と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

俗世間から捨てられたから大学院で「遊学」したのである

2015年06月15日 08時56分03秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

なんでもかんでも遊び半分でやっているからこうなる。楽しいから学んでいただけなのであるが。

 

 

唯我独尊になる学びということをよく考えることがある。

特に、老後にそういうようになる方々が多い。自分の考え方というか、意見というようなものは変わらなくなるということである。今更なにを変えようというのだということになる。ある種の居直りである。もう、オレは、アタシは完成しているというのである。立派な学者であり、研究者であるということを当たり前のように言い立てる。

私なんか、中途半端な学びしかやってこなかったから唯我独尊になってしまったのだとしばしば言われる。でも、徹底して学んだからドンドン唯我独尊になっちまった方々もいる。むしろこっちの方が多いのではないのか。

しかし、唯我独尊というのはなにも悪いことだけで使われているのではない。

釈迦が言ったことばである。

いつも使っている検索サイトのgooによると、

「この世で、自分ほど偉いものはいないとうぬぼれること。釈迦が生まれたときに七歩歩き、一方で天を指し、他方で地を指して唱えたという言葉と伝えられる。この世の中で自分より尊いものはいないという意味。▽「天上天下唯我独尊」の略。「唯我」はただ自分のみということ。「独尊」は自分だけが一人尊いということ。」

と書かれている。

まさに、「自負」と「独善」の両方を意味している。「自負」というのは自分に信を置くのであるから、別に間違ってはいない。さらに自分を否定的に見て、批判的にみることも間違ってはいない。自分を批判的に見ているかぎり、自分に信を置こうというのは、賢明なる人間に共通する態度である。

逆が、自分に信を置きすぎて、過信になり、狂信になる場合である。他人を全否定して、自分を見失ってしまう。これが独善である。

他人の意見は聞かない、自分の意見は間違っていない、変える必要もないというのは、独善であって頑固である。水気がなくなって、枯れてしまうことである。生きていないということである。

だから、学ぶということは、我が人生に水分を与え、新しい養分を自分に吸収させることである。学んで独善に陥るということは、この養分を自ら捨てることである。自分のずっと以前から持っていた意見や思想というものに添ったものしか学ばなくなってしまうということである。

そんなことをしていると枯れてしまう。植物だってそうだ。枯渇してしまう。だったら下手に学ばない方がいいんじゃん?っていうことになる。

しかし、そうではない。

学んで賢明になることが難しいのであって、学びそのものは、自己満足でいいのではないのか。

なにも他人に評価されるために学んでいるのではない。オノレのためにやっているだけである。それが誰かのお役に立てれば幸甚であるというだけである。しかし、そんなことはめったにない。だから自己満足であるというのである。

さらに言えば、それでもって身を立てようとする方々はむしろかわいそうである。これでもって食っていこうというのだから、厳しいもんだろうなぁと推測する。

頑張るという言葉はそういう意味も持っているのだろう。

若い時に大学院に入って勉強している方々というのが、これである。

学問をやってそれでもって身を立て、研究者として食っていこうというのだから。これは大変な悪路であろう。風雨も激しい世界であろう。台風も来る。地震もある。根底から覆されることもあろう。そして、大学教員とか研究者を目指して必死で努力される。それ自体はおおいに結構なことである。ただし、精神を狂わせない方がよろしい。山月記の李徴のように。それだけを心配している。孤独な研究生活には、焦りもあるだろうし、功績も実績もあげなくてはならないだろう。かわいそうにと思ってしまう。

なぜなら、私には関係の無い世界であるからである。

昨日、Twitterにもつぶやいてみたが、爺になって大学院に入って勉強したというのは、これから再就職していきたいというのとは大いに違っているのである。

むしろ、そういう俗世間を捨てたから大学院で「遊学」したのである。先生方にもクラスメイトにも、相手にされていないというのは、はじめからよくわかっていたし、そもそもこんな爺になってもモラトリアムにさ迷いこんでいる精神不安定な爺ではないのか?と在籍した大学院の先生方も思っていたのかもしれない。

そうではない。

そもそもこの年になって、第二の人生だとか、再就職だとか、モラトリアムだとかまったくない。

ナイナイのバァ~である。(アタマはもともとバァ~でなくて、パーであるけどね・・・トホホ)

楽しかったから遊学したのである。趣味で大学院に3年間通ったのである。クラスメイトには、趣味で勉強していると言ったらかなり嫌がられてしまったが。

あたりめぇ~である。趣味で学んでいる爺と一緒にされたくないであろうから。

じゃぁ、なんのために3年間も遊学したのか。

それは、これまでやってきたオノレの学びをまとめてみたかったからである。中途半端ではあったが、A4 で500枚の論文めいたものができた。それをもって、一昨日の土曜日に文化講座で話をさせていただいたのである。

捨てる神あれば、拾ってくださる神もいる。ありがたいものである。

できれば、私家版で印刷してみたかったが、それもできなくなってしまった。それはそれで仕方がない。それより、これから何年生きていられるかの方が大事になってしまった。長生きできないかもしれないという不安の方が大きくなってしまったからである。

バチが当たってしまったのである。

なんでもかんでも遊び半分でやっているからこうなる。楽しいから学んでいただけなのであるが。

生きているうちである。

生きているから、学びも遊びもできるのである。

だから来月、カナダに行ってくる。あまり評判の良くないエア・カナダで。

飛行機が落っこちないように祈っているだけである。

 

わははっははっはははっははっははははの「ハ」。

 

けふは朝から暑いなぁ。

オレのアタマも。

 

(^_^)ノ””””

 

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