「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2006・07・11

2006-07-11 07:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、谷川俊太郎さんの「ベートーベン」と題した詩を一篇。

 「ちびだった
  金はなかった
  かっこわるかった
  つんぼになった
  女にふられた
  かっこわるかった
  遺書を書いた
  死ななかった
  かっこわるかった
  さんざんだった
  ひどいもんだった
  なんともかっこわるい運命だった

  かっこよすぎるカラヤン」

   (角川春樹事務所刊「谷川俊太郎詩集」所収)
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2006・07・10

2006-07-10 07:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「怒って書いた手紙はひと晩枕もとに置けという。置けばとうてい投函できぬしろものだと分る。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・07・09

2006-07-09 09:11:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「角川は文庫でも古株のほうで岩波や新潮の仲間だったのに『横溝正史フェア』以来文庫の性質をかえてしまった。横溝正史何十点で合計千万部も売れば性質も変ろう。
 角川は良書でも売れないものは絶版にして売れるものだけ出す方針をきめたから、他もこれに倣ったら森村誠一赤川次郎など売れるものが続出して、売れないものも続出して結局は棚のとりっこになった。
 競争というものは悪いことではない。ただまかりまちがうととめどがなくなる。電卓がそうである。あれは五千円かせめて三千円どまりならよかったが、我を忘れて二千円千円ついにはぱちんこ屋のおまけになってしまった。このたぐいに時計がある。時計もおまけになりつつあるのではないか。
 文庫本を月に八点だす社がある。十点出す社がある。二十点近く出す社がある。岩波新潮角川は古株だがほかに講談社文藝春秋集英社徳間書店そしてあらたにPHP文庫光文社などが参加する。かりに一点四万部毎月十点出す有力版元が十社あるとすると合計四百万部になる。この数字はひと月に文庫を買う人口を凌ぐ。
 文庫はひと月かぎりの命になった。あとからあとから押しよせてくる文庫に書店は恐怖にかられるようになった。そのひと月のうちに四万部売切れる作者は一人か二人であとは売れない。時間をかければ売れるものも、あとのが押しよせてくるから返品して迎えいれなければならない。かくて文庫は文庫という名の月刊雑誌になったのである。版元は自ら墓穴を掘ると知りつつ掘るのは棚のとりっこをして自分の棚をひろげて相手の倒れるのを待つのである。相手を倒すか自分が倒れるかのどちらかだから一ぬけたとぬけられないのである。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・07・08

2006-07-08 07:20:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「向田邦子一周忌」と題した昭和57年のコラムの一節です。

 「向田邦子はこの物語の半ばをすぎてから、はじめてこれが昭和11年から十二年にかけての出来事だと読者にあかしたのである。字幕に昭和十一年夏とでも書けばすむことを、こまごまデテールをつみあげ、それがその時代以外のいかなる時代でもないことを示したのである。その上でようやく打ちあけたのである。仙吉が四十三とすれば二人の軍隊時代はほぼ二十年前で大正年間である。
 盧溝橋事件は昭和十二年七月七日で、これが日支事変の発端である。それまではネオンはかがやき物資はあふれ、金さえ出せば何でも買えた時代である。ただ金がなかったから、または乏しかったから、乏しくなくてもいつ病気するか失業するか知れなかったから、部長でも二流三流で財産がなければこんな暮しぶりだったのである。
 一両年を経て私は『あ・うん』を再読して、ここには尽せないほどのものを発見した。もう一度読んだらなお発見するだろう。その作者が不慮の事故にあうとは神も仏もないが、この世はしばしば神も仏もないところだから、向田邦子はそれなりに完成した作者として終ったのだと私はあきらめることにしたのである。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・07・07

2006-07-07 08:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「向田邦子一周忌」と題した昭和57年のコラムの一節です。

 「目黒駅前に『バタビヤ』というカフエがある。禮子はそのバタビヤの女給で門倉の二号である。やがて門倉の子を生む。門倉と仙吉は『目黒キネマ』の横手の屋台に腰かけて酒くみかわしたことがある。目黒キネマは実在しただろうが、バタビヤは架空だろう。それにしてもカフエの名にバタビヤとはいかにもその当時らしい。
 二号の禮子が門倉の子を生んだと思ったら、仙吉の父初太郎が死んだ。その通夜はにぎやかだった。初太郎を知りもしない仙吉の勤先の男たちや、門倉の会社の連中が来た。さと子はお燗番をして台所へ立ったときラジオのニュースを聞いた。勢よく蛇口をひねって水をだしていたから南京特電、蒋介石、柔軟なる和平外交で臨みたいなどの言葉がきれぎれに聞えただけだった。盧溝橋事件が起きたのは、この半年あとだと作者はやっともらしている。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・07・06

2006-07-06 07:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「向田邦子一周忌」と題した昭和57年のコラムの一節です。

 「門倉修造と水田仙吉は無二の友である。軍隊時代の寝台戦友だそうで、門倉はいまアルマイトの弁当箱であてて三百人の職工をつかう工場の社長である。羽左衛門をバタくさくしたような美男子で二号がいる。妻の君子は年上である。門倉が除隊して肺を患ったとき看護してくれたもと看護婦だという。子はない。
 門倉は軍需景気のおかげで成金になった。水田は二流どころの製薬会社の部長で、家賃三十円の借家に住んでいる。当時の二流の会社の部長がどんな暮しをしていたか、この小説はまざまざと見せてくれる。」

 「以上書きぬいたのは、作者がいかにその時代を再現しているかを言いたいためである。当時帝大といったから帝大と書いたのである。支那といったから支那と書いたのである。足袋の片っぽにもう片っぽを突っこましている。それは白足袋でなく別珍である。これは部長とはいえ豊かでないことを示している。これらはすぐ映像化できるものばかりである。
いま思いだしたが門倉修造は身長五尺八寸の偉丈夫で、たみは五尺そこそこのチビである。仙吉の父初太郎の腹ちがいの弟作造は、五尺五寸五分だとすこしつんぼで都合の悪いことを聞かれたとき答えていた。私は『身長と体重』のなかで、わが国の小説家は身長を書かないと指摘したが、向田邦子は書いている。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・07・05

2006-07-05 07:25:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「向田邦子一周忌」と題した昭和57年のコラムの一節です。

 「私がテレビで最も見るのは捕物帳である。銭形平次であり、大江戸捜査網であり新五捕物帳である。いずれも時代劇ではあるが、その時代がいつかはよく分らない。江戸時代も末だと作るほうも見るほうも思っている。あれはチャンバラを見て溜飲をさげるためのものだから、そのチャンバラにいたる必然性は問わない。すでに江戸を知るものは少いから、それらしければいいのである。
 江戸ばかりか明治を知るものも今は希になった。だから明治は江戸に次いでごまかせるが、大正と昭和初年はまだ知るものが多いからごまかせない。ハチ公の死んだ昭和十年代はなおさらで、知るものはいよいよ多いから、偽ることはいよいよ許されない。字幕に『昭和十○年東京』と書いてしまえばいいが、人情風俗がその通りでなければ見物は承知しない。
 だから向田邦子は仙吉の妻たみに、靴下のなかに切れた電球をいれて、穴かがりをさせたのである。足もとに脱ぎすてた汚れた足袋の片っぽに、もう片っぽを突っこんでその時代と家庭をうつしたのである。それを五燭の親子電球で照らしたのである。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・07・04

2006-07-04 07:20:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「向田邦子一周忌」と題した昭和57年のコラムの一節です。

 「『あ・うん』を読むのはこれで二度目である。私は向田邦子を名人だと書いたことがある。

(略)これまであげたこの人のコラムはすでに一度読んだものばかりである。それなのに再び単行本で読んで初めて読む心地がする。前に気がつかなかったことをあらたに発見する。だから一両年たったらもう一度読みたい。そのときも全く新しく読む気がするだろう。こうしてみると文章の才というものは天賦のものらしい。向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である。この人のコラムはこの週刊誌の宝である。(『諸君!』55年11月号)

 この週刊誌というのは『週刊文春』のことで、向田邦子はここに二ページ見開きのコラムを何年か書いて、その連載中に死んだのである。それがこの週刊誌の宝だと言ったのだから、これ以上のほめようはない。私は悪く言うばかりでなくほめるのである。ほめるときは遠慮会釈なくほめるのである。ただしその作者があとで裏切りはしないかと心配することはある。むろん向田邦子にはそんなことはなかった。さらに発見するところがあるのだろうと言った通り、それはあったのである。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・07・03

2006-07-03 08:45:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、「向田邦子一周忌」と題した昭和57年のコラムの一節です。

 「さと子は林檎のはいった紙袋をかかえて走って帰って来た。客に出す水菓子が切れていたので、買いにやらされたのである。その水菓子屋で聞いた話を一刻も早くしたくて、玄関をあけるなり叫んでしまった。『ねえ、聞いた? 忠犬ハチ公、死んだのよ。今朝、駅のそばで息引きとったって。あの犬、とし十三だったんですって』。
 さと子(十八)は水田仙吉(四十三)妻たみ(三十九)のひとり娘である。さと子が使いに出るまで母のたみは無事のようだったのに、にわかに産気づいたのではない、引きつれるような激痛と共に流産したのである。知らぬこととは言えさと子はハチ公が死んだと叫んだのである。
 ハチ公は今も渋谷駅前に銅像になって残っている。それが死んだというのだから、およその時代は察しられる。もっとも仙吉もたみも実在の人物ではない。向田邦子作『あ・うん』のなかの人物である。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・07・02

2006-07-02 09:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「テレビのどこがいけないのか、あれはタダなのが最もいけない、タダは芸人を堕落させると共に、見物人を堕落させる。相撲の取組、転瞬の争いは肉眼では見えない。それをカメラの目で八方から写して、さながら見たと、錯覚させる。ブーアスティンは現代は『幻影の時代』だといった。」

   (山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)
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