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坐禅中に出てくる雑念はどうすればいいのか(2)曹洞宗編

2016-07-24 07:24:23 | 瞑想・仏教
坐禅中の雑念について、曹洞宗ではどう考えるのでしょうか。

永平寺で修行した曹洞宗僧侶の星覚(せいがく)氏の著書、「坐ればわかる 大安心の禅入門」文春新書、p.65-67を見てみます。「私は最初、坐禅とは『無』になることだと思っていました。雑念をどんどん減らしていき、心の動きが全くなくなったところに、スッキリと開けた悟りの境地が現れる。坐禅にそのようなイメージを持っていました。しかし坐禅中『無』になれ、あるいは『無心』になれ、といったように心について指導されたことは今まで一度もありません。…永平寺では就寝前の坐禅の最後に、『普勧坐禅儀』を皆で声に出して読みます。前述のようにこれは道元禅師が記した坐禅の注釈書のようなもので、…心については『思考が及ばないものを思考しなさい。どうすれば思考が及ばないものを思考できるのか、それは思考にあらず』と言っています。こうしてみると息と心に比べて身体のことについての記述が圧倒的に多いことが一目瞭然です。たいていの人は無心になるとは、心を扱うことだと思いがちですが、道元禅師は頭でいくら考えてもその境地には達することができないと、この短い文で表現しているのでしょう。むしろ身体を知ることが禅を学ぶうえで大きな助けとなりますと書いています。」
とにかく、身体をととのえることに専心し、よけいなことは考えるなということのようです。だから、曹洞宗は只管打坐(ただひたすら坐れ)というのでしょう。無心を目指しているようではあるのですが、無心になることを意識するなとも言われているようで、これはかなり難しそうです。

また、曹洞宗僧侶で庭園デザイナー、文筆家でもある枡野俊明氏の言葉を見てみます。「坐禅とは、まず姿勢を整え、次に呼吸を整え、最後に心を整えること。この三つが整ってはじめて坐禅となります。物事を頭にためず、浮かんでは流れるままにして坐禅を組んでみてください。…坐禅を組んでいるときには何も考えてはいけない—そう言われますが、これはなかなか難しいものです。基本的に、坐禅を組むときには…さまざまな考えが頭をよぎります。普通は、それが当たり前です。そもそも『考えてはいけない』と思っていること自体が考えているのですから。しかし、坐禅を少し経験すると、一瞬ではあるけれど何も考えない瞬間が必ず訪れます。『あれ、今自分は何を考えていたんだろう』と。そして、『自分』という感覚さえも忘れてしまう。これこそ、何も考えていない瞬間です。」(「禅、シンプル生活のすすめ」知的生きかた文庫、p.53、57)
いろんな考えが頭に浮かんでくるのを止まらずにそのまま流していくうちに、何も考えていない瞬間がやってくるということです。あまりよく覚えていませんが、瞬間だったら自分にもそんなときはあったかもしれません。もう少しそんな瞬間をしっかり捉えてみたいものです。