子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「蜜蜂と遠雷」:キャスティングと潔さの勝利

2019年11月03日 16時16分49秒 | 映画(新作レヴュー)
恩田陸の原作は「夜のピクニック」からの飛躍的な成長を証明する,見事な音楽小説だった。主要な登場人物の描き分けと関係性のバランス,そして何よりも,月並みな表現だがまるで譜面を一旦文字に翻訳した上で,更にそれを読者の視覚から鼓膜の振動へと移し替える技術に,心から拍手を送ったものだった。
ただこれを映画化するとなると,小説の分量自体が大部である上,4人のパーソナリティと音楽性の関連を含めて,丁寧にやればやるほど音楽的とはほど遠い「説明的」な表現に堕してしまう恐れがあった。
しかしおそるおそる劇場の椅子に座ってみれば,そんな心配は杞憂だったことがすぐに判明した。石川慶版の「蜜蜂と遠雷」からは,文字通りに見事な音楽が聞こえてくる。

不満はある。エピソードの中でも表舞台へのカムバックに関する不安が拭えない元天才少女の栄伝亜夜(松岡茉優)と,その背中を押す同級生奏の友情を描いたプロットが完全になくなっていること。その反対に,亜夜が紡ぎ出す音楽から立ち上ってくる映像的なイメージを,そのまま実際の「絵」として見せてしまう,というややもすれば安っぽいプロモーションヴィデオに堕してしまいかねないショットに,冗長と思われるほどの時間を割いてしまっていること。
けれどもそうした点を書き連ねた後でも,映画「蜜蜂と遠雷」は小説が持っていた,素晴らしい音楽を紡ぎ出す選ばれし者たちの苦悩と躍動と歓びを,映画というステージへと移し替える作業においてもいささかも損なうことなく再現することに成功している。

その要因のひとつは主要登場人物4人のキャスティングだ。その若さにして演技キャリア的には「中堅」と呼んでも差し支えない領域に入ってきた松岡茉優からほぼ新人の鈴鹿央士まで,かれらの佇まいを観ただけで小説を読んだ人誰もが「こんな感じだった」と納得したはず。伊丹万作が語った言葉「100の演技指導よりも一つの配役」という言葉を思い起こさせるようなフォーメーションに対して,4人の役者は期待を裏切らない入魂の演技を見せる。

更なる要素は,上述したように奏を消し去ってしまったことに代表される,プロットの取捨選択の妙だ。その潔さは,エピソードを削るだけに留まらず,コンクールを描いた作品ながら,作品を盛り上げたであろうその勝敗の行方には一切関心を持たないという姿勢に通じ,結果的にはその姿勢こそが,彼らが生み出す「音楽」の核に触れる最短経路を見つけ出すことに繋がったという印象を受ける。

唯一映画オリジナルのプロットである,指揮者(鹿賀丈史)とコンテスタントとの絡みに微笑み,幸せな気持ちで映画館を出た私は,早速音楽サイトで亜夜の「春と修羅」をダウンロードした。「栄伝さん,お時間です」という平田満の声の響きと共に,若者たちが創り出した躍動する音の数々がいつまでも耳に残る。
★★★☆
(★★★★★が最高)


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