子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「闇の列車,光の旅」:中米の国境を越える列車という装置が惹起する映画的な眩暈

2011年04月11日 23時01分32秒 | 映画(新作レヴュー)
優れた映画は往々にして,模倣でも,明らかなオマージュでないにも拘わらず,先達が残した優れた作品を想起させることがある。日系の監督キャリー・ジョージ=フクナガが撮り上げた「闇の列車,光の旅」も,本作と同様に困窮からの脱出という夢をアメリカに託した「そして,ひと粒のひかり」やブラジルのストリート・ギャングの実態を生々しく描いた「シティ・オブ・ゴッド」,そしてテレンス・マリックの奇跡のような初期作「地獄の逃避行」等々をスクリーンの向こう側に鮮やかに浮かび上がらせる。その一方で,諦念と希望がモザイクのように組み合わされたショットの数々は,中米におけるゼロ年代の総括として,全く新しい輝きを放っていることも言っておかなければならない。劇中で「サルマ・ハエックに似ている」とギャングのボスに指摘されるパウリーナ・ガイタン(サイラ役)は,何処から見てもサルマ・ハエックには似ていない。

メキシコのストリート・ギャングの若者が,移民の少女をレイプしようとしたリーダーを殺してしまい,二人を追う一味から列車で逃げることになる。たったこれだけのシンプルな物語に,中米諸国の貧困,若者の不安と復讐,少女の純愛,そしてそんな過酷な状況で生き延びる術を身に着けていく子供,といった幾つものプロットが,色彩豊かな映像で淡々と綴られていく。

過酷な社会の中で懸命に生きようともがく移民の命綱となっているのが,中米の複数の国を通過してメキシコ北部へと走る列車の屋根だ。若きフクナガは,移民にとっての希望の船とも言えるその場所を,映画の重要なシチュエーションとして見事に使いこなしている。
撮影はかなり困難だったと思われるが,移動体としての列車の描写に加えて,移民がある場所では住民から食料の差し入れを受け,また別の地域では石をぶつけられるという実態をも捉えることによって,移民のみならず,メキシコという国とそこに住む人々をもリアルに活写し,そういったシークエンスが物語の精髄を伝える絵としてきちんと機能していることは,驚き以外の何物でもない。

想起させられた映画がもう一本あった。主人公サイラがアメリカに出国した際に,訪ねる親戚の電話番号を父親から教わって,その番号を何度も何度も復誦しながら歩くシーンは,焚書されても後世に語り継げるように本を復誦する人々が,雪の中をゆっくりと歩き回るラストシーンが印象的なトリュフォーの「華氏451」そのものだった。
覚えることが希望に繋がる。記憶力が覚束なくなってきた中高年には厳しい教訓が,何故か心地良い。
★★★★
(★★★★★が最高)


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