右ひざの違和感を感じて以来、近場の修験の山、宝満山(900m弱)登山はご無沙汰。近くの小学生も登れば、犬をつれたおばさんものぼる、自転車をかついで走りながら筋トレをかねて大学生がのぼる、昔、遣唐使船が出るときは無事祈願のためこの山に登り安全祈願をした。
そんな山だがのぼりはひたすら、何も考えずに岩の階段をよいしょこらしょと登るのみ。頂上からは360度の眺望がのぞめ、一休み。なんのため登るかはひたすら頂上制覇、大眺望をのぞむ快感のためだ。
下山はつけたしのようなものでのぼりの6掛けの時間でかまど神社までおりてしまう。下山時に道に迷うことはないがひざや大腿部を痛めるのは下山時だ。降りる時にのぼりより急激な負荷がかかる。と同時に登りでは見えなかった、見なかった、おおいなる筑紫野平野を見渡しながら降りれるし芭蕉の俳句塚もみながら、ゆっくり下山すればひざを痛めることもないし、岩場ですべることもない。
第二章「下山」の醍醐味
1、体力、足腰の衰えを自覚し、焦らず、ゆっくりとが基本心得
2、日本社会も敗戦後焼け野原から物質的豊かさというゴールをめざしひたすら上り続け、20世紀中に世界2位の経済大国になってしまい、21世紀、空白の10年をへて、急速高齢化、人口減少のまさに下り局面に入っている。欲しいものは何もない。そんな時に日本政府はいまだデフレ脱却経済成長を志向している。もうインド、中国のように6%成長など望むべくもなく、現実1%の低成長がずっと続いている。こんな時に学ぶべき国はすでに下山した国、イギリスやイタリア、スペインなどに学ぶべきなのだ。
3、人生においても定年以後の下山のクオーターこそ楽しむべきなのである。
インドにおける人生哲学。学生期(良き社会人になるための学力体力養成)、家住期(社会に出て一生懸命働き、結婚し、子供をつくり家を買う)そして林住期(会社や妻子育成義務から解き放たれる時期)、遊行期(ひたすらガンジスへの死への旅路)。
人生の下山、この林住期以後をほんとに自分のやりたかったことをふりかえり、あらためてそれを求め続ける人生のクライマックスなのである。これが五木流シニア族への提言なのだが家住期、現役時代の幻影をひきずり、なかなか心の豊かさ、自由な境地を満喫できないシニアが多いのではなかろうか
第三章、老人と回想力
については、また明日のブログで!!