本音と建て前というのがあって、世の中はまさにこれだ。
なかなか本音を言ってくれない方々が多い。あたりまえである。本音ばかり言っていたら、破綻する。人間関係がである。だから、あたりさわりの無いことを言うしか無い。ボキのように、破綻ばかりしていると当然気をつける。自暴自棄になることはないが、あまりにも中退が多いからである(^0^)。
そして、ふと思ったことがある。それは、異性を見ても本音と建て前があるのではないかと。つきあいたいとか、顔も見たくないとか、そういう観点ばかりで異性を見ているのではないのかってぇいうことである。普通に話をして、お茶でも飲んで、ハイさようならと家路につくことができないのは、まだ若いということではないのか。
ボキのことではない。他の男性陣である。アホかいなと思う輩がやたらと多いからだ。なぜ親しくなると男女はつきあいたくなるのか。つきあいたいというのには、むろん愛欲がからんでくるからだ。
アホだなぁと思う。
ボキにはまったく経験がないからである。経験したいとも思わない。もっとも相手がいねぇか。
わはははっははははっはははっははっはははっはははっははははっはは。
愛欲というのは文学の中核でもある。源氏物語しかり。小説にも多いテーマである。村上春樹なんか、そんなのオンパレードである。うっぷとなって、げんなりしてしまう。
そして愛欲には歴史がある。精神史と言っても良いだろう。アホの歴史である。そんなもんをマジメに研究しておられる学者センセもたくさんいる。そのおこぼれをいただいているのが、ボキである。そうか、そんな視点で読めばよいのかと思ってきたこともある。しかしである。思い出にならない。
本質をついていないからだ。表面的な出来事だけを追究しているからである。しかも、ある作品の構成なんかを大まじめにやられたのでは、もうどうでもよくなる。源氏物語なんかそうであった。学部生時代にゼミで大まじめに勉強していたからだ。苦学していたから、非常に違和感があった。食っていかなくちゃならんのに、こんな貴族の愛欲の歴史や、物語の構成論なんか勉強してなんになるのかと思っていたからである。なにしろ、朝刊を、夕刊を、集金をやらなくちゃメシが食えなかったからだ。
そういう意味では、ボキは本格的なプロレタリアであった。惨めで辛かった。学生運動をやっていた同世代のゲバ学生連中が、大学や社会を破壊していきたいというのがどうしても理解できなかった。親のカネで遊学していたからだ。ボキは、親からカネを貰って通学していたわけではなかったからだ。いい気なもんだと感じていたからだ。
だから不倫をしているようなアホには近寄りたくもない。道に外れているからだ。チャタレイ夫人の恋人という文学作品にも、違和感を感じて吐き気をもよおしたこともあったからだなぁ。
愛欲にこだわると無明の闇を生きていくしかない。計算ができないから、無明の闇だと思うのである。損をするのがわかっていて、そういう道に入っていくんだとしたら、それこそ無明である。
アホにつけるクスリはないってぇことか。
もっとも、ボキだってヒトのことはいえない。
ボキもアホであるからだ。
アホは、静かに余生を送るに限りまんなぁ。
ほんとうにそう思う。
けふは天気が良い。朝からである。
夜、町内の集まりがある。次年度への引き継ぎがある。それまで時間がたっぷりある。古本チェーンにでも行ってくるか。歩いて。往復かなりの距離があるけど。
BYE-BYE!