2012年1月15日、滋賀県近江八幡市安土町にある安土セミナリオにニューイヤーコンサートを聴きに行ったついでに、「近江風土記の丘」一帯を見てまわりました。
長浜町国友にあった農家で、1754(宝暦4)年に建てられたものでしたが「風土記の丘」に移築されました。


湖北地方の民家の特徴を残す貴重な遺構として、昭和43年に国の重要文化財に指定されました。

広い土間と座敷があります。
「近江風土記の丘」二つ目の建物は旧安土巡査駐在所。

1885(明治18)年10月に、金田・島・安土の3ケ村を受け持つ常楽寺交番所として安土駅に近い十字路の角地(旧安土村大字常楽寺字下横町)に住民の寄付によって建てられ、昭和40年3月12日に廃所されるまで使われ、昭和45年(1970年)に現在地へ移築されました。

木造2階建て、瓦葺、国の登録文化財です。明治の早い時期に地元の大工によって建てられたと伝わる擬洋風の警察建築として貴重な建物です。

一階内部は三室で正面の事務室と奥の一室が洋室、もう一室は和室、事務室脇には土間と台所があります。二階には和室二室があります。

安土城考古博物館。
安土セミナリオや安土城考古博物館がある「近江風土記の丘」一帯には滋賀県のいろんな建物が移築され、安土城考古博物館の屋外展示として公開されています。(すべて無料)
ニューイヤーコンサートが始まる前に近くの建物を見てまわりました。
先ずは、旧柳原学校校舎。

1876(明治9)年築。県指定有形文化財。
滋賀県高島郡新儀村(現・新旭町)の初等科小学校校舎として建てられ、この地方では他に先がけて学校建築に洋風をとり入れたものです。

現存する滋賀県の学校建築としては最も古く、1階は教室、2階は区事務所に使われ、3階は鼓楼となっています。


洋風を取り入れながら、和風建築の部分もあり、玄関は江戸時代の藩校の面影を残しています。
2012年1月15日に滋賀県近江八幡市安土町に行きました。

こちらは、「安土文芸セミナリオ」。
安土城跡南西に位置する場所に、わが国最初のセミナリオ(神学校)が建設され、音楽やイタリア語などを教えていたのにちなんで、現代のセミナリオが建てられています。
安土城跡の麓一帯に財団法人安土町文芸の郷振興事業団がヨーロッパ文化交流の国際都市としての安土桃山時代の象徴として作ったもので、セミナリオの他に「あづちマリエート」(体育館風)、「安土城天主信長の館」、そして滋賀県立安土城考古博物館もあります。

「セミナリオ」は音楽専用ホールで380席、立派なパイプオルガンがあります。

この日はパイプオルガンと箏の共演で「ニューイヤーコンサート」。
パイプオルガンは臼井真奈さん、箏は福原左和子さんの演奏でした。
はるばる安土まで音楽を聞きに行くほどの元気も興味もなかったけれど、京都からの団体送迎バスがあったので、出かけてみました。
京大阿武山観測所では、現在も地震や地殻活動の観測を行っていますが、外部の影響を出来るだけ避けるために、裏山の中腹に観測坑が掘られ、見学することはできません。
その代わり、建物の地下室には、地震観測の歴史を表わす歴代の地震計が展示されていて、いずれ博物館にする計画も考えられています。

ウィヘルト地震計。1904年にドイツのエミル・ウィーヘルトが作成した大型の機械式地震計で遠くの地震を多数観測しました。写真では一部しか写せませんでしたが、とても大きなものです。
阿武山では1929(昭和4)年、観測所開設と同時に設置され、1991(平成3)年6月末まで稼働していました。
この頃の地震の動きを記録する紙は、灯油の煤を紙にふりかけたもので、その面を針が引っかいて振動の跡を記録していたので、観測員の仕事は煤がけが重要な作業で大変な仕事だったようです。

ガリチン地震計。
ロシアのボリス・ガリチンが作ったもので、電磁式地震計としては最も古いもの。
阿武山では、1938(昭和13)年頃に設置され、1964(昭和39)年までの記録が保存されています。

佐々式大震計。
1934年(昭和9)年、佐々憲三によって近くの大地震を記録するために開発された地震計で、地震の完全な波形を初めてとらえました。1997(平成9)年12月末で観測を終了しました。
最近の地震計としては、

海底に沈めて観測する地震計や、
「満点地震計」といって、小型軽量の地震計を多数の地点に設置する方法が取られてきています。
地震観測はますます重要性が増してきている科学ですから、こちらの観測所にもますます頑張って観測・研究を続けていってもらいたいものです。

高槻の農場、阿武山観測所と、京大の施設を見学させてもらった後は、近くの摂津峡温泉に寄って、川の側の露天風呂で暖ったまって帰ってきました。

正式には、京都大学防災研究所阿武山観測所。
高槻市の北方、大阪平野から隆起した北摂山地の南端、標高218mの美人山の山頂付近にあり、1930(昭和5)年から地震、地殻変動や地下水の観測・研究をしています。
元は左京区北白川の京大理学部地球物理学教室の実験室でしたが、今出川通りに市電が走ったため、精密観測に支障をきたすようになり、ここに移転してきたもので、1990(平成2)年からは防災研究所所属の観測所となっています。

建物は,斜面に立っていることを生かして、2階建ての西館と3階建ての本館・東館が上下、左右にずらして建てられており、2棟の間にこの玄関ピロティ部分が挟まれてあり、どちらにも通じる形になっています。

玄関ピロティを突き抜けると、奥には緑の山の斜面があります。

3階建ての本館部分。本館には研究室や観測室があります。

2階建ての西館部分は柔らかい曲線の外壁で囲まれています。

本館への玄関。

西館のセミナー室。かつてはテレメータ室として使われていました。

西館の事務室。
窓の曲線がおもしろい。
この建物は2007年に大阪府の近代化遺産総合調査報告書に注目すべき近代化遺産として取り上げられたモダニズム建築です。
レトロな建物として、テレビや映画の撮影にも度々使われるようになったそうで、「砂の器」の大学研究室とか、戦争中に犬を供出するテレビドラマに玄関前が使われたとか・・・。

撮影記念コーナー。
右側の椅子は、「プリンセス・トヨトミ」撮影の時に綾瀬はるか様が座って休憩されたものだそうです。

本館2階の廊下。

本館屋上に立つ塔。
この塔は観測のために作られたものではなく、建築デザイン上この頃はやりのものか、京大時計台の流れを汲むものかもしれません。

塔の内部。

塔内の高い空間を利用して、後からつけられたフーコーの振り子。
地球の回転を証明することができます。

屋上からは大阪平野が一望のもとに。
大阪城から咲洲、淡路島や関西国際空港までも遠望でき、夜には夜景が見事だそうです。しかし、建物までの山道は外灯一つないそうなので、泊り込みの観測者だけが見ることができる眺めなのでしょう。

観測所の裏山には,阿武山古墳があり、身分の高い貴人のミイラが発見され、藤原鎌足ではないかと言われているそうです。
「貴人山」がなまって「美人山」になったのかも。
京都大学の大学院農学研究科附属農場は、昭和3年に高槻市八丁畷町に設置された本場と、高槻市古曽部町に古曽部温室、京大北部構内に京都農場があります。
そのうち、高槻農場本場は150,292㎡の広さがあります。この辺りは、紀元3世紀頃に築造されたと思われる安満(あま)宮山古墳や村落、水田の跡があり、大昔から稲作が行われていたことがわかっています。
今も農場の広い部分が水田で、稲の栽培が行なわれています。

水田の写真は撮らなかったのですが、水田の他にもいろいろな果樹や農作物が栽培されています。


梨はいろいろな日本の品種や中国産の品種があり、この「菊水」はここだけで栽培されている希少な品種です。

ブドウも、

柿も桃もありました。

温室の中ではトマトの甘い品種の開発や、

イチゴもいろいろの品種が栽培されていて、新しい品種が生み出されています。

農場では学生の栽培実習や院生の研究が行なわれていますが、また、栽培された作物が市民に販売されたり、小学生への特別授業や市民への公開講座も行なわれ、高槻市民に開かれた農場を目指しています。
しかし、京大ではこの農場は売却して、京阪奈の学園都市の方に移転する計画があるそうです。そうなると、この地に根付いてきた果樹は移植してもそこでうまく育つのか?古代から続いてきた稲作地帯がなくなるのももったいないし、跡地がどのように利用されるのか?いろいろ心配な疑問が湧いてきました。
今年の初詣は四国霊場八十八ヶ所の第三十三番、高福山 雪蹊寺へお参りしました。

高知市中心部から南へ車で20分ほど、景勝地桂浜に行く手前の長浜地区にあります。
元旦でもお遍路さん達が参拝していました。
延暦年間(782~806年)に弘法大師によって開創され、元は高福寺といいましたが、その後運慶、湛慶のゆかりで慶運寺と改められていました。本尊は薬師如来で脇士に日光菩薩、月光菩薩、いずれも運慶晩年の作と言われる重要文化財、毘沙門天と脇仏の吉祥天女、善賦師童子は運慶の子湛慶の作で重要文化財。鎌倉時代の仏像が地方にこれだけたくさんあるのは珍しいそうです。
室町末期には廃寺同様となっていましたが、戦国時代に月峰和尚が入山し、長曾我部元親の援助もあって臨済宗として復興しました。
元親の死後はその菩提寺となり、元親の法号にちなんで雪蹊寺となりました。

雪蹊寺の裏手にある長曾我部信親のお墓。
1586(天正14)年、豊臣秀吉の九州征伐の時に大分県戸次川の戦いで薩摩の島津義久の大軍と戦って戦死した元親の長男信親は時に22歳、ロマンやなあ。
その横には戸次川で共に斃れた戦没者七百余名の供養塔もあります。

雪蹊寺の隣にある秦神社は長宗我部元親と信親を祭神とする神社です。
雪蹊寺と秦神社の背後の山は長浜城址。
戦国時代に本山梅慶の支城でしたが、1560(永禄3)年、長宗我部元親の父国親が奇襲して奪い取りました。
以来、長浜一帯は長曽我部元親の城下町としてひらけていましたが、山内一豊の入国で浦戸城明け渡しを余儀なくされ、長曽我部由来の武士は郷士として、山内氏に従って入国してきた上士の下位に従えられる構造となりました。
長浜にはこの他にも、長宗我部元親のお墓や元親初陣の像など、長曽我部氏関連の史跡がたくさんあります。

高知市の中心街、はりまや橋交差点。元西武デパートがあった一角は今は大きなパチンコ企業ビルになってしまいました。
恐るべし、高知のパチンコ文化!