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映画「BALLAD 名もなき恋のうた」:何故に実写化せねばならなかったのか?

2009年09月22日 09時27分33秒 | 映画(新作レヴュー)
「三丁目の夕日」2部作の魅力は,昭和30年代を知る人にとっては「こうだったはず」という一種の思い込み,当時を知らない人にとっては「こうあって欲しい」という願望を,丁寧に作り込んだ街並みや屋内セットによって,具体の形にして見せたところにあった。職人的な美術とCG技術が結集したその「再現作業」,実質的には「創造作業」の成果は,画面に殊の外高い密度をもたらし,ストーリーはその画面から逆算して縒り合わされたと思われるような,画面に対する整合性を保ったものとなっていた。その結果,極めて日本的な細やかさに満ちた新旧の技術を軸とするホームドラマは,西岸良平の原作が持っていた「郷愁のテーマパーク」というジャンルを乗り越えて,多くの人に支持されることとなった。

その2部作を監督した山崎貴が,傑作の誉れ高い(私は未見)「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」を実写化するに当たって取り組まなくてはならなかったのは,戦国時代という設定のため前2作のような「画面の密度」が期待できない中,どうやって「背景主導ではない」ドラマを作っていくかということだったのではないだろうか。
しかし,どうやらそれはそう簡単な仕事ではなかったようだ。

背景が単純になった分,その前で展開される芝居とその元となる脚本,更にそれを的確にカットで割ってキャメラで切り取る,という映画の基本が問われたのだが,その根本的な部分における綻びが至る所で目立っている。

例えば,基本的なストーリーは「小国がその10倍の軍勢を誇る大国に,しんちゃんの加勢を得て戦を挑む」というものなのだが,小国の唯一の武器であるはずの団結を示すために必要な「庶民のつつましくも幸せな暮らし」に関する描写が(エンドクレジット以外で)欠落しているという点。また,悲劇を際立たせるために欠かせないコメディリリーフが,「悩めるしんちゃん」というキャラクター設計の変更によって,排除されてしまっている点。
技術的には,複数の人間が喋るシーンにおいて,カットを割ってキャメラのポジションを変えるべきところを,無理にワンカットで捉えているが故に,人物の立ち位置が不自然になってしまい,逆に会話の緊張感が薄れてしまっている箇所が散見されるという点,等々。
そういった幾つかの細かな疵が重なった画面が与える印象は,「三丁目」シリーズとは比べものにならないくらいに平板でのっぺりとしている。

溝口健二が撮った時代劇,例えば「雨月物語」や「新平家物語」では,実にシンプルなセットで展開された城や屋敷における,一見約束事だらけのドラマが,雑然とした市場や庶民が住む長屋の細密な描写との対比によって,立体的な様式美が際立っていたことと比べると,この平板な画面で繰り広げられるやり取りは,どうにも退屈な印象を免れない。
まあ「世界のミゾグチ」と比べるのもどうかとは思うけれども。

ただ,いくつかある長回しのショットのうち,しんちゃん一家が駆け付ける直前に移動で繰り広げられるアクション・シーンの躍動感だけは,特筆しておきたい。ここで見られる明確なヴィジョンと丁寧な作劇を繰り返していけば,画面には必ず命が吹き込まれるはずだ。

草剛は奮闘しているが,TVドラマの「任侠ヘルパー」で見せた新境地には遠く及ばない。新垣結衣は,いつまでも「原石」のままのようだ。脇役では,香川京子の起用に黒澤時代劇へのオマージュを感じるが,物語を甦らせることは出来なかった。

批判的な感想が多くなったが,改めて考えてみると,無敵のお下劣「しんちゃん」という貴重なキャラクターの設定を変えなければ,より多くのアイデアが生まれたような気がしてならない。日本の「ボラット」たる,クレヨンしんちゃんの活躍がもう見られない,という事実は,映画への不満以上に重たい。合掌。
★★☆
若くして亡くなった,原作者の臼井儀人さんのご冥福をお祈りいたします。


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