午後から孫娘が遊びに来ていた。明日と明後日はバイトで会えないから、呼んだ。三日会わないと禁断症状が出てくるのだ(^0^)。
道の駅で、滑り台をやって楽しんだ。嫁さんと古女房殿と孫娘とである。こんなささやかなことしか楽しみがない。
バイトをしていないと、実に毎日がおもしろくない。おもしろくないから、孫娘と一緒に遊ぶことになる。
?
孫娘が迷惑だろうって?
わははっははははっはははっはははっははははっはははっははは。
しかし、考えてみれば、孫娘が成人するまで生きてられるだろうかという不安はある。成人するまで、あと20年だ。厳しい選択である。それでもボキはしつこく生きていたい。
中世の宗教家で親鸞というヒトは、90歳まで生きた。強靱な体力と、精神をもっていた。比叡山で20年の長きにわたり修行した。これが他の鎌倉仏教の創始者と違っている。道元は、叡山を降りるのが10年。日蓮も12年程度。この時代の平均寿命は40代だそうだから、親鸞が長かったというのは特異な現象であったのだろう。
ボキはこれに注目しているのだ。
一遍も空也も強靱な身体をしている。鍛え上げた体である。細マッチョな体をしている。ここら辺に長生きのコツがありそうだと思っている。西行もそうだ。武士だったから、余計に体力はあったのだろう。しかし、西行の場合は断食をしながら、わざと春爛漫と桜満開の時に、死んだのではないかと密かに思っているけど。かの有名なる「願わくば花の下にて春死なん・・・」の歌は、自死の可能性すらあるからだ。
常に死を見つめていきたい。
その結果、長生きできたらありがたい。
いつ死ぬのかそんなことは誰にもわからないからである。
死を考えていない生は表面的で軽薄である。そう思うからである。事実、ボキの後半生はこのことの思索なしには考えられない。
太平洋戦争で亡くなっていった学徒出陣の大学生たちの和歌を味わうことがある。彼らは突然国家の都合によって、若い命を奪われていった。そして、特攻機に乗って散っていった。ちょっと以下に引用してみよう。
>陸軍特攻隊員の遺書:靖国神社編(1995)『散華の心と鎮魂の誠』展転社 引用
「指折りつ待ちに待ちたる機ぞ来る 千尋の海に散るぞ楽しき」伊舎堂用久大尉(陸軍特別攻撃隊「誠第17飛行隊」1945/3/26戦死)。
「生まれ出る子 お父様は特攻隊長として敵艦に飛行機と共に衝突命中米英ともに打ち滅ぼします。年少にして父と別れたがお母様は本当により母でありお父様と同じ心なのだからよくお母様の教えを守りよい子になるんですよ。病気をせずにお父様の幸福の裡にお前たちと別れます さようなら」片岡喜作中尉(陸軍特別攻撃隊「第81振武隊」1945/4/22戦死)。
「我行カム 唯ダ一途ニ誠心ニ 散リテ花咲ク 学鷲ノ魂」坂内隆夫大尉(陸軍特別攻撃隊「第54振武隊」1945/5/25戦死)。
以上である。
知覧に行ったときも、ボキは号泣した。
亡父も、シベリア抑留で苦しんできた。
その時のことを何度も聞いて育った。亡父の死生観は、こういう基盤を持っていたのだ。修士論文を書いていたときに、そのあたりをレポートして指導教授にもっと深めよと言われた。しかし、懶惰なボキはそれ以上の追究を止めた。
今は違っている。
亡父の亡くなった年齢を大幅に超えてしまった。
きっちりとした死生観があって、生きているのか?って、亡父は今でもボキを叱ってくれているような気がしてならない。
ふうううううううううううううううううむ。
今日はいろんなことを打鍵してしまったなぁ。
BYE-BYE!