私はこれを、直腸がん手術後の病室で書いている。自分の問題はなるべく客観視していこうという考えでもって、直腸がん手術入院中に読む本として本書を選んだのである。人類のがん医療4000年の進歩の歴史について書かれた本書を読んだ感想を一言でいうと、今の時代にがん医療を受けられてよかったなという一言につきる。つまり、過去に営まれてきたがん治療はそうとうに無知と恐怖にまみれていたということである。麻酔も消毒もない時代から、大胆ながん切除手術が行われていたのである。そのまま手術台の上で亡くなることは普通にあったのだ。だから、今の時代にがん医療を受けられることは、完璧ではないにしても、幸運なことなのだと本書を読んでよくわかった。
著者のシッダールタ・ムカジーは、現役のがん研究者・医師であるが、まるで小説家か歴史家のように、がん医療の歴史を細密、かついきいきと描いている。長い物語として一気に読めてしまうのだが、私的にマークしておきたい箇所をピックアップした。
・がんと進化の関係は?「抗がん剤や免疫システムががんを攻撃すると、その攻撃に耐えられる変異クローンだけが増殖し、その結果、環境にもっとも適応したがん細胞だけが生き残る。変異から淘汰、そして異常増殖という、この冷酷で気の滅入るようなサイクルが、より生存能力の高い、より増殖能力の高い細胞を細胞を生み出していくのだ。・・・がんは、ほかのどんな病気とも異なる性質、つまり、進化の根本原理を利用するという性質を持つ。われわれという種が、ダーウィンの進化論における自然選択の究極の産物だとしたら、われわれの内部にひそむこの驚くべき病もまた、その究極の産物なのだ。」
・がんについての最古の記録は?「そのパピルス写本は1930年に翻訳され、今日では、紀元前2625年前後に活躍した偉大なエジプト人医師、イムホテブの教えを集めた書として考えられている。・・・イムホテブは次のように助言している。『乳房に隆起する塊のある(症例を)診察し、その塊がすでに患者の乳房全体に広がっており・・・その症例についてこう言わねばならぬ。”これは隆起するしこりの病である・・・乳房の隆起するしこりは、しだいに広がる大きな硬い腫瘤が乳房に存在することを意味する。・・・”』」
・「1846年から1867年という短い期間に、長いあいだ手術につきまとっていた二つのジレンマを一掃する発見が相次いでもたらされ、その結果、腫瘍外科医たちはふたたび、ハンターがロンドンで完成させようとした大胆な手術に注目するようになった。」1846年、歯科医ウィリアム・モートンが用いたエーテルを麻酔として、がん手術が行われ、1867年、ジョセフ・リスターによって石炭酸を消毒薬とした腕の重症の治療が行われた。「消毒と麻酔という一対の技術革新が、手術をその窮屈な中世の繭から解き放った。」この時代(19世紀から20世紀初頭)にがん手術で業績を残した外科医に、ウィーンのテオドール・ビルロートや、ニューヨークのウィリアム・スチュアート・ハルステッドがいる。
・1900年代初頭は、ハルステッドやその弟子たちによる「ラディカリズム」という、がんだけでなくその周りの組織もできるだけ除去する攻撃的ながん手術が席巻していた。
・白血病専門医シドニー・ファーバーと企業家メアリ・ラスカーの戦略的な政治活動によって、多くの資金を呼び寄せて米国のがん医療を進展させた。ダナ・ファーバー癌研究所やラスカー賞としてその名前が残っている。ファーバー自身、大腸の摘出術を受けて人工肛門をつけていた。がんだったと思われているが、本人はそれにについて触れなかった。
・がん医療の進展には、臨床試験の質の向上のために統計学者も貢献している。ブラッドフォード・ヒルという名のイギリスの統計学者が、抗生物質ストレプトマイシンの臨床試験において、薬剤投与群と「対照」群(プラセボ投与群)とに、患者を無作為に割り付けることで、バイアスのない中立な方法で検証できる方法を考案した。この無作為化臨床試験はその後の医学研究で永久に祭られることになった。また、1928年には、二人の統計学者、イェジ・ネイマンとエゴン・ピアソンが、否定的な主張の信頼度を評価するために、検出力という統計学的概念を導入した。検出力とは、ある検定や試験の持つ、仮説を否定する能力であり、検証された標本の数(症例数)に依存すると考える。これによって、症例数を多くすることで試験の質を高めることが求められるようになった。