「吉備真備(きびのまきび)」695~775年【岡山観光検定公式参考書P130】
吉備真備公園内の吉備真備像
小田川を挟んでの対岸の「備中猿掛城跡」にも行ってみたいが時間がないのでやめ。
矢掛方面に進むと「下道氏(しもつみし)公園」(国指定重要文化財)
「右大臣真吉備公之墓」吉備真備公の祖母を火葬にした銅製骨蔵器が発見された。
車を置いて山道を数分登ると石階段が現れる。登りきると少し開けた場所に出た。
「吉備真備(きびのまきび)」695~775年【岡山観光検定公式参考書P130】
吉備真備公園内の吉備真備像
小田川を挟んでの対岸の「備中猿掛城跡」にも行ってみたいが時間がないのでやめ。
矢掛方面に進むと「下道氏(しもつみし)公園」(国指定重要文化財)
「右大臣真吉備公之墓」吉備真備公の祖母を火葬にした銅製骨蔵器が発見された。
車を置いて山道を数分登ると石階段が現れる。登りきると少し開けた場所に出た。
「由加神社」を後に、昔は賑わったであろう表参道を下りる。
階段手前で「東往来」(由加~玉野日比)と別れバス停の下の駐車場横からさらに下る。
人気もなく完全にさびれてしまっている。
この道は「南往来」、金毘羅船で丸亀へと向かう田の口の港へと続いているが交通の要所が宇野港へと
変化した今となっては地元のものしか通る物はいないであろう。
やや右に進路が変わるころ左手とすこし上ったところにも「道標」がある。
その先には「4丁」「5丁」の道標と続けてある。そして大鳥居文化10年(1811年)
ここで「西往来」上の町~小川そして本道へ合流し下津井に至る。
今までの道標は数が減ってきたが、由加山~田の口へと戻る格好になるので道標は数が増えることになります。
県道塩生~玉野線を横切り山中へと道は続く。
薄暗く上りがきつい。
すぐ「7丁」の道標があったのだが少々不安になりながらも進んでいくと右手に「9丁」の道標。
集落が見えて安心する間もなく「11丁」の道標、道は下っていくと十字路に差し掛かり
バス停があった。こんな所にもバスが通るのだと感心した。
次の集落が現われ、右にカーブしたとこへ「13丁」の道標。
畑の中を通る道は狭くなりながら「14丁」の道標と続き山中へと続く。
このあたりは、昔のままの姿を残している。下ると「17丁」の道標。
さらに下ると民家の脇を通り抜け集落に出ると道が開けたところに埋もれた「18丁」の道標を見つけた。
ここから道なりに下りてみたのだが、どうも本道から外れていることに気づき引き返した。
地図を取り出して睨めっこ。てっきり民家の私道だと思っていた道こそ本道であったのだ!
ちょっと後ろめたい気持ちがしたが突入したのだが、道幅はどんどん狭くなる。
わずか数メートル下ると道はかなり狭くなりながら山中へ続いている。
本当にこの道なのかと不安になりながら進むと「21丁」の道標が見えて安心した。
峠道なのだが、舗装されているだけ進みやすい。木立を抜けると眼下に海が見えた。
「23丁」の道標を過ぎたあたりから民家が現れ、工場の横に「25丁」の道標と「常夜灯」を過ぎると民家も多くなった。
どうやら田の口の町に入ったようだ。
細い迷路なような路地を右へ左へ進むと「ゆ加道」道標、その先に「右由加山」の分かれ道の道標を見つけた。
港方面へ南下すると「31丁」の道標。
2つ目の路地を左折してすぐ右折、元の道へ戻ると「33丁」と「へんろ」道標。
なんで道はまっすぐではないのだろう?かすかに潮風を感じてきた。もうすぐゴールだ!
ここからは道なりもうすぐゴールだ!
「34丁」「36丁」の道標を見ながら田の口港の「鳥居」についにたどり着くことができた。
この「鳥居」は昔、海辺の岩盤の立っていたものらしい。今はその前にR430が通り田の口港、
その先の防波堤の左右に「常夜灯」が見える。
大坂からの船着き場でもあり「讃岐金毘羅さん」への船着き場でもあり、29丁辺りから港までの数百メートルの町並み
からも相当に賑わった港だったことがうかがえる。
今は対岸へ渡る連絡船もなく、その航路は宇野~高松のフェリーに取って代わり今は瀬戸大橋で10分ほどで
坂出へ渡れる便利な時代である。
岡山から田の口、約33キロの旅はここに完結する。
先週だったか、岡山県天然記念物「大山桜」が見頃というニュースがあった。
名前が大山だけに県北だろうと思い込んでたら灘崎町だと!それ行ってみんべぇ~。
駐車場からは400mらしく道しるべに沿って気楽に登っていくが途中からは登山。
写真では伝わらないだろうが、階段並の急斜面で足元を確認しながらでないと歩きにくいのだ!
ハァハァ~すでに息切れで今すぐ休憩したいのだが、
ご婦人方から若い人は元気がええのぉ~って声かけられて休むに休めません
てか、息があがって返す言葉が出ませんがなぁ
ようやく到着、時間にして20分くらいでしょうか。
あちゃ~、すでに葉桜でした。でも急斜面に踏ん張っている巨木は圧巻です。
眼下には市郊外の景色も見えたりします。
来年はリベンジといきたいですが、その前にトレーニングが必要かもしれません
今回は目的地「由加神社」までのお話ですが、これが一筋縄にいかずで・・・。まぁ読んでください。
JR瀬戸大橋線「木見駅」の裏手に「常夜灯」と「38丁」の道標があります。
隣の公会堂脇に「常夜灯」「地蔵」「宝塔」と並んでいます。
道幅は狭くなりながら南の山へと向かうと、
見通しの悪いカーブのところに遍路の「道標」が。
抜けると池の端に慶応2年(1866年)「瑜伽大権現の鳥居」が現れる。
「鳥居」を抜ければ、見通しのよい直線が続いています。
道の左脇に「36丁」の道標、明和4年(1767年)。
さらに進んでいくと左手に「35丁」「34丁」「33丁」「32丁」「31丁」と順に道標が点在する。
道はやや左にカーブしながら進むと「石塔」が三つ、横に「地蔵」が見える。
「五輪塔群」が現れたかと思うと、郷内小学校尾原分校のところで道は二手に分かれる。
静かすぎて一瞬異次元の世界に迷い込んだ気がした。
自動販売機横に道標。「右 田之口、由加旧道」と記されている。
正面には「天津神社」へ続く階段がある。
その階段脇の道を進むと工場が立ち並ぶ。ガードレールに左由加山の標識があり従って進むが、
参考書「金毘羅往来と由加往来」を読んでも道があっているのかよくわからない。
とにかく「金毘羅往来と由加往来」25項に掲載されている写真の場所が分かればと思い探すがわからず、
いつのまにかかなり東の方の集落まで来て「常夜灯」発見するがこれといった手掛かりがつかめずこの日は断念した。
後日また参考書を熟読し再調査するがまたドつぼにはまる。
近くの老人に話を聞いてみるとこの道が往来であるらしいが、ルートからかなり外れてしまう。
この道も間違いではなさそうだが「金毘羅往来と由加往来」25項に掲載されている
"途中で草の中に消える旧道"写真の場所が気になるのだが・・・。参った、暗礁乗り上げた・・・。
郷内小学校尾原分校まで戻り参考本と睨めっこ。この道がこうでこう行ったら。。。???
あった!15年前の写真とほとんどかわってない!
県道林~由加線に上がりその先の山中へ続く道を探すも草木が行く手を阻む。
これは絶対無理!と判断し、その先の道がどこに出てどこが再入り口なのかに変更し検索をすることにした。
由加に続く県道から脇道を探すがこれというものもなくこの日も断念。
由加を目の前に2回目の挫折。こんな困難が待ち受けていようとは思いもしなかった。
その夜、参考本に添付されている地図と現在の地図から等高線と距離を導き、付近の地図を作り再度チャレンジに向かった。
「由加往来」(北往来)は県道林~由加線によって分断されていた。
山の急斜面を下り往来をさがすも手掛かりはなく、地図からここの辺へ出てくるということで納得。
この辺りの道は、岡山藩主池田継政が由加山へ参拝するときに由加山で一泊するため、
由加におこもりすることで「おこもり道」呼んでいたようだ。
※「備南地域発展誌Ⅱ備中の道を行く」早島町中央公民館所蔵引用
県道を渡ってから山へと続く道らしきものは発見できたがうっそうとしたジャングル化しており、
おそらくこの先数十メートルのところに「距岡山元標六里」があると思われるがアプローチを断念した。(コンクリートで舗装された道ではない)
500mほど南下したところから再度アプローチを行う。
すぐの分かれ道を入ると「8丁」の道標を発見!
その先へと向かうが、ロープが張られ立ち入り禁止区間となってしまった。
行けば「9丁」の道標と「鳥居」があるのだろうが確かに倒木もあり落ち葉で道もよくわからなく、やばそうなので諦める。
もと来た道を戻り細い山道を登る。
ここから由加までは800mほどだがかなりの上りで息絶え絶え。
このあたりに集落があるようだがよくわからない。少し行くと「松井の井戸」
看板の説明には“池田候が由加参拝の切、根引きにさしかかり松の井戸水を所望されお飲みになったところ
由加の霊山よりの湧水は、正に天下随一と愛飲されました。
以来、岡山より家来のものが松の井に水を汲みにきたと伝えられている”今も飲めるのかは不明。
そばに「6丁」の道標があった。
さらに登り進めるとると「5丁」の道標。先に進んで行くと2mほどの大きな岩石になにやら彫られているが読めない。
その先に「4丁」の道標があり、
やっとアスファルトで舗装された道に出る。
少しだけ道なりに歩きたら境内に続くと思われるゆるやかな階段を下りると左手に「3丁」の道標。
やっとカウントダウンだ。池のほとりを通り駐車場の脇を抜けると「2丁」の道標、
過ぎたころから石灯籠が整然と立ち並ぶ
「由加山蓮台寺」に入ると「1丁」の道標。
やった~!ついに「由加山蓮台寺」たどり着いたどぉ~!?
とりあえず大仏前で手を合わせ「由加神社」に到着!?
「由加山蓮台寺」と「由加神社」どっちがどぉ?金毘羅両参り、「讃岐金毘羅」とどこに参れば両参りとなるのか?
「由加神社」には当神社のことだと記されておりましたが道標の距離的ものを考えれば
「由加山蓮台寺」?駐車場の看板を見る限り仲は悪そうで・・・
創建は「由加神社」天平5年(733年)、「由加山蓮台寺」天平10年(738年)で「由加神社」の方が古い。
しかし「由加神社」は明治の神仏分離に伴い「由加山蓮台寺」から分社されたらしい・・・
宗派でみれば「由加山蓮台寺」は真言宗。「讃岐金毘羅」は神仏分離以前は真言宗であったから繋がりはある。
では「由加神社」はどうなるの?「由加神社」は江戸中期に備前藩主池田候の祈願所となり、
正月・五月・九月には藩主自らご参拝していた。その時ご参拝していたのが「由加神社」本宮のご本殿ということらしい。
金毘羅往来(第6話)でもふれたように、往来は江戸中期頃より広まり始め、流行は江戸後期の文化・分政期と言われていること。
参拝客の多くは大坂・播州から船で田の口に降り「由加山」へ参っていたこと。この道は次の回にお話しする。
話は少しそれたが、江戸中期・後期、当時で考えればどっちがどうということより、
「由加山」参拝することでご利益を授かることでよかったのではないかな?
明治の分社以降、争うことになったと自身解釈することにした。そういうことにしておこう。
起点~由加山 総距離29km
倉敷川にかかる「綱盛橋」を渡ると「藤戸」である。
正面の石垣は児島霊場第46番札所「藤戸寺」歴史は慶雲2年(705年)と古い。
「藤戸寺」【岡山観光検定公式参考書P71】
右手には、♪源氏平家の昔より今も変わらぬ風味伝える~「藤戸饅頭」♪がある。
”ALWAYS・三丁目の夕日”のロケ地にもなりました。
源氏平家の昔からある”藤戸まんじゅう”の起こりが記されてました。
源平合戦の古戦場として知られる史跡・藤戸の渡し。源平盛衰記によると、
源平両軍が大戦した寿永三年(1184年)、この辺りは一面海であった。
源氏の将・佐々木盛綱は、村人の案内で藤戸の浅瀬を馬で渡り、平家の虚を衝いて大勝。
しかし作戦の秘匿上、この村人を斬り捨てた。
村人との霊を永さめる供養が「藤戸寺」で行われ、近くの民家からまんじゅうが供えられた。
これが藤戸饅頭の起源だと伝えられている。
「金毘羅往来」宿場町・要所として繁栄していた昔も食べられていたのでしょう。
見落としがちではありますが「藤戸饅頭」店舗前に「道路元標」半分埋もれて残っています。
藤戸・天城は「源平合戦」古戦場であり数多くのゆかりの地が残っている。
ここで紹介したいが主題が「金毘羅往来」であるのでまたの機会に・・・。
話を戻し、「藤戸寺」の北の石垣沿いの県道倉敷~玉野線を50m、藤戸寺の入り口方面に右折。
「藤戸寺」門を過ぎ一つ目の路地を左折すると、さらに道幅が狭くなる。
ゆるやかな坂道から徐々に勾配がきつくなり民家もなくなった。
道はさらに細くなり山中へ消えていく。
心細くもなるが藤戸・天城の町を眼下に、遠くは早島の流通センターを眺めながら鯛焼きで休憩した。
ここからは1mほどの道幅の山坂道で下るだけなので気分は楽だ.。
竹林を抜けるとすぐに民家も見えてきた。
池の土手を歩いていると左下に、へんろみちと彫られた道標を見つけた。
池の横を過ぎたところにはお堂があった。池が二つあるから「二つ池地蔵」なのかな?
藤戸南台団地に入るが、「金毘羅往来」らし道はない。
参考資料とさせていただいている『岡山県歴史の道調査報告書第六集』「金毘羅往来と由加往来」でも
団地の造成により不明とされている。
道なりに団地を通り県道倉敷~玉野線にに合流。
再び現れる「下津井電鉄」線路跡の歩道とクロスし少し行くと植松方面の分岐点の道標が田んぼの角に立っている。
進路を右にとり少し行くと「下津井電鉄」線路跡の歩道と往来の間の木の下に「距岡山元標七里」と彫られた石標がある。
岡山京橋から約28㎞地点ということか?
串田公園脇の道を進むと十字路、寛延3年(1750年)と書かれた石仏と「65丁」と書かれた石仏がある。
由加山まであと7㎞ちょいである。その先は郷内川を渡るのだが橋がかかっていたのだろうか痕跡はない。
「下津井電鉄」線路跡の橋を渡り川沿いの堤防を進む。
次の橋のところが分岐点。
まっすぐ行けば児島下津井へさらに海路を経て四国こんぴらさんへと続く最古の「金毘羅往来」
今回は江戸中世から明治に反映した「ゆがさん・こんぴらさん両参り」
(四国金刀比羅宮・由加神社)を「由加往来」探索するため路を左に折れる。
「下津井電鉄」線路跡の歩道とクロスし別れを告げた。大渕の六差路の交差点を渡り、
さらに久しぶりに県道児島線と対面し横断して林地区に入る。
左手に鳥居が見える「熊野神社」である。【岡山観光検定公式参考書P72】
県・国指定重要文化財。紀伊の熊野本宮からの分かれ創られたと伝わる。
すぐ近くに軒下にひっそりと「54丁」の道標があり
その先200mくらいのところに「常夜灯」文政7年(1824年)がある。
底から少し行くと
修験道総本山「五流尊瀧院」」【岡山観光検定公式参考書P72】
その先には「宝塔」 またその先に「頼仁親王墓」(後鳥羽天皇の皇子)とわずかな距離の中に史跡などいっぱいある・・・・
ほどなくJR瀬戸大橋線「木見駅」に到着した。
三軒地の三叉路から少し行くと左手にJR「久々原駅」があり、その先には「茶屋町」
茶屋の町で茶屋町になったとかならないとか。説の一つは「天城池田侯」のお茶屋
があったからと、干拓工事の際工事人をあてこんで茶屋を開いたとの説があるようでどちらにせよ茶屋があったということでしょう。
ちなみに「茶屋町」ができて300年ということです。
三叉路から2km、大角橋の2本手前(茶屋町駅北へ抜ける)を左折して路地に入ります。
一つ目の角を右折
すると落ち着いた街並へと変わります。
間もなく土手から見えていた倉敷~茶屋町線と交差するところへ「道標」があり
「右 いなり 左 下津井」右側には「すぐ こんひら」とある。
真っ直ぐ延びる古い街並みを500mほど進むとお宮にたどり着く。
「金毘羅宮」宝暦8年(1758年)讃岐金比羅宮から勧請、鎮座したとのことである。
「金毘羅宮」横を沿って下ると汐入川と六間川が合流したところに古い桜橋がある。
現在、すぐ北側で新橋の架け替え工事がおこなわれているので近くこの風景も一変するだろう。
橋を渡ると再び、備前の国「天城」に入る。道なりに南下すると正面に低い山が見えてくる。
峠に入ったところに大木があり、その下に祠が祀られている。長浜という地名らしい。
ふと今来た道を振り返るとここが島であったことがよくわかる。
狭い道を進み下りに入るとむと左側から遊歩道があらわれる。
これは「下津井電鉄」の廃線跡である。右手には「廣田神社」の鳥居がある。
下っていくとゆるやかに右方向に、古い街並みの中を道は西へと続いていく。
「天城」は岡山藩主池田光政とともに、出雲から備前に移った家老池田由成が、
下津井城主になったのだが、一国一城令により寛永16年(1639年)に下津井城の
廃城ともない「天城」に「陣屋」を構えた。
また池田由成は大石内蔵助良雄の母方の祖父であったことは執筆中に知った。
「天城」はその後しばらく、地理上の特性から物資の集積地として港町、「金毘羅往来」の宿場町として繁栄たようだ。
天城小学校の対面に「遍照院」背後の山の上の倉敷天城高校北の山の上のグランド前に「陣屋の跡」の石碑があり、
少し西へある「静光寺」には「天城陣屋門」が移築され、「正福寺」には、下津井城の城門が移築されています。
そういえば「金毘羅往来」のことを「天城往来」と呼んでいたご老人がいました。
岡山藩主・・・、池田侯が岡山・天城間を往来したことからこう呼ばれるようになったらしい。
「天城往来」は庭瀬~妹尾間の福田地区に一部に残っている。
間もなく道は突き当りとなる。右手に入った角っこに「道標」ある。
左に折れると間もなく「盛綱橋」 源平合戦で功績をあげた「佐々木盛綱」の像が
あります。
川沿いには「金毘羅灯篭」文政十丁亥(1827年)が残る。
その奥には源平合戦の戦没者を祀ったといわれる「経ヶ島」があります。
次回は「盛綱橋」の対岸の藤戸から由加へ。
腹ごしらえもすみ、「早島町中央公民館」に移設されている「道標」の確認にへ向かう。
敷地内にひっそりと建っていた「道標」は想像よりでかかった。
これはさっき通ってきた松尾坂の「金毘羅灯篭」の近くの県道妹尾倉敷線、早島駅前交差点に
あったものということで、正面に「吉備津 にわせゑき 三谷 高松いなり なつかわ 矢尾」
東面に「右 金刀ひら 田之口 茶屋町 由加山 下むら 阿まき」
西面に「西市 おか山 みし満 大坂 宗忠神 せのを」と彫られている。
ということは、現在の向きとは180度反転して建っていたことになり交差点の北側にあったことになる。
庭瀬からのルートも気になるが先の「戸川家記念館」のガイドさんからもルートの詳細を
聞くことはできなかった。後に解明してみたいと思う。
話を「戸川家記念館」を戻して、「いかしの舎」の三叉路を西へ、少し進むと「小浜の樋」という信号のない交差点を左折し南下する。
200m先の交差点左に「道標」(明治30年4月)その奥「荒神社」の境内が見えてくる。
何年か前までは境内のすぐ横まで港が広がっていて確か10m位あったと思う。道は狭く、対面通行するのに苦労したよなぁ。
「荒神社」の前に立つと、左手に「金毘羅燈篭」 右手に「道標」がある。
「道標」があり「左 金毘羅 由加 田の口 茶屋町」(明治38年日露交戦記念建立)
以前は「荒神社」の川向こうのポンプ場のあたりに建っていたらしい。
この地の「金毘羅灯篭」(文化年)は、先の松尾坂の「金毘羅灯篭」と近い時期のものである。
「荒神社」付近は、舟本と呼ばれ港であったと容易に想像できる地名だ。い草を加工した畳表などが積み出され、
汐入川を何艘もの帆掛け舟が出入りしていて相当の賑わいがあったとのこと。
早島=い草と全国的な知名度を誇ったのも干拓後、塩分の多い土地で栽培が可能だった“綿”その後“い草”と移行するわけで、
かつての旅人も賑わいのある町とともにこの光景を見ながら歩いたであろう。
「荒神社」から汐入川沿いの土手を進むと左右に田園風景。道のずっと先には児島の山々が見える。
目を瞑れば干拓間もない土地の向こうに広がる広大な児島湾が見えてくるようだ。
数百メートル進むと三軒地の三叉路が現れる。
ここにも「道標」があり「右 由伽山 志毛つい 志もむら 道」「左 吉備津宮 にわせ おか山 道」とある。
しばらく南下すれば茶屋町に入る。
毎週日曜日恒例の「金毘羅往来」第6話。って、今日から勝手に決めたのであります
しばらく間が開きましたが話の続きを。「呑海寺」の集落を抜け数十m進むと早島町。
■資料によれば天正12年(1584)~天正13年(1585)に宇喜多秀家が天正10年(1582)に備中高松城水攻めで堤の
普請を指揮した岡豊前守・千原九衛門に大規模な潮止めを築かせた]とある。
通称「宇喜多土手」「宇喜多堤」 現在、早島を走る県道妹尾倉敷線はこの堤の跡だと言われている。
ちなみに堤は倉敷の向山へと続いているらしいが定かではない。少し進むと右手に「龍神社」の鳥居が見えます。
ほどなく「松尾坂」の交差点が現れます。
交差点を渡り、県道妹尾倉敷線の1本北の路地に、「金比羅灯篭」文化14年(1817)がある。
この場所は、「鴨方往来」から「松尾坂」を越え「金毘羅往来」へと合流する場所で「吉備津神社」「高松稲荷」を参拝し
庭瀬、撫川、早島を通り「金毘羅」へと向う重要な結節点であるようだ。
この「金毘羅灯篭」から北へ続く道がそうなんだと眺めていると、民家の庭に「題目石」発見!
移されたものなのか、前々からあるのかは不明である。
後に「早島町中央公民館」に移設されている「道標」と同じ場所、早島駅前交差点」にあったと判明した。
「鴨方往来」からのルートの探索に行きたいが後日。早島は妹尾と同様、「庭瀬藩」から分家し陣屋を開いた町。
今も古い町並み楽しみながら進み、「早島戸川家陣屋跡」を撮影。
そして陣屋跡にある「戸川家記念館」に寄ってみました。注、日・祝のみ開館。
貴重な文化遺産が多くあり、中でも嘉永3年(1850)に起きた「高梁川嘉永洪水絵図」は興味深い。
貴重な話もたくさん聞くことができ「金毘羅往来」の謎も少し解けました。
謎というと大袈裟かも。早島町のガイドブックの中にも「金比羅往来」の記載がある。
※往来の流行は江戸後期の文化・分政期と言われ、最盛期には大阪から金毘羅詣専用の船が仕立てられるほどでした。
大阪で発行された、当時の観光案内である「金毘羅道中絵図」には早島の名前があり重要な拠点であったことがわかります。
また、旅行者のための道中記・道中絵図などには、早島の宿の名前も紹介されています。
なるほど、道中にあった「題目石」も流行りに合わせて作られていたものだと。
そして、道中記というのが「十返舎一九」の“やじさん・きたさん”の「東海道中膝栗毛」ではないだろうか。
江戸中期「金毘羅宮」は海の神様として全国的な信仰を集めていた。
「十返舎一九」の『道中膝栗毛』は文化元年(1804)から約20年間に渡り書かれたシリーズ作で爆発的なヒット作だったらしい。
ということは、シリーズの一作の「金毘羅道中膝栗毛」を読んだ者達から流行が広がり、江戸後期に爆発的なブームとなったのではないか~!
多分そうだ、きっとそうに違いないと勝手に思い込む。時代背景が少し理解できたので面白くなってきた。
と同時に「鴨方往来」から「松尾坂」ルートの解明と早島の歴史を調べたくなってしまったのだ。続きはまた来週かな?
■資料・・・岡山県歴史の道調査報告書第六集
本文中、「金毘羅」と「金比羅」と書いていますが誤字ではありません。どちらも、こんぴらさんのことですが、
明治元年(1868)「金刀比羅宮」と改称している為、現存している神社仏閣等、記載されているそのままで掲載しています。。
「清戸橋」を渡るとここからは「箕島」である。少し行くと再び県道倉敷妹尾線に合流。清戸交差点で五度、県道児島線を横断する。
箕島のいわれは三つの島があるからということだが・・・。交差点を越え進むとすぐに右手に小道が現れる。
こっちが往来であるであるのだが、100mも行けば県道妹尾倉敷線に戻る。ちょっと不規則な感じがする。
痕跡はまったく分らないが「清戸橋」からのこの区間はかなり変わってしまったのではないだろうか?
県道に合流する付近には、細長い「石柱」が建っているのだが関係あるのだろうか?
赤松の集落を抜けると遠くに「藤戸」の山々が見える。「箕島神社」に近づくと、確かに左手に3つ島らしき山を見ることができる。
低い山の向こうには「備中箕島駅」がある。話は戻るが「妹尾駅」は実は「備前」なのだ。これは後に触れよう。
流通センター入り口へ続く三叉路を過ぎて「砂場」の集落に入る。かつて海岸線であったと伺える地名だ。
「砂場」の集落には「石柱」が数本立っている。一本北の道にも「石柱」を発見。もしかするとこの道が往来なのか?
地形的にもそんな気がした。
「乗越」の集落に入ると、コンビニのところの三叉路で「題目石」と「奉燈」がある。
さらに100mほど進と斜めに入っていく。ほどなく右手に「題目石」他があり街道らしい感じだ。
散歩中のご老人が居られて話が聞けた。この辺りは昔「呑海寺村」と呼ばれ、今現在の地名も「呑海寺」である。
由来は山の中腹にある「呑海寺」貞和3年(1347) 古くからあった集落だそうです。
細い道を400mほど進むと山際に大きな「題目石」「石灯篭」が見える。
この辺りにある「題目石」は文化(1804)~天保(1830)の間に奉られたものである。
金毘羅に参る旅人達も横目に見ながら歩いたんだろうな~。再び県道妹尾倉敷線に合流すると間もなく早島町である。
この辺りが「多聞力鼻」と呼ばれている「宇喜多堤」の東の端で山肌の大岩がそれだと思われます。
笹ヶ瀬川を渡り備中の国へ。
相生橋北西隅にはかつて「道標」があったと米倉在住のご老人から情報を頂き、早速移転先を探しに行きました。
現在は、国道2号線バイパスの高架と県道児島線がクロスする米倉交差点東の公会堂裏に
「右 お、のやま むねただ宮」「左 琴比ら宮 ゆうが宮」と刻まれた道標を確認することができました!
笹ヶ瀬川を渡り、相生橋北西詰に戻り水門から小道を行くとマンション横に石碑があります。
初代の相生橋(木製)が架けられたのは明治24年(1891)でその時の記念碑です。
ということは200年以上の長い期間、「米倉渡し」が活躍したことになります。
備前側の船着場は確認できましたが備中側の船着場の痕跡は分らず。想像するに水門辺りが船着場かな?
記念碑のある細い道は県道児島線を横切って行くと思われ、大福十字路南の「題目石」付近に続いていたのではないだろうか。
大福から南西へと続く道はかつての防潮堤として築かれた土手であったようで、かつては松並木が何百本も植えられていたそうだ。
『わたくしたちの福田村』参考
200mほど進むと右手に石柱があり道の奥には「鴨池八幡宮」が奉られています。
さらに進み、橋のところを左折したらまた右折すると西へ続く道が現れます。ここからはしばらくの間、直線の区間が続きます。
途中、大福郵便局辺りに「題目石」があるということでしたが、探してみても見つかりませんでした。
さらに進むと右手に「吉田医院」という古い家があり、その横に「題目石」を見ることができます。
程無く十字路が現れ左折。 200m南下し今度は右折し直進すると、県道倉敷妹尾線の三叉路が見えます。
ここを左折していくと「備中妹尾」の町へ入っていきます。妹尾は「庭瀬藩」から分家し陣屋を開いた町。
「妹尾駅」前の直線へ差し掛かる場所には「戸川陣屋井戸」が残っています。
奥の山には「妹尾戸川家陣屋跡」がある。陣屋跡だけになにも残っていないが、陣屋にあった「長屋門」は笠岡に移築されているらしい。
さらにさかのぼること平安時代「平家物語」にも登場する「妹尾太郎兼康」の拠点だと言われ「妹尾住田遺跡」も残る歴史ある場所です。
妹尾の街道沿いには今も古い屋敷と仏閣が残っています。右手に「盛隆寺」慶長10年(1605)鎮座、少し進むと「御前神社」(鎮座不明)
寛政10年(1798)年に描かれたという「児島湾漁撈回漕図 」が見たくて寄り道。
当時の妹尾の干潟状態や漁の風景が細かに描かれています。
今でいう「潟スキー」で漁をしている絵からは、うなぎやシャコや鯛に貝類と豊富な漁場であったことがうかがわれ、
ちょうど「有明海」のようだったとご説明いただきました。
そして「吉備津彦命」関わる伝説や「きびだんご」の由来が妹尾であったなど数々のお話をお聞かせいただき大変有意義な時間となりました。
「御前神社」後にして妹尾郵便局の交差点北に大正3年8月の道標があります。ふと考えてみると、「金毘羅往来」沿いには郵便局が多いな~。
これは「相生橋」の北西隅にあったものより新しい感じがします。
「右 すぐにわせ いなり はやしま くらしき」「左 せのお おかやま」と記されており、
「鴨方往来」の撫川の街角にも「金毘羅往来」の道しるべが残っていることからも、この場所が分岐点の1つであるとわかる。
往来はこの場所から県道妹尾倉敷線より分れスーパー前の道へと方向を変えて進む。
100mほど行くと「妹尾川(興除用水)」にかかる「清戸橋」を渡り妹尾の町を後にする。
下中野野崎の信号を右折し、理容美容専門学校北側を通り県道児島線を横断。
すぐの三叉路を左折すると間もなく5車線の道路で往来は分断されてしまう。
現在は“しまむら”の駐車場となってしまっているが、敷地内の東部分数メートルがかつての往来であり、
南へと続く道は少し狭くなりながら続いている。
下中野を抜けて再び県道児島線を横断する。
緩やかに右に折れながら進むとJR宇野線(瀬戸大橋線)「備前西市駅」の一つ手前の踏み切り付近にたどり着く。
この辺りは昔、「京殿」と呼ばれた場所で「鹿田の荘」の南端だったようだ。
道は「備前西市駅」に向けゆるやかにカーブしながら続くと、諸説で記されているが実はこの道(この区間)は違うのであります。
本来の道は直進。
根拠として、明治初期の地図には緩やかなカーブはなく直角に曲がる道が描かれている。
宇野線は金毘羅参拝の全盛期から数十年後の明治43年に開通しているので、現在の線路沿いの区間はその前後できているはず。
道の痕跡は「京殿」の川の掘りからも知ることはできる。
「京殿」の突当たりを右折すると「備前西市駅」の踏切へ出る。進行方向に見通せばこの道が西へ続いていることが確認できる。
少し進むと右手奥に「天満宮」が祭られている。創建は天文元年(1532年)でこの辺りでは一番古いと思われる。
そして大角橋交差点で三度、県道児島線を横断することになる。 200mほど進むと右手に西市野田公会堂横に「題目石」がある。
さらに進み、突き当りを左折してすぐの民家の庭にも「題目石」奥には「石灯篭」を見ることができる。
野田茶屋以来、久方振りの「題目石」で名残が残っていてうれしい。200mほど南下すると進路は西へと向かう。
そこは「米倉」で街道らしい古い民家が数軒残り、用水路を見ることができる。
米倉は、寛永5年(1628年)に開拓された新田で、米が集まる集積地と商いの港町で、
宿屋や料理屋などが繁盛し“米倉銀座”ともいわれていたらしい。米倉港には、「石灯籠」が残っている。
ここが「金毘羅往来」の船着場ではないようだ。
実際の船着場はここから200mほど南、県道児島線「相生橋」の北の土手下に草木に埋もれながら残っています。
「金毘羅」へ向かう人たちを含め、対岸の大福に渡るにはこの「米倉渡し」を利用していたようです。
しばらくは路地裏という感じの真っ直ぐな道を西へと進むと、旧児島線の交差点が見えてくる。
さらに西へ進めば「鴨方往来」左折して南下すれば「金毘羅往来」である。
この辺りはかつて野田茶屋と呼ばれた場所で、今は交差点名として名前を残しているだけだが、
地元の老人いわく「鴨方往来」「金毘羅往来」の分岐点だった土地柄ゆえ、茶屋が何軒かあって繁盛していたと教えてくれた。
現在は、左折しすぐの大きな交差点(大野辻~水道局)が「野田茶屋」の交差点になり、
大元病院の北交差点が「野田茶屋南」である。
200mほど進むと右手に宗忠神社(大元神社)が見える。
大供にあったとされる道しるべがに神社の境内裏に移されているそうだ。ならばと見に行くが誰もいなくて断念した。
宗忠神社の東の交差点へ戻りさらに南下していく。
『岡山の街道』山陽新聞社編集/日本文教出版31頁上写真を参考にすると、旧児島線より数メートル西に道は位置していたようだ。
現在は道路も拡張されて痕跡がないが、コンビニの駐車場辺りに「石標」(距岡山元標)があったと思われる。
そもそも「金毘羅往来(街道)」ってなに?って言われそう。
香川県の仲多度郡琴平町にある「金刀比羅宮」いわゆる「こんぴらさん」に参詣するための道であり、江戸時代に全盛期だったようだ。
よく見れば「金毘羅」と「金刀比羅」漢字が違うって?明治元年(1868)「金刀比羅宮」と改称しているからなのだ。
「金毘羅往来(街道)」起点は岡山城下の「千阿弥橋」にある「一里塚」資料によると、現在の住所で、表町3-5-1番地辺りとなる。
わかりやすく言えば西大寺商店街の時計台の北100メートル林薬局の前辺りで、古地図からも城下町岡山の中心街だったことがわかる。
時計台から新西大寺町のアーケードを西へ、3丁目劇場前の交差点を渡り左折し南進すると大雲寺交差点。
今では想像もできないが、江戸時代には岡山城の外堀があり、交差点ならぬ橋を渡り堀の淵を通って「大雲寺」に向かったようだ。
今も残る「柳川筋」というのはこの頃の名残りです。
「大雲寺」は堀の外に位置し堀の建設後に移転したらしい。
そして「大雲寺」の裏手の斜めの道は、堀の名残りなのです。「大雲寺」の詳細は先月23日の記事を参照。
「大雲寺」からは旧2号線を西へ、北側の歩道辺りが江戸時代の道だったようだ。
途中(中央町10-20)に「瓦町」の地名の由来を説明している石碑がある。
どうやらこの辺りが「庭瀬口」のようだ。「備中庭瀬藩」に通じる街道の入り口と言う意味であろう。
先にもふれた「鴨方往来」も「金毘羅往来」も同じ道である。市役所のある大供交差点を過ぎ、
JT岡山と岡山トヨタの前の交差点を左へ横断、一方通行の道が街道である。
この辺りは平安時代に開墾された荘園「鹿田の荘」だと言われている。
確か、干潟がなまって「鹿田」になったと習った覚えがある。南下していくと道幅が狭くなる。左手に「石戸別神社」
少し過ぎて、大きなお屋敷の「小山邸」がある。
母親から聞いたのがちょうどこの付近だった。
残念な事に、老朽化か都市計画からなのかは不明だが記念樹だけを残して更地となっている。
程無く進むと、右手に天保2年(1832)「題目石」がある。
さらに島田~青江へ抜ける新道の工事区間を横切ると、この辺りに似つかわしくない田園があるがこれが「大供本町遺跡」である。
「鹿田の荘」の遺跡と考えられ、弥生時代の遺跡も出土している場所である。
昔を忍ばせている一画だが、新道が開通すればこの風景も消滅してしまうだろう。そしてJR瀬戸大橋線高架下を抜ける・・・。
思い起こせば小学生の頃だっただろうか、この道は昔の街道だったのよと母親から聞いた覚えがあります。
その道は福山へと続く「鴨方往来」でした。その後、香川へ繋がる街道も存在したと頭のどこかに残っていました。
「金毘羅さん」をお参りして、芝居を楽しみ、そして“うどん”も喰ったであろう。ホンマかいなって?
事実「金毘羅祭礼図」にも描かれている。
ならば、うどん関連の事を書いている以上この“うどん街道”?
いや「金毘羅街道(往来)」を解き明かせねばならぬテーマとなったのであります。
過去数年に渡る緻密な調査をする・・・わけがない!
でも地道に暇を見つけて現地聞き取り調査を行ってきたが、
度重なる壁にぶち当たり挫折しながら諦めかけた昨年、
図書館で1冊の本を見つけて一挙に謎が解け始めたのだった。
そして正月気分も抜け始めた今日から、この大作?順次公開することにしたのだ~。