聴竹居見学の後、近くをぶらっと散策していると、離宮八幡宮がありました。
JR山崎駅から南へすぐ、大きな通りに出る角のところにありました。
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石清水八幡宮の元社でしたが、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので社名が離宮八幡宮とされました。
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油祖像。
貞観年間にここの神官が「長木」(てこを応用した搾油器)を発明し、荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地とされています。
山崎の油売りは、八幡宮の神人(じにん:寺社の雑役、力仕事をする人)として八幡宮の燈油を納め、日使神事(八幡宮の例祭)の頭役、御綱引き(淀川を渡る船を引く)といった奉仕をし、その代償として八幡宮の保護を受け、油座(同業者組合)を結成し、関所の通行料や津(港)の使用料免除などの特権、製油販売の独占権を得ました。
「宵ごとに都に出づる油売り更けてのみ見る山崎の月」
油座全盛期の室町時代、山崎は油業で栄え大変賑わいのある町でした。
油商人たちは毎日京の都へ油を売りに行ったのですが、仕事を終え山崎に帰る頃にはいつも夜が更けてしまっていた、という様子を歌ったものです。
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幕末「禁門の変」の時に長州藩屯所が山崎にあったため、幕府・薩摩連合軍側の砲撃にあい多くの商家とともに焼失し、さらに1871(明治4)年に境内北側を国策による鉄道事業にささげ、社域はさらに縮小しました。
明治になって社殿が再建されましたが、兵火を免れた江戸時代からの建物は「惣門」と「東門」だけとなっています。
今は狭い境内となっていますが、古い由緒のある神社でした。