2013年10月15日~17日に、JR四国のバースデーきっぷで愛媛県と香川県に行ってきました。
10:20松山発の「しおかぜ」で予讃線を高松方面に向って帰ってきました。

瀬戸内海は昨日より少しは穏やかになっていました。

途中の伊予西条駅で窓からちらっと見えた「四国鉄道文化館」。木造建築の中に初代0系新幹線と、主に四国で活躍した「DF50形ディーゼル機関車」1号機が展示されているそうです。新幹線の生みの親である十河信二の記念館もあるらしいです。
高松の手前、多度津で「しおかぜ」を降り、土讃線の普通列車に乗って、琴平駅へ。

JR琴平駅は前にも金毘羅歌舞伎を見に来たりして、何度か来ているけれど、いつ見てもかわいらしい姿の駅です。

数分歩いて、高松琴平電気鉄道琴平線の「琴電琴平駅」へ。
高松市の高松築港駅とを結ぶ琴平線の始発駅です。
1927(昭和2)年開業、1988(昭和63)年に改装して使われています。
ここから高松までは、JR四国の乗り放題チケットをはずれて、私鉄路線に乗ることにしました。
13:13発高松まで1時間の乗車で610円です。

改札口内部。

駅に止まっていた電車。

乗った電車。2両編成です。

遠足帰りの保育園児達が先生に引率されて乗ってきて、席はたちまち満席になりました。

車窓に讃岐富士も見えてきて、

空き地にはアキノキリンソウ(あるいは、セイカタアワダチソウ?)があちらこちらに咲いて、今真っ盛りでした。
始めはのどかな農村地帯を走っていた「ことでん」も、やがて高松に近づくにつれて、まわりに住宅やビルが多くなり、乗客数も多くなってきました。

ことでん高松築港駅。

駅のホームのすぐ横は高松城跡のお堀になっていて、魚が泳いでいます。


ことでんの駅から歩いて3分くらいの所にJR高松駅があります。
2001(平成13)年5月13日から使われている4代目の駅舎です。

高松から徳島までは「うずしお」で。
徳島からまた高速バスに乗って京都に帰ってきました。
JR四国のバースデーきっぷを利用した2泊3日の旅、時間いっぱいフルに列車を乗り回し、あれもこれもと盛りだくさんに見てまわり、四国を楽しんできました。
バースデーきっぷはやみつきになりそうで、また四国に行くことを計画中です。
次は松山のお殿様の館です。
萬翆荘(ばんすいそう)(国指定重要文化財)。
松山市一番町3-3-7 松山城の城山の南麓、県庁の裏手に建っています。伊予鉄道道後温泉行き「大街道」下車 徒歩5分。途中に「坂の上の雲ミュージアム」があります。

1922(大正11)年、旧松山藩主の子孫久松定謨(さだこと)が別邸として建てたフランス・ルネサンス様式の洋館です。

建物は地上3階、地下1階でこの地方で初めての本格的な鉄筋コンクリート造。
設計は、欧米外遊から帰朝直後の建築家・木子七郎が担当しました。

建物正面中央の重厚な車寄せ。

その柱頭はコリント式装飾で飾られています。

建物の裏側。
この裏山には夏目漱石が下宿し、正岡子規が療養のために居候した「愚陀佛庵」が建っていましたが、2010年7月12日の記録的な豪雨によって大規模土砂崩れが発生し、全壊してしまいました。

1階の謁見の間。天井は漆喰でできていて、白を基調とした中に金の彫刻が飾られています。
正面暖炉の左右上面に二枚の絵が掲げられていて、1枚は「三坂峠」、 伊予松山藩15万石の財政を支えた水田の広がる松山平野を三坂峠から遠望した図です。もう1枚は「神奈川台場の図」。江戸幕府から神奈川湾警備を命じられた松山藩が、藩財政1年分に当たる7万両と延べ30万人を投入し、わずか1年で築造した神奈川台場から神奈川湾、さらに遠く房総半島を望むパノラマです。
裕仁親王(後の昭和天皇)の松山訪問に合わせ建物の完成を急がせ、これらの絵で松山の印象を高めようとしたということです。

隣の晩餐の間には豪華な水晶製シャンデリアがあります。

二階にも7室あり、一、二階の部屋とも貸し出され、各種個展・イベント・音楽コンサート等に幅広く利用されています。



二階バルコニー。

階段手摺はチーク材。

あちらこちらに素敵なステンドグラスが配されています。


中でも圧巻なのは、階段踊り場の窓に付けられている大型のステンドグラス。
木内真太郎の作品。重なる波の上に帆船が浮かんでいる絵で、

この帆船が画面上部に描かれているのは、二階の部屋からの目線で見渡せるようになっているからです。

続きは
松山地方気象台のすぐ近く(松山市北持田町131‐1)にある愛媛県教育会館です(国登録有形文化財)。

県内教職員の研修の場を目的として1937(昭和12)年に建てられました。

木造3階建、鉄板葺、愛媛県技師・浅香了輔の設計によるもので、縦長の上げ下げ窓など洋風意匠を基調としながら、和風装飾を組み合わせる昭和前期に特徴的な意匠を持っています。
帝冠様式の建物、どこか京都市美術館に感じが似ています。

木材は主として栂や桜が使用され、 総工費は76,419円で、当時県内約6,000人の教職員が毎月棒給の千分の一を5年にわたって分納、その他松山市と温泉郡に住む教員の特別寄附などによって賄われたそうです。

裏側から見たところ。

玄関ホール。

タイルがかわいい。

ホール右側から広い階段があり、2階、3階に通じています。
続きは
翌日は朝から快晴。
汽車に乗る前のわずかな時間に松山市内の建物探訪に出かけました。
先ずは、松山地方気象台(旧愛媛県立松山測候所)、松山市北持田町102 にある現役の気象台です。伊予鉄市内電車「警察署前」下車徒歩5分。

元は1890(明治23)年に「愛媛県立松山一等測候所」として設置されましたが、国への移管や名称変更などを経て「松山地方気象台」となりました。
現在の庁舎は1928(昭和3)年に建てられたものです。(登録有形文化財)
最近改修されたのか、古さを感じさせない美しい外観になっていました。


裏側から見たところ。

ちょうど朝の出勤時間で職員の方が入って行かれるところに声をかけて、ご好意でちょっとだけ玄関ホールに入らせてもらい、中を見させていただきました。
玄関の真上に向かって両側から階段が2階3階へと続いていて、中央空間はギリシャ風の円柱で支えられた吹き抜けとなっています。
玄関を入るなりのこの吹き抜けの壮麗な空間、わーお!すんばらしいーです。

古い建物の中で仕事を続けておられることは多少(多いにかも)の不便があるでしょうが、こうして改修してでも使い続けていてくれることはうれしい限りです。

前庭では簡単な観測も続けられているようでしたが、周りに高層ビルが増えた影響で風向・風速、日射、日照の観測に支障を受ける状況となったため、2006年にこれらの観測機器を近くの県立松山東高等学校の屋上に移設し、そちらで観測を行っているそうです。
設立以来、全国でも稀な100年以上にわたる気象観測を行なっており、地球温暖化など長年の気候変化を探ることができる気象観測データが残されています。
長い歴史の中で、戦時中には空襲を回避するため庁舎は黒く塗られ、気象情報は戦略上重要ということで管制され、天気予報も発表できない時代がありました。今また秘密保護法という形で、情報が隠され一般に発表されない、そんな暗い時代に逆戻りしそうで、何とも心配なことになってきたものです。
おまけ。

すぐ近くにあった日本聖公会松山聖アンデレ教会。
1956年に建てられた礼拝堂は、松山市に現存する唯一の煉瓦造りの建物だそうです。
耐震改修がされています。
続きは
松山に着いて駅前の宿にチェックインした後、路面電車に乗って道後温泉に行きました。


道後温泉は日本最古の温泉の一つで白鷺が傷を癒しているところから発見されたという伝説があります。
本館の建物は1894(明治27)年築、三層楼閣造りの壮大な建物で、国の重要文化財になっています。

温泉の上空に輝くお月さん。
温泉は霊の湯と神の湯の二種類あり、それぞれ階によって料金が何種類かありますが、「神の湯の二階席」1200円というのにしました。

玄関を入って天井の高い廊下をずずずいーっと奥に進み、二階に上がると、

55畳の大広間に通されました。
浴衣と貸タオル、柳の衣桁が貸し出されて、お茶とおせんべいが出されました。
男女同じ部屋でここで浴衣姿で休憩するのですが、着替えの部屋は別室が用意されています。
そこから先ず霊の湯に入り、休憩したあと神の湯にも入りました。
霊の湯はこじんまりした浴室で庵治石と大島石を使った浴槽に、壁は大理石で高級感いっぱい、神の湯は一般の銭湯風で、大きな丸い浴槽の真ん中に大国主命と少名彦命の像が立っていました。
入浴の後、着替えてから又新殿(ゆうしんでん)を見学しました。
明治32年に建てられた皇室専用の浴室で、桃山時代の建築様式を模して、前室、御居間、玉座の間、武者隠しの間、浴室、便所も揃っていました。全て撮影禁止。

続いて三階に上がって、「坊ちゃんの間」を見学。
夏目漱石が松山滞在中によく道後温泉に来たので、その頃の面影を伝える部屋が「坊ちゃんの間」として公開されています。

坊ちゃんの間を外から見たところ。

霊の湯個室をちらっと覗き見しました。ここは1500円で霊の湯に入浴後、坊ちゃん団子を味わいながら個室でくつろげるリッチな部屋です。
道後温泉本館は「千とちひろの神隠し」のやかた風の古風な大浴場でしたが、内部は階段を上がったり下りたりでちょっと大変でした。

温泉で暖まった後、近くの食堂で夕食に食べた「鯛そうめん」。
鯛の煮汁のしみ込んだそうめんをたれにつけていただくものでした。
おいしかったー。
続きは
宇和島駅に帰って来てお昼に食べたのが宇和島名物、鯛めし。
愛媛県で鯛めしと言っても、松山近辺ではご飯に鯛の身をまぶしたもの、宇和島近辺では鯛の身をまぶしたお茶漬けになります。

宇和島駅前の食堂でその宇和島風鯛めしを食べました。
手前右のお皿に乗っているのが鯛のさしみ、これを真ん中の玉子入りたれの中に混ぜて、それを左のご飯にかけて、

出来上がった鯛めしがこれです。
おいしかったのですが、ここのたれは薄味になれている私にとってはちょっとから口でした。

13:55宇和島駅から再び特急「宇和海」に乗って、

14:42伊予大洲駅で下車。1時間位駅前でぶらぶらしました。

15:34伊予大洲から松山まで普通列車に乗りました。
予讃線は松山と伊予大洲の間で海沿いを走る旧来の線と、内陸部を走る内子線に分かれています。最初のプランでは1日目に松山から八幡浜に行く途中で海沿いを走って瀬戸内海の夕日を見る予定だったのですが、台風のあおりで雨がきつかったため断念、内子線まわりの特急にし、帰りのこの日は海沿いの予讃線を普通列車で帰ることにしたのです。

1両編成のワンマンカー、最初はがらがらでしたが、17:10松山駅に近づくにつれて通学の高校生等で混みあってきました。

伊予大洲から伊予長浜まで6駅、農村風景の中をかなりの長い距離ゴトゴトとのんびり走っていきます。
車窓には肘川の流れが続きます。
伊予長浜駅の近くには肘川にかかる赤い橋があり、冬の朝には大洲方面から瀬戸内海に向かって大量の霧が嵐となって流れ出す「肱川嵐」で有名です。冬の朝の気温と大洲から長浜までの両側の山に囲まれた細長い地形と瀬戸内海からの上げ潮の微妙な関係で独特の現象が引き起こされるそうで、いつか一度見てみたいものです。

伊予長浜から瀬戸内海側に出た列車はしばらく海沿いに走ります。
この日も海はまだ少し波が高くて、いつもの波静かな瀬戸内海とはちょっと様子が変わっていました。

駅の目の前がすぐ海ということで有名になっている下灘駅を通りました。
駅にはカメラを持った人達が何人かいて、列車の通過を待ち構えていましたが、アッという間の通過だったので、こちらからはこの写真しか撮れませんでした。
海に沈む夕日もこの日は雲が多くて残念ながら見ることができませんでした。
続きは
宇和島市立資料館からバスに乗ると、宇和島駅を通ってそのまま宇和島城、天赦園方面に行くことができます。(住吉町から薬師谷渓谷行きで天赦園前まで18分)

天赦園は、宇和島藩二代藩主伊達宗利が海を埋め立てて造成した浜御殿の一部でしたが、幕末に7代藩主の伊達宗紀が1866(慶応2)年に隠居所として大改造を行って作った庭園です。
西郷隆盛、大村益次郎、高野長英等も来園して宇和島藩との接触をした所であり、国指定の名勝になっています。

宇和島城の南西側にあり、庭園からお城を仰ぎ見ることができます。

庭園はいかにも大名庭園らしい池泉回遊式で、広い池の水が満々とたたえられています。


伊達家の祖先が藤原鎌足であるということから、園内には6基の藤棚が設置されています。
特にこの棚は池の水面上にかかる橋のように仕立てられていて、見事でした。


藤の花の見頃は4月だということです。
他にも花菖蒲や伊達家の家紋の竹もいろいろな品種が植えられていました。
庭の片隅には「鴨猟場跡」の水路もありました。将軍様の浜離宮庭園と一緒やね。
宇和島城は藤堂高虎によって築かれた五角形の縄張りの名城ということですが、時間と体力不足で今回は登城せず、宇和島駅に帰ってきました。
続きは
八幡浜駅発 9:52 特急「宇和海」で10:26宇和島に着きました。

宇和島駅の前には椰子の木がそびえて南国の気分です。
駅の上はホテルになっています。

予讃線の終着駅らしく、ここで線路が途切れています。

駅舎の中にはアンパンマンの万国旗が飾られていて、

駅前に小型SLが展示されています。

宇和島と言えば、闘牛! ですが、実物は見ず。

駅前から宇和島バスに乗って6分、住吉町で下車するとすぐの所に宇和島市立歴史資料館があります。
元は1884(明治17)年に宇和島市広小路に建てられた宇和島警察署です。市内の70%が焼失した戦災も免れ、昭和28年南宇和郡西海町役場として移築され、平成2年までその役目を果たしていました。平成4年3月に宇和島に里帰りし、樺崎砲台跡そばに復元されたものです。

木造寄せ棟造り二階建ての擬洋風建築で、玄関はペジメント(三角切り妻屋根)を載せた張り出しポーチになっています。
入口上部のアーチの中央にはキーストーンを木で模した楔が飾られています。


外壁の角は石積み風になっています。
窓は分銅によって上げ下げする当時としては珍しい造りです。

玄関ホール。
1階の部屋では宇和島生まれの大正ロマンの画家、高畠華宵(1888~1966)の作品が展示されていました。

階段をあがって、

二階の広い部屋。
左にバルコニーへの出口があります。

小部屋では昔の消防用具など、郷土の歴史資料が展示されていました。

天井換気口の模様。

屋根裏の小屋組みが見えるようになっていて、「かぶら束」という放射状の柱が複雑な構造があり、洋風建築の技法を巧みに取り入れていることがわかります。
警察署として作られたにしては、優美な建物だと思いました。1996年に愛媛県で第1号の登録有形文化財に指定されました。
転変しながらも、よく残されてきたものです。

建物のすぐ横に史跡樺崎砲台跡がありました。
1855(安政2)年3月から12月にわたり、10ケ月かけて宇和島湾の防備として築造された砲台の跡です。黒船来航以来、諸国の沿岸防備を固めるようにという幕府の命令で、宇和島藩が西洋の築造法を導入して造り、5台の砲がすえられていました。
実際に戦いに使われることはなく、イギリス軍艦に対して礼砲を撃ったことがあるそうです。

模造大砲が1台復元されています。

庭内に戦争中の日本海軍魚雷酸素式機関部も展示されていました。
続きは
翌朝もレンタル自転車で八幡浜の街を見て回りました。

昨夜来た大正湯を明るい光の下でもう一度。

何ともいえぬ味わい、レトロやなあ。ええなあ。

こちらは昭和の建物、新町にある伊予銀行八幡浜支店です。
元は豫州銀行本店、1936(昭和11)年築、設計・施工は清水組。
鉄筋コンクリート造り3階建てで現役の銀行です。
朝開店前に若い男性行員さん二人が銀行前の掃除をしていました。

港の方に行ってみました。
別府行きと臼杵行きのフェリー乗り場です。
辺りには道の駅「みなっと」や魚市場、漁協等大型の施設が並んでいます。

フェリー乗り場から振り返って見た新川の河口。

港から自転車で5分程の幸町付近に行きました。

狭い道に面して、

「梅美人酒造」の建物があります。

1931(昭和6)年の建物。国の登録有形文化財です。

裏手に工場がありました。

そこからすぐ近くに戦争中の防空壕跡がありました。

看板に「見学者の皆様へ 四国で最初の本格的な防空壕です。昭和15年5月に起工し、翌年2月に完成しました。米軍機の機銃掃射などで、この防空壕も何度か市民の退避に使われました。この戦争の体験を後の世の人に伝えたいと思っています。防空壕の中を見学されたい方は下記のいずれかで鍵をかりてご見学ください。」として、近くのお店で鍵が借りられることが書いてありました。
時間がなくて中は見れませんでしたが、今では貴重な戦争遺跡です。
八幡浜は幕末から明治にかけて交易船がさかんに行き来し、経済が大きく発展して「伊予の大阪」と言われました。その繁栄の痕を残す建物や街並みがそこここに残っています。

新栄町にある「旧川島邸」。

坂本歯科医院、

看板が変わっています。彫刻家と和尚さんの合作でできたそうで、一枚の宇和檜板の表は篆刻(篆書)で、

裏は陰刻(行書)で書かれています。
(昭和21年制作)

木造三階建ての住宅もありました。
八幡浜は広すぎず、狭すぎず、自転車でまわるのにちょうどいい、なつかしいたたずまいの街でした。
この他にも、合併で八幡浜市内になっている保内、川之石地区にも赤レンガの工場や擬洋風建築の建物もあるそうですが、今回は足をのばすことができませんでした。
まだまだたくさん見てみたかったのですが、レトロ八幡浜の街歩きはこの辺にして、また汽車に乗って次の街へ。
続きは
八幡浜駅から宿のある街の中心部までは歩いて20分くらい。

街の中心部に沿って流れる新川です。

明治橋。
元は1904(明治37)年頃に木製トラス橋が架かっていたのでこの名前がありますが、1930(昭和5)年に現在のアーチ型の鉄筋コンクリート橋に架け替えられました。

アーチの下側に路面がある鉄筋コンクリートの「下路橋」で、現役としては国内で最も古いことが評価されて土木学会の選奨土木遺産に認定されています。

橋の南側の街並み。
この近くに古そうな酒造会社の建物もありました。

中心部には銀座商店街と新町商店街の二つのアーケード商店街が交差してあります。
こちらは長い方の新町商店街です。道幅は狭いながらもかなりの長さです。

夜だったので、シャッターが閉まったお店が多かったですが、いつもは「シャッター商店街」なのでしょうか、どうでしょうか?

食堂「ロンドン」で八幡浜名物の「ちゃんぽん」を食べました。
八幡浜のちゃんぽんは、長崎のほど具は多くありませんが、あっさりした醤油味に太めの麺でとてもおいしかったです。市内にはちゃんぽんが食べられるお店が52軒もあるそうで、八幡浜ちゃんぽんMAPができていました。PRキャラクターは「はまぽん」。

銀座商店街のお店。

銀座商店街の中に「二宮忠八翁生誕の地」の碑がありました。
二宮忠八(1866-1936)は、ここの商家の生まれで、明治時代に「飛行器」を考案製作し、ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物と言われています。京都府八幡市にも忠八ゆかりの飛行神社があります。

商店街のあちらこちらに川柳の句が貼られていましたが、ここには特にたくさんの句が。
「25年おもしろ川柳入選作品」だそうです。
おもしろかったもの、
「あげないで 血圧、血糖、消費税」
「この頃は 会話も入れ歯も 咬み合わず」
「今日内科 明日泌尿器科 眼科 歯科」
などなど・・・。

商店街を抜けた所にある、大正町の「大正湯」に入って来ました。
早い時間だったためか、お風呂は占有でした。
浴槽は3つあるのだけれど、奥の二つの四角いのはお湯が入っておらず、中央の楕円形の浴槽だけ使われていました。
1915(大正4)年建築の木造銭湯で、建物も中の浴槽も相当な古さです。
この姿でよく今も営業できているものだと感心。このまま何とか続けてほしいお風呂でした。
続きは
四国最西端の駅、八幡浜駅に着きました。



ホームに手を洗うところもありました。

改札口を出ると、

待合室の高い天井に大漁旗が飾られていました。
八幡浜と言えば、港町。
「♪高知~高松~八幡浜~♪」というメロディが頭を離れません。
森進一の「港町ブルース」、知る人ぞ知るのでしょう。

1939(昭和14)年の開業。木造ですが、コンコースの両側に高く明りとり窓があけられていて、モダンなデザイン、こじんまりとすっきりした白い駅舎です。
駅は町のはずれの高い位置にあり、後ろには急な斜面一面にみかんが作られている山々が町を取り囲んでいます。
続きは
JR四国のお得きっぷ、バースデーきっぷで 徳島→高松→松山→宇和島 に行って帰って来る旅をしてきました。
バースデーきっぷというのは、誕生月内の連続する3日間、JR四国内の列車を特急でも普通列車でもグリーン・指定席・自由席どれでも1万円で乗り放題という切符です。

これがオールマイティカード、改札口で見せる度に「おめでとうございます。」と言われるのはちょっと面映いです。

先ずは、徳島駅から。
徳島までは往復京都からの直行高速バスで四国に入りました。

特急「うずしお」。

2両編成。そのうち指定席は1両の1-4番席だけで、座席に「指定席」と書いた青い背もたれが掛けられているので区別されています。

高松からは特急「いしづち」。

グリーン席はなくて普通車の指定席に乗りました。

宇多津で岡山からやって来た特急「しおかぜ」と

連結しました。

先頭から3両が「いしづち」、後ろの5両が「しおかぜ」で、一緒に松山まで走ります。

「しおかぜ」にはグリーン車があるので、そちらに乗り換えました。バースデーきっぷの特典は目いっぱい享受しなくっちゃ。
と思っても、四国内には意外にグリーン車が少なかったのです。
「しおかぜ」のグリーン車は「いしづち」の普通車指定席とほとんど変わりませんが、1列3席になっているのと、足を伸ばせる空間が広いのが違っているところです。

松山から八幡浜までは特急「宇和海」に乗りました。
徳島を11:30に出て、八幡浜に着いたのが18:04。
四国の瀬戸内海側をほぼ半周しましたが、太平洋を東進する台風のせいで、車外はずっと雨に煙っていて瀬戸内海の景色を楽しむことができませんでした。
続きは
三条商店街の近くにある武信稲荷神社の御神木エノキの大木の枝が折れたのを大木アーティストの方が加工して、龍の姿を表しています。
今日通りかかったので見てきました。
わかるかな?右上が龍の鼻先、画面中央に目があります。
もっとよく見える画像と詳細は、ぽんさんのこちらのブログにあります。
今日通りかかったので見てきました。
わかるかな?右上が龍の鼻先、画面中央に目があります。
もっとよく見える画像と詳細は、ぽんさんのこちらのブログにあります。