と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

〔世界史・古代インド〕 統一王朝(前編) (十六王国時代~マウリヤ朝) -オンライン無料塾「ターンナップ」-

2016年11月08日 21時08分23秒 | インド紀行2016年11月

〔世界史・古代インド〕 統一王朝(前編) (十六王国時代~マウリヤ朝) -オンライン無料塾「ターンナップ」-

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≪第074時間目≫インドの歴史

2016年11月08日 21時05分31秒 | インド紀行2016年11月

≪第074時間目≫インドの歴史

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インド怪人紀行の全体計画だよんんんんん いつもこういうのを作ってから出かけますんで

2016年11月08日 12時26分49秒 | インド紀行2016年11月

インド怪人紀行


11月3日(木)、ふと思い立ってインドの旅に出てしまった。しかも添乗員無し。現地ガイドさんが(日本語のできるインド人)、インドの空港で待っているってぇ案配。行けるのかね・・・ボキ(^0^)。


超越のインド大陸である。あるいは、混沌、カオスと言ってもいい。老年期に至り、ふと超越ということに興味が出てきたからである。正邪も、貧富も、美貌も、悪相も関係なくなってきたからである。ついでにいえば、相対的評価というのも関係なくなってきた。


さらに言えば、インドには、生きる上での知恵がある。猥雑というのもアテハマッいる。前しか見ていないのではないかも思わせるパワーがある。


日本的叙情とか感傷というようなものとは異次元の世界がインドにはありそうだとずっと思ってきた。


結論から言って正解だった。


つまらない老残の思いなんかぶっ飛んだよん。人間死ぬまでは、生きるコッチャということである。しかも働いてである。

ま、もんぎり型の駄文はこれくらいしにして、以下にインド紀行の全体計画を書いてみようううううっと。wikiからのコピーだけれども。これをタブレットに保存して、飛行機の中で見ていたからでおます(^0^)。




インド旅行 2016年11月3日(木)から8日(火)

 

一日目(3日)

成田発 11時45分 日本航空0749便 ビジネスクラスの座席で デリーへ 10時間5分かかってデリー着 18時20分 20:00ホテル着 夕食

 

 

ホテル ウエルカム・ホテル・ドゥワルカ

 

二日目 デリー市内観光 

7:30スタート

◎クトゥブ・ミナール(◎は下車して観光)

クトゥブ・ミナール(Qutub Minar, ヒンディー: क़ुतुब मीनार)は、インドデリーにある世界最高のミナレット

1200年ごろに奴隷王朝の建国者であるクトゥブッディーン・アイバクによって、クワットゥル・イスラーム・モスクに付属して建てられた。ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっている。おそらくヒンドゥー教ジャイナ教の寺院などを破壊し、その石材を転用して制作されたものであり、建築に携わった職人もヒンドゥー教徒であったと推測されている。高さが72.5mあり、世界で最も高いミナレットである。これでも地震落雷などで先端が崩れた後に修復してあり、当初は100mほどの高さがあったという。直径は、基底部14.3mに対して先端部2.75mであり、文字どおりの尖塔である。

 

◎フーマユーン廟

フマーユーン廟英語Humayun's Tombヒンディー語हुमायूँ का मक़बराウルドゥー語:ہمایون کا مقبره‎)は、インド共和国の首都デリーにある、ムガル帝国の第2代皇帝フマーユーン(Nasiruddin Humayun、همايون)の墓廟。インドにおけるイスラーム建築の精華のひとつと評され[1]、その建築スタイルはタージ・マハルにも影響を与えたといわれる。ムガル帝国第2代皇帝フマーユーン は、1540年ビハールの地をしたがえたパシュトゥーン人(アフガン人)の将軍でのちにシェール・シャーと名乗るスール族のシェール・ハンに大敗し、これ以降インド北部の君主の座を奪われてペルシアに亡命し、流浪の生活をおくった。やがてイラン(ペルシア)のサファヴィー朝の支援を受け、シェール・シャー死後の1555年にはアーグラデリーを奪回して北インドの再征服に成功したが、翌1556年に事故死してしまった。

フマーユーン死後の1565年、ペルシア出身の王妃で信仰厚いムスリマであったハミーダ・バーヌー・ベーグム(ハージー・ベーグム)は、亡き夫のためにデリーのヤムナー川のほとりに壮麗な墓廟を建設することを命令した[2][注釈 1]。時代は、アクバル大帝治世の前半にあたっていた。

 

レッド・フォート

レッド・フォートは、タージ・マハルを築いたことで有名なムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、アグラから遷都し、自らの名を冠した新都シャー・ジャハーナバード(現在のオールドデリー)における自らの居城としてつくったものです。1639年に建設を始め、9年の歳月をかけて完成しました。赤砂岩を積み上げて造った要塞のため、別名「ラール(赤い)キラー(城)」と呼ばれています。シャー・ジャハーナバードは「地上に天国があるならば、それはここだ」と詩にうたわれるほど、豪華な宮殿が並ぶ夢の都でした。しかし1857年「インド大反乱」(セポイの反乱)で略奪を受け、また、イギリス軍は駐屯地として兵舎を建設するなどしたため、城内は大きく作り変えらました。

ジャイプール泊

フォーチュンセレクトメトロポリタン

 

 

三日目(ジャイプール市内観光)

◎アンベール城観光(一時間)

アンベール城英語आमेर क़िला ヒンディー語:आमेर क़िला)は、インドラージャスターン州ジャイプルの郊外の北東11kmの城郭都市アンベールにある宮殿。宮殿後ろの山上にジャイガル城砦あり、隠れた通路でつながっている。 ヒンディー語では「アーメール(Amer)」と発音するので、アンベール(Amber)という発音は間違いである。アンベールは、ラージプート族のカチワーハ家の王国・アンベール王国の首都であった。ムガル帝国の第3代君主アクバル1世は、1562年にアンベール王の娘と結婚してアンベール王国と同盟したのを皮切りに、アンベールをはじめとするラージプートの王侯を次々に連合して傘下に加えていった もともと城砦があった所に1592年から、ラージャマーン・シングによる大規模な築城が始められた。 1727年、アンベール王ジャイ・シング2世はアンベールから自らの名を冠したジャイプルへと遷都するまで、改築が続けられた。

 

◎ジャンタルマンタル(天文台)

天文学者でもあったムガル帝国ラージプートマハーラージャジャイ・シング2世によって、1728年から1734年に建てられた。マハーラージャの居城「シティ・パレス」の一角にある。

ジャイ・シング2世は、デリーヴァーラーナシーなど計5箇所に天文台を建設しているが、それらのうちでジャイプルのものが最も規模が大きい。

 

◎シティパレス

シティ・パレスは、インドラージャスターン州の首都ジャイプルにある旧藩王の宮殿。現在も一部が王族の住居となっているが、多くの建物が博物館として公開されている。ラージャスターンとムガールの二つの様式が融合した建築として有名である

シティ・パレスはカチワーハー家の当主サワーイー・ジャイ・シング2世によってジャイプルの市街地とともに建設され、1727年にアンベール城から遷都した。それ以来200年以上の間 ジャイプル藩王の住居として、またジャイプル王国の政治の中心として機能した。1947年のインド独立の2年後の1949年にジャイプル藩王はインドへの編入を受け入れ、その領地は隣接する地域とともにラージャスターン州の一部となった。現在かつての王宮は旧藩主の住居と個人所有の博物館と観光地になっている。[2]

藩王の王宮は現在シティ・パレスとして公開されている領域のみならず、東側のハワー・マハルや天文台のジャンタル・マンタルやトリポリ門を含む広大なエリアであったが、この項では現在のシティ・パレスについて解説する。このエリアは白装束で頭に赤いターバンを巻いた衛兵が多数常駐し警備している。

○風の宮殿

ハワー・マハル(ヒンディー語:हवा महल、英語:Hawa Mahal、別名「風の宮殿」)は、インドラージャスターン州の州都ジャイプル、ピンク・シティと呼ばれる街区の一角にある宮殿史蹟。隣接する世界文化遺産である天文台史蹟「ジャンタル・マンタル」とともに、ジャイプル市内での観光地となっている。1799年、この街を治めていたラージプートの王サワーイー・プラタープ・シングによって建てられた。ハワー・マハルはシティ・パレスの一部で、ピンク色をした砂岩を外壁に用いた5階建ての建造物で、953の小窓が通りに面している。この小窓から宮廷の女性たちが自らの姿を外から見られることなく、街の様子を見たり、祭を見て楽しむことができるようになっている。

ホテル連泊

 

四日目(アグラ市内観光 230キロ 5時間30分)

途中

◎チャンドバオリ

チャンド・バオリ(Chand Baori, चाँद बावड़ी)もしくはチャンド・バオリの階段井戸とは、インドラージャスターン州ジャイプル近郊のアブハネリ村(en:Abhaneri)にある巨大な階段井戸en:Stepwell)である。

この井戸は Harshat Mata 寺院の反対側に位置しており、インドで最も深く大きな階段井戸の一つである。9世紀に建造され、階段の総数は3500、階数は13階でその深さは100フィート(約30メートル)に達する

 

ファティープル・シークリー観光(40分)

ファテープル・シークリー英語Fatehpur Sikriウルドゥー語:فتحپور سیکریヒンディー語:फ़तेहपुर सीकरी)は、インドウッタル・プラデーシュ州アーグラ約40km西に位置する、ムガル帝国第3代皇帝アクバルによって建設された都市。

当時アクバルは跡継ぎに恵まれなかったが、この地に住むイスラーム教の聖者サリーム・チシュティーen)を訪ね、世継ぎの問題について相談したところ[1]、息子を授かるだろうとの予言を授けられた。そのおかげで王子サリーム(のちのジャハーンギール)が誕生し、記念としてここに新たな都を造り、アーグラから遷都した[1]。しかし、慢性的な水不足と猛暑のため、わずか14年間(1574年~1588年)しか使用されず廃墟となった[1]

遺跡群は1986年UNESCO世界遺産に登録された。遺産名「ファテープル・シークリー」とは勝利の都シークリーという意味である。勝利の都と名づけられたのは、当時、アクバルがグジャラート地方での戦いに勝利したためである[1]

台地の上に建設されており、直行するグリッドに則した幾何学的な都市計画が実施されており[1]、その中心部は、宮廷地区とモスク地区とに分けられている[1]。ほとんどの建築物が赤砂岩によって建設された[1]、土着の建築文化とイスラーム建築の融合がなされた都市遺跡である。

 

アグラ泊

ジェイピーパレス

▲アグラのジェイピー・パレスホテル 新しいホテルで、今回アグラで見たホテルではここが一番でした。アグラ城と同じ赤い砂岩でできたホテルで、規模が大きく部屋は300以上あります。セキュリティはしっかりしており、部屋も非常にきれいで、レストランにも美味しそうな料理が並んでいました。

 

五日目(帰国)

早朝 タージマハルビューポイントへ

アグラ観光

◎タージマハル

タージ・マハルヒンディー語: ताज महल, ウルドゥー語: تاج محل‎, 英語: Taj Mahal)は、インド北部アーグラにある、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石墓廟インド・イスラーム文化の代表的建築である。1632年着工、1653年竣工と言われる[1]

謀反を起こした臣下ハーン・ジャハーン・ローディー討伐に付き従っていたムムターズ・マハルは、遠征先のブルハーンプル[1]産褥病のため、1631年6月7日に死亡した。彼女は遺言のひとつに、後世に残る墓を所望した[2]。彼女はブルハーンプルのザイナーバードの庭園に葬られ、毎週金曜日には訪れるまだ39歳のシャー・ジャハーンの髯はすっかり白くなっていた[1]

霊廟の計画はブルハーンプル滞在時には着手され始めたと考えられる。1632年の初めにムムターズ・マハルの遺体は都アーグラに送られ、ダールル・ヒラーファト・アクバラーバードの庭園に安置されたが、シャー・ジャハーンはデカン討伐を続けた。6月、シャー・ジャハーンが遠征を終えるとアーグラに舞い戻り、ムムターズ・マハルの一回忌追悼式典が催され、霊廟建設が開始された。基礎工事を経て1636年には白い霊廟がほぼ完成し、さらにこれを挟んでモスクと集会場、尖塔、そして大楼門が建設された。大楼門北側には「神のご加護により、1057年竣工」という文字が刻まれている。イスラーム暦1057年は西暦1648年であり建設開始から17年を経ているが、その後には付帯設備が5年間をかけて整備され、すべての工事は1653年に完了した[1]。なお、シャー・ジャハーンは、タージ・マハルと対をなす形でヤムナー川を挟んだ対岸に黒大理石で出来た自身の廟を作ろうとしたとされるが、これは実現しなかった。

名前の由来は不確定ながら、王妃ムムターズ・マハルのムムが消え、ターズがインド風発音のタージになったという[3]。ムムターズ・マハルはペルシャ語で「宮殿の光」、「宮廷の選ばれし者[3]」を意味する言葉であり、第4代皇帝ジャハーンギールから授けられた称号である。彼女の本名はアルジュマンド・バーヌー・ベーグムという[3]。タージ・マハルを言葉どおりに訳せば「王冠宮殿」もしくは「宮殿の王冠」という意味になる。

タージ・マハルは南北560m、東西303mの長方形の敷地にある。南端の約1/4部分は前庭があり、その北端にある大楼門を挟み広がる庭園は一辺296mの正方形であり、水路遊歩道によって東西南北それぞれに2等分され、さらにそれぞれが4つの正方形で区分されている。その北には敷地の約1/4を占める基壇の上に、廟堂を中心に西側にモスク、東側に集会場がある[1]

南の大楼門はダルワーザー、ムガル式四分庭園はバギーチャー、西側のモスクはマスジド、東側の迎賓施設はミフマーン・カーナー(ジャマート・カーナー[1])、そして高さ42mの4本の尖塔(ミナレット)を従える墓廟はマウソレウムと言う。

タージ・マハルの基本設計は、ムガル帝国の墓廟方式の伝統を踏襲している。しかし、例えばフマーユーンの廟やアクバルの廟とは異なる点もある。これらは正方形の庭園の中心に廟堂があり、四方のどの門から入っても同じ景色が目前に広がるように設計されている[4]。それに対し長方形構造と墓廟を北の端に配したタージ・マハルはこの例に倣っていない[1]。また、敷地内にモスクを持つ事も独特である[1]

 

アグラ城

アーグラ城塞(-じょうさい、: Agra Fort)は、インドアーグラにあるムガル帝国時代の城塞。赤砂岩で築かれた城壁の色から「赤い城」(ラール・キラー, Lal Qila)の名がある。ただし、デリーの城も同じく赤い城と呼ばれ、単にインドの「赤い城 (Red Fort)」と言えば、通常はデリーのほうを指す。デリーからアーグラへの遷都に伴い、皇帝アクバル1565年に着工して1573年に完成した。その後ジャハーンギールシャー・ジャハーンまで3代の居城となった。アウラングゼーブが兄弟間の後継者争いに勝つと、父であるシャー・ジャハーンをタージ・マハルの見える城塞内の「囚われの塔」(ムサンマン・ブルジ)に幽閉してデリーに移った。外側から見ると赤砂岩主体の「赤い城」であるが、城内の宮殿には白大理石も多用されている。ムサンマン・ブルジの内壁や床は幾何学的な装飾が施された白大理石でできている。

 

デリー発 20:20 JL074 ビジネス 7時間30分

成田着朝7:20


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あ、そうだ!インドに行こう!忘れ物をとりに(^0^)

2016年11月08日 11時44分30秒 | インド紀行2016年11月

と~ま君の「インド怪人紀行2016」の劇場が始まり、始まり~~~~~。

 

 

唐・天竺とはよくも言ったり。

そうだ!

インドに行こう!

そう思い立ってから、数日間。さっきまで、インドに居りました。どうしても行って見たい天竺の国でありましたので。だいいちパワーがまるっきり違う。人口も多い。すばらしく多い。12億らしい。はっきりとわかっていないのではないかとも思っているし。こっちは。

現代の唐天竺は仲が悪くて、戦争状態にあるけど。

なにも世界は中国中心で回っているわけでもないし、インドだって仏教徒は数%くらいしかいないんだそうで、殆どはヒンドゥー教徒であるし。

仏教を学びたいからインドへというのは、あきらかにおかしい状態になっているから、実際見てみたいと思ってきたからである。

日本人のように繊細だと、気鬱になってしまうとボキは最近感じている。あまりにも繊細というのは褒められたものではないのじゃ。どうにもこうにも。日本人の書く小説もそうである。つまらない日常をこれでもこれでもかと書いてくる。

そんなんでいいのかねとずっと思ってきた。中国も古典ならかなりおもしろいのだが、最近の中国には興味がない。古典の世界に生きている中国なら楽しそうである。

でもインドを優先させた。

圧倒的な生きる力に憧れたからである。

これから数日間は、インド怪人紀行として書き綴っていきたい。自分の記憶のためである。さらに、気鬱でノイローゼ状態になってしまっている方々へも応援をしてみたい。

気にしない、気にしない。

「ノープロブレム」である。

インド人がよくクチにする台詞のとおりである。

問題ない、問題ないのである。

なんでこういうような思考状態になっていったのかということにボキは非常に興味がある。

さらに、あの圧倒的なパワーは、変貌しつつある。眠った大巨人である。

インドが目を覚ましたら、世界は大変革を起こすだろう。

11:22帰ってきました。

インドから。

昨日の夜に、インドでJALに乗って。

今朝着きました。

さ、これから再度寝ますが(^0^)。

疲れたので、第一幕はこれくらいで終わり。

Bye-bye!

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/