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映画「64 ロクヨン 後編」:どうしてこんなことになったのか…

2016年07月09日 11時50分10秒 | 映画(新作レヴュー)
原作のエンディング部分に辿り着いた時点で,上映時間はまだ1時間弱残っていた。しかも昭和64年に起こった誘拐事件,通称「64ロクヨン」の犯人と目されたスポーツ用品店経営者目崎(緒形直人)は,証拠不十分で釈放されてしまった。原作とは異なる展開に半信半疑のままスクリーンを凝視していた私の前で,引き続いて繰り広げられた物語は,残念ながら原作が持っていた豊かな拡がりや余韻を欠き,取って付けたようなアクションと安易な叙情に流された描写が延々と続く薄っぺらなドラマだった。
日本の警察小説史上,最高峰に位置すると思われる原作の映像化に当たり,俳優の力量を信じて,ストレートに物語が内包する複数の要素の整理に徹して成功した前編とは異なり,屋上屋を架すようなエピソードを追加することを選択した制作陣の意図は,一体どこにあったのだろうか。

原作との最も大きな違いは,原作では主人公の広報官三上(佐藤浩市)が「64ロクヨン」の解決パートに関しては,あくまで傍観者に留まったのに対して,この映画版後編では事件の解決に向けて自ら動いて,最後は容疑者を追い詰めて川の中で立ち回りまで行うことになったという点だ。
ロクヨン発生時にはまだ実感できなかった,自分の娘(芳根京子)を「失う」痛みを経験した三上が,被害者の父親雨宮(永瀬正敏)と同化したような行動を取ることで,理不尽な犯罪への怒りを強く訴えたくなったのかもしれない。あるいは単純に,アクション映画のラストは主人公が「動く」べきだと判断しただけなのかもしれない。

しかし,どんな理由にせよ,三上の最後の行動は,どんなに贔屓目に観ても余分なパートにしか映らない。
犯罪は言うに及ばず,組織社会の不合理で非人間的なシステムへの憤りを抑制しながら,置かれたポジションで日々出来ることを精一杯にやることが男の美学という前編のトーンを,この新たなパートは完膚なきまでに叩き壊してしまっているという印象だ。
更に言えば,前編にあった複数の要素のトレードオフ的な葛藤も,警務部対刑事部と中央対地方という,単純な組織対立だけが浮き彫りとなり,本来だったら組織と個人というフィールドで重要な役割を担うはずの二渡調査官(仲村トオル)の存在もほとんど無視されたまま,三上の退場劇における刺身のつま的な役割しか果たさなかったのも残念だった。

原作の改悪という点では,角川春樹が映画とは到底言えない代物に変えてしまった「笑う警官」という改悪映画化の金字塔があり,そこまで酷くないのは確かだが,前編の出来からしてまさかあんなダラダラとした送り火のシークエンスで終わるということは予想できなかった。もしかしたらこれこそが,本作最大のミステリーなのかもしれない。
★★
(★★★★★が最高)


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