ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

バンダ、まだまだ元気です

2007-09-27 02:28:30 | 洋ラン


我が家の洋蘭バンダはますます元気に咲いています。

花径もどんどん大きくなってきました。
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ミーハーですが

2007-09-21 14:13:29 | 西本智実
西本智実を追っかけて、大阪のザ・シンフォニーホールまで行ってきました。


9月20日(木)午後7時開演

指揮:西本智実
管弦楽:京都市交響楽団
曲目:シベリウス/「フィンランディア」
   チャイコフスキー/バレエ組曲「白鳥の湖」より
   ドヴォルザーク「新世界より」



またまたかっこよさに惚れ惚れとして、夢のような2時間でした。

今日のアンコール曲はこれでした。

大阪は出身地だけあって、最後の喝采に答えて微笑みながらぐるりとお辞儀をされていたのも丁寧で、「故郷に錦を飾った」ようでした。

今回は二階斜め右の席から横顔が見れたけれど、やはり遠目だったので、買って帰ったDVDでじっくり楽しみたいと思います。
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2007年9月広島・石見銀山の旅 もくじ

2007-09-18 04:34:49 | 遠出(国内)
2007年9月15日~17日、広島と島根県の石見銀山に行きました。





 


  







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安楽寺の鏝絵

2007-09-18 00:40:24 | 遠出(国内)
温泉津町の安楽寺にも鏝絵がありました。

お寺の本堂入母屋妻壁に大きな龍が描かれていました。


明治22年山本庄吉の作。

色の美しさとスケールの大きさに驚かされました。


島根県の鏝絵については「鏝なみ・はいけん」
大分県安心院町の鏝絵は「宇佐市観光協会-安心院支部」へ。
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西性寺の鏝絵

2007-09-18 00:39:07 | 遠出(国内)
大森の町めぐりをした時に寄った西性寺で経蔵に描かれた鏝絵を見つけました。


西性寺(さいしょうじ)は元は天台宗寺院でしたが15世紀に浄土真宗に改宗し、現在は本堂、経蔵、庫裏を備えた大森町では最大の寺院です。

その経蔵の壁には四面全てに鳳凰や菊、牡丹の鏝絵(こてえ)が描かれています。
鏝絵は左官が土壁塗りの技術を用いて、漆喰で造る浮き彫り(レリーフ)のことです。

この経蔵の鏝絵は、左官の神様とも呼ばれた大田市仁摩町馬路出身の松浦栄吉(1858-1927)の作です。



実に見事な細工です


この一帯には石州左官と呼ばれる腕のたつ職人が多く、明治になってからその技術を活かした鏝絵がさかんに製作されるようになり、今でも石見地方の寺院や民家に鏝絵が多く残されているのだそうです。

旅行に出る前に全国の鏝絵の写真集を見ていたので、石見地方ではそれを見るのも楽しみでした。
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レトロ温泉、薬師湯

2007-09-17 00:37:47 | 建物(島根県)
外湯で入浴した薬師湯のすぐ隣に薬師湯旧館の建物があります。

これぞ今回の旅の最大の目的。1919(大正8)年の建築、江戸時代からの温泉街になんともハイカラな浴場が建てられたものです。


やっと目にすることができて大感激です。



右は元は女湯でしたが、今はギャラリーに、左は男湯でしたがカフェになっています。残念ながら訪ねた時は営業時間でなくて、中に入ることができませんでした。

中央が元の入り口です。


軒下や窓の装飾が凝っています。




前日の夜の様子も。

新館の屋上では無料コーヒーのサービスがあり、旧館や温泉街の景色を楽しむことができるようになっていますが、これも残念ながら雨のためいただくことができませんでした。
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温泉津温泉外湯めぐり

2007-09-17 00:36:40 | 遠出(国内)
温泉津(ゆのつ)温泉には二つの外湯があります。

元湯(含土類食塩泉)。
約1300年の歴史を持つ元湯は、湯治場としての温泉津を世に広めた由緒ある温泉で、毛利家の家来だったと伝えられる伊藤家が代々管理・運営しています。

タヌキが温泉で傷を癒していたという言い伝えから、屋根の上にもタヌキの彫り物があります。
原爆被爆者もおおぜい湯治に来て火傷治療に効果があったということです。



薬師湯(含石膏食塩泉)。
1872(明治5)年に浜田沖で大きな地震があり、その時新たに噴出した源泉を使っています。地震がきっかけで湧き出したことから「震湯」とも「なまず湯」とも呼ばれています。
泊まった宿の内湯も薬師湯と同じお湯で、露天風呂もありました。

元湯、薬師湯とも入浴料300円。どちらも中は狭い浴室でしたが、湯の花がこびりついたかけ流しの天然温泉でした。
元湯は「熱い湯」「ぬるい湯」「座り湯」の3つの浴槽がありましたが、「ぬるい湯」でもとても熱くて、「熱い湯」は熱すぎて足をつけることもできませんでした。


温泉のお湯を飲むためのタワーもありました。
龍の下の方にあるボタンを押し続けると、お湯が出てきました。飲んでみたら、塩辛さのある変な味で、お世辞にもうまいとは言い難い。でも、薬効があるかと思って一所懸命たくさん飲みました。ドヘ!
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温泉津の町並み

2007-09-17 00:35:26 | 遠出(国内)
石見の夜の宿泊地は温泉津(ゆのつ)温泉でした。

石見銀山から山越えの街道で結ばれた港町で、16世紀後半から銀の積み出しや銀山関連諸物の搬入港として繁栄し、銀山衰退後は北前船による廻船業の基地として、また、湯治場温泉町としても栄えた町です。

港から狭い谷筋に沿って街道沿いに廻船問屋の屋敷や温泉旅館、町家、社寺などがが並び、17世紀末から現在までほとんど変わっていない町並みで、重要伝統的建造物群保存地区になっています。


着いた夜は雨になったので、翌朝5時に起きて温泉街を散策しました。
私でも早起きすることもあるのですw。


古い旅館。

その裏に建つ木造3階建て部分。

龍御前神社(たつのごぜんじんじゃ)。
竜の形をした巨岩の下に旧本殿があり、巨岩自体が磐座=神の降臨する場所として崇拝されたと考えられます。現在の社殿の屋根も石州瓦がきれいに照り映えていました。

内藤家豪商屋敷。


若林酒造さん。1869(明治2)年創業。
「開春」、宿でいただいた地酒です。
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石見銀山鉱山町の遺跡(2)

2007-09-17 00:33:52 | 遠出(国内)
旧河島家。
ここは唯一公開されている武家屋敷で、地役人の組頭まで昇進した上級武家の構えを伝えています。地役人は幕府から派遣されて来る代官に仕えて、代々土着で銀山の支配をした武士です。
大森の町並みでは商家と武家屋敷が入り混じって建っていますが、商家は道に面しており、武家屋敷は塀や門構えの内側に建物があります。
この家も1800(寛政12)年頃に建てられています。
市指定文化財、入館料200円。

内部には当時使われていた調度品が展示されています。
人が顔を出している二階の部屋は女中部屋です。

しかし、上級武士の家よりも豪商熊谷家住宅の方がはるかに大きかったのは、なんかおもしろい現象でした。



大森の町並みから1分程歩いた山の斜面に五百羅漢の石窟があります。
銀山で働いて亡くなった人や先祖の霊を供養するために観世音寺住職の月海浄印が、造立を発願し、月海和尚没後は、田安中納言宗武卿(8代将軍吉宗の次男)が支援を行い、30年近い歳月をかけて1766(明和3)年に完成しました。
石窟の向かい側に川と車道を隔てて、真言宗羅漢寺があり、五百羅漢を護っています。
入山料500円。

石窟は3室あり、中央の石窟には釈迦三尊が、左右の石窟に250体づつ計500体の羅漢が安置されています。500体それぞれ顔が異なり、仕草や表情が豊かです。
五百羅漢像は温泉津町福光の石工、坪内平七一門の人々が刻んだということです。

石窟の中は撮影禁止でしたので、遠景だけで。

石窟の右手には、「三百水」と名づけられた湧水があり、地元の人々がこの水を桶で担いで銀山まで運び、一荷300文で売り歩いたそうです。島根の名水100選にも選ばれています。


ここまで見た龍源寺間歩、石見銀山資料館、熊谷家住宅、旧河島家住宅、五百羅漢は全部が1,500円で見られる共通券(発行日から2日間有効)があったので、それで見てまわりました。
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石見銀山鉱山町の遺跡(1)

2007-09-17 00:32:37 | 遠出(国内)
大森地区で見た建物や遺跡をご紹介します。

先ずは、大森代官所跡。江戸時代にはここに代官所があり、石見銀山支配の中枢でした。表門、門長屋は1800年頃に再建されたものです。

中の建物は代官所跡に明治35年に建てられた邇摩郡役所で、今は石見銀山資料館になっています。
9月24日までの間、出雲大社にある「島根県立古代歴史博物館」と2館同時開催で「世界遺産登録記念、石見銀山展」を開催しています。入場料500円。



代官所跡から徒歩1分のところにある熊谷家住宅

熊谷家は、家業の鉱山業や酒造業とともに、代官所に収める年貢銀を秤量・検査する掛屋、幕府直轄領である石見銀山御料の支配の一端を担う郷宿、代官所の御用達、町年寄を勤めて栄えた有力商家の一つでした。

主屋は1801(享和元)年に建てられ、土蔵などを増築して明治元年に屋敷が整いました。江戸時代後期から末期にかけての有力商人の身分や生活の変遷をよく示すものとして重要文化財に指定されています。建物、敷地、家財が大田市に寄贈され、平成になって修復保存工事が行われ、幕末から明治の姿に復元されています。
入館料500円。

幕府の巡見使や大名家の役人の応接などに使われた座敷。
この他に数多くの部屋、5つの土蔵があり、居間の床下には代官所から預かった銀を入れておく地下蔵もあります。

明治代にこの家に嫁いできた人のお嫁入り道具一式。

二階の座敷から蔵などの石州瓦の黄色い屋並が見渡せます。



徒歩5分くらいのところにある明治時代の旧大森区裁判所(町並み交流センター)。無料。

当時の法廷の様子が再現されています。
町並み交流センターでは町の歴史や保存の歩みなどを紹介した展示・ビデオを公開しているほか、コンサートや個展などの会場として利用されています。
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大森の町並み

2007-09-17 00:31:36 | 遠出(国内)
バスを降りた大森代官所前から龍源寺間歩の銀山入り口までは歩いて約1時間ほどですが、遺跡とそこに住む人間、自然との共生した姿を保つために、この一帯は自動車の乗り入れを規制して、駐車場に車を止めたあとはシャトルバスに乗って移動するようになっています。(「パークアンドライド」方式)

大森代官所前から大森のバス停までの街道に沿って石見銀山に関連する武家や商家、社寺など様々な身分の建物が混在して昔のままの町並みが残っています。
大森銀山重要伝統的建造物保存地区になっています。


映画「アイ・ラブ・ピース」のロケ地だったところが何箇所もあります。

この辺は大森の町並みの中心地なので、特に観光客も多いです。
観光客向けのお店もありますが、どの家も昔のたたずまいは壊さないようにして、そのままに生活しているようです。

世界遺産になってもあんまり観光地化されず、今の雰囲気が壊されないようにしていってもらいたいものです。
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世界遺産石見銀山を歩く

2007-09-17 00:30:29 | 遠出(国内)
広島に1泊した次の日、朝10時広島駅前発のバスで石見地方へ。
途中1回のトイレ休憩があり、12:35に今回の旅のメインである石見銀山大森代官所前に着きました。
このバスは4月から毎日運行になったばかりですが、座席指定制でないので、石見銀山が世界遺産になってしまったので、満員で乗れなかったらどうしようと、随分早目に乗りにいきました。
心配は無用で、大丈夫、広島に取り残されることはありませんでした。

しかし、バスを降りたところはさすがに世界遺産のメッカ。石見銀山とその地元の大森の町並みは大型観光バスで押しかけた観光客でどこも溢れかえっていました。


ここが公開されている龍源寺間歩(まぶ。坑道のこと)の入り口。
江戸時代から昭和18年まで使われていた600mの坑道のうち、156mが公開されています。

中の通路は狭くて、高さも1.6~2.1mしかないので、少し屈み気味で歩いてしまいます。ノミで掘った跡がそのままに残されています。

ところどころに左右に鉱脈に沿って掘り進んだ穴があり、さらに狭い穴となっています。

ここが出口。
結構長く歩いたように思います。
よくこんなに長い穴を人力で掘ったものだとその苦難がしのばれました。
この穴を掘った(掘らされた)人達はどんな階層の人だったのか、駆け足観光だったので、まだよく理解できていません。

石見銀山は、戦国時代から1923(大正12)年まで掘られていました。


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お好み共和国ひろしま村

2007-09-16 00:27:37 | 遠出(国内)
広島まち歩きマップに載っていた「お好み村、お好み共和国ひろしま村」に行ってみました。
屋台村かなと思って探していたら、にぎやかな町の一角にあるビルの中にたくさんの屋台風お好み焼き屋さんが入っているところでした。
お店とお店のしきりはなく通路から丸見え、どこのお店にでもすごく入りやすくなっています。
どこも満員なので、とにかく空いた席のあるところにもぐりこみました。


広島で「お好み焼き」というのは関西で「広島焼き」と言っているもの、薄く展ばした小麦粉と卵の皮の間にやきそばや肉やらえびやらカキやらがごちゃっと挟まれていて盛り上がり、全部食べきれないほどのボリュームです。

入ったお店は元気なおかみさんが切り盛りしているお店で、こてで具や麺を切ったりたたいたりひっくり返す音がとにかくにぎやか、熱気あふれるお店でした。
暑い暑い店内で、冷たいビールがウマーッでした。
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広島の路面電車

2007-09-16 00:26:18 | 遠出(国内)
広島にもいろいろな路面電車が走っていました。



これは高知のとおんなじだ。もしかしたら京都市電の再利用かも。

新型の低床電車もたくさん走っていました。

その内部。乗る時も床が低いのですごく楽。
乗っていると、ヨーロッパの町を走っている電車に乗っているようでいい気分でした。
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殿様のお庭「縮景園」

2007-09-16 00:25:19 | 遠出(国内)

広島城からも近いところにある縮景園です。

国指定名勝庭園で、広島藩主浅野長晟(ながあきら)が1620(元和6)年から別邸の庭園として茶人で家老の上田宗箇に命じて作らせたもの。
広い池の廻りを回遊して楽しめるようになっています。

借景に高いビルがにょきにょき立っているのが誠に残念です。

中国西湖の橋を模した跨虹橋(ここうきょう)は堅固にできていたので、被爆時に園内すべてが壊滅状態になった時も残ったそうです。

昭和24年から被爆前の姿に復元が進められ、今では美しい庭園となっていますが、被爆時にはこの園内でも多くの人が亡くなったそうで、慰霊碑が作られています。
広島市内にはいたる所に原爆の爪跡が残っていて、敬虔な気持で歩かねばなりません。

原爆が落ちた時に残っていたのは、日本銀行広島支店のような頑丈な銀行の建物だけだったようで、通りがかりに見かけた神社・お寺なども戦後建てられた新しいものがほとんどでした。
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