
「はい。周太はね、俺が嫁さんにしますから」
「ははっ、楽しそうだなあ宮田」

そんな他愛ない会話を楽しんでいると、がらり駐在所の扉が開かれた。
冷たい冬の朝の空気が、ひやり英二の襟元を撫でる。もう振返らなくても誰か解るな。
そう思っている英二の肩越しから、長い腕が伸びて英二の湯呑を勝手に掴んだ。

「うん。今朝も宮田の茶は、まあまあ旨いね」

英二の湯呑を飲みほして、ブラックスーツ姿の国村が笑った。
いまの気温は1℃、けれど国村はスーツにマフラーを巻いただけだ。
その白皙の頬が紅潮して、冬らしい快活さに楽し気でいる。
こいつほんと山っ子だよな。なんだか微笑ましくて英二は笑った。

「国村さ、茶ぐらい淹れてやるから。俺のとらないでよ?」
「まあね、でもさ、もう時間になるだろ?ほら宮田、さっさと着替えなよ。せっかく迎えに来てやったんだからさ」

今日の田中の法事には、国村と英二は手伝いを兼ねて出席する。
国村は田中の遠縁として、英二は青梅署からの手伝い手だった。
奥多摩のベテラン山ヤだった田中は、遭難救助活動に何度か協力している。
その返礼として青梅署山岳救助隊から人手を出す。

「うん、でも俺、これから御岳山巡視の打合せをさ、岩崎さんとするんだけど」
「それ俺がしとくよ、だから着替えな宮田。いいですよね、岩崎さん?」

言いながら国村はもう、英二の腕を掴んで立ち上がらせる。
ふたりの遣り取りを見ていた岩崎が、可笑しそうに頷いてくれた。

「ああ、構わんよ。今日は国村も一緒に、御岳に登るんだろう?」

訊かれて国村が微笑んだ。
そして細い目を温かく笑ませて、国村は言った。

「はい、登って来ます。じいさんにね、酒呑ませてやらないと」
「そうか。国村の酒は、田中のじいさん仕込みだったな」
「そうですよ。じいさんと最初に呑んだのはね、中学い、」
「…それ以上言うな国村?いちおうな、ここは警察だぞ?ほら、御岳巡視の打ち合わせするから」

そんな会話を聴きながら、英二は更衣室で着替え始めた。
ブラックスーツ姿になると肩をあげてみる。思った通り少しだけ肩が詰まっていた。
やはり筋肉量が増えている、もう少ししたらスーツを直す必要があるだろう。
そう思いながら携帯を英二は開いた。周太にメールを送っておきたい。
今日の周太は日勤と特練の射撃訓練で忙しい、けれど今日の法事をきっと気にかけている。

周太にとっても田中は、特別な存在でいる。
周太は田中との面識はない、けれど孫の秀介を介して一葉の写真を贈られた。
そして英二や国村から聴く田中の姿を、周太は憧憬の想いで見つめている。

田中は生まれ育った御岳を愛し、その美しい写真で有名なアマチュアカメラマンだった。
その田中の遺作はどれも、御岳の植物を美しい情景にとらえている。
それは心から植物や土地を愛する田中の、美しい心が映し出す姿だった。
そんな田中の写真と生き方は、幼い頃から植物に親しむ周太には憧れだろう。

To  :周太
Subject:これから
本 文:いまから田中さんの法事に出席するよ。御岳山にも行ってくる。
    昨夜の電話の通り、雲取山は15時には登り始める予定。
    山頂から電話、繋がると良いんだけど。
    でも周太、想いはいつも繋げているから。今夜は雲取から一晩中、見つめているよ。

送信の確認をすると微笑んで、英二は携帯をポケットにしまった。
それからブラックコートとマフラーを持って、英二は更衣室の扉を開けた。

「お待たせ国村、」

声をかけると、ちょうど打合せが終わったらしい。
広げた登山地図をしまいながら、岩崎が笑いかけてくれる。

「じゃあ宮田、法事の手伝いよろしくな。俺は後藤さんと吉村先生と一緒に行かせてもらう」
「はい、行ってきます」

コートを着てマフラーを巻くと、英二は国村と外へ出た。
駐在所前の田圃には、霜が真白に朝陽へ輝いている。その向こうの林は梢も幹も凍てつき白い。
もう冬なのだな。そんな思いに歩いていく横で、国村が空を見上げた。

「うん、宮田。アイゼンは持ってきた?」
「ああ、雲取山は10cmくらいは積もっているらしいな」

先週、吉村医師と本仁田山に登った翌朝、奥多摩は雪が降った。
けれど少しの積雪だったから国村はスルーしている。
その朝の食堂で「20cmは積もらないとさ、新雪はつまらないね」と笑っていた。
そんな国村は今、英二の横で空を見たまま笑った。

「明日の朝はね、新雪かもしれない」

言われて英二も空を見上げた。
真っ青な冬晴れの空には、雲の影は今は無い。
どうして国村はそう思うのだろう?英二は訊いてみた。

「なあ、明日の朝の雪は、どうして解るんだ?」
「うん。ずっと上の方の西風がさ、たぶん冷たい湿気た風なんだよね。だからかなあ?」

そう言われても英二には、よく解らない。
そう言えば後藤が言っていた「国村は風を読めるらしい」それで射撃の飛距離も伸ばせると聴いている。
こいつ天気まで読むんだな、英二は感心して秀麗な横顔を見た。
その横顔は嬉しげに笑っている。

「だから今夜はね。雪見酒が雲取山頂で出来るよ、きっと。楽しみだな」
「あ、それは良い気分だろな」

英二も笑った。
今日は国村と雲取山頂でビバークをする。
まだ英二には雪山でのビバーク経験が無い、その自主訓練として今夜は国村と雲取山頂で一泊する。
そのため今日の英二は、通常勤務は14時半までだった。

「先週の積雪が凍っている。雪山の雰囲気は解るだろうよ、ちょっと実地経験を積んでおいで」

そんなふうに後藤副隊長と岩崎が英二に提案してくれた。
けれど日時が今日なのは、国村の希望から決まっている。
でも今日は田中の四十九日で法事の手伝いがある、他の日の方がいいのではと英二は言った。
けれど国村は「絶対に今日」と断言して今日に決まっている。
だから英二は気がついた。

田中の四十九日を雲取山頂で送りたい。
たぶん国村はそんな気持ちで、雪山ビバーク訓練を今日に決めている。
奥多摩の山ヤの田中を、奥多摩最高峰から送りたい。
そんな想いでたぶん、国村は今日四十九日に雲取山に立つのだろう。

田中の四十九日法要は、小春日和に穏やかに終わった。
参列者が静かに帰った田中の家は、しんと静謐に横たわっている。
その静謐のなか精進落としの膳も全て片付けて、広間の外した襖を国村と嵌め戻した。
きれいに掃除も終わると、ふるい百姓屋敷は穏やかに息をつく。
ブラックスーツの袖を軽くはたきながら、国村が細い目を笑ませた。

「四十九日ってね、あの世に旅立つ日なんだってさ」
「うん、周太に聴いたことがあるな」

答えた英二を、ちらっと細い目が眺めた。
そして呆れたように、底抜けに明るい目が笑った。

「おまえってさ、ほんと何でも湯原くんに教わってるよね」
「うん。俺に必要な事はさ、ほとんど周太が全部くれているな」

そう本当にその通り。
生んで大学卒業まで育てたのは両親。けれど警察学校からは、周太の存在が英二を育てた。
そうして周太がくれたものは全て、男として人間として生きる為に大切なものばかりでいる。
それが幸せで誇らしい、英二は微笑んで答えた。

「周太はね、俺の初恋で最愛だよ。その周太が俺をね、大人の男にしてくれている」

言いながら幸せで、英二は微笑んだ。
そんな英二を眺めた国村は、すっと細い目を温かく笑ませた。

「ふうん、幸せだね。お前ってさ」
「うん、俺って幸せだよ?だから俺はさ、周太のことは全力で幸せにしたいんだ」

言いながら英二はコートとマフラーを腕に掛けた。
その横でマフラーを持ちながら国村が笑った。

「そういうのってさ、いいよね」
「だろ、」

そんな話をしながら、田中家の人達へ挨拶に向かう。
田中の妻達に辞去の挨拶をしていると、秀介が縁側から駆け込んだ。
そのまま秀介は駆け寄って、正座している英二に抱きついた。

「どうしたんだ秀介?」

やわらかく抱きとめながら英二は笑って、秀介の背中かるく叩いてやる。
秀介はブラックスーツの肩から顔をあげると、英二の目を見つめて口を開いた。

「うん、…あのね、宮田のお兄ちゃん。これから光ちゃんと御岳山に行くんでしょ?」
「ああ、行ってくるよ」

微笑んで英二が頷くと、秀介は掌を英二に差し出した。
その可愛い掌には、きれいな白く丸い石が載せられている。
この石は英二には見覚えがあった。きれいな石を秀介は集めている、それを前に見せてもらった。
たしかその中でも、いちばん秀介が大切にしていた石だろう。
その石を静かに見つめる英二に、秀介が口を開いた。

「これをね、じいちゃんの場所に置いてほしいんだ…りんどうの所だよ」

田中は御岳山の天狗岩の根元で、りんどうの写真を撮影していた。
その最中に降りだした氷雨に、体温を奪われ起きた心臓発作で田中は斃れた。
その場所に秀介は、自分の宝物を置いてほしいと言っている。微笑んで英二は秀介の顔を覗きこんだ。

「この石はな、秀介のいちばんの宝物だろ?それを、じいちゃんの所に置いてきて良いのか?」
「うん、」

可愛い頭を頷かせて、秀介は英二に言った。

「ほんとはね、僕が自分で置けたらいい。でも山登りは来年からって父ちゃんが言う。
 だから宮田のお兄ちゃんに代りに置いて来てほしい…この石をね、じいちゃんの目印にしたいんだ」
「目印?」

訊き返した英二に、秀介は頷いた。
そして英二の目を見つめて秀介は言った。

「じいちゃんの大好きな、りんどうの花はここに咲くよ。
 そんなふうにね、じいちゃんから見えるようにしたいんだ。
 あの世からでもね…じいちゃんがすぐにね、わかるようにね…したい…だって、だって今日はね、」

秀介の瞳から涙があふれだす、そして秀介の言葉が途切れた。
その瞳を英二は静かに見つめて微笑んだ。
言いたいことは解るよ秀介、でもきちんと言葉にしてごらん?そうして心ほどいて楽になろう?
そう見つめる視線のなかで、秀介はすこし微笑んで口を開けた。

「…きょうは四十九日だから…
 じいちゃんが、ぼくの隣から、家から、きょう旅立つから…
 だから明日から、あの世からでもね、りんどうの場所が…わかるように、したいんだ」

「うん、…そうだね、秀介。きっとこれなら、じいちゃんにも見えるな」

静かに英二は頷いて微笑んだ。
秀介も笑った、そして涙が大きく秀介の瞳にあふれた。

「…じいちゃん、きょうで…さようなら…じいちゃんっ…!」

英二の胸に顔をうずめて秀介は泣いた。
その温かな涙と細い嗚咽が、英二のブラックスーツの胸に広がっていく。
ただ静かに佇んで、英二は秀介を哀しみごと抱きしめた。


英二と国村は御岳駐在所に戻ると、ブラックスーツから救助服に着替えた。
きょうの国村は週休だった、けれど国村も山岳救助隊服を着る。
山ヤの田中を、山ヤの警察官として送りだしたい。
そんな想いが国村の救助隊服の背中には静かに佇んでいる。

クライマーだった両親を亡くした後の国村を、山へ連れて登ったのは田中だった。
そして国村が一流の山ヤになる基礎を、国内の高峰を廻り田中は教え込んだ。
そんな国村は高校生の時にもう、トップクライマーの素質を警視庁山岳会長である後藤に嘱望された。
その後藤は友人の遺児でもある国村を、世界ファイナリストの夢をかけ警察官の道に曳きこんだ。
そして国村は山ヤの警察官として警視庁山岳会のバックを得、トップクライマーになる基盤を与えられた。

国村にとって田中は、自分がトップクライマーになる道を拓いた恩人だった。
そして両親を亡くした国村の哀しみを、受けとめ泣かせた唯一人の人間も田中だった。

「じゃ、行こっか宮田」

ミニパトカーの鍵を岩崎から受取って、国村が笑った。
ウィンドブレーカーをはおりながら英二も微笑んだ。

「ああ、行こう国村」

ミニパトカーだとすぐに御岳山に着く。
ケーブルカー滝本駅の駐車場に停め、いつもの登山道から登りだす。
こうして国村と御岳山を登るのは、初めてのことだった。
ふたりのシフトは交替制になるから、同じ勤務日は稀になる。

けれど遭難事故が発生すれば、パートナーとして組んで山に入っていく。
遭難救助は非番や週休でも、駆けつけられる場所にいるなら召集がかかる。
だから外泊や外出先は必ず届を出しておく。そしてパートナー同士はスケジュールを把握している。
そんな理由に大義名分を付けて国村は、英二と周太のことを堂々質問してしまう。

「もう一カ月近く会えてないよね、おまえら。今度はさ、いつ外泊予定なわけ?」
「うん。休みがさ、合わないんだよな…逢いたいな、周太」

登山道の周囲に目を配りながら、他愛ない話に登っていく。
もうすっかり広葉樹は落葉して、足許にやわらかな感触を伝えてくる。
けれどその下には分厚い霜柱が砕けるのが、登山靴の底に響く。
霜柱にも元気に足を運びながら、国村が底抜けに明るい細目を笑ませた。

「ふうん?じゃあさ、シフト交換してやろっか?」
「え、マジで?あ、でも非番は、どうせ国村と訓練だよな…」

2月の警視庁けん銃射撃大会に、国村は青梅署代表でエントリーされている。
本当は国村は、警察学校時代に本部特練に選抜された。
でも特別訓練員の態度に機嫌を損ねた国村は、いつもの「気晴らし」で特練を外れる事に成功している。
それくらい拳銃嫌いの国村だから、今回の大会も全く出場したくなかった。
それでも青梅署としては能力は高い国村を出場させたい。そして国村が出した「出場条件」を青梅署は飲んでしまった。
その「出場条件」の為に英二の非番は、国村の射撃と登山の訓練に付合っている。

「まあね。だってこの俺がさ、嫌なことやるんだからね。パートナーの宮田だって一蓮托生だろ?」
「それはそうだけどさ…まあ、国村との登山訓練はさ。マジ助かるよ?俺、この1ヶ月でだいぶ山ヤに近付けたかな」
「だね。しかも副隊長と吉村先生にも教わってたらさ、かなり成長するんじゃない?」

後藤副隊長の個人指導と、吉村医師との勉強会を、英二は週休にお願いしている。
そうすると非番も週休も予定が詰まってしまう。そして周太も特練と2月大会の練習が忙しい。
そんな理由で英二はもう、1ヶ月近く周太に逢えないままでいる。そしていつ逢えるのかすら解らない。
さすがにちょっとキツイかな、英二は思わずため息をついた。

「…うん、成長してるよ?…でもさ、そろそろ俺、ダメかも」
「なに?宮田らしくないね、ダメとか言っちゃってさ。ほら、言いたいこと言えよ?」
「…ほんとにいい?」
「だからさ、言ったよね?アイザイレンパートナーはね、信頼が大切なんだって。だから言えよ、宮田」

ほんとに言いたいこと言うよ?
そう思いながら英二は、国村の底抜けに明るい細い目を見つめた。

「…クリスマスイブのシフトをさ、26日と交換してくれない?それで26日は訓練休ませてよ」

24日は英二は非番になっている、けれど周太は当番勤務だから逢えない。
25日は英二週休で周太非番、この日は本当に英二は休みだった。
クリスマスの日曜で後藤も吉村も孫と過ごす予定だから。
そして26日。周太は週休なのに英二は日勤になる、それなら日勤の早朝に奥多摩へ戻ればいい。
けれど雪の季節の奥多摩は電車が止まる可能性がある、だから冬は朝帰りは出来ないだろう。
だから本音は26日が休みだったらと思っていた。

さあ国村は何て言うかな?
英二は並んで歩く、同僚で友人の顔を見つめた。
見つめた国村の細い目は笑うと、さらっと簡単に返事した。

「ふうん、いいよ」

ほんとにいいの?
射撃訓練のことがあるから、ダメだしされると英二は思っていた。
ほんとなら嬉しい。すこし首傾げて英二は国村に訊いた。

「25と26、俺、連休にして良いの?」
「うん、いいよ。ほら、宮田。さっさと湯原くんにね、メールしてやんなよ?」

うれしい、英二は微笑んだ。
これで久しぶりに逢う約束が出来る、微笑んで英二は携帯を取り出した。
歩く足許に気をつけながら、英二は手早くメールを書いていく。

To  :周太
subject:あえる
本 文:12月25、26はね、俺も休み。周太の屋根裏部屋に入れてくれる?

送信確認をすると、英二は携帯をしまった。
これでたぶん明日位にまた、周太の母から連絡が来るだろう。
きっと「よかった、留守番よろしくね」こんな文面のメールか電話。英二は微笑んだ。

周太の誕生日の夜、周太の母は友人と温泉へ出かけた。
それは13年前から約束の旅行だったらしい。
そのあと周太の母は、英二にメールを送ってくれた。
「ほんとうに楽しかった。また行こうって約束しちゃった。留守番またお願いね」

そして先週にも彼女はメールをくれた。
「25は泊まれるかな?実は温泉の予約をとっちゃった^^。留守番お願いできると安心」
それもあって英二は25、26を連休に出来ないかなと思っていた。

たぶん彼女の事だから、英二と周太に気を遣ってくれている。
そして彼女自身が楽しみたいのも本音だろう、だって顔文字が入っていた。
そんな彼女は50歳という年齢より随分若くて、なんだか可愛らしい。
彼女の黒目がちの瞳は周太とよく似ている、けれど時折に悪戯っ子の快活さがある。
なんだか懐かしくて微笑んだ英二に、国村が声をかけた。

「外泊先はさ、どこになる?」
「うん、周太のね、川崎の実家だよ。周太の母さんが出かけるからさ、留守番するんだ」

そう素直に英二は答えた。
すると国村の唇の端が、すっと上がって笑った。

「へえ、じゃあさ。もちろん組み伏せるわけだね?うん、良かった。これでいい」

なんだか変だ。
だって国村のこの顔は、たいてい悪戯っ気を起こしている。
怪訝な思いのまま、素直に英二は訊いてみた。

「国村にとってさ、何がそんなに『良かった』なわけ?」
「うん?そんなのさ、決まっているだろ」

細い目がさぞ楽しげに笑んでいる。
国村は唇の端を上げたまま答えた。

「宮田の肩の痣がね、いつ消えるのかって賭け」
「…え?」

どういうことだろう?
たしかに英二の左肩には痣がある。それは1か月前に周太がキスで付けた痣だった。
次に周太と逢うまで消えないで欲しい。そんな英二の願いどおり、薄いけれど消えずに残っている。
その痣を毎日と国村は勝手に確認する、そして藤岡と飲み会の酒代を賭けて楽しんでいた。
そのことかな?そう英二が国村を見ると、なお楽しげに細い目が笑った。

「ほら、宮田はここんとこ忙しいだろ?それで逢う時間も無い。
 だから藤岡はね、クリスマス前には痣は消えるって賭けたんだ。
 でも俺はさ、年越し出来るって賭けているんだよね。だから25日にまた付け直せよ?」

そのために連休くれるのか。
こんな理由は、楽しみ好きで負けず嫌いの国村らしい。
なんだか納得してしまう。可笑しくて英二は笑った。

「うん、おねだりしてみるよ。でも何を賭けてるんだ、お前ら?」
「正月の酒代だよ。俺と宮田はさ、年越は駐在所に詰めるだろ?でも明けた後には飲みたいからさ」

どこまでも国村らしい賭けだな。楽しくて英二は笑った。
そんなふうに笑い合いながら、英二と国村は御岳山を登っていく。
歩いていく途中、七代の滝に先週の雪が残っていた。
やはり気温は低くなっている、今夜の雲取山はたぶん冷え込むだろう。

「今夜の雲取山は、きっと冷え込むよな」
「うん、そのつもりで行くよ?雪もたぶん降るからね、準備してあるんだろ?」

話しながら足許には注意を向けていく。
凍結が危ない季節にもうなっている、鉄階段を登る靴底もかすかに滑っていた。
その階段を登りきって、ふたりは天狗岩の前に立った。

無数の木の根に抱かれた大岩。
その岩根に英二と国村は片膝をついた。その膝もとには冬枯れた、りんどうの小さな株が山風に揺れている。
この岩根が田中が最後に想いを遺した、りんどうの花咲く場所だった。
風ゆれる冬枯れの緑を、見つめて国村は微笑んだ。

「じいさんさ。息を引き取ったのはね、御岳山駅の近くだったよな」
「うん、…国村と俺で、心肺蘇生したな」

田中が逝った氷雨の夜。

捜索に出た英二は、この場所で斃れている田中を見つけた。
そして保温を施した田中を背負って、英二は御岳山駅へと下山した。
もう御岳山駅が間近になったとき、田中と英二は背負った肩越しに微笑んで話をした。
そして次の瞬間に、がくんと英二の背中は軽くなった。

駆けつけた非番の国村と、心肺蘇生を行った。
3回だけ一瞬は蘇生した。その度に田中は国村に微笑みかけた。
そして3回目に瞼が落ちた後、もう瞳は開かなかった。
もう戻ってこない。それが解った時に国村は、落ち着いた声で英二に言った。

― 俺に、背負わせてくれるかな

田中の遺体は国村が背負った、そしてケーブルカーに乗り下山した。
その時も、そして通夜でも葬式でも。国村は泣かずに真直ぐ立っていた。
自分を山ヤに育てた田中を、山ヤの警察官の誇りにかけて見送ってやりたい。
そんな意思がいつも、その背中にたくましかった。

そして今日も国村は泣いていない。
すっと細い目を笑ませて、国村は英二に言った。

「でもさ、じいさんが山ヤの眠り場所にしたのは、ここだね」
「うん。俺もね、そう思うよ」

微笑んで答えながら英二は、長い指を胸ポケットに入れた。
きれいな白い石を長い指は取出す、預かってきた秀介の宝物の石だった。
その白い石を英二は、りんどうの冬枯れた根元に静かに供えた。
白い石は黒い地面の上あざやかに映えている。これで田中にも見えるだろう、そっと英二は微笑んだ。

「宮田、」

横から国村がコップを英二に渡す。
そのコップに国村は、一升瓶からなみなみと酒を注いだ。
奥多摩の醸造元の特撰酒、国村が好み田中も好きだったという酒。
英二はコップの酒をそっと白い石へ灌いだ。黒い地面へと酒はゆるやかに飲まれていく。
ふたりでそれを見つめると、英二はコップを国村に渡し一升瓶を受け取った。

「はい、国村」
「うん、」

白い手が持つコップに、英二は酒を注いでいく。
穏やかな水音が大岩の翳に返響する、そしてコップ一杯になった酒を国村はしずかに傾けた。
小春日和に煌めきながら、酒は御岳の山の土へと降り注いだ。




(to be continued)

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第27話 山行act.2―side story「陽はまた昇る」

2011-12-14 22:59:26 | 陽はまた昇るside story
記憶、それから想い。そして時は動く



第27話 山行act.2―side story「陽はまた昇る」

吉村の乗用車を鳩ノ巣駅下の無料駐車場に停めて、8:30過ぎの青梅線に乗った。
すぐ5分ほどで奥多摩駅に着くと、まず奥多摩交番へと登山計画書提出に向かう。
吉村と一緒に交番へ入っていくと、すぐ気が付いて後藤副隊長は笑いかけてくれた。

「久しぶりだなあ、吉村のこの格好は。靴も新品だろう?履きならせたのかい?」
「はい。買ってから毎日、少しずつね」
「それで約束から3週間かかったんだな?…うん。でも3週間はな、いい足慣らしだったろう?」
「ええ、ほんとにそうですね。なにせね、足も気持も15年ぶりですから」

山岳救助隊副隊長の後藤と、吉村医師は30年来の飲み友達だった。
だから後藤も吉村の事情をよく知っている。後藤はいつもの深い目で吉村に微笑んだ。

「15年か、もうそんなだな」
「はい、もうそんなに経っていました。気が付いたらね」
「ははっ。俺も吉村も、じいさんになったな。きっと吉村、山に行ったら浦島太郎の気分だろうな」
「そうですね、どんな乙姫さまに会えるでしょうね?」
「そうだなあ、瘤高からの御岳山は、結構な美人だろうよ」

2人の会話は、穏やかで楽しげに聴こえる。
これなら吉村は大丈夫かな、思いながら英二は畠中に登山計画書を提出した。

「うん、宮田もすっかり書き慣れたな。見やすいし、無理が無い行程の組み方が上手くなってる」
「ありがとうございます。師匠が良いからですね、きっと」

英二の答えに、畠中が嬉しげに微笑んだ。
けれど畠中は、ほんの少し心配げに英二に尋ねた。

「国村なあ、山については心底プロ根性が強いからな。
山に関してだと、あいつは誰が相手でも手加減なしだよ。あいつ、厳しいだろう?」

国村のルールブックは、山と自然への畏敬になっている。
そのため国村は不心得なハイカーには手厳しい、だから安易が原因の遭難者には「国村の一言」が暴発する。
そうした国村の姿勢は山ヤとして美しい。そんな国村を山岳救助隊と奥多摩の山ヤは誰もが愛していた。
そういう国村を英二も好きだ、そして出来るなら学びたい。その想いのまま、きれいに英二は微笑んだ。

「はい、厳しいですね国村。でも俺には必要です、いつも勉強になります」
「そうか、」

軽く頷きながら畠中が微笑んでくれる。
それにしてもと感心したように畠中は続けた。

「それにしても宮田、おまえさんは本当に真面目だよなあ。いつも思うけどさ」

「宮田は真面目」これが奥多摩での英二評だった。
それは青梅署内でも、そして御岳駐在管轄で出会う町の人にも言われている。
もちろん周太は一番にそれを言ってくれる。それが英二には嬉しい。
この今の評価を、遠野教官はどう思うのかな?考えながら英二は答えた。

「そうですか?でも俺、国村には『エロい』って言われてばかりです」
「あ、それはな宮田。おまえさんがイケメンすぎるからだろ。なんか色気があるからなあ、宮田は」
「あれ、俺ってそういうキャラですか?」
「うん、たまに訊かれるんだよ?ほら、最近はやりの山ガールがね『あの背が高い人は?』ってさ」

英二は小さい頃から、こんな感じにモテる。
けれどこのパターンで出会う相手は大概、気が合うことは無い。それは英二の性格の所為だった。
さらっと英二は笑った。

「光栄ですね、でも会わない方が彼女達にはラッキーですよ?」
「うん?なんでだ、宮田」
「だって俺はですね。色気も何でもね、俺の全部を大切なひとに捧げちゃっていますから。
でも女の子って独占欲が強いから、そういうのNGでしょう?だから会えばガッカリしますよ、きっと」

そう自分の全ては周太のもの。だから他に向けられる要素はひとつも無い。
それは英二には幸せなことだった、だって自分がそんなにも愛せる人がいる。
うれしげな英二を見て、畠中も笑ってくれた。

「おっ、宮田。そういう相手がいるんだな?いいなあ、青春だよな」
「いいでしょう?でも畠中さんだって。奥さんと御嬢さんが大好きで、幸せじゃないですか」
「ああ、幸せだよ。今日はな、帰ったら娘とままごとする約束なんだ。俺を婿さんの役にしてくれるらしいよ」

なんだか幸せな会話になってきた。
こういう会話は楽しい。そう笑っていると、後藤がやってきて英二に笑いかけた。

「本仁田山だな、今日は。宮田は初めてだろ?」
「はい、機会がなかなか無くて。そうしたら吉村先生が選んで下さいました」
「そうか、吉村が自分で選んだんだな…」

そうかと呟いて、後藤が微笑んだ。
その微笑みが、いつも以上に優しく穏やかに英二は感じた。
なんだろう?そう見つめる英二の肩を、後藤はポンとひとつ叩いてくれた。

「うん、宮田。吉村をな、頼んだよ。気をつけて行って来い、そして無事に戻れよ」
「はい、行ってきます」
「あとな、下山口の鳩ノ巣駐在で下山報告してくれ。登山道の確認報告とな、山井に言えば無線を貸してくれる」

あ、と思って英二は笑った。
たぶん後藤の意図はこれだろう、英二は微笑んで訊いてみた。

「下山後は、吉村先生と呑みですか?」
「お、宮田も解るようになってきたな?なんだか国村みたいだなあ、おまえも」

そんな後藤からの任務にも了解して、英二は吉村と奥多摩交番を出た。
奥多摩駅前広場を右手に歩いて、工場への道を分け多摩川を渡る。
その渓流の飛沫が、どこか晶石じみて硬質に冷たい。もう冬になるのだな、そんな実感が英二に湧いた。
もう秋は終わり、迎えた初冬の大気が山に川に充ちている。

「先生、奥多摩の秋が俺、好きになりました」
「それは良かった。秋は奥多摩ではね、一年でも一番に温かな色合いだと、私は思います」

そう、秋は温かい想いに充ちていた。
この秋に自分は、唯ひとつの温かな想いを抱きしめられた。
その想いが温かい、穏やかに微笑んで英二は答えた。

「はい。秋は、俺にも温かったです」

この秋は周太との季節だった。
この春に出会って惹かれ続け、半年間を寮の隣で過ごし、ずっと想いを募らせて。
そして。この秋の初めに卒業式を迎え、隣で過ごす日々と別れの瞬間が訪れた。
その別れの瞬間に自分は、隣で過ごす最後の機会と覚悟して。
その覚悟が別れを約束に変えた。「生涯を隣で生きる」その約束を周太と秋の初めに繋いだ。
そしてこの秋が、周太との季節の始まりになった。

この秋を、ずっと周太と想いを交し続けた。
その秋に、周太の父が殉職した、13年前の事件が終わりを告げた。
その秋に、自分は初めて人を愛することを知った。そして自分の帰るべき場所を見つけ抱きしめた。
そんな周太との季節の中に、自分は山ヤとして立っていった。そして自分の人生が拓かれ始めた。
山岳救助隊の誇り、山に廻る生死を見つめる目、山ヤの想いを繋ぐ強さと覚悟。
そして最高のトップクライマーと最高峰に立つ誓約。その誓約はもう今すでに、叶えられる為に時は動き始めた。

この秋、9月の終わりから12月の初め。
この奥多摩から見つめた秋は、きっと忘れられないだろう。
こんなに自分の人生が、大きく動いた事は無かったから。
そして今、この秋の最後に。吉村医師の時を動かす為に自分は山へ登る。

「先生、なんだか俺ね。この秋はきっと忘れられないです」
「そういうのは素敵ですね。きっと、迎える冬も忘れられませんよ?奥多摩の冬は厳しいけれど、本当にきれいですから」

これから迎える冬。その姿を見つめること。
この冬もきっとまた、意味深い忘れられない冬になるだろう。
周太との初めての冬、そして初めての雪山登山に立つ冬になる。
最高のクライマーになる男、国村のアイザイレンパートナーとして初めて立つ冬。
この冬はきっと、山ヤとしての分岐点になる。本気で最高峰を目指すのか、その意思を固める時になる。
そしてその意思が抱くリスクは、あの大切な隣にも背負わせなくてはいけない。
きっとこの冬も、自分の人生を大きく動かしていく。

ずっと舗装道路を歩き、ワサビ田のある安寺沢に着いた。
水場のある民家脇の階段から山道へと入っていく。するとすぐに「乳房観音・登山安全祈願」の道標が現れた。
すごい名前だなと思っていると、吉村が笑いながら言った。

「50m程度です、ちょっとお参りして行きましょう」

ちいさな木造の観音堂には、小さな木彫りの観音像が祀られていた。
傍らの由来書には1,230年ごろに落人が蒔いた銀杏が後に巨木となったと書かれている。
その巨木は大正2年に伐採されたが、切株から芽が出てまた現在の巨木になった。
2代目だという銀杏の足許には温かな黄色が残る絨毯が敷かれている。
葉を落とした梢を見上げる英二に、吉村が微笑んだ。

「湯原くんは、樹木が好きみたいですね」
「はい。周太の父さんが山や植物に詳しかったそうです。それで小さい頃は採集帳を作ったらしくて」

また登山道へ戻りながら、英二は答えた。
ここから安寺沢をたどる道を分け、杉の植林の斜面を登っていく。
この登山道が奥多摩三大急登の大休場尾根になる。本仁田山は標高1,225mだが、どこから登っても急峻な山だった。
そこを歩きながらも軽く頷いて、吉村が訊いてくれる。

「その採集帳は今、湯原くんはどうしているのですか?」
「はい、1冊だけ新宿に持って来たらしいです。雲取山の後、自分の部屋を開いたとかで」
「部屋を?」

そういえばこの話は、まだしていない。
吉村医師は周太の事情を、周太本人からも訊いて知っている。そして真心から心配し、周太の心のケアをしてくれた。
きっと周太は吉村と再会したら、この話はするだろう。でも吉村の心配を今ここでも解く方が良い。
ごく要点だけを英二は吉村医師に話した。

「周太には実家に2つ部屋があるんです。その屋根裏部屋には父さんの想い出が多くて。
それで13年間ずっと、屋根裏部屋を閉じていたそうです。その部屋に採集帳も置いたままでした。
けれど雲取山から戻ると、その部屋を開いて掃除しました。そして一番新しい採集帳に奥多摩の落葉を貼ったそうです」

静かに吉村は訊き、ほっと溜息をついた。
そして穏やかに微笑んで、英二に言ってくれた。

「うん、…その採集帳はきっと、13年前の事件直前に、お父さんが買ってくれたのだろうね」
「はい、そうだと思います」

頷きながら英二は、電話で話してくれた周太の声を想った。
いつもどおり穏やかで、けれど明るく朗らかだった声。
それを同じように思ったのだろう、うれしそうに笑って吉村は言った。

「13年前のページから、ようやく続きが始められたんだね…うん、良かった。
 きっとね、屋根裏部屋は湯原くんの大切な安らぎの場所として戻ってきた。だからもう大丈夫。ああ、うれしいですね」
「すみません。ご心配をかけながら、ずっとお話しそびれてしまって」

素直に英二は謝った。
けれど吉村は、可笑しそうに笑いながら答えてくれる。

「いいえ、無理も無いですね。だってこの3週間は宮田くん、ほとんど国村くんと一緒だったでしょう?」
「そうなんですよね、」

なんだか可笑しくて、英二も笑ってしまった。
この3週間前に、警視庁けん銃射撃大会に国村がエントリーされている。
そのために武蔵野署射撃訓練場へと、嫌々ながら国村は通い始めた。
そんな国村が機嫌を損ねて「気晴らしするか」なんて騒動を起こさないよう、英二は御目付にされている。
その事情を親しい後藤副隊長から、吉村は訊いて知っている。

「それだけね、宮田くんは後藤さんから信頼されている。そういうことです」
「それなら光栄ですね」

笑い合いながら、急登を歩いていく。
歩きながら英二は、吉村医師の様子を観察していた。
この登山は吉村には15年ぶりになる、けれど足取りはベテランの勘を失っていない。
その足取りのままに、吉村は注意ポイントを教えてくれる。

「かつてはね、安寺沢沿いのコースがメインだったんです。でも今は荒廃しています、入り込まないよう注意してください」
「では初心者ハイカーが、道迷いしやすいポイントになりますね」
「そうです。そして本仁田山は落雷も多いのです、ここの雷撃死現場は標高920mあたりでした。
 その搬送先の医療センターに伺ったのですが、衣服などにも焦げ跡はありませんでした」

「普通は落雷ですと、高熱による火傷など起きますよね?」
「はい、ですがその件では無かったのです。そして同行者の方は側撃で火傷しました。
 どうやら地形や天候の条件もあるようですね。現場を通りますから、そこで地形などはご説明しましょう」

こうした遭難事故の吉村医師の説明は、クライマーと医師の2つの観点に立脚するので実証的だった。
それは山岳救助隊として現場に立つ英二にとって、何よりの参考になる。
そんな吉村は後藤の話によると、若い頃に剣岳など国内の高峰も踏破している。
きっとその話を、亡くなった次男の雅樹にもしたのだろう。そして父の道への憧れに、山ヤの医学生に雅樹はなった。
こうして実際に吉村医師と登山すると、雅樹も憧れた空気が英二にも感じられる。

ただ医師として病院にこもるのではなく、傷病発生の現場知識をも持つ医師。その姿は頼もしくまぶしい。
そして自分は山岳救助隊員の立場にいる。山の現場で起きた傷病から、人命を救助する任務に生きている。
そんな自分と山ヤの医師の姿勢は、重なる部分も多い。立場は違うけれど手本の1人だった。

「宮田くん、ここが雷撃死の現場でした」

露岩混じりの尾根は、右斜面が杉の植林帯になっている。その左斜面と尾根上はコナラなど雑木林だった。
ここには巨樹と言われるほどの大木は無い。辺りを見回しながら英二は、胸ポケットから手帳を取り出した。
その英二の様子に微笑むと、吉村医師は周囲の樹木を指さしながら説明してくれる。

「ほら、樹木にも焼け焦げの痕が無いでしょう?幹が引裂かれた痕もありません」
「最初の一発で直撃した、そういうことでしょうか?」
「そうです。人体は60~70%が水分で出来ているでしょう?さらに事故の時は、雨が降り出したのです」

水分は電気を通しやすい。
ただでさえ人体は電気を通しやすい所に、雨で条件が加速されてしまった。
尾根上には樹木もある、けれど人間が避雷針の役割をしたものだろう。
その日の気象状況が気になって、英二は質問した。

「先生、事故発生の日時と気象状態はいかがでしたか?」
「はい、4月26日の午前10時半頃です。
 あの日の奥多摩地方は、春先の陽射から一転して集中豪雨になりました。寒冷前線が通過したわけです」

いつも吉村医師の記憶とデータは正確でいる。そして説明は理路整然として解りやすい。
今までは診察室で聴いていた。けれどやはり現場で説明をされると、実感を伴う理解がある。
それらは経験不足を補いたい英二にとっては、本当に欲しい知識になる。
だから吉村医師との登山は、英二自身が以前から希望したい事でもあった。
それが吉村の山ヤとして立つ自信と、雅樹への贖罪に繋がっていくと良い。
そんな願いの中で英二は、吉村の説明と現場条件のメモをとっていった。

「では、寒冷前線の通過に伴う『界雷』ですか?」
「そうです。あの日の空には積乱雲が発生していました」

積乱雲は山の危険シグナルになる。
積乱雲は大気の状態が不安定な時に発達する、その不安定状態は寒気と暖気の激突が起こす。
その積乱雲の中では激しい上昇気流が起こり、電気が発生することから、降雹や落雷が惹き起される。
4月下旬は季節の変わり目「春雷」の言葉通りに、こうした気象状況が起きやすい時期だった。

「では雹も降ったのでしょうか?」
「はい、八王子で5ミリ位の雹が降りました。サツキの花などがね、白く化粧したとニュースで言っていました。
こうした気象条件では雷撃死の他には、低体温症や心臓発作も誘発されやすい」

吉村医師は天候にも詳しい。それは「山ヤ」と言われる職人気質のクライマーらしい側面になる。
山ヤは自身の無事な登山に誇りを持っている。その誇りを守るため、山での安全への最大限の努力を積む。
そのためには救急法や天候、地図読みなどの博学さが必要だった。そして吉村は医師でもある。
こうした吉村の山岳遭難事故への見識は、医師で山ヤである吉村ならではの実務性が高い。
こうした見識に立つ現場の人材は、そう数多くは無い。この場に立てる幸運に感謝しながら、英二は質問を続けた。

「冷たい雨による急激な温度の変化、それに体が適応できない。そういうことでしょうか?」
「そうです。よく勉強していますね、昨夜も復習したのでしょう?」

うれしそうに吉村が言ってくれる。
その通り英二は昨夜もファイルを開いた。そうした勉強の合間には、当番勤務中の周太と電話も楽しんだ
昨夜の内容は今日の本仁田山の遭難事故事例とルート確認。それから天候変化と事故の関連性や身体への影響。
そんな事前予習をして、英二は今日ここに立っている。それくらい英二にとって、今日の登山は大切だった。
そのままに英二は、素直に吉村へと頷いた。

「はい。吉村先生は医師でかつ山ヤです、山岳と医学と両方の見解をお持ちです。
そんな先生と山へ行けば、山岳救助隊員として必要な知識が学べると思ったんです。だから楽しみにしていました」

吉村医師独自の山と医学を融合した技能が学べれば、山岳救助隊員としても心強い。
そしてもし英二自身が遭難事故に遭った時にも、きっと自分を救ってくれる知識技能になる。
こうした積重ね無しには、最高峰に登ることなど自分には望む資格もないだろう。
そして周太との絶対の約束「必ず無事に隣に帰る」これを守っていきたい。
そんな想いで英二は、吉村医師との登山を待っていた。

「そうですか。うん、ありがとう。宮田くん…私もね、楽しみでしたよ」

うれしそうに微笑んで、吉村は急登をジグザグに登っていく。
その頭上では次第に、明るい広葉樹林に変わりだす。
そして大休場に出た。その正面には花折戸尾根のチクマ山が大きい。

「この先が本仁田山の最後の登りです。次第に急登になります、頑張りましょうね」
「はい、露岩も現れますよね?」
「ええ、手づたいの登攀になります。だからグローブをはめた方が良いでしょう、何事も予防が大事ですから」

そんなふうに微笑む吉村は、足取りが軽い。
15年ぶりの登山とは思えない、そんな馴れた足運びが鍛えた年月を想わせた。
これだけの山ヤが15年間を、山の時を止めたまま生きたこと。どんなに寂しいことだったろう?
そんな想いは英二の心へ静かに、哀しみと痛切さを想い起させた。

荒れた露岩を越えると、左手がコナラや国儀の広葉樹林になっていく。
見上げる梢にはもう、葉はほとんど落ちていた。細やかな枝の造形が、青空にくっきりと鮮やかに見える。
この細かな枝にも霜がつき、雪を纏って樹氷になって冬山になるだろう。
その様子はきっと美しい。もう迎える雪山の姿に、英二は微笑んだ。

鬱蒼とした原生林に囲まれ、平坦な尾根道に出る。
ふっとそこで吉村が立ち止まった。
ここまでくれば頂上は近い。けれど吉村は沈黙したままでいる。

ただ静かに佇む吉村の目は、原生林を見つめている。
その瞳には深い哀しみと懐旧と、そして温かな愛情が感じられた。
その瞳はただ沈黙して、鬱蒼とした原生林を見つめ動かない。

この林に、雅樹の記憶が眠っている。

そう英二には想われた。
きっと吉村はこの場所で、ゆっくり話したくなるだろう。
そう思いながら英二は、登山ザックを尾根道の脇へと降ろした。
その脇を軽く整地し、そこへ国村から借りたクッカーをセットする。
クッカーに水筒の水を注ぎ湯を沸かしながら、2つのカップにドリップ式インスタントコーヒーをセットした。

手を動かしながら英二は、吉村を見上げた。
まだ吉村は沈黙の底で、原生林を見つめ続けている。
きっと吉村が今見つめるのは、雅樹の在りし日の姿だろう。

このまま心ゆくまで、見つめさせてあげたい。
そっと英二は微笑んで、ブナの木を想いながら3つ呼吸をした。そして囲む原生林へと気配を同化させていく。
これは雲取山でツキノワグマ小十郎に会った時、国村が教えてくれた方法だった。
こうして気配を潜めた方が、きっと吉村は納得するまで見つめるだろう。
そんな想いに英二は、静かに尾根道へと片胡坐をかいた。

湯の沸騰する静かな音が、山の静寂にちいさく返響していく。
穏やかな小春日和の陽だまりで、英二は湯に生まれる小さな泡を見つめていた。
ふっふつと泡が大きくなっていく。頃合いかなと火を止めて、ゆっくりカップに注いだ。
緩やかな音と芳ばしい湯気が、山の空気へと融けていく。そこには山の時間がひっそり寛いでいた。
こういう時間は俺は好きだな、穏やかな静謐に英二は微笑んだ。

ゆっくりと2つのマグカップが満ちる頃、ことんと気配が動いた。
そっと英二が視線を上げると、しずかに吉村が空を見上げている。
そろそろ時が来たのかな、そう英二は吉村の横顔に笑いかけた。

「先生、コーヒー淹れました。いかがですか?」

ゆっくり振り向いた吉村の瞳は、どこまでも穏やかだった。
穏やかに微笑んで、吉村は英二の横へと座った。

「ありがとう、宮田くん。ここでのコーヒーは嬉しいですね」
「よかった、お替りも出来ますよ?」

そう笑い合って、並んでコーヒーを啜った。
初冬を迎える山の冷気に、熱いコーヒーが肚から温かい。
初冬の山に充ちる静謐に、ゆるやかに英二は心寛いでいた。

「雅樹が医者になった理由はね『生きて幸せになる笑顔を助けたい』そう思ったからなんです」

穏やかな声に、しずかに英二は横を振り向いた。
見つめる英二に吉村は、穏やかな眼差しで見つめ返してくれる。そして吉村は口を開いた。

「雅樹もこの奥多摩でね、自殺遺体を見た事があったんです。まだ小学校6年生でした。
 私と一緒に登山している時です。その山道を囲む林の中に、縊死自殺遺体と出会ってしまったんです」

そう言って吉村は、また原生林へと目を移した。
自殺者が選ぶ死場所には特徴がある。入りこみやすい森や林、そして見つかりやすいこと。
この原生林は駅から直接来れる登山道の脇になる、すこし急峻な場所だが特徴に合う。
きっとそうだろう、英二はしずかに訊いた。

「もしかして、この林ですか?」
「はい、」

頷いて吉村は、また英二を見つめた。
そして吉村は、ゆっくりと語り始めた。

「すぐに通報して後藤さん達が来てくれました。
 当時の奥多摩は警察医が輪番制だった時でね、担当医師が捕まらなくて。
 緊急措置として医師である私がそのまま死体見分の立会いをしました。
 まだ雅樹は12歳だった、けれど落着いて私の隣から見つめていました。
 雅樹は教えていないのに静かに合掌をしてね、哀しそうに穏やかな目で、静かに全てを見つめていました」

吉村の次男、雅樹。
彼の人生の軌跡を追うように、ゆっくり吉村は語っていく。

「ご遺体の方は遺書を持っていらした。病気で苦しまれていたそうです。
 これ以上は家族にも迷惑をかけられない、だから自死を選ぶと書かれていました。
 そのとき私は、医師としての無力を感じました。この方が縄にかかる前に会えていたら…そんな想いが苦しかった」

当時の吉村は40歳になる頃だろう。
法医学教室から異動しERで頭角を現し始めた、そんな頃になる。
緊急救命に情熱をかけ始めた、そんな時期に病からの自死を見つめた。
きっと苦しかったに違いない、そっと英二はため息をついた。
そんな英二に微笑んで、吉村は続けた。

「青梅署の検案所へ運んで全て終わって。それからロビーの自販機で雅樹とベンチに座ってコーヒーを飲んだんです」

そのベンチはもしかして。
思わず英二の目が少し大きくなる、それに微笑んで吉村が教えてくれた。

「そうです。いつもね、私が宮田くんを待っている。あのベンチです」
「…そんな大切な場所で、いつも」

ぽつんと呟いた英二に、温かく吉村は頷いてくれる。
その頷きに英二の目が、ふっと熱をうかばせた。けれど英二は瞬きに熱を心へとおとしこむ。
ここで泣いたら吉村が話せなくなる、だから英二は微笑んだ。
吉村も微笑むと、またしずかに話し始めた。

「あのベンチで雅樹は私に言いました、『お父さん。あの人もね、生きて幸せに笑ってほしかったね』
 そして重ねて私に訊いたんです『医者になる事は難しい?』
 そうして雅樹は、この奥多摩の山で医師になる決意をしたんです。あの12歳の日に、私と歩いたこの奥多摩で」

吉村の目から、しずかな光がひとすじ零れおちる。
すっと落ちた涙はすぐに、冬の山にしずかに浸みこんだ。
ゆっくり一つ瞬くと吉村は微笑んで、口を開いた。

「雅樹は医師になる決意をした翌日から、私に救急法を学びました。
 救急法検定は受験資格は15歳以上です、15歳になった雅樹はすぐに検定受験をしました。
 なんと満点合格だったんです雅樹は。しかも最年少受験でね。私は嬉しくて。ほんとうにね、たくさん自慢しましたよ」

楽しそうに吉村が笑った。
きっと本当にたくさん自慢したのだろう、なんだか嬉しくて英二も微笑んだ。
その「自慢」は消えてしまった時間、けれど吉村のその日の喜びを、一緒に英二も笑って祝いたかった。
そんな英二に吉村は、楽しげに教えてくれる。

「そのとき簡易ですが救急セットを贈りました。山へ行く時は必ず持ち歩いて。高校の山岳部でも役立ったそうです」
「山岳部だったんですね、雅樹さん」
「はい、雅樹は山か医学の男でしたね」

そう言って吉村は、すこし自慢げに微笑んだ。
どこか懐旧とそして大きな愛情が、その瞳には温かい。

「そして彼は国立の東京医科歯科大へと進みました。
 本当に優秀な子でした、私の自慢なんです。私は入学祝に本式の救命救急用具セットを贈りました」
「俺のものと、同じ物ですか」

ふと思って英二は訊いてしまった。
すこし瞳を瞠った吉村は、それでも穏やかに答えてくれた。

「はい、そうです…あと2セットあると前に言ったでしょう?そのうち1セットはね、雅樹の遺品です」

「遺品 」その短い単語に英二は心が軋んだ。
こんなに成長を寿いだ自慢の息子、その遺品を大切に持っている。
その吉村の心が、親の真実の愛情が英二を打った。

だって自分は母親を置去りにしてきた、けれど後悔も出来ないでいる。
そんな自分に吉村は、雅樹と同じ救命救急セットを贈ってくれた。
こんな親不孝な自分を、けれど受けとめてくれる吉村医師の想い。それが英二の心に迫あがってくる。

…どうしてですか、先生?

心の熱が目の底へと昇りはじめる。
そっと瞳を閉じてまた、ゆっくりと英二は見開いた。
そんな英二に微笑んで吉村は話してくれる。

「雅樹は大変喜んでくれました、そして毎日持ち歩くようになって。
 大学2回生になるとダブルスクールで救急救命士の専門学校に夜間部で通い始めました。
 そして規定の2年間を終えた大学4回生の時に、雅樹は救急救命士の資格をとりました」

「医大に在籍しながら、救急士の資格を?」
「はい、驚くでしょう?だって医大に通っているのにね」

軽やかに笑って、吉村は言葉を続けた。

「医大を卒業して国家試験に受かれば医師免許がとれる、そうすれば救急救命士の資格が無くても医療行為は出来ます。
 だから私もね、ダブルスクールの話を聴いた時に訊きました。なぜわざわざ、救急士の資格をとる必要があるのかと、」

きっとそれは、誰もが疑問に思うだろう。
でも雅樹の気持ちがすこし英二には解るように思えた。
なぜなら生命の救助は、その瞬間しかチャンスが無いから。
それは山岳救助隊として生きる日々に、英二が痛切に思うことだった。

「そうしたら雅樹はね、私にこう言ってくれました。
『お父さん、命に待ったは出来ないよ。その瞬間にしか助けられない。
 だから一刻も早く命を援けられるようになりたい、あの自殺した人みたいに手遅れにならないように』
 そう言われてね、私はうれしかった。ERの現場に立つ私にとって、なによりの人生の贈り物にでした」

吉村の言葉に英二は微笑んだ。
やっぱり自分と同じ考えに、雅樹は救急救命士の資格を取っていた。
会ったことはない雅樹、けれど自分とどこか似ている。
そう言われる理由が少し解るかな、そう英二にも思えた。

「彼は大学でも山岳部に所属しましたが、一人でも山をあるきました。
 そしていつも、その救急用具を持っていた。山で困った方を何度か助けたそうです。心から彼は嬉しそうだった」

うれしそうに吉村も微笑んだ。
そしてそっと瞬いてしずかに言った。

「けれど、あの日は救急用具を忘れて行ってしまった。そんなことは、あの時が最初で、そして最後になりました」

15年前の10月下旬、長野の高峰に雅樹は単独行で登った。
そして急な突風に煽られバランスを崩し雅樹は滑落してしまった。
けれど雅樹は生きていた、でも落ちた側の左足と左腕を骨折していた。
きっと雅樹なら救命救急用具で応急処置が出来ただろう、そして自力で下山が出来た。
けれどその時だけは救命救急用具を持っていなかった、そして山ヤの医学生だった雅樹は冷厳な夜を迎えた山に抱かれて凍死した。
23歳だった。

23歳、いまの英二と同じ年。
英二は目の底の熱をしずかに抑え込む。いまは泣いてはいけない、せめて話が終わるまでは。
しずかにカップに口をつけ、コーヒーごと涙を英二は飲み下した。
そんな英二の横で吉村もコーヒーを啜る、そっと吉村は言葉を紡いでいく。

「雅樹は、ほんとうに良い男だった。私には勿体無い息子だった。愛しています、心から息子を、雅樹を…
 代れるものなら代りたい。私のこの命を、人生を雅樹に与えてやりたい。そんな想いに私は、雅樹が医者になる決心をした、この奥多摩に戻りました。
 雅樹が医師になる決意をした日。あの日に全て見つめていた雅樹の瞳を思いながら、この奥多摩で私は山の生死と見つめています」

自分の人生を、息子に与えたい。
だから今ここで吉村は、英二と座ってコーヒーを飲んでいる。
雅樹が医師に立つ運命を見つめ決めた、この奥多摩の原生林の前に座って。

「だからね、私はずっと迷っています。もしも私が山ヤで医師じゃなかったら?
 雅樹は山ヤにも医学生にもならなかった。そして早く死ぬことも…無かったのではないかと」

こんな哀しい「もしも」誰もがきっと想うこと。
大切な存在を失った時、誰もが思ってしまう自責と仮定。
それは仕方ないことだろう、だって止めたくて止められるものではない。
だって自分の心の動きをまで、誤魔化す事が出来る人間なんて。きっと居るわけがないのだから。

カップのコーヒーを見つめながら、そっと吉村が微笑んだ。
その微笑みを吉村は英二に向け、口を開いた。

「雅樹の救命救急用具は今でもね、中身をきちんと交換してやるんですよ。そして彼の位牌へ供えてあります。
 雅樹は心の底から、命の救助に人生を掛けました。愛する山で出会う命を、あの長い腕を精一杯に伸ばして救って。
 そんな雅樹は今もきっと誰かの援けに用具を使っている、そう思えてならないんです。
 だから今でも毎日チェックして、彼の救命救急用具に不足が無いか、劣化が無いか確認しています。」

そうだろう、きっと。
きっと雅樹は今でも、誰かを助けようとしている。素直に英二は微笑んで頷いた。

「はい、きっと雅樹さんなら」
「うん、…ありがとう。宮田くん」

頷いた吉村はコーヒーを啜りこんだ。
そして少し哀しく重たい空気に、吉村は座りこんで口を開いた。

「15年前の当時、私はERの教授だと奢っていた…緊急救命の神だとか言われて。
 けれどね、自分の息子の危機には何も出来なかった。そして私は思い知らされました。
 自分は神でも何でもない、ただの無力な男なのだと。そんな後悔と懺悔の底で長野の検案所で私は泣き叫んだ。
 1人の男として父親としてね…ERの教授だなんてことも全て忘れて、雅樹の遺体に縋って、ただ泣き叫びました。
 そして翌朝、雅樹の遺体と東京へ帰りました。その時の私の心はもう、全てがモノクロにしか映らなかった」

23歳の医学生だった雅樹。
当時の吉村は50歳、ERの教授として医学の最高峰に立っていた。
そんな吉村にとって雅樹は、どれだけ誇らしい存在だったのだろう。
そしてたった1度のミス「救命救急用具を忘れた」「突風に煽られた」その1度きりのミスが雅樹を山での死へと誘った。

 ―山ではさ、小さなミスが本当に命とりになる。それは山ヤにとって不名誉だ
  だから山ヤはさ、誇り高いからこそミスを許さない。ミスをしない為に謙虚に学んで努力も出来る

御岳の河原で3週間前、国村が英二に言った言葉。
雅樹はそういう謙虚な努力家だった、それでも雅樹は山での死に抱きとられた。
それくらい山に生きることは、峻厳な掟に身を置くことになる。
もっと自分は謙虚になって行こう、そっと英二は肚に覚悟を落としこんだ。
そのためにも自分は、この目の前の吉村の哀しみを今、見つめさせてもらおう。
そう見つめる吉村は再び、しずかに口を開いた。

「それでも、長野から戻った翌朝にはERに立ちました。
 自分は無力だ、ただ患者さんの生命力を援けているに過ぎない。
 そんな謙虚な気持ちにERの現場に立つようになりました。
 そして考えるようになりました、雅樹の生命力はどんなものだったのかと。
 父親として息子にどれだけの生命力を与えられていたのか、育めていたのか。
 そんな疑問は刻々と大きくなって行きました。どうしても知りたい、自分が息子に何をしてやれたのかを」

語る吉村の隣を、しずかな樹間の風が吹きぬける。
ロマンスグレーの鬢が靡き、穏やかな小春日和の陽光に光っていた。
静かな陽だまりに吉村は、雅樹の記憶と寄り添いながら哀しみと微笑んだ。

「雅樹は温かな優しい男でした。真直ぐで広やかで、健やかな心でね。我が息子ながら良い男でした。
 だから私は思いました…自分が神だと奢った所為で、雅樹は死んだのかもしれないと。
 神だと奢った私をいさめる為に、本当に神から愛されるような雅樹が犠牲になったのかもしれない。
 そう思った時、私の心も手も動けなくなった。
 それでも患者はERに来ます、そして私の手は勝手に動きました。
 私の心は竦んでいる、けれど手だけはね…私は医療ロボットになったのだ。そう思いました」

医療ロボット。
そう言われた瞬間に英二は、警察学校に入学したばかりの自分と重なった。
「虚栄心を満たす道具、きれいな人形」そんなふうに生きていた自分の姿。
きっと心を喪えば、人は誰もがそんな姿になるのだろう。こんなに立派な吉村でさえも。
そのことが心に痛い、英二は陽光に映えるロマンスグレーの横顔を見つめていた。

「そんな折にね、ふらっと後藤さんが私を尋ねてきました。
 『ちっとも奥多摩に帰ってこないからさ、こっちから来てやったよ』そう笑ってね。
 後藤さんの顔を見た瞬間にね、奥多摩の山が私には見えました。
 ああ、後藤さんが奥多摩を背負って、私を迎えに来てくれた。
 そう思った瞬間に涙が出たんです。診察室で私は号泣しました。大の大人がね、もうみっともないほどに泣いて」

新宿の大病院に飄然と現れた、警視庁随一の山ヤ。
なんだか光景が浮かぶ、それはきっと奥多摩の山を背負っていたろうと。
そんな後藤はきっと、いつものように大きな山のように笑って、飲み仲間の吉村を受けとめた。
とても後藤副隊長らしい、なんだか嬉しくて英二は微笑んだ。
彼らしいでしょうと吉村も笑って、そして話を続けてくれる。

「医師たちはもちろん、看護師さんも患者さん達もさぞ驚いたと思います。長野の検案所で泣いて以来の涙でした。
 後藤さんは私の話を聴いて、そして言ってくれました『山ヤの生涯を一番近くで見る医者もいるだろう?』とね」

山ヤの生涯を一番近くで見る医者。
それはきっと山岳地域の医者、そして後藤が言うなら警察医のことだろう。
思ったまま英二は訊いてみた。

「先生が警察医になったのは、後藤副隊長の勧めだったのですか?」
「そうです、後藤さんの勧めで私は、青梅署の警察医として立つことが出来ました。そして宮田くん、君に会えました」

自分との出会い。
吉村はその話をこれからしてくれる。
そっとカップを地面に置いて、すこし英二は吉村へと体を向き直らせた。
吉村もすこし英二に向き合うと、微笑んで口を開いた。

「君の初めての死体見分の夜、私は初めて君を見ました。私は見分立会の為にあの森へ向かった。
 そして現場に着くと、森の闇に君が立っていた。私は、その時…君を、雅樹だと思ったんです」

たぶんそうかな、なんとなく英二には解っていた。
けれど改めて言われることは、心に返響を生んでいく。
囲む原生林から吹く風の中で、英二は吉村を真直ぐに見つめていた。

「雅樹が帰ってきた。奥多摩に、雅樹が愛していた奥多摩の森に、雅樹は帰ってきた。
 そう思ったんです…長身で、色白で、穏やかな静けさが温かい気配。同じだったんです、雅樹と。
 私は懐かしかった、うれしかった。本当に懐かしくて、うれしくて。雅樹と、私は呼びかけそうになりました」

原生林からの風が、英二の髪をさっと吹きはらった。
その風の中で英二は、ただ吉村医師の目を見つめて微笑んだ。
だっていま自分は何を言えるのだろう?けれどただ受けとめてあげたい。
それくらいに英二は、この山ヤの医師を敬愛し好きになっている。
そんな英二の目を見つめて、吉村は穏やかに微笑んだ。

「そうです、私は、本気で…本当にあの時、雅樹が帰ってきたと思ったんです。
 けれどすぐに気付きました。ああ、よく似ているけれど、違うのだと。
 君は落ち着いて、初めての見分を行った。まだ新しい活動服姿、不慣れだけれど適確な手つき。
 誠実な新人警察官なのだと見守りました。
 遺体を見る目は途惑いがある、けれど君は、その瞳の奥で遺体に語りかけていた」

あの初めての死体見分。
縊死自殺の遺体は無残な状態になる。その中へと自分は初めて手を差し伸べた。
ほんとうに怖かった、そして哀しかった。
なぜこのひとは、こんな最後を選んでしまったのか。
なぜこのひとは、生きて笑って幸せになる努力を喪ってしまったのか。
そんな想いの中で自分は、初めて「人の命の終焉の姿」の1つにと立ち会っていた。

「君の瞳はあのとき、こう言っていた。
 『どうして死んだのですか、生きて幸せになってほしかった』
 その瞳の声が私には嬉しかった…ああ、雅樹によく似たこの青年は、素晴らしい。
 雅樹は死んでしまった、けれどこの青年には雅樹と同じ想いが生きている、そう思ってね」

素直に英二は吉村医師の言葉に頷いた。
そして微笑んで答えた。

「はい、先生…俺ね、そう思っていました。だからね、俺はきっと雅樹さんの想いは、解ります」
「うん、…そうか。そうだね、…君なら解るな」

しずかに頷いて、英二は吉村医師の目を真直ぐに見つめた。
そして穏やかに、きれいに笑って英二は言った。

「山に行きましょう、先生。今日みたいに俺に、山を教えて下さい。
 先生が山を一緒に歩いて、俺に山を教えてくれること。それが俺を生かしてくれます」

英二が見つめる先で、そっと吉村医師が微笑んだ。
そして静かな声で、英二に訊いた。

「私が、君を…山に生かせるのかな?」

そうだよ先生?
先生しか出来ないことがあるでしょう?
そんな想いに英二は笑って答えた。

「はい。だって先生は山ヤの医師でしょう?そして俺は山岳救助隊員です。
 俺にとって先生はね、医療と登山技術の両方を教えられる師匠でしょう?」
「おや、師匠ですか?」

ちょっと可笑しそうに吉村が笑ってくれる。
そうですと頷いて英二は言葉をつづけた。

「先生、俺はまだ山の初心者です。けれど山岳救助隊員として既に任務に就いています。
 それは本当は危険なことです、そう自分が一番解っています。本当は自分こそが、いつ遭難事故に遭うか解らない。
 それでも俺はどうしても山岳救助隊員になりたくて、この奥多摩に希望を出して配属されました。
 そんな経験不足の俺を、先生の山ヤと医師の知識はきっと援けてくれます。
 だからね先生、俺は今日が本当に楽しみでした。だって俺自身の救助をするのは、きっと先生から受取る知識だから」

「…わたしは、」

静かに吉村は口を開いた。
きっといま吉村の時が動き出す、そんな想いに英二は微笑んで見つめた。

「わたしは息子を死なせた医師です…そんな私から、受取ってくれるんですか?宮田くんは」
「はい、先生の知識が俺は必要です。山ヤで医師である知識は、俺自身も、そして出会う遭難者も救うからです」

吉村の目にゆるやかに涙が起きあがる。
そして涙とともに想いが吉村の口から現れた。

「…同じことをね、あの日に雅樹も言いました。この原生林であの子は決意した、その日に言ってくれたんです。
 『僕はお父さんと同じ道を歩きたいよ、だからお父さんの知識を教えてほしい』そう言って、雅樹は…
 山ヤになって、医者を志して、そして…自分が山で死んでしまった。雅樹は帰ってこなかった」

涙の底から吉村が英二に訴えてくれる。
「ほんとうはいつも、君が帰ってくるのか心配なんだ。雅樹と君は似ているから」
その想いが温かい。その温かさに英二は、きれいに笑って応えた。

「先生、俺は絶対に帰ってきます。だって先生、俺はね。周太と約束しているんです。
 『絶対に必ず周太の隣に帰る』って。先生、俺は全力で約束を守りたい。
 だから先生お願いします、その約束を守る為に先生の知識を俺にください。そして俺を山で生かして下さい」

訊いて吉村は涙の中で微笑んだ。

「宮田くんは真面目だからね、しかも湯原くんとの約束なら、…必死で守るね?」

そうだよ先生?そして周太。
俺は絶対に約束は守るから。そんな想いのまま率直に、英二はきれいに笑った。

「はい、絶対です」

そう、絶対に自分は約束を守る。
そうして最高峰からだって必ず帰る、そして大切な人を守って生きる。
だって自分はいつも想っている願っている、生きて幸せに笑って隣にいたい。
そのために今日も、逢いたいけれど未来の為に、ここで教えを乞うている。

だから先生、また山に登って下さい。俺の為にね?
そう英二は目だけで吉村医師に笑いかけた。
そんな英二に穏やかに、けれど瞳の底から微笑んで吉村は言った。

「次はね、どこの山に登りましょうか?宮田くん」

吉村の「山ヤの医師」としての時は再び、15年ぶりに動き始めた。



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第27話 山行act.1―side story「陽はまた昇る」

2011-12-13 23:59:01 | 陽はまた昇るside story
記憶と、




第27話 山行act.1―side story「陽はまた昇る」

青梅署独身寮の食堂は、まだほの暗い。
12月も2週目になると、奥多摩の日の出は7時近くに近くなる。
それでも食堂の窓には、透明な曙光が夜明を告げ始めた。
透ける朱色あざやかな光は頬にも温かい。その温もりは、掌に頬くるまれる温度と似ている。
なんだか周太の掌みたいだな。そんな温もりの記憶が幸せで、英二は微笑んだ。

「宮田、顔エロいよ」

正面から声かけられて、英二は窓から視線を移した。
その視線の正面に、いつの間にか国村が座っている。こんなふうに国村は気配を消して意表をつく。
ほんと忍者みたいだな、英二は微笑みかけた。

「おはよう国村。うん、今ちょうど俺さ、エロかった」
「だろね。宮田、醤油とって」

いつもどおり受流し笑うと、国村は生卵を割った。
上手に小皿へ落とし込んで、手早くかき混ぜる。こんな手つきから器用で、国村は野外料理も上手い。
たぶん今夜いつものような、藤岡も一緒の飲み会でも何か作るのだろう。
その飲み会で思い出し、醤油瓶を渡しながら英二は訊いた。

「今夜の飲み会ってさ、やっぱり診察室に集合?」
「うん、そうだよ。だって宮田、今日は吉村先生と登るんだろ?その後はコーヒー淹れるよね、宮田」

いつも勤務後の夕刻に、英二は診察室でコーヒーを淹れる。
そして吉村医師と飲みながら、穏やかな談話に過ごすのが日課になっていた。
そのコーヒーを国村も、毎日ふらりと飲みに来る。
それが目的で国村は3人飲み会の時でも、いつも診察室を集合場所に決めてしまう。
今夜もそれは同じらしい、なんだか可笑しくて英二は微笑んだ。

「あ、やっぱりコーヒー?」
「そ。4人前よろしくね。宮田のコーヒーもさ、わりと旨いからね」

以前の国村は、英二の淹れるコーヒーを「まずい」と断言していた。
けれど遊びに来た周太が淹れた、茶とコーヒーに国村はご満悦に微笑んだ。
そして英二に「湯原くんから教わりなよ」と言い、周太にも教えろと言ったらしい。
それで周太は英二に淹れ方を教えてくれた。以来すっかり国村は、毎夕ごと診察室の常連でいる。

ある意味、国村のお蔭で淹れ方を学べたな。
そう思いながら海苔の袋を開けていると、味噌汁を飲みながら国村が訊いてきた。

「今日はさ、本仁田山に登るんだろ?」
「うん、俺まだ登ったこと無いんだ。吉村先生は何度か登っているらしい」

今日は週休の英二は、約束通りに吉村医師と山に行く。その約束は3週間ほど前にしている。
3週間前に英二は、周太と雲取山に登った。その帰路に後藤副隊長と吉村医師と酒を楽しんだ。
その時に英二から、吉村医師に申し出た約束だった。

「吉村先生、15年ぶりの登山だな」

言って国村は、細い目を温かに笑ませた。
吉村医師と同じ奥多摩出身の国村は、吉村の事情を知っている。

元々は吉村医師も山ヤのひとりだった。そんな吉村は高校生の頃から、地元奥多摩の山は全て歩いた。
けれど15年前に吉村は、医学部5回生だった次男雅樹を山に失っている。
その時に限って雅樹は、いつも携帯する救急用具を忘れて出かけた。
そして不運な滑落事故に遭った雅樹は、骨折で身動きが取れず冷厳な山の夜に凍死した。

なぜあのとき自分は、雅樹の忘れものに気づけなかった?
もしあのとき「救急用具は持ったか」と一声かけていたら?
この救急用具さえあったなら―そんなふうに吉村は、雅樹の死に自分を責め続けている。
その悲しみと自責に吉村は、自身の山ヤの時を止めた。そして15年間ずっと吉村は山に登っていない。

その吉村医師を、今日は英二が山に連れていく。
今日はきっと忘れられない登山になる。そんな想いに英二は微笑んだ。

「きっとな、15年ぶりに先生は、息子さんと歩くんだと思う」
「だね。きっと雅樹さんもさ、一緒に歩くんだと俺も思うよ」

前に座る細い目が、温かく笑んでくれる。
この細い目で国村は、いつも物事の核心を真直ぐに見抜く。
だからきっと、その通りなのだろう。そう思っている英二に、国村がまた口を開いた。

「それにさ。なんか宮田ってね、雅樹さんと似ているんだよな」

それは吉村医師からも言われた事だった。
そして雅樹の写真を見た、周太にまで言われている。
そんなに似ているのかな?すこし首傾げながら英二は訊いた。

「国村も、そう思うんだ?」
「うん。子供の頃に俺ね、雅樹さんとも何度か登ったんだよ。だからさ、宮田と初対面した時。
 こいつ誰かに似ているなって思ったよ。だから納得なんだよね、吉村先生が宮田に雅樹さん重ねるのもさ」

最初の登山訓練に出る朝、吉村医師は救急用具を英二に与えてくれた。
そんな吉村医師は毎夕、帰って来る英二を青梅警察署ロビーまで迎えに出る。そして一緒にコーヒーを楽しむ。
そんなふうに吉村は、雅樹の面影と消えた人生を英二に見つめている。

「そっか、そんな似ているんだ」
「そうだな。まあ、雅樹さんの方が上品で、博学だったけどね」

そう言って飄々と笑いながら、国村は丼飯を口に運んだ。
そうかと微笑んで、英二も食事の箸を進めた。

今日の吉村医師は英二と一緒に、雅樹と歩いた奥多摩の山を歩く。
そうして吉村医師は奥多摩の山を英二に教え、英二が奥多摩で山ヤの警察官として立っていく手助けをする。
その手助けは奥多摩で山岳救助隊員として生きる英二を、山での死から救う事になるだろう。

山で雅樹は死んだ。けれど山で英二を生かすことが、吉村の心を救うかもしれない。
そうしたら吉村医師の新しい時間が、動き出すのかもしれない。
そんな想いに3週間前、英二は吉村医師に申し出た。

「俺は一人前の山岳救助隊員になりたいです、だから奥多摩の山を知る必要があります。
 奥多摩を俺に教えて下さいませんか?俺が山ヤとして生きるための、手助けを先生にお願いしたいんです」

こんなふうに申し出た英二を、周太は隣で見守ってくれていた。
そして微笑んで、周太は褒めてくれた。

―英二の笑顔は人を笑顔にできる、すごいな

あんなふうに言ってもらえて、うれしかった。
うれしくて。それで自分も想いを告げ微笑んだ「周太が笑うと俺は一番うれしい」
そう告げた自分を見上げてくれた瞳が、すこし大きくなっていた。

あの顔が好きだ。黒目がちの瞳が大きくなって、余計に可愛い。
ほんと可愛い瞳あの顔。ほら今だって愛しくて微笑んでしまう。
想う瞳の愛しさに、英二は幸せに微笑んだ。

「宮田、またエロ顔になってるよ」

呆れた声に英二は、目の前の現実に戻された。
戻された現実の前に座る、細い目に英二は微笑んだ。

「あ、やっぱり?」
「そ。やっぱりエロいよ」

さらっと答えて国村は笑った。
笑われながら英二は、煮物を口に運んだ。
どうもつい、周太のことを考えてしまう。ここ3週間はずっとそう。
そう思っている英二に、細い目を可笑しそうに細めて国村が言った。

「おまえね、またエロ顔だよ?マジで欲求不満なんじゃない?ずっと会っていないんだろ、湯原くんと」
「うん、…周太の特練と、俺の後藤さんの指導があるからさ。なかなか休みが合わないんだ」

ふたりの休みが合うのは、周太が非番で英二が週休の時になる。
けれど周太は非番の時は大抵、午後に特練が入っている。
そして英二は週休の時は12月から、早朝から昼過ぎまで後藤の個人指導を受けていた。
その前の11月にあった2回の週休は、救急法講習と雪山登山講習を受講している。

こんなふうに。忙しい時期になることは予め解っていた。
それでもやっぱり。こんなに逢えないなんてと思ってしまう。
だってただでさえ今、逢って話すべきことが英二にはある。

…逢いたいな、周太。そして笑って「信じてる」って言ってほしい

ほっと溜息が出てしまう。
そんな英二に、「逢って話すべきこと」を作った当事者が、飄々と訊いていきた。

「ふうん、もしかしてお前ら。雲取山に登って以来はさ、会っていない?」
「うん、…そうだよ。もう3週間、あっていないよ」

雲取山に一緒に登った後の3週間。ずっと1度も会えないままでいる。
こんなに会えないのは、卒配直後10月に3週間逢えなかった時以来。
けれど11月は逢えることが多かった。その反動も大きくて今、きっと余計に恋しい。
それにもう想いを自覚している「あの隣を唯ひとり、唯ひとつの想いで愛している」その分だけ思いが募る。
だから本当は3週間前、新宿で別れた時。あの時だって、浚ってしまいたかった。

…今ごろ、周太はどうしているんだろ

そんな考えが、余計に恋慕をさせてしまう。
今日の周太は非番で、午後から特練があると言っていた。
だからAM6:50の今は、まだ前夜の当番勤務中。きっと新宿の東口交番にいる。

やっぱり3週間前、浚っちゃえば良かったかな。
そう心にぽつんと呟くと、ほっとため息が出てしまう。
こんな落ち込み気味の英二に、いつもの調子で国村はからり笑った。

「へえ、そんなに長いことねえ。ずっと会いに行っていないんだ、宮田が?」
「…だって俺、ここ毎日さ。いつも国村と夕飯食ってるだろ?」
「あ、そうだよな。俺も射撃訓練でさ、ここんとこ実家は日帰りだからね」

言うと底抜けに明るく笑って、国村は焼茄子を頬張った。
その国村の射撃訓練に、英二は非番のたびに付合っている。
その午後はそのまま、国村の山岳訓練がセットになって山へ行く。
それらは青梅署代表で大会出場する条件として、国村が決めてしまった事だった。

そして最近は、英二の非番は「国村と一緒の日」になっている。
そのために後藤の個人指導も、今日の吉村との登山も。週休の日を当てる事になった。
そうして週休に予定が入って周太と予定が合いにくい。
ちょっとは恨みごと言っても許されるかな、英二はぼそりと言ってみた。

「…非番の日が後藤さんの指導日だったらな、」
「うん?なに宮田、非番にしたいんだ?」

もし非番に指導日が動けば、週休が1日自由になる。
そうしたら午前中だけでも、周太にあいに行けるのに。
そう考えた英二に、楽しげに笑いながら冷静に国村は言った。

「ふうん、そうしたらさ。宮田の週休に射撃訓練に行けばいいな」
「…それじゃ俺、結局は休みなしじゃん?」
「あ、そうだね。でもさ、宮田?俺の付添い役のお蔭でさ、射撃大会の観覧が出来るだろ?」

それはそうだ、その通りだ。
その大会には周太も新宿署代表で出場する。きっと周太は不安だろう、だから傍で見ていてやりたい。
そのための口実をくれたことは、国村に感謝すべきだろう。
ちょっと微笑んだ英二に、国村はまた言った。

「それにさ、射撃の後の山岳訓練。あれで宮田、ずいぶんと登山技術が上がっているよな?」
「…うん、それはそうだな」

急斜の登山道、岩場、それからザイル下降やフリークライミング。
それに「地図読み」、迷いやすい道の判断。風向きの読み方や山の植生などの知識。
この3週間での手ごたえは確かに大きい。
それは週休に個人指導してくれる後藤にも、褒められている事だった。

非番に国村と訓練して、その翌日になる週休に後藤の個人指導を受ける。
そのどちらも一流のクライマーによる指導、英二にとっては幸運な機会だった。
そんな連日のハードな訓練のお蔭で、体力と持久力も随分高くなったと思う。
それは山ヤとしては喜ばしい。そして自分の目標には必要なことだろう。

「な?だからさ宮田。俺の付添いに選ばれたことはね。宮田にとって、まじでラッキーだろ?」

底抜けに明るい目で、楽しげに国村が言う。
確かに言う通りだろう。
まだ初心者の自分が、トップクライマーになる訓練を受けられる。得難いことだ。
まだ卒配の自分が、射撃大会の観覧に行ける。これもラッキーだろう。
なかなか周太に逢えないのは辛い苦しい嫌だ。
けれど自分の夢や今後を考えると、国村が言う通り「まじでラッキー」だ。
そう納得しかけた英二に、味噌汁を飲んでから国村が笑った。

「ほら宮田、俺たちはね。アイザイレンパートナーだろ?だから俺もさ、こうして宮田を援けるよ」

確かに。そう、援けられている。
けれど国村にとっては、単に都合が良いようにしている?
たぶん国村が英二を、アイザイレンパートナーにしたいのは本音だろう。
そういう国村の意思は、英二にとっても夢を叶えてくれる道になる。
それは嬉しいことだ。でもやっぱり逢いたいなあというのも本音。

それに国村が英二を、射撃大会の観覧に連れて行きたい動機がある。
それを英二は口にした。

「国村が俺をね、射撃大会に付添わせるのはさ。色っぽい周太を見る為だろ?」

そう国村は言っていた「可愛い子がさ鋭い目をするのは色っぽいよね」
そういう周太を見るのを楽しみに、国村は大会出場の訓練にも何とか行っている。
言われて国村は、底抜けに明るい細目をすっと細めた。

「嫌なことをさ。この俺がね、やるんだから。それ位の楽しみ無いとさ、周りが困るだろ?」

そう言って笑う国村の目が、悪戯小僧のままに危険だった。
もしその「楽しみ」が無かったら。きっと国村は悪戯をして、大会を楽しむ気でいる。
その悪戯の犯行内容を、もう英二は訊かされ知らされた。
たぶん実際に犯行が実行されても、周りは誰も国村の犯行とは気づかない。
きっとさぞ本人は喜ぶだろう、けれど代りに青梅署全員が良心の呵責に悩むだろう。
ちょっと釘を刺しておこうかな。英二は自分のパートナーに提案をした。

「なあ国村、楽しみは周太だけで満足してくれな?大会の後なんか奢るからさ」
「うん、いいよ。じゃあさ、酒」

国村らしい選択だろう。
ちょっと笑って英二は頷いた。

「おう。じゃあ寮で飲む?それとも御岳の川に行く?」
「嫌だね。大会終わった直後に飲みたい」

直後って。
ちょっと呆れて英二は訊いてみた。

「終わった直後って、術科センターの近くってことか?」
「だね、」

それだけは困る。
でも国村らしい、可笑しくて英二は笑いながら確認した。

「な、国村?当日はさ、国村が運転するミニパトで行くんだよな?」
「うん、だからさ。代行運転を頼めばいいだろ?」

ちょっと予想はしていた答えだけど。
それでも可笑しくて、英二は笑ってしまった。

「パトカーに代行運転はさ、さすがに無理だって」
「ふうん、そうか?じゃあ飲むのは戻ってからだね。仕方ないな。宮田、早く青免とってよ」

そう言いながら国村は、きっと何の酒にしようか考え始めている。
だって細い目がやけに満足気で、楽しそうになった。
こいつはいつも楽しそうでいいなあ。ちょっと英二は、目の前の友人が羨ましくなった。


通常より早く留置人診察を終えた吉村医師の、片付けを英二は手伝った。
診察に使った器具の消毒、それからカルテの整理。
こうして英二はいつも、勤務前の朝と休暇には手伝いをする。

「宮田くん、いつもすまないね」
「いいえ。こちらこそ、勉強させて頂いていますから。終わったらコーヒー淹れますね」
「ありがとう、嬉しいですね。この間の、ファーストエイドブックはいかがでした?」」
「はい、事例が解りやすくて。そうだ、足首の脱臼の処置を伺いたいです」

こうして手を動かし話しながら、朝の静かな時間を過ごす。
そのとき吉村医師が答えてくれる、救急法や法医学などの知識は実務に役立つ。
そして英二の救命救急と死体見分の、知識と技術は随分進歩した。

青梅署警察医の吉村は、全ての警察医業務を1人で行う。
そのうえ元ER担当教授だった吉村は、救急法講習の依頼も多い。
また法医学教室に在籍した経験もある事から、警察医の技術講習まで吉村は買って出ている。
だから吉村医師は多忙でいる、その手助けを少しでも英二はしたかった。

片付けが終わり、英二はコーヒーを淹れる。
周太に教わった通りに淹れると、いつも旨いコーヒーになっていく。
それがいつも不思議だなと思う。本当に周太は、こうした事をよく知っている。
そして周太は約束してくれている「英二には一生ずっと周太が、コーヒーも茶も淹れること」
けれどもう、3週間も逢えていない。仕方のない事だけど。
ちょっとため息ついてから、英二マグカップをサイドテーブルに移した。

「はい、先生どうぞ」
「ありがとうございます」

温かい湯気が芳ばしく立ち昇る。
いつもより早めの朝が、ゆっくりと白い室内を照らし始めていた。
ひとくち啜ると、吉村が微笑んだ。

「うん、今朝も旨いです」
「よかったです、」

答えながら英二は、さり気なく吉村の様子を眺めた。
いつもどおり穏やかに吉村は佇んでいる。
これなら大丈夫だろう、静かに英二は微笑んだ。

このあと吉村は15年ぶりに山に登る。
この登山は吉村にとって「止めていた山ヤとしての時」を再開する意味を持つ。
そして奥多摩の山は、吉村が雅樹を連れて登った山ばかりだ。
そんな奥多摩の山を吉村が登ることは、雅樹を山ヤに育てた記憶と向きあうことになる。

ただゆっくりと、吉村が向きあって行けたら良い。
思うように山を歩く時間に、雅樹との記憶が温もりとして寄り添えれたら。
そんな願いを想いながら、英二はコーヒーを飲みほした。




(to be continued)

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想父act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2011-12-12 23:36:45 | 陽はまた昇るanother,side story
2つの想いを抱いて




想父act.2―another,side story「陽はまた昇る」

痴漢容疑で男子学生達は、起訴されるだろう。
この被害者の女子学生と嫌疑をかけられた樹医は、不起訴でいいと言ってくれる。
けれど男子学生達には、余罪があることが解った。
いつも2人で常習的に行っていた、それが解った以上もう無視は出来ない。

一通りの手続きが終わって、周太は書類を片付けた。
いつものように先輩の柏木が茶を淹れてくれる。
こんなふうに先輩に茶を淹れられるのは、周太の性格としては恐縮してしまう。
丁寧に受け取りながら、素直に周太は礼を述べた。

「あの、いつも申し訳ありません。ありがたく頂戴します」
「そんないいよ。茶を淹れるのは、俺の趣味みたいなものだから」

はいと頷きながら啜ると、いつも通りに旨い。
ほっと息をつくと、若林に周太は訊かれた。

「湯原。あの学生が犯人だと、いつ気がついたんだ?」

訊かれて周太は、すこし首を傾げた。
そして右手の示指と中指を、すこし顎先に懸けて考えながら話し始めた。

「2人とも右利きだったんです、あの学生も樹医の方も。
 誰でも普通は利き手を使いますよね?そして女子学生は『左』腰と言いました。
 あの4人の立ち位置では、樹医の方には左手側にあたる位置だったんです。だから不自然だなと思いました」

なるほど、と若林が頷いて口を開いた。

「なるほど。あの学生だったら、彼女を右手で触れる位置にいたな。
 それで湯原、利き手の確認のために図面の描きこみをさせたんだな?」
「はい、そうです」

微笑んで周太は頷いた。
あの車内現場の確認図面、立ち位置の確認だけなら自分で全部描けばいい。
けれどあのタイミングは、利き手の確認をさり気なく出来る。そう思って4人に自分で描かせた。
そしてもう1つ、彼ら自身に描かせた意図がある。

でもその「もう1つの意図」は今回は使わなくていいだろう。
あの学生が自首してくれなければ、必要だった。
でも学生は自首してくれた。それが周太は嬉しい。よかったなと微笑んだ周太に、柏木が質問をした。

「警視庁では普通、繊維鑑定は被疑者が否認した場合ですよね。
 だから被疑者ではない学生が協力を拒んだ場合は、彼からは証拠が取れない可能性があった。
 今回は自首したから良かったけれど、もし、あの学生が自首しなかった場合。湯原はどうするつもりだった?」

訊かれて周太は湯呑を机に置いた。
そして胸ポケットから小さなビニール袋を出すと微笑んだ。

「このペンも、鑑識にお願いするつもりでした」

そのビニール袋には、先程の図面確認で使ったペンが入っている。
このために周太は、この袋をあらかじめ胸ポケットにセットしておいた。
そのペンを見て若林が訊いてくれる。

「それは、図面確認の時に使ったペンだな?」
「はい、そうです」

頷いて周太は、右指を顎先にかけて話し始めた。

「立ち位置から、犯人は2人のどちらかだと考えました。樹医の方には繊維鑑定をお願いできます。
 けれど柏木さんが仰る通り、学生から協力が得られるか解りません。
 なので、彼からはペンを使って採取しようと思いました。
 そのために、あの学生の順番を最後にしたのです。そして彼だけは違うペンを使うよう仕向けました」

話して周太は、ひとくち茶を啜りこんだ。こういう説明は少しだけ緊張する。
同じように茶を啜って、若林が口を開いた。

「それで湯原、最初の3人にはインクの少ないペンを渡したんだな?」
「はい。インク切れなら、自然にペンの交換が出来ると思いました」

あらかじめ周太は、ペンを2本準備しておいた。
若林の指摘通り、1本はインクの少ないペン。
そしてもう1本は新品のペン。これはごく簡単な仕掛けをした、それが大切な点になる。

「なるほどな、2本のペンか」

頷きながら茶を啜って、若林が感心してくれる。
けれど袋のペンを眺めていた柏木が、疑問を口にした。

「でもペンだと指紋は付きますが、繊維は付着しにくいですよね?
 多少は付くかもしれませんが、100%採取は難しい。それはどうするつもりだった?」

その通り。ペンは表面が固くて、繊維は付着しにくい。
だから周太は簡単な仕掛けのために、新品のペンを用意した。
軽く頷いて周太は、顎先を指で軽く叩く。それから微笑んで話し始めた。

「このペンは新品で、値札とタグを剥がしたばかりなんです。
 それで糊が残って幾分くっつくんですよ。鑑識採証テープほどは無理ですが、無いよりましかなと思いました」

ペンの受け渡しをする時、ペン先をこちらが握って渡すのが礼儀だ。そして受取り手は、必ずペン軸を握って受取る。
そのときに軸部分に粘着力があれば、掌の付着物がペン軸に移るだろう。
それに気がついた周太は、鑑識採証テープ代わりに使えるかもしれないと考えた。
だからペン軸にタグが貼られているものを、周太は選んで買ってある。

「ペンを使わせることで、付着物採取と利き手の確認を2つとも一度にやった。そういうことですね」

感心しながら柏木は茶を啜った。
聴いていた若林が袋のペンを静かに手にとると、見ながら頷いて言った。

「なるほどな。確かに糊の部分に繊維質が少し付いている」
「付いていますか?でも自首してくれたから使わず済みます。
 やはり本人の許可ない採取ですから、どうかなと思っていたんです」

本人の許可ない採取、それが周太には気に懸っていた。
その言葉に頷きながら若林も、ほっとしたように笑ってくれる。

「そうだな、自首してくれて良かった。では湯原、あの学生の容疑を決定したのは、どの時だ?」
「はい。学生が、樹医の方に握手した時です」
「握手か、」

握手で手の付着物を相手に移す。
このやり方で冤罪を作られた、そんな事例を周太は知っていた。
それは英二から借りた鑑識専門書、そこに載っている。

「鑑識の本に載っていた冤罪の事例に、握手で付着物を移されたケースがありました。
 それを読んでから、どうしたら事情聴取の場で立証できるか考えていたんです。それが今回そのまま役立ちました」

へえと若林と柏木が感心してくれる。
こういうのは気恥ずかしい、顔には出ないけれど。すこし首筋に熱を感じながら、周太は茶を啜った。
ほっと一息ついた周太に、柏木が何気なく訊いてくれる。

「その事例では、どんな男が犯人でした?」

訊かれて周太は一瞬だけ迷った、それは警察の暗部に関わる事例だったから。
それは警察学校の資料では載っていなかった。
だから周太も英二に借りた専門書を読んで、その事例を初めて知った。
それは警察官本人には言い難い、けれど知った方がきっといい。静かに周太は唇を開いた。

「犯人逮捕は未解決です。ただ冤罪の原因を作ったのは警察官でした」

若林の目が哀しそうに伏せられる。
ほんとうに哀しいと周太も思う、なぜなら警察官による冤罪は少なくない。
横で柏木も痛ましい顔になっていく。それでも柏木は、周太に尋ねた。

「どんなふうに、原因を作ったんだ?」
「繊維鑑定のために、被害者の女性のスカートを警察官は触れますよね?その触れた手で、被疑者と握手したんです」
「それから被疑者の手を、鑑識採証テープで検出したというわけか」
「はい、」

その事件は、被疑者の抗弁から真相が暴かれた。
彼の弁護士が被害者の女性から、事情聴取の状況を聴きだす事に成功した。
その聴取状況「警察官が被疑者に『疑って悪かった』と握手した」そこに弁護士は着目する。
その弁護士は元検事だった、そのため検察庁から警察官への事情確認をする伝手を持っていた。
それで警察官の事情確認が可能となり、被疑者の潔白と冤罪の事実が判明した。

「その警察官の動機は、…成績の問題かな?」

ため息をつくように、若林が訊いた。
そして周太は、訊かれたままに頷いた。

「年度末の実績報告が、足りなくて困っていたそうです」

あってはいけないこと。
けれど時折は存在する「サラリーマン型警察官」実績が法治より優先するタイプ。
それは警察暗部の一部だった。
そして警察の暗部が裁可されるケースは稀だろう。
なぜなら警察組織と検察は連携がある。そして暗い連携も存在してしまう。
だから。鑑識専門書の事例「握手による冤罪」は判明したことが珍しい件になる。
きっと元検事の弁護士ではなかったら。被疑者の潔白証明は難しいことだった。

「実績か、うん。あることだな…残念だけれど」

ほろ苦く若林は微笑んだ。
それから静かに若林は教えてくれる。

「新宿署でも冤罪事件があった。湯原も聴いているかな?」
「はい。…自殺された件ですよね」

2年前の冬の早朝。20代半ばの男性が駅ホームで飛込み自殺をした。
自殺の理由は「痴漢の冤罪」そして彼が取調べを受けたのは新宿警察署だった。
彼の死から一ヶ月後、新宿警察署は痴漢容疑で送検した。その根拠は開示されない防犯カメラの映像だった。
書類送検は、東京都迷惑防止条例違反容疑。東京地検は被疑者死亡で不起訴処分としている。
その公判が少し前ニュースになっていた。

「事件当夜は、署の宿直が生活安全課の人間だった。それで迷惑防止条例違反で片付けたのだろう。
 そして彼らは繊維鑑定すら怠った。…せめて繊維鑑定をしてくれたら、自殺された方も死なずに済んだろうな」

哀しそうに言うと、若林は茶の残りを啜った。
ほんとうに若林の言う通りだろう。この事件の事を周太は、刑事課の佐藤からも聴いた。
この新宿署の鑑定を怠った冤罪事件。それを周太は知って英二から鑑識の本を借りた。
「冤罪」の轍は自分は絶対に踏まない、そう思って鑑識などの事実立証に役立つ勉強を進めている。
それには英二の専門書が役に立つ、ありがとうを言いたいな。そう思っている周太に柏木が訊いた。

「でも湯原、よくそんな事例が載っている本を読んでいたな。警察学校では置いていないだろう?」
「はい、同期から借りて読んだ本です」
「でも、あんな事例が載っているのは、専門性が高い本だろう?卒配でそんな本を選んで買うのは凄いな」

感心したように言って、柏木は首を傾げて周太に尋ねた。
そう、英二はすごいよ?内心そんなふうに呟いて、周太は微笑んだ。

「はい。法医学教室にいらした先生が、同期の為に選んでくれたと聴いています」

英二から借りる実務書は鑑識に限らず、専門性が高く実用的なものが多い。
それは青梅署警察医の吉村医師が、英二の書籍選択に影響している為だった。

吉村医師は大学病院の元ER担当教授で、それ以前には法医学教室の経験も持っている。
そのため吉村医師は法医学教室時代に、鑑識知識も身につけていた。
その吉村医師が選んだ鑑識専門書は、現場での参考にする為に事例が多く載っている。
それは法医学の視点であるために事例選択は公平だった。
そうした専門書である為に、警察暗部の問題事例でも掲載されている。

「ああ、法医学の先生が選んでいるのか。それだと専門性も高くなるな」

柏木が納得したように頷いた。
聴いていた若林も頷いて、周太に尋ねてくれる。

「その同期は、どうやって法医学の先生と知り合ったんだ?」
「同期の所属署にいらっしゃる警察医の方なんです。その先生が以前、法医学教室にいらしたと伺っています」

おっという顔になって、若林が訊いた。

「もしかして、青梅署の吉村先生か?」
「はい、ご存知なのですか?」
「うん、警察医の状況改善に尽力されている方だ。それで名前くらいは知っているよ」

警察医の置かれる状況は厳しい。
まず警察医は所属署の医療を1人で全て担当する。
吉村医師自身も、青梅署診察室と検案所の全てを1人で取仕切っている。
だから英二は出勤前の朝と休暇の日には、出来る限り吉村医師を手伝いにいく。

その警察医の業務は多岐にわたる。
主には警察官と留置人の健康管理から、検案所と現場での死体見分など。それらを1人で担当する。
そのため警察医には、医学全範囲への経験知識と法医学の基礎が無ければ難しい。

けれど警察医の研修制度などは、未確立なのが現状だった。
そうして充分な初動検案が出来なかった為、隠されてしまった犯罪もある。

そのことにも吉村医師は立ち向かっている。そう聴いて周太は嬉しかった。
亡くした息子の軌跡を追う為だけではなく、医師としての立場で吉村が警察医でいる。
そんな前向きな吉村の意思は、きっと吉村を生かしてくれる。それが嬉しくて周太は微笑んだ。
けれどその周太の前で、若林は何気なく言った。

「吉村先生は確か、東京医科大の元ER教授だったろう?
 そういう医学のトップがな、なぜか奥多摩地域の警察医になった。そう当時は話題になったんだ」

教えてくれる若林の口調に「なぜか奥多摩地域の」がひっかかる。
たぶん奥多摩地域は警視庁管内では辺境扱いになる、その事の為だろう。
こんなふうに警察内部でも、その所属地域へのランク付けがあると周太も訊いている。
その中で新宿署は副都心警察という立地から、上位に位置していた。

「そういう方が奥多摩地域の警察医になることは、異例なのですか?」

落ち着いた声で周太は訊いた。
けれど心裡には静かな怒りが、ひっそり起きあがりかけている。

「うん、そうだな。奥多摩は警視庁管内では田舎だろう?
 そこに吉村先生のようなエリートが埋もれるのは、勿体無いと話題になったんだ。
 俺も訊いた時は、なぜ田舎なんかにと思ったよ。もっと活躍する舞台があるだろうにってね」

こういう若林の考え方は警察組織では普通だろう。
そして若林には悪気もない、差別意識の自覚も無い。
だから周太は、ただ穏やかに頷いた。

「そうですか、」

けれど周太は今もう知っている。
その奥多摩地域の現況は、この都心部が抱える問題の受皿だということ。
そのために奥多摩地域の警察官達が、自分達より危険な任務に身を置いていること。
そっと静かに周太は唇を開いた。

「奥多摩へは、この新宿から電車に乗っていきますね」

周太の言葉に、若林と柏木も軽く頷いた。
そして何気なく若林が、笑って答えてくれる。

「ああ、そうだな。ここ新宿から中央線に乗れば、立川から青梅線に直接乗り入れるな」

東京都心部で疲れた人間が、ここ新宿から奥多摩へ向かう電車に乗っていく。
そして安易な登山で心癒そうとした結果、奥多摩の山岳救助隊は遭難救助の危険な現場に立つ。
または疲れ果てた人間は、奥多摩を死場所と定めて自死を選んでしまう。
そして自殺遺体の無残な現場に、奥多摩の警察官達は祈りの中に立っていく。

その厳しさを選んで、英二は奥多摩で山ヤの警察官になった。
警視庁山岳救助隊員。その厳しさに英二は、本当は何度は泣いただろう?
それでも英二はいつだって、きれいに笑って現場に真直ぐ立っていく。
そして遭難者の応急処置に、あのきれいな掌を動かして命を救う。
そして自殺遺体の死体見分に、あのきれいな掌を動かして死者の想いを遺族に繋げる。
あの、きれいな大きな掌で。

そうした警察官達を、山に廻る生と死を。
それらを援けるために、吉村医師も奥多摩の警察医として立つ道を選んだ。
そして山に死んだ次男の生きるべき人生を、静かに見つめながら掌を動かす。
彼が愛する次男と、英二とよく似ている掌。その大きくて、きれいな掌を吉村は動かしている。

そして後藤副隊長も、藤岡も、あの国村だってそう。
奥多摩の警察官達は警察医は。だれもがそんな、きれいな掌を動かしている。

あの、きれいな掌を動かして。
そして奥多摩の山に廻っていく、生も死も受けとめて微笑んでいる。
そうして首都東京が抱える暗部をも、きれいに笑って受けとめてくれている。

首都の華やかさ。
けれど光が煌びやであるほど、その陰は濃い。そうした光の陰影に、孤独に疲れた人間が蹲る。
たとえば新宿なら。ガード下のホームレス、歌舞伎町の喧嘩、無気力な目に座りこむ酔っぱらい。
それからホームやビルを見つめる自殺志願者たち。そうした首都であるゆえこその、暗く濃密な陰影たち。
その最も暗く厳しい陰影は、この東京のどこで最後を迎えている?

警視庁は首都警察。それら首都特有の濃密な陰影に、警視庁は向き合わなくてはいけない。
だから問いかけたい。この警視庁管内で、最も厳しい首都陰影の現場はどこになる?

なにも知らない。
そう、きっと都心部の警察官はなにも知らない。
なにも知らないままに「田舎」と嗤っている。その現場の意味を知りもしない癖に。
そんな怒りの想いが、そっと周太に起きあがった。
けれど怒りのままに言っても、想いは伝えれられない。ゆっくり瞬いて、周太は微笑んだ。

「ここから電車に乗って奥多摩へ行く方は、どんな人でしょうね」
「そうだな。やはり新宿か、近くに住んでいる人だろうな」

なにげなく若林が答えてくれる。
そう、本当に若林には悪気は無い。

けれど気づいてほしい、奥多摩の警察官が自分達を援けてくれていること。
自分たち副都心警察が出来ないことを、奥多摩地域に補ってもらっていること。
自分たち都心の警察官が管内を治めきれない為に、奥多摩地域の警察官達を危険に晒しているこの現状を。

そう、どうか本当に気づいてほしい。
穏やかに微笑んだまま、周太は若林を真直ぐ見た。

「では新宿署管内で疲れた人が、奥多摩で自殺される。そんなこともあるでしょうか?」

はっとして柏木が周太を見つめた。
その目は気が付いて、哀しみと後悔が見えている。

この新宿東口交番の管轄内でも、自暴自棄で座りこむ人がある。
そういう人は放っておけば、高いビルの屋上や駅のホームから惹きこまれるように転落していく。
「無関心な人波の虚無感に、呑み込まれてしまうのかな」そう周太に教えてくれたのは、先輩の柏木だった。
そして柏木は、そういう人をみつけては交番で茶を出している。
そうして相手の心をほぐすと、その人は少し話をする。そういう人間はもう、そのまま転落することは無い。

けれど。
その人間はそれからどこへ行ったのか?
それは、ここにいる3人誰にも解らない。
そのまま生きて、笑って立ち直れているのか?
それとも、どこかへ去ってから?その立ち去る先は、この新宿からなら何処になるだろう?

柏木はいつも茶を出している。
そんな柏木なら気づいてくれる、そう周太は思った。
できるなら気づいてほしい、首都警察であることの意味。自分たち副都心警察を、サポートする人達のこと。

「…うん、そうだな。そうだと思います、きっと新宿管内のことが原因で、奥多摩に行く方もいる」

柏木は静かに微笑んだ。
そして言葉を続けてくれる。

「いつも俺は、疲れた人を見ると茶を出します。ああいう人は大概、自殺を考えているからです」
「…うん、柏木はよく茶を淹れてくれるな」

若林が頷いて相槌を打った。
はいと答えてから、また柏木は続けた。

「茶を飲んで少し話せば思い留まってくれる。そう思って茶を淹れます。
 それは一時しのぎでしょう。けれどそれ位しか、今の自分には思いつけません。
 そんなふうに考えていたくせに俺は、奥多摩の自殺案件のことに気づいていなかった」

少し言葉を切って、すこし柏木は俯いていく。
そのまま俯いて、呟くように言葉を押し出した。

「湯原に言われて気付きました。
 俺が茶を淹れた人の中で、奥多摩で自殺した人も、…いるかもしれない。ここから電車に乗って、それから…」

柏木の声がふるえていく。
きっと柏木はショックを受ける、そう周太にも解っていた。
それでも気づいてほしかった。

この自分達は副都心警察官、この副都心の暗部から目を背けることは出来ない。
この副都心の暗部を他管轄へと無自覚に押しつけてしまう、その重さを知る必要がある。
そうして押しつけた先の他管轄、奥多摩地域を見下す愚かさに気づいてほしい。

きっと自分だって、英二が居なければ気づけなかった。
そして副都心警察であるプライドだけに、単純に居座っていたかもしれない。
こうして副都心警察であることすら自分は、奥多摩地域の警察として英二に援けられている。
こんなふうに自分はもう、隣に英二がいなかったら立てない。
そっと周太は微笑んで、唇を開いた。

「自分達は警察官です。明日はどうなるか解りません。
 だから今、目の前のことを大切に向き合うしか出来ません。
 だから柏木さんがね、お茶を淹れることは正しいです。
 そう思います。だから柏木さんの真似をして、私も茶を淹れる事にしています」

すこし柏木が顔をあげる。
そして周太を見つめて、訊いてくれた。

「俺の真似を、してくれている?」
「はい。あんなふうにね、茶を淹れると心が寛ぐでしょう?だから私は青梅署でも、茶を淹れてきました」

そう自分は、青梅署管内で茶を淹れてきた。
最初に吉村医師、次が国村。そのあと御岳駐在で岩崎と英二と。それから後藤や奥多摩交番の畠中。
そんなふうに奥多摩の警察官と警察医に、新宿署の自分は茶を淹れた。
そうして茶を淹れられたのは「お手本」があったからだろう。
その「お手本」に周太は微笑んだ。

「柏木さんの真似を、奥多摩でもさせて頂きました。
 いつも柏木さんは交番にいる誰にでも、きちんと茶を淹れてくれる。
 そういうお手本を真似たお蔭で、奥多摩の警察官と警察医にも喜んでもらえたんです」

ふっと柏木が微笑んだ。
ゆっくり瞬いてから、静かに柏木は口を開いてくれた。

「うん、ありがとう湯原。…今日、湯原に聴いたことは忘れない。そして茶を淹れます、これからも」

微笑んで周太は、目だけで「はい」と伝えた。
それを言葉にするのは、後輩の自分ではおこがましい。そんな気がして目だけの答えにした。
そんな2人を見守っていた若林も、すこし自嘲気味に口を開いてくれる。

「俺もな、きちんと考えた事は無かった。いつのまにか馴れがあったな、なんか初心に戻れたかな?」

そう言って、いつものように穏やかに若林は笑った。
よかったな、ただ微笑みながら周太はうれしかった。

この警視庁管内の地域差、その実情の原因を正確に見つめること。
それは警察組織の補完性を見直す事になる。
その見直しはきっと、警察組織内の意識改革にも繋がっていく。

そうした意識の変化が起きれば、きっと父の様な道を辿る警察官は減るだろう。
だって父の警察官としての道は、そうした警察内部の補完意識が途絶えた陥穽に落ち込んだ。
そうして父は追いつめられ、孤独なままの警察官だった。

こんなふうに1人でも、組織の補完性に気づいてくれたらいい。
そして気づいた人がまた、誰かを気づかせてくれたらいい。
そして父のような過ちが、いつか警察機構から消えるように。そう自分は、心から願っていく。


朝8時すぎ、当番勤務が明けた。
いつものように周太は、新宿署独身寮への帰路を歩いていく。
まだ出勤の姿も少ない新宿は、どこか静かで穏やかさにある。

歩く息がもう白い、12月だなと朝の冷気にも感じた。
今日の英二は、山岳救助隊副隊長の後藤から登山指導を受ける。
今日の奥多摩の天気予報は、晴れ。けれど霜柱は大きいだろう。

どうか無事に今日も、英二が山から下りますように。そう祈りながら周太は空を見上げた。
見上げた周太の瞳に、真っ青な空が映し出される。
そっと周太はつぶやいた。

「…この青空、奥多摩に繋がってる」

そう、空で繋がっている。
同じ東京の空で、この新宿と奥多摩は繋がっている。
同じ東京の空の下で。あの大好きな笑顔は、きっと自分を想ってくれる。
そう思うとなんだか温かい。そんな温もりに周太は微笑んだ。

そんなふうに歩いて、周太は一本の街路樹で立ち止まった。
新宿署独身寮にもう近い、けれど少し奥まって目立たない街路樹。
この初冬の空にも、常緑樹の梢は濃緑を豊かに繁らせている。
この木の下10日程前、英二と2つめの「絶対の約束」を交した。

―だって俺の帰る場所は、周太だけ。俺はね、周太ばっかり見つめて愛している
 だから周太、いつか必ず、俺と一緒に暮らして? その絶対の約束がね、俺、今この時にほしい

そんなふうに言って英二は、約束を結んでくれた。
そうして周太は「必ず帰ってきて」と約束を繋いだ。
あの隣と結んだ「絶対の約束」その自分の真意は、英二が生きて笑っていくこと。
その為に自分は生きていく、その決心をもうしている。
だから今だって想いの為に、ちいさくても勇気が支えてくれる。

そんな勇気が昨夜の自分に、率直な言葉を言わせてくれた。
ただ父の軌跡を追うために警察官になった、その現場でも素直な想いを話せている。
だって新宿と奥多摩の矛盾を話せたのは。ほんとうはただ、英二を侮辱されたくなかったから。
それは本当に小さな想い。小さい、けれど勇気になって「警察官」の自分をも支えてくれた。

「…ん、大丈夫」

そっと呟くと周太は、常緑樹の下で携帯を開いた。
受信メールを一通、呼び出してメモリーを開く。

From :宮田英二
Subject:いつも
添 付:山茶花「雪山」の花と梢
本 文:いつも見てる、想っている。だから絶対の約束を守るよ。

自分の誕生花「雪山」という名の山茶花。
英二の歩く御岳山にも、白く咲いて佇んでいる。それを見つめて想いを繋いでくれた。
こんなふうにいつも想って心を繋いでくれる。
そして約束を守るよと、きれいに笑ってくれている。

「…ん、信じてる」

そっと呟いて微笑んで、周太は携帯を閉じた。
この想いを信じている。だから今日も自分はここで、警察官として生きられる。
そうして時を大切に見つめたら、きっといつか「絶対の約束」は叶う。そう、信じている。

術科センターでの特練が終わって、周太は新宿署に戻った。
携行品の返却だけして、そのまま深堀と瀬尾と待ち合わせる。
その2人も活動服姿で、新宿署ロビーで迎えてくれた。

「久しぶりだね、3週間ぶり位かな?」

相変わらず穏やかに、瀬尾が笑ってくれる。
以前の瀬尾は気持ちが弱かった、けれど今はどこか強さが見えた。
人は変わっていくんだな。思いながら周太は微笑んだ。

「ん、それ位かな?瀬尾、なんか少し雰囲気が変わったね」
「あ、湯原も思った?俺もね、瀬尾は雰囲気が変わったと思う」

そんなふうに話しながら、新宿の街を歩き始めた。
まだ昼間の新宿、けれどクリスマスの装飾が華やいでいる。
そんな街の景色に、10日程前の夜に見た姿が重なってしまう。

あの夜、クリスマスの光に立っていた英二の姿。
どこかブナの木洩陽と似た、イルミネーションに照らされていた。
その眩しい光の中で、山闇のように黒いミリタリ―ジャケット姿。

…ほんとうはね、英二。今日も、逢いたかった

こうして話しながら歩いていても、あの大好きな姿を街角に見てしまう。
そんな周太の横顔に、瀬尾が話しかけてくれた。

「ね、湯原はさ。奥多摩に行って来たんだよね。宮田は元気だった?」
「あ、ん。英二は元気だよ」

なに気なく答えて、周太は微笑んだ。
その隣から瀬尾が笑いかけながら、穏やかに訊いた。

「湯原、宮田を名前で呼ぶんだね?」

ほんとうになに気なく。
あたり前のように周太は、英二を名前で呼んでいた。
それは少し気恥ずかしい、けれどもう決めたこと。
すこしだけ首筋に熱を感じながら、きれいに笑って周太は答えた。

「ん、そうなんだ。その方がね、自然になったから」
「そっか、」

にっこり笑って、瀬尾は周太を真直ぐ見つめてくれる。
そのとき周太は気がついた。どこか瀬尾の目には、深い何かが灯った。
それは前には無かった深み、いったいなんだろう?
そう考えている周太に、瀬尾が言ってくれた。

「湯原、男に言うのも変かもしれないけど。でもね、きれいになったね湯原?そして強くなったね」

そんなふうに言われるのは、気恥ずかしい。
けれどもう「きれいになった」その理由を、自分は素直に認めている。
それに今そうして言われること、きっと自分には誇らしい。
そんな誇らしさに微笑んで、周太は答えた。

「ん、ありがとう瀬尾。俺ね、守りたいものが出来たんだ。だから強くなった、かな?」

そう、守りたい。
あの隣を、唯ひとりの人を。唯ひとつだけの想いの中心にいる、大好きな笑顔。
だからそのためには、何だって出来る。そんな勇気ひとつ。自分の中にはもう座っている。

夜21時。いつものように携帯の着信ランプが灯る。
穏やかな曲を1秒聴いて、周太は携帯電話を開いた。

「周太、今日は楽しかった?」

ほら、言わないでも解ってしまう。
そう、今日も自分は楽しかった。だって想いを繋いでいたから。
新宿東口交番の机で。
新宿署独身寮の近く街路樹の下で。
術科センターでも、同期と歩く新宿の街路でも。

いつでもずっと、想っていたから。
英二のこと。
それから英二が見つけてくれた「父の想い」
そしてそこから生まれる、ひとつの勇気が支えてくれていたから。

「…ん、楽しかったよ。英二は?」
「うん。後藤さんの指導は、すごく勉強になった。でもさ周太、やっぱり周太に逢いたかったな」

ほらこんなふうに。
いつも率直に求めてくれる、こんな正直さが嬉しい。

「ん…俺もね、あいたかった、な。それで英二、午後は少しゆっくりできた?」
「後藤さんの指導をノートにまとめたよ。それから1時間位かな、夕飯まで寝たよ。周太はどんな楽しいことあった?」
「あ、昨夜ね。初めて樹医に会ったんだ」

そう、樹医に会った。
幼い頃に父と読んだ樹医の記事「樹医は樹齢数百年の樹木も蘇らせる」
そんな樹木のプロフェッショナルの記事。
一緒に読んだ父は「ね、周?魔法使いみたいだね」そんなふうに言っていた。
ほんとうにそうだと思った、そして会ってみたいと思っていた。そんな植物の魔法使いに。

「樹医か、木の医者の人だよな」
「英二、知っているんだ?」

うんと言って、英二が笑って教えてくれた。

「ほら周太、奥多摩はさ。巨木が多いだろ?だから樹医の人がね、たまに来てくれるらしいんだ」
「そうなんだ…俺ね、ほんとうは、話を訊いてみたかったんだ」
「うん?会ったのに周太、話を聴いていないのか?」
「ん、だってね、あった場所がね…」

こんなふうに、他愛ない話で電話が出来る。
こういうのはきっと、ありふれた小さな幸せなのだろう。
でも自分にとっては本当に、得難いことだと知っている。

そして、何よりも、大切にしたいこと。




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