ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

ならまち

2020-04-02 02:39:48 | 遠出(国内)
2020年3月31日に奈良に行きました。
京都駅から12時3分にJR奈良線の快速電車に乗って、奈良駅に着いたのが、12時48分。720円でした。


JR奈良駅は、2010年に高架化されていて、1934(昭和9)年に建てられた2代目の駅舎は今は、喫茶店を兼ねて奈良市総合観光案内所となっています。
屋根の上に相輪を持つ寺院風の建物で、保存を望む声が多く、18m曳家して、駅の東口に移され、2007年に近代化産業遺産、2011年に土木学会選奨土木遺産となりました。



駅前広場に常夜灯と平城宮大極殿跡の石碑が立っています。




奈良市のマンホールにはもちろん鹿が描かれています。この頃、新型ウィルスが広がってから観光客が少なくなって、鹿が餌を求めて、広く市街地にも進出してきたというニュースも聞かれていました。

駅前から東に向かう三条通りは歩道が広くなっていて歩きやすく、両側にある商店をぶらぶら見ながら奈良の町を歩いていきました。

三条通りと東向商店街との角に南都銀行本店があります。
1926(大正15)年築の登録有形文化財。正面にイオニア式の列柱を4本並べた堂々とした古典様式の建物。設計者は多くの銀行建築を手がけた長野宇平治です。窓枠や内装は改修されていますが、外観は当初の姿がよく保存されています。



花飾りの彫刻がかわいい。


「もちいどの(餅飯殿)センター街」のアーケードを抜け、


「しもみかど商店街」を歩きました。奈良の商店街に多かったお店は、古道具屋さん、古書店、リサイクル着物のお店、漢方薬店などなど。奈良の人は古い物を再生して何度でも大切に使うのだなあと思いました。



「もちいどのセンター街」南側辺りからが「ならまち」になります。
ならまち(奈良町)とは、奈良の旧市街地、特に元興寺の旧境内を中心とした一帯を指します。元興寺や興福寺の門前町だった奈良時代から始まり、近世以降は奈良を代表する商業地となりました。戦後は静かな住宅地も加わり、入り組んだ路地に、古い時代からの奈良のたたずまいを残す町並みが残っています。


明治初期の呉服商家が飲食店になっています。







「蚊帳」の看板の出たお家は、吉田蚊帳さん。大正10年創業の奈良特産・蚊帳生地の製造販売をするお店です。



その店舗。吸水性のいい蚊帳生地で「ならまちふきん」やのれんを作り、販売しています。



登録有形文化財、岡田家住宅。
主屋は明治前期。離れおよび渡り廊下は大正期。蔵は昭和5年の建築です。
幕末から明治時代にかけて産婆を生業とし、家の前面で薬の販売もしていて、伝統的な奈良の町家の姿をよく伝えています。



元興寺。日本最古の本格的仏教寺院、飛鳥寺が前身で、世界遺産になっています。
拝観料500円。


「ならまち」は観光地でありながら、京都のように観光ずれしていなくて、いかにも観光客目当てのようなお土産屋さんやレンタル着物屋が少なくて、落ち着いて歩ける街並みでした。

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重要伝統的建造物群保存地区「ちりめん街道」

2020-03-22 02:06:14 | 遠出(国内)
丹後地域では約1300年前から絹が織られていましたが、1720年に京都西陣から「ちりめん」の技術が伝わり、絹織物産地として大きく発展していきました。加悦地域は、与謝峠を介して、丹後と京都をつなぐ物流の拠点となり、大きく栄えた住宅や土蔵、ちりめん工場、職工宿舎などが一帯となって存在しています。古いものでは江戸時代中期、主には明治初期から昭和初期の屋敷が多く立ち並び、丹後ちりめん産業の隆盛を今に伝える町並みになっており、2005年に重要伝統的建造物群保存地区「ちりめん街道」として認定されました。与謝野町は、2017年に宮津市、京丹後市、伊根町とともに、「300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊」として「日本遺産」にも認定されています。




旧加悦町役場庁舎から西山工場までの南北700mの旧街道は、16世紀後期の安良城築城に端を発する、敵兵の侵入を防ぐためにつくられたとされる、途中4ヶ所で鉤の手に折れ曲がった形をしています。







井筒屋旅館。
大正時代に建てられ、1933(昭和8)年に再建された総2階平入りの建物で、正面入口には銅板葺き入母屋屋根の車寄せがあり、旅館の玄関にふさわしい構えです。今も旅館として営業を続けています。



松村家住宅。1888(明治21)年築。
明治期から昭和17年頃まで旅館を営んでいました。明治期の宿帳にはロシア人や中国人の名も記されており、様々な人がちりめん街道を往来していたことがわかります。






表がわの間でちりめん織機を展示実演するお家がありました。



杉本家住宅(下之町)。1848(嘉永元)年築。
中庭を持つ地区内でも大規模な住宅。明治43年、当主の利右衛門が電気事業の必要性を強く感じ、丹後電気株式会社を設立し、現加悦小学校グランド南側の土地に発電所を建設しました。またこの建物は、地区内で2番目の郵便局、その後「杉本医院」として医者をされていた場所でもあります。



川嶋家住宅。1929(昭和4)年築。
昭和2年の丹後大震災後に建てられた川島酒造の酒蔵で、当時は蔵の奥にある井戸水で酒を造っていました。銘柄は「大山政宗」といい、戦後の酒の統制まで造り酒屋を営業していました。大きな建物の割に窓が小さく、酒蔵の特徴をよく表しています。
土日のみ、10時~17時30分、酒蔵の中でカフェ「ちりめん茶屋」が営業されています。



旧尾藤家住宅。1863(文久3)年~1930(昭和5)年築。
江戸時代に大庄屋などを務めた生糸ちりめん問屋で、当主は代々庄蔵を名乗りました。明治初期には北国と大阪を結ぶ北前船「蓬莱丸」を所有しました。丹後銀行頭取、加悦鉄道の社長、加悦町長も務めました。
主屋は江戸末期に、但馬の綿屋長右衛門の主屋を移築したもので、明治から大正にかけ、蔵や屋敷などが増築され、昭和3年には大林組設計部長今林彦太郎の助言を得て、洋館を増築しました。中庭を囲んで、ロの字型に座敷や5つの蔵が立ち並び、和と洋の融合する大規模建築で、京都府指定有形文化財になっています。同時に尾藤家から与謝野町に寄贈され、保存修復工事の後、一般に公開されています。
入館料200円で館内を一巡して案内してもらえました。 9時~17時開館。 休館日:月曜日・年末年始 



実相寺。加悦谷唯一の日蓮宗の寺院。
この前で街道が直角に折れ曲がっています。



下村与七郎家住宅。 1804(文化元)年築。
地区内に現存する最も古い建物。右端の窓は「機屋窓(はたやまど)」と言って、外からは中が見えず、光は上から入ってくるようになっている珍しいものです。左側の土蔵は、明治20年から8年間、加悦郵便局として使われました。局舎2階では、モールス信号による電信が始められ、変動の激しい生糸価格をいち早く知ることができました。







下村家住宅(旧丹後産業銀行)。1920(大正9)年築。
宮津を本店として設立された「丹後産業銀行」の加悦営業所の蔵で、側面には丹後産業銀行の「産」の文字が刻まれています。 丹後の金融機関は融資の担保にちりめんや反物を取ることから、蔵が大きく作られています。



下村五郎助家住宅。 1904(明治37)年築。
街道がもう一度折れ曲がる南西角に位置することから屋号を「角屋(かどや)」と称し、明治初期に北前船による廻船問屋を営むことにより富を築きました。その後、ちりめん業に取り組んで京都に店を設立し、昭和初期には加悦に株式会社丸中を立ち上げました。 




天満神社と宝巖寺。



渋谷家住宅。1897(明治30)年築。
切妻造り平入り厨子二階建てで、正面には腰高の格子と「えんがき」があり、ちりめん産業が盛んであった丹波地域の特徴をよく表しています。

現在は「天風庵」(骨董・がらくた屋)となっています。




杉本家住宅(上之町)。1893(明治26)年築。
二階両側の軒近くまで防火用の壁、うだつがあがっています。ちりめん街道の家の中で、うだつがあるのは、ここだけです。明治20年から34年にかけて「生糸縮緬仕切通(機屋)」を家業とし、その後薬局も営んでいました。



珍しく街道側に入口がない造りの家もありました。



旧伊藤医院診療所。1917(大正6)年築。
木造二階建て入母屋造り桟瓦葺きの洋館です。漢方医学が主流であった当時、西洋医学の診療所として地域で最初に開業しました。



玄関まわりの漆喰の装飾は「健康」を主題としており、加悦の左官職人萬吉によって描かれた鏝絵です。


杉本治助家住宅。
加悦谷の丹後ちりめん創始者の一人、手米屋小右衛門の直系にあたる家。早い時期から織物業の近代化や製織技術の新開発にも注力しました。



杉本家住宅(西山第二工場)。明治~大正時代。

主屋は、丹後最大のちりめん工場(西山工場)の職工たちの集会所として明示40年代に建てられました。二階が講堂であったため階高が高いです。



西側には、明治30~40年代建築の西山第二工場があり、大正中期には計5棟の工場がありました。



何と、その工場の中から「ガチャガチャ」と機を織る音が聞こえてきました。今もこの工場の中でちりめんの製造が続けられているのです。






加悦町のマンホール。大江山の鬼もいます。

2006年(平成18年)3月1日、与謝郡加悦町・岩滝町・野田川町の3町が合併し、与謝野町が発足しましたが、加悦、岩滝、野田川の各地区に庁舎が残されています。

加悦SL広場を見に来たついでに、駆け足でちりめん街道を見てまわりましたが、与謝野町には原種ヤブツバキの大木や、蛭子山古墳と作山古墳の古墳公園、与謝野鉄幹の父・与謝野礼厳、与謝蕪村の母親のふるさとなどがあり、またいつかゆっくり来てみたいものです。



ちりめん街道から与謝野駅までバスに乗って、16時50分与謝野駅発の特急たんごリレー6号で17時43分福知山着、17時49分福知山発19時9分京都着の特急きのさきで帰ってきました。京都丹後鉄道の切符は硬券でした。


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加悦SL広場が3月末で閉園に

2020-03-22 02:02:45 | 遠出(国内)
京都府与謝郡与謝野町滝にある「加悦(かや)SL広場」が2020年3月末で閉園になるというので、21日に行ってきました。

7時32分京都発の特急きのさき1号で8時38分綾部着、8時51分綾部発9時13分西舞鶴着までJRで行き、


JR西舞鶴駅のホームから続きになっている京都丹後鉄道の西舞鶴駅に移動すると、隣接して京都丹後鉄道の車両区があり、ラッピング列車が停まっているのが見えました。



9時37分西舞鶴発の京都丹後鉄道で宮津、天橋立、岩滝口と過ぎて、



10時25分与謝野駅に着きました。。




与謝野駅の駅舎の中に「丹後山田駅資料室」がありました。
「丹後山田駅」とはなんじゃろうと思ったのですが、与謝野駅は1925年~1990年は国鉄、続いてJR西日本の「丹後山田駅」と言われ、1990年に北近畿タンゴ鉄道に移管されると「野田川駅」となり、2015年からは京都丹後鉄道の「与謝野駅」と改称されたのです。
国鉄時代は複数の線路が引き込まれ、1926年~1985年には加悦鉄道がこの丹後山田駅から加悦駅まで走っていたので、この駅はかなり重要なポイント駅だったようです。資料室には、国鉄・JR西日本だった頃の、駅にゆかりのある鉄道部品や、戦争中に出征する兵士達を見送る写真が展示されていました。




駅前に大きな建物があり、駅が賑わっていた頃に、丹後ちりめんの行商人達がたくさん泊まったという旅館「大正亭」の跡ではないかと思われました。

与謝野駅から11時1分発の丹海バスで11時31分に「SL広場西」で下車、徒歩5分で「加悦SL広場」に着きました。
与謝野駅からレンタサイクルがあるらしいので、それを借りて廃線跡を走ろうかと思っていたのですが、3月末までの冬季は休業していて利用することができず、時間待ちの長いバスで行くしかありませんでした。


SL模型が乗っているアーチが「加悦SL広場」の入口になっています。



加悦鉄道の旧加悦駅を復元した建物が入場受付になっています。
加悦駅は大正時代の代表的な洋風建築の一つとして知られ(町指定文化財)、待合室には当時の時刻表、ランプ、時計、ベンチなどが置かれ、展示室には昔の駅で使われていた鉄道用具やレールがたくさん展示されていました。



駅舎の二階も飼料が展示されていました。

加悦鉄道は、1925(大正14)年、丹後地方の町民823名の出資によって設立され、翌年、国鉄の連絡駅、丹後山田駅から加悦駅の間、5.7kmが開業しました。
当初は沿線の特産品である丹後ちりめんを京阪神地区に輸送することを主目的としていましたが、その後、加悦駅の南西にある大江山でニッケルの採掘が開始されたため、1940(昭和15)年に加悦駅から大江山鉱山駅までの貨物専用線が2.6キロ延長し、1942(昭和17)年には丹後山田駅から北東の岩滝町にある精錬所(日本冶金工業大江山製造所)への専用線も開通しました。しかし、戦後は蒸気機関車からガソリン車、ディーゼル機関車に変わり、さらに、自動車交通の波に押され、1985(昭和60)年に加悦鉄道は廃止されてしまいました。

その後、1996年からは大江山鉱山駅跡地に、加悦鉄道を走っていた多くのSLや気動車など27両を展示して、鉄道保存展示施設「加悦SLの広場」として、宮津海陸運輸株式会社が運営してきました。しかし、車両の整備をする技術継承が困難で、車両の維持が難しいという理由で、2020年3月末で閉園することになったのです。



閉園前だというので、家族連れや鉄道好きらしい男性がたくさん来ていました。
3月31日までは毎日営業しています。午前10時~午後5時開園。入場料大人400円。




場内周遊ミニ列車「ロケット号」と、きかんしゃトーマス・バッテリーカーも走っていました。



重要文化財になっている2号蒸気機関車(旧鉄道省形式120)(鉄道院時代に123号に番号変更)(与謝野町指定文化財)(日本産業考古学会産業遺産認定)
1873(明治6)年にイギリスで製造され、輸入されたもので、日本で2番目に古いSLです。1874年から大阪~神戸間を走り、活躍していましたが、1915年、簸上鉄道(島根県)に払下げ。1926年に加悦鉄道が購入、1956年まで297,800キロを走りました。

なお、加悦鉄道の1号車は鉄道省5100形で、加悦鉄道開業の際、相模鉄道より購入したものでしたが、1936年に解体され現存していません。




1261号蒸気機関車(旧鉄道省形式1260)Cタンク。(与謝野町指定文化財)
1923年、日本車輛製造(株)で製造のC形タンク機関車。1943年ニッケル鉱石輸送のために、国鉄より加悦鉄道が譲り受ける。ニッケル輸送、貨物輸送、旅客輸送に活躍。1967年使用廃止。



(左)C58形蒸気機関車(C58390号)
  唯一の本格的テンダー(炭水車)式1C1型機関車で、テンダー式として、最初の密閉式運転室を採用し、主に寒冷地に配属されました。
1946年、旧国鉄が汽車製造(株)で製造。函館本線、石北本線に配属され、1975年まで走りました。同年、展示用として旧国鉄より借用しました。

(右)C57蒸気機関車(C57189号)
  歴代蒸気機関車のうち最も端麗とされ、「貴婦人」と呼ばれました。
1946年、旧国鉄が三菱重工三原製作所で製造。国鉄新潟機関区、山陰本線、羽越本線等で1971年まで走りました。1973年展示用として、旧国鉄より貸与を受けました。




4号蒸気機関車。C形タンク。(与謝野町指定文化財)
1921年、河東鉄道(長野電鉄)が川崎造船所兵庫工場で製造。河東鉄道3号機。1934年に長野電鉄より譲り受け、1940年、空気圧縮機、空気ブレーキ取り付け。旅客と、日本冶金大江山製造所の貨物輸送に活躍し、1967年まで稼動しました。



103号蒸気機関車。
アメリカのH.K.PORTER CO.社が1915年に製造し、長門鉄道を経て、1947年、東洋レーヨン滋賀工場で入替用に使用、1964年まで稼動。同年、宝塚ファミリーランドへ寄贈され、カウキャッチャーなどが整備されたのち、展示保存されていました。





京都市の大宮交通公園に展示してあったC160は、同公園の改修に伴って、加悦鐡道保存会に譲渡され、2019年12月に「加悦鐡道資料館」に帰郷し、旧加悦駅の横に展示されています。
上の写真は大宮交通公園にあった時(2019年9月28日)のものです。



投炭練習機。
蒸気機関車のボイラーに石炭を投入する基本動作、火床の理想的形成方法などを訓練するための設備で、左の石炭庫から右のボイラーの中に投入します。


手動式の転車台で、現在でも動かす事ができます。




キハ101。(与謝野町指定文化財)
1936年、加悦鉄道10周年を記念して、日本車輌株式会社で新造した半鋼製片ボギー車。貴重な三軸車。第2次世界大戦中は木炭を燃料にしたこともある。
2004年4月、動態化復元に成功しました。



40900形 内燃三等荷物動車(キハユニ51号)。(与謝野町指定文化財)
1936年、芸備鉄道(昭和12年国鉄が買収)が発注し、日本車輛株式会社で製造。40900形キハユニ18。1952年、舟木鉄道(昭和36年廃止)へ払い下げ。1962年加悦鉄道に譲り受け、改造後キハ51。1985年まで稼動。1994年キハユニ51に修復。ローカル線専用のデッキ付き。



DB201。
1953年、株式会社森製作所で製造。戦後、石炭価格の高騰に伴う運転経費の増大に対処するため購入。蒸気の足回りを利用した草分け的ディーゼル機関車。森製作所製機関車の唯一の生き残り。”森ブタ”の愛称で親しまれています。1999年動態化復元に成功しました。







DC350形内燃機関車(DC351号)。
1956年、南部鉄道が汽車製造(株)で製造。1967年、加悦鉄道が譲り受け、蒸気機関車廃止後の日本冶金工業大江山製造所の貨物列車を牽引しました。



DB202。
1963年、株式会社日立製作所で製造。日本冶金川崎で、構内側線、神奈川臨海鉄道で1984年まで使用しました。動態保存中。



小型内燃機関車(KD-4) 通称「カトーくん」。
1956年、日本通運が加藤製作所で製造。キリンビール専用線、専売公社専用線などで使われていましたが、1976年廃車になり、1999年加悦鉄道が譲り受け展示しました。動態保存中。

後方に続くのは、遠州鉄道ト400形無蓋貨車(ト404)。
1923年遠州鉄道が大阪梅鉢鉄工所で製造。2000年遠州鉄道で廃車となり、加悦鉄道保存会が譲り受け展示しました。
加悦鉄道ではニッケル鉱石を輸送するための無蓋貨車を50輌以上保有していました。



ラッセル雪かき車 キ165。
1938年、旧国鉄土崎工場で製造。山陰線で活用した雪かき車。後部に連結した蒸気機関車より動力と圧縮空気を供給され、前方と左右の翼で積雪を左右に押し分けて除雪を行います。1981年加悦町が展示用として国鉄より借用しました。




TMC100。
1961年、富士重工宇部工場で製造。保線用として譲り受け。方向転換もできるラッセル併用多目的車輌。動態保存中。




ハブ3号形客車 付随荷物緩急車。(与謝野町指定文化財)(日本産業考古学会産業遺産認定)
1889年ドイツで製造、九州鉄道が購入。1922年に伊賀鉄道へ払下げ後、1927年から加悦鉄道で走行。客室(定員24人)と手荷物室にわかれています。



ハ10形付随客車。(ハ10号)(与謝野町指定文化財)(日本産業考古学会産業遺産認定)
1926年、伊賀鉄道が大阪梅鉢鉄工所で製造。加悦鉄道創業の際、新車を譲り受けました。二重屋根を持つボギー台車で、創業から1968年まで旅客輸送に活躍しました。



内部。中央一段高くなった屋根の下に明り取りの窓があります。







ハ4975形付随客車。(ハ4995号)(与謝野町指定文化財)(日本産業考古学会産業遺産認定)
1893年、旧逓信省鉄道庁新橋工場で製造。1928年、鉄道省より加悦鉄道に譲り受ける。定員40人。木造、2軸、二重屋根を持つ、明治期の代表的非貫通型客車で、「マッチ箱」と呼ばれていました。製造当初の照明は天井より吊り下げたランプでした。1935年に廃車となり、加悦駅構内で倉庫として使われていましたが、1970年復元されました。


椅子は畳貼りになっていました。




サハ3104。
1925年、藤永田造船所で製造。キハ083稼動までのつなぎとして譲り受け。元は電車でしたが、加悦鉄道では客車として1972年まで朝夕時のみ稼動(3年間)。その後側板を撤去し、休憩車として利用。1996年移転に伴い、”カフェトレイン蒸気屋”に改造しました。
閉園前のためか、レストランは営業していませんでした。



京都市電 N5号。
京都市電は、1985(明治28)年、京都の七条駅-伏見間に日本最初の電車として開通し、1961(昭和36)年、京都駅-北野神社間の廃線によって廃車しました。北野線所属28両中の23号車(1910年梅鉢鉄工所製造)が宝塚ファミリーランドを経て譲渡、展示されていました。
同じく北野線で走っていた1911年梅鉢鉄工所製で京都市平安神宮で保存されている市電が、2020年に重要文化財になったので、これも同じような価値がある車輌ではないかと思われます。


以上のように、加悦SL広場には蒸気機関車6輌、内燃機関車9輌、付随客車6輌、その他の車輌6輌で計27輌の車輛が展示されています。
これだけの数の貴重な産業遺産が残るSL広場、閉園になったら、これらの車輌はどうなるのでしょうか? 保存のために、与謝野町や京都府が何とか動いてもらえないものでしょうか?



加悦SL広場がある場所は、元は加悦鉄道の「大江山鉱山駅」があったところです。この南西方向には大江山があり、その北西山麓から1934年から1945年までニッケル鉱石が掘り出され、この駅から運び出されていました。大江山鉱山の採掘には、日本人鉱夫の多くが出征し人手が足りなくなると、学生、囚人が大量に投入され、さらに戦争の連合軍捕虜が投入され、強制的に労働を強いられました。



SL広場の近くに3本の煙突が立っているのが見えました。これは、ニッケル鉱山の跡で唯一残っているもので、採掘した土を乾燥させるための設備でした。大江山ニッケル鉱山の跡がこんなに近くにあるとは全く意外でした。

辺りは今では「大江山運動公園」になり、アスレチックやグランドゴルフができるようになっており、近くには「道の駅 シルクのまち かや」「よさの野菜の駅」「リフレかやの里」「加悦工芸の里」などの施設が立ち並んでいました。

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あやべグンゼスクエア

2019-08-18 02:33:08 | 遠出(国内)
2014年にオープンした「あやべグンゼスクエア」は、「グンゼ博物苑」と、綾部の特産品を集めた「あやべ特産館」、地元のボランティアで維持管理されている「綾部バラ園」からなっています。製糸業に関係の深い桑の品種も多く植えられています。

「グンゼ博物苑」は創立100周年を記念して、大正時代に使用していた繭蔵を改造して1996年に開苑しました。グンゼのあゆみを3つの展示蔵 (創業蔵・現代蔵・未来蔵)で紹介しています。






<創業蔵>
絹織物の原材料となる生糸をつくる「製糸業」から始まったグンゼ。1896(明治29)年に波多野鶴吉(はたのつるきち)が郡是製絲株式会社を設立しました。「郡是」という社名は、元官僚の前田正名が唱えた「今日の急務は、国是、県是、郡是、村是を定むるにあり」に共感した波多野が、何鹿(いかるが)郡の是(方針、進むべき道)として、地場産業であった蚕糸業による地元綾部の振興を志し、命名したのでした。

創業蔵の1階では蚕糸業で使用していた機械や道具などを展示。2階では、グンゼの創業当時のあゆみを近代史とともに振り返り、波多野鶴吉の目指した会社づくりを紹介しています。



右から左へ、桑で蚕を育て、繭から生糸を紡ぎ、絹織物が出来上がります。



蚕を育てていた農家の模型です。



手で紡いでいた時代から変わって、機械で紡ぐ時代になりました。



タイコ八丁撚糸機。



グンゼの字が書かれた繭を入れた袋。
創業後20年で工場数16、大正末期には工場数25に事業規模が拡大しました。



グンゼは生産だけでなく、キリスト教精神によって、従業員の教育や厚生にも力を注ぎ、寄宿舎、グンゼ病院(1990年から綾部市立病院に)、誠修学院、教育部、郡是女学校(裁縫、算術、修身に関する授業を行った)などを備えていました。


<現代蔵>
昭和初期にレーヨンが台頭したことで、生糸価格は年々下落しました。
戦後のグンゼは、蚕糸業の縮小に伴い、主力事業をメリヤス肌着やナイロン製靴下などの繊維加工部門に転換、多様化した事業活動を行うようになりました。

1階では、日常生活の中で発見することができるグンゼの製品やサービスを、各事業ごとに紹介。
2階では、インナーやパンストをはじめとするアパレル事業のこれまでのあゆみを紹介しています。 


<未来蔵>
グンゼと言えば、肌着・下着と先ず考えますが、今では「明日をもっと、ここちよく」をテーマに、エンジニアリング・プラスチックス、メディカル事業、電子部品事業などへと事業を展開してきており、この蔵では最新の製品や技術を紹介しています。



<綾部バラ園>
2010年10月に開園し、「アンネのバラ」もあります。



あやべ特産館の中にある「緑茶カフェ」で抹茶ソフトクリームを食べました。熱い日だったので、冷たいものでほっこりしました。
綾部市は舞鶴市などと合わせて、玉露や抹茶の重要な産地だと初めて知りました。


綾部駅まで歩いて帰り、14時7分綾部発、15時12分園部着。15時16分園部発、15時53分京都着の普通列車で帰ってきました。

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2019年青春18冬の旅 もくじ

2019-01-10 23:31:01 | 遠出(国内)
2019年1月に青春18切符を使って兵庫県西脇市と岐阜県多治見市から静岡県浜松・掛川方面に行ってきました。



 


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2019年青春18冬の旅(6)天竜浜名湖鉄道天浜線(2)

2019-01-10 23:30:22 | 遠出(国内)
天竜浜名湖鉄道天浜線に乗って20分程走ると、電車がたくさん停まっている所を通過しました。

新浜松から西鹿島(にしかじま)まで走っている遠州鉄道の駅のようで、その電車が赤い色なので、遠州鉄道は「赤電」と呼ばれているそうです。西鹿島駅は遠州鉄道と天竜浜名湖鉄道の接続駅です。



天竜川の鉄橋を渡って、二俣本町駅を過ぎ、



10時45分に天竜二俣駅に着きました。天竜浜名湖鉄道の本社がある駅です。ここで下車して、次の列車が出るまで1時間ほど駅付近を見て回りました。



この駅の本屋も国の登録有形文化財です。






待合室。



駅を出た側から見たところ。



上りと下りの上屋とプラットホームも登録有形文化財です。
昭和15年築。


木造のプラットホーム上屋です。柱や桁は古いレールを転用したもので、1911年アメリカ・カーネギー社製や1929年八幡製鉄所製のものがあります。







わかりにくいですが、右手に高架貯水槽、左に運転区事務室と休憩所があります。



奥のほうに扇形車庫とその前に転車台があるはずですが、近寄って見ることができませんでした。高架貯水槽と揚水機室、運転区事務室、休憩所、浴場、扇形車庫、転車台も国登録有形文化財です。
車庫の中には鉄道歴史館もあり、稼働する転車台と鉄道歴史館の見学ツアーが毎日開催されています。月~金曜は13時50分から、土日祝日は10時50分からと13時50分から、各40分間、天浜線で来た人は大人200円、小人100円で見学することができます。残念!時間が合わなくて今回は見学することができませんでした。



駅の外には自動車道を隔てて、かつて走っていたSLが展示されていました。



駅舎の中にあるホームラン軒で中華そばを食べました。あっさり系しょうゆ味でした。
11時45分に天竜二俣駅を出発して、


登録有形文化財の駅がいくつかあり、遠州森などという駅もありました。






12時30分、終着の掛川駅に着きました。



天竜浜名湖鉄道天浜線の掛川駅。



JR掛川駅側から見たところ。



JR掛川駅と新幹線駅。駅でお土産を買ったり、お茶を飲んだりしてゆっくりし、



14時17分掛川発で浜名湖を渡り、15時22分豊橋着、15時32分豊橋発の快速で17時2分大垣着、17時9分大垣発17時44分米原着、17時47分米原発18時42分京都着で帰ってきました。


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2019年青春18冬の旅(5)天竜浜名湖鉄道天浜線(1)

2019-01-10 23:28:05 | 遠出(国内)

1月9日朝、JR豊橋駅を出発。



8時7分豊橋発、JR東海道線2つ目の駅、新所原(しんじょはら)に8時16分に着き、
ここから天竜浜名湖鉄道に乗り換えます。



天竜浜名湖鉄道 新所原駅。
ここは静岡県湖西市、愛知県と静岡県の境目くらいの所です。
ここから浜名湖の北側をぐるりと回り、浜松市天竜区の天竜二俣駅を経て、静岡県掛川市までの間を走るのが天竜浜名湖鉄道天浜線です。



天浜線全線乗り降り自由の1日フリーきっぷ、1700円を買いました。
新所原発8時34分。






車窓右手に浜名湖が見えてきました。冬なのに湖面に差す日差しが暖かく感じられます。



左手の山にはみかんの木がたくさん生えています。この辺りは三ケ日みかんの産地です。



三ケ日駅に5分間停車しました。




三ケ日駅本屋は国の登録有形文化財に指定されています。
三ケ日駅の中にはハンバーガー屋さんがありました。天浜線の駅には駅中グルメがある所がたくさんあります。




都筑(つづき)駅。



奥浜名湖、三ケ日、都筑、東都筑、浜名湖佐久米(はまなこさくめ)と続きます。



右手には浜名湖が続きます。この辺りが浜名湖の北端のようです。



気賀駅を通り過ぎ、9時23分に金指(かなさし)駅に着きました。



金指駅上屋とプラットホームは国の登録有形文化財に指定されています。
昭和13年建設。






待合室内部。



金指駅高架貯水槽も有形文化財に登録されています。鉄筋コンクリート造、昭和13年頃建設。




次の列車の発車時間、10時20分まで約1時間、近辺を歩いてまわることにしました。
少し歩いたところに「金指関所跡」の碑がありました。1601(慶長6)年に設けられました。
他に気賀関所跡もあり、江戸時代に脇往還である姫街道の入り鉄砲と出女を監視する役割を果たしていました。



付近には古風な家がいくつかありました。





気賀、金指と大河ドラマで聞いた地名が出てきたように、この辺りが伊井直虎の活躍した土地で、直虎のお墓がある龍潭寺も近くにあるはずですが、今回は時間がなく、行くことはできませんでした。
この地が南を受けて温暖な気候と、浜名湖の船運を利用できる地形が、伊井家が生き残ったことの一つの要因になったのかもしれません。



このマンホールの地名、引佐町(いなさちょう)は、2005年に浜松市に編入合併されています。




これも「緑と花のまち、いなさ」となっています。



線路は浜名湖からはずれ、森の中を走っていきます。


天竜浜名湖鉄道天浜線(2)に続く。
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2019年青春18冬の旅(1)西脇市

2019-01-08 02:27:00 | 遠出(国内)
2019年1月7日、青春18切符で兵庫県西脇市へ行ってきました。

9時30分京都駅発の新快速で尼崎10時5分着、10時28分尼崎発の丹波路快速で篠山口11時28分着、11時31分篠山口発福知山線で11時47分谷川駅に着きました。


谷川駅は福知山線から加古川線への乗り換え駅です。




12時10分谷川駅を出て、加古川線に進みました。



次の駅、「久下村(くげむら)」あたりに、車窓に大きな恐竜の姿が見えました。2006年にこの辺りの篠山川河床から恐竜の化石がたくさん出土し、「丹波竜」と呼ばれたのです。正式名は「タンバティタニス・アミキティアエ」。



ほんくろだ駅、黒田庄駅を通過。この辺りが黒田官兵衛のゆかりの土地らしい。
その次に日本へそ公園駅というのもありました。日本標準時の東経135度と北緯35度が交差する地点で、日本列島の中心「日本のへそ」に位置する地に公園が作られているのです。




日本へそ公園駅の前にある「岡之山美術館」は、駅に停車する列車風の建物で、現代美術の企画展示を開催しており、設計は建築家・磯崎新です。




日本のへその田園地帯が続きます。



12時38分に西脇市駅に到着しました。



ようこそ「へそのまち」へ、「日本のへそ」西脇市、と書かれています。



西脇市駅前の通り。市の中心部は少し離れているようで、この辺りは鄙びた感じのたたずまいです。
西脇市は木綿の播州織、旧来住家住宅(きゅうきしけじゅうたく)等の見所があるのですが、(そして、西脇工業高校でも有名)時間がないので、西脇大橋近くのお店でラーメンを食べてから駅に戻り、帰途につきました。

13時45分西脇市発、14時31分加古川着、15時7分加古川発の新快速で京都に帰ってきました。

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2019年元旦フェリーで大分への旅 もくじ

2019-01-03 01:33:18 | 遠出(国内)
2018年大晦日から2019年元旦にかけて、フェリーで往復して、大分県に行ってきました。



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別府で温泉に入る

2019-01-03 01:31:49 | 遠出(国内)
宇佐神宮に初詣した後、別府に帰ってきて、地獄めぐりをしました。


国指定の名勝「海地獄」の入口は長屋門の形をしています。



広い園内のあちこちに地獄と呼ばれる熱湯の噴出池があり、含有物によって池の色が違っています。



海地獄。



赤池地獄。



温泉の熱を利用した温室の中に、蓮やスイレンなど熱帯の植物が育てられていました。




「海地獄」の隣にある「鬼石坊主地獄」にも行きました。




灰色の泥がぶくぶくと沸き上がってきていて、いかにも熱そうな地獄模様を表していました。鬼石というのは地名です。




文献に初めて出てくるのは、733(天平5)年頃書かれた「豊後風土記」です。



別府最後に、鉄輪温泉の中の日帰り温泉「ひょうたん温泉」に行きました。
大きい風呂、ひょうたん風呂、露天風呂、うたせ湯、むし風呂など様々な種類のお風呂があり、長時間楽しむことができます。
ただ、その日は韓国からの観光客がたくさん来ていて、お風呂の中はかなりの混みようで、あまりゆっくり楽しむことはできませんでした。



竹の枝にお湯をかけて、熱いお湯を冷ます装置がありました。


日帰り温泉に入ったあと、大分港に帰り、再び「さんふらわあ」に乗って19時15分出航! 翌朝神戸港に着き、8時頃に京都に帰ってきました。


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宇佐神宮で初詣

2019-01-02 23:52:07 | 遠出(国内)
2019年元旦の朝、フェリーで大分港に着いた後、宇佐神宮に初詣に行きました。
神宮に近づくにつれ、自動車の列が続き、駐車場に入るまでにだいぶ時間がかかりました。

宇佐神宮は大分県宇佐市にあり、全国の八幡宮の総本社と言われています。
小椋山(亀山)山頂に上宮があり、山麓に下宮があるので、上宮はパスして、下宮だけ参拝しました。







境内で神楽が奉納されていました。



参道にある呉橋(くれはし)。
屋根のついた神橋で、鎌倉時代以前からあるとされ、呉の国の人が掛けたという伝説があります。県指定の文化財。



1965年までは、日豊本線宇佐駅から神社までのアクセスを担った大分交通宇佐参宮線があったので、当時の蒸気機関車が境内近くに保存されています。(大分県指定有形文化財)
これは26号機関車で、1891(明治24)年にドイツ・ミュンヘンのクラウス社が製造、明治27年に九州鉄道株式会社(国鉄の前身)が購入し、活躍していましたが、昭和23年機関車の大型化に圧され、大分交通株式会社に譲渡の後、宇佐参宮線の主役になりました。宇佐参宮線は1916年開業し、1965年に廃止されました。



駐車場近くのお土産屋さん街にレトロな写真館がありました。



別府の町近くに帰ってきて、お正月仕様の昼食を食べました。

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フェリー「さんふらわあ」で年越し

2019-01-02 23:47:56 | 遠出(国内)
2018年大晦日から2019年元旦にかけて、神戸から大分港への往復フェリーに2泊するツアー旅に行ってきました。


12月31日の18時に京都駅前から貸切バスで出発、神戸港に向かい、


フェリー「さんふらわあ・ごーるど号」に乗船しました。見上げると、大きなビルのような船体です。
20時20分出航!


乗船してすぐのエントランスは、お正月に向けての飾りつけがされています。








大晦日とあって、年越しそばの販売、音楽の演奏、ビンゴ大会、カウントダウン等、いろいろな行事が用意されていました。








神戸を出港して、しばらくすると、明石大橋の下を通過しました。



レストランで夕食の販売がされていましたが、



買って持って行ったお弁当とお酒をサロンで食べました。



6階の客室へ向かう廊下がいくつもあって、迷子になりそうなくらい広いです。



部屋は10人の相部屋ですが、それぞれのベッドが離れて設定されていて(プライベートベッド)、カーテンで仕切られているので、あまり他の人が気になりませんでした。
お風呂も銭湯のような大浴場に入りました。



5階のレストランでビンゴや年越しカウントダウンを楽しみ、ふるまい酒をいただきました。



翌朝、早く起きて船の看板に出て、初日の出を見ました。




瀬戸内海の海の向こう側、四国・愛媛の山並みから出てくる太陽です。
しかし、看板上はものすごく強い風で寒いので、あまり長く見ていることはできませんでした。




大分港に8時20分に着きました。


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2018年9月丹後半島・舞鶴の旅 もくじ

2018-09-28 02:28:55 | 遠出(国内)
2018年9月25日~26日、丹後半島・舞鶴に行ってきました。







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浮島丸殉難の碑

2018-09-27 21:04:08 | 遠出(国内)
舞鶴引揚記念館を見た後、舞鶴湾の東側を回って、舞鶴市下佐波賀集落の近くにある「浮島丸殉難者追悼の碑」を訪れました。


太平洋戦争終戦後の1945年8月24日17時20分頃に、舞鶴湾の下佐波賀沖300mの地点で、日本海軍特設運送艦浮島丸(4,730総トン、乗組員255名)が、3,725名(4000人とする場合もある)の朝鮮人と乗組員を乗せて航海中に、アメリカ軍が敷設していた水雷に触れて沈没、住民たちの救助活動にもかかわらず、乗組員25名(戦死扱い)と便乗者524名の死者をだしました。乗っていた朝鮮人達は青森県大湊旧海軍施設などで働かされていた朝鮮人労働者とその家族で、強制労働と非人間的な生活か らの解放と、故郷へ帰れる喜びを胸に、青森県の大湊港から釜山へ向かう途中でした。




この浮島丸事件を風化させるのではなく、平和と国際友好のかけ橋として長く語り継ぐために、1978年8月24日にこの碑が建てられました。毎年命日には碑の前で追悼の集会が開かれています。 



沈没し、海面の上にレーダーと機関銃をのぞかせる浮島丸(手前)。
後方は旧ソ連からの引き揚げ船「興安丸」。1954年9月撮影。

前からこの碑を訪れたいと思っていたのですが、舞鶴の駅からはだいぶ離れていて、なかなか個人では行けなかったので、団体旅行でお参りすることができてよかったです。



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リニューアルした舞鶴引揚記念館

2018-09-27 02:46:55 | 遠出(国内)
丹後半島夕日が浦温泉に泊まって次の日、先ず舞鶴引揚記念館に行きました。

 第二次世界大戦が終わった後、海外にいた660万人の日本人の引き揚げが始まりました。舞鶴港は、1945(昭和20)年10月7日、引き揚げ第一船「雲仙丸」が入港してから、13年間にわたり66万人の旧満洲や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・復員兵を迎えいれました。


 舞鶴引揚記念館は、引き揚げやシベリア抑留を後世に継承し、平和の尊さを広く発信する施設として、全国の体験者や関係者、舞鶴市民の皆様のご支援ご協力により昭和63年4月に開館しました。
2015(平成27)年9月には、若い世代にも分かりやすく共感できる展示への改修や環境整備などを進め、リニューアルオープンしました。また、平成27年10月10日には収蔵資料のうち570点がユネスコ世界記憶遺産に登録されました。



シベリアの収容所内部の様子が再現されています。
極寒の戸外の様子が窓の雪嵐の映像と音でわかります。



氷点下の寒さと過酷な労働、劣悪な食料事情や衛生状況の中で、5万5000人を超える多くの犠牲者が出ました。
抑留中の白樺の皮に書いた日記や、はがき、絵画や迎え入れた舞鶴市のこと、岸壁の母など、たくさんの展示があり、語り部の方が話をされていました。

記念館の近くには引揚記念碑や桟橋の遺構もあります。
戦争の事実を語り継ぎ、平和への思いを無くさないためにも、何度でも行きたい施設です。


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