演歌を聴くことは下品な趣味か。クラシックこそが、音楽の王道か。学校の音楽の授業で演歌をやらないのは、なぜか。
そんなことを考えていた。昨日のことである。
ボキは、演歌大好きである。カラオケも演歌専門。なぜか。好きだからだ(^0^)。
なぜ好きなのか。
それは悲哀があるからだ。悲しみがある。たとえば美空ひばり。「悲しい酒」なんか実にすばらしい。歌詞が良い。「川の流れのように」も良い。八代亜紀の「雨の慕情」も良い。テレサテンも良い。「空港」が好きだ。
しかし、現代の音楽はよくわからない。若い人たちが聞いている音楽は、テンポが激しいだけで叙情がない。というと、若い人たちに叱られてしまうが(^0^)。
若い人たちに事件が多いのは、叙情を喪ったからではないのか。機械的な、まるでコンピュータが作ったような歌が多いと感じるからだ。リズムが激しい。ダンスに使ってみれば、わかる。演歌は、ダンスには使えないだろうし、そういうもんだろう。集団で踊るのならば、演歌はちょっと無理だろう。
昨夜、実川楓という新進気鋭のプロピアニストのショパンをYoutubeで聴いていた。同じショパンの長時間の曲も聴いていた。そして、コンピュータでやった曲と、実際に生きている人間が弾いた曲では違っていると感じたのである。よくわかっていないのだけれども、実川楓氏の方は九十九里浜の文化会館でちょっとだけ聴いたことがあったからである。氏は、ボキの居住地の出身であるからそういうチャンスに恵まれたのだ。
叙情を喪ったということでは、和歌の世界もそうだ。そもそもが、我々の先祖は(古代人)は、もっと乾いた感性の持ち主たちではなかったのかと思っているからである。
それが万葉はともかくとして、古今、新古今で流れが変わった。別にこの和歌集たちを高く評価しているわけではない。古今、新古今はともかく上から目線である。貴族たちが集まって、和歌を集めて、評価し、会合を持って、編集をしていたのだ。それが流れを変えた。
西行が評価されるのは、そういう流れと違っていたからである。尊い血筋ではなかったからだ。貴族のくだらない恋愛なんぞ、いくら技巧を凝らしてもおもしろくもなんともない。
しかし、そんなこと、どうでも良いような話である。
一介の庶民であるボキのようなルンペンプロレタリアが言うような話ではない。
わははっははははっははははっははっははははっはははっはははっははは。
なにしろ、そういうことである。そういうこと。
無学なんだから黙っていれば良いだけの話だ。
(^o^)/~~~