大雲院は1587(天正15)年、正親町天皇の勅命により織田信長・信忠親子の菩提を弔うために創建されたお寺で、大雲院は信忠の法名です。
最初は烏丸二条(現・国際マンガミュージアムの地。元そこに龍池小学校があったのも龍池山大雲院からきている名前だとか。)にありましたが、豊臣秀吉により寺町四条南に移され、1972(昭和47)年に島屋京都店増床に伴い、高島屋が所蔵していた現在の地、東山区祇園町の円山公園南側に移転しました。
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お寺の伽藍の中で特に目を引く塔のある建物は、祇園閣です。
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これは1928(昭和3)年に建築された建物で、大倉財閥の創始者、大倉喜八郎が別邸とし建てた「真葛荘」の一部で、鉄筋コンクリート造三階建て、屋根は銅板葺きで、金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったものです。祇園祭の鉾を模したもので、設計は伊東忠太、国の登録有形文化財です。
大雲院がここに移築してくるにあたって、昭和48年に祇園閣一階正面に阿弥陀如来像を安置し、昭和63年に内部壁面に敦煌壁画の模写が描かれました。
お寺らしからぬ塔があるなと思っていましたが、元々お寺の伽藍として建てられたものではなかったのだ。(今頃になって初めて知った)
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西側の民家越しに塔を眺めたところ。
残念ながら祇園閣の中と閣の上からの眺めも撮影禁止でしたが、東山から比叡山、北山、京都市街と絶景を見渡すことができ、「絶景かな、絶景かな。」でした。
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鉾の頂きには鶴が飾られています。
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塔の前の阿形の獅子像。
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吽形の獅子像。
祇園閣の中にも、天井の十二支の装飾や、階段部分の鬼(魑魅魍魎)の照明など、伊東忠太らしい独特のデザインがあちこちにあったのですが、撮影できなくて残念。
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円山公園野外音楽堂と通りを隔てて西側にある総門。
東京の宮家から移築された門と言われています。
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鐘楼は豊臣秀頼が北野天満宮に寄進したもの、中の梵鐘は八坂神社所蔵の室町時代のものでしたが、維新後の神仏分離でともに不要とされていたものを佐土原島津家が大雲院に寄進したものです。
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鐘楼の横に「佐土原藩戦没招魂碑」がありました。
佐土原藩は宮崎県にあった薩摩藩の支藩で、戊辰戦争の時に江戸上野山の戦いや会津戦争で新政府軍として戦い亡くなった藩士達60名が弔われています。
この他に、書院(旧大倉家京都別邸)も国の登録有形文化財に指定されていますが、今回は非公開でした。
龍池会館の宝物展示場には、富岡鉄斎によるお茶道具や書画もたくさん展示されていました。
境内の墓地には富岡鉄斎や石川五右衛門のお墓もあるのだそうです。