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楽しいことを思い出すとうつが改善する・利根川進博士の研究

2015-12-12 21:33:05 | 脳科学・心理学
マウスを使った動物実験ですが、非常に巧妙な仕掛けを使って過去の楽しいことを思い出させるとうつ状態が改善されるという研究報告がありました。利根川進博士たちの研究です。

利根川進というと、長いことノーベル医学生理学賞を受賞した唯一の日本人でしたから、昔、生物学徒だった私たちにとっては英雄のような人でした。免疫学でノーベル賞を受賞した後も、脳科学に転向して何十年にもわたってレベルの高い研究を継続していることはすごいことだと思います。利根川博士には3人の子どもがいたのですが、3人目の息子さんは2011年に18歳で自殺で亡くなっています。その息子さんは親もおどろくほどの飛び抜けた才能にあふれた子どもだったようです。そのあたりの経緯は彼の手記「利根川進(29)私の家族」に書かれています。ノーベル賞はいらないから息子をかえしてほしいという悲痛な思いがつづられています。自殺の原因は書かれていませんが、うつであった可能性は高いでしょう。これまで利根川博士は記憶や学習の分子的メカニズムを解明する研究をしてきましたが、うつを研究のターゲットにするようになったのは、そんな私的なできごとが動機になっていたのではないかと思えてきます。

研究チームは、光遺伝学という高度な研究手法を用いてこの研究を成し遂げました。マウスの脳がある活動を行った部分を標識しておいて、あとで光を当てるとその部分を再度活性化させることができるという方法です。あまりに高度なテクニックなので、どうやってそんなことができるのかにわかに理解しがたい方法です。ともかく、そういう研究手法を使って、まずオスマウスをメスマウスと一緒に過ごさせて楽しい思い出を作ります。そのときのオスマウスの脳の海馬内の記憶のために働いた部分を分子的に標識するのです。その後、そのオスマウスにストレスを与えてうつ状態にさせます。そして、オスマウスに光を当てると、以前に標識された脳の部位が活性化されて、メスマウスと過ごした楽しい記憶を思い出します。するとうつ状態が改善したというのです。

非常に示唆に富むこの研究結果からは、いろいろな興味や疑問点が出てきます。ヒトで同じような脳の分子操作はできませんから、ヒトでは現実的に何ができるだろうかと考えます。この実験でマウスが思い出したのは、性的な思い出でしょうか、メスに受け入れられたという社会的承認の記憶でしょうか、優しくした・されたという愛の思い出でしょうか、それらの複合したものなのでしょうか。では、そういう男女間の喜び以外の楽しい思い出でもうつは改善するのでしょうか。予備実験でそういうことも試したけれど、うまくいかなかったのでしょうか。マウスでだめだからといってもヒトでもそうとはいえません。この楽しい記憶を思い出すというのは、認知行動療法の手法の一つにも似ています。私が今読んでいる認知行動療法の本によると、うつの原因である認知の歪みを改善する方法の一つとして、承認を他者に求めるのではなく、自らを承認するというテクニックがあります。毎日、自分の良い点、良いことをしたことを他人から認められたかどうかにかかわらず、過去にもさかのぼって思い出す、いくつ思い出したか記録するというものです。これはやってみるとそう簡単ではありません。人にもよるのでしょうが、良い記憶はそうそうたくさん思い出せるものではありません。だから無理してでも思い出すことが大事なのでしょうし、自己承認を高めることができるのでしょう。今回の利根川博士の研究のきもは、うつの改善のために脳の中にある良い記憶・感情を引き出すことの重要性を示したことにあるような気がします。

この研究は、理化学研究所(理研)脳科学総合研究センター 理研-MIT神経回路遺伝学研究センターの利根川進センター長、スティーブ・ラミレス大学院生らの研究チームによるもので、科学雑誌『Nature』(2015年6月17日)に掲載されました。下記に理化学研究所によるプレスリリース(光遺伝学によってマウスのうつ状態を改善 ―楽しかった記憶を光で活性化―)の短縮版を引用します。

『うつ病は、現代社会が生み出す多様なストレスも要因の一つといわれており、近年大きな社会問題となっています。しかし、一般的に使われている治療薬や治療法の効果は個人差が大きく、うつ病の克服はなかなか難しいのが現状です。理化学研究所の研究チームは2014年に、マウスを対象に光遺伝学という手法を使って、嫌な記憶を楽しい体験の記憶に書き換えることに成功しています。うつ病では、過去の楽しい体験を正しく思い出せなくなる、という特徴があることから、研究チームは「過去の楽しい体験の記憶に関わる神経細胞を活性化することで、うつ病の症状を改善できないか」と考えました。

研究チームは、オスのマウスにメスのマウスと過ごすという“楽しい”体験をさせ、そのときに活動した脳の海馬体にある歯状回という部位の神経細胞を遺伝学的手法で標識しました。この手法で標識をすると、実験者が望むタイミングで光をあてることで、標識した細胞を活性化することが可能になります。次に、そのオスのマウスに体を固定するという慢性ストレスを与え、「嫌な刺激を回避する行動が減る」、「本来なら好む甘い砂糖水を好まなくなる」という行動に示されるような“うつ状態”が引き起こされるようにしました。このうつ状態のマウスの、楽しい体験の記憶として標識した歯状回の神経細胞に光をあてて神経活動を活性化したところ、嫌な刺激を回避する行動が再び現れ、砂糖水も再び好むようになるという、うつ状態の改善がみられました。また、このうつ状態の改善は、恐怖や喜びなどの情動の記憶に関わる「扁桃体」や、やる気や意欲、報酬を得たときに感じる喜びなどに関わる「側坐核」という領域につながる回路の活動によるものであることが分かりました。

これは、光による神経細胞群の活性化によって、過去の楽しい体験の中で実際に感じた喜びの記憶や感覚が呼び起こされて、症状が改善したことを示しています。この成果は、今後のうつ病の新しい治療法開発に役立つかも知れません。』